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社団法人昭和経済会

理事長室より
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理事長室より

VOL.23.8.

激しい雨に落雷
 
  相変わらず灼熱の太陽を直に受けて、ゆだるような暑さである。毎日元気に通勤しているが、仕事が積み重なって緊張しているので、弱音を吐くわけにもいかない。灼熱の日照りの中を緑陰を探しながら銀座の並木通りを日射を避けて通過、11時にオフィスについた。部屋に入ると、割り当てられた勤務時間が、おのずと責任と義務を己れ自身に強いてくるので逆に、姿勢を正して勤務に臨むのは快い緊張感があって気分爽快である。
  このビルは南側の窓が全面開放されているので、しかもすぐ下を道路を挟んで首都高速が走っており、その先がぎんっざ一丁目の界隈になるので、窓からの視界は遠くまで広がっている。正午過ぎ、西方の端に突如として真っ黒な雲が沸きあがってきたと思った瞬間、真っ白な閃光が走った。上空の空はまだ日差しの強い最中で、雨など降りそにもない気配である。熱風が吹きつけてきたかと思うと、いきなり大粒の雨が降りつけてビルの窓を激しく叩きつけてきた。真上の上空は日照りにかんかんなのに、どこから降ってくる雨か判然としない。篠突く雨で窓から見渡す銀座のビル街は、麻地の薄いカーテンを引いたように、朦朧とした景色である。その時である。一発の爆発音が、地を揺るがし、ビルが倒れるような地響きを伴い、まるで耳の鼓膜を裂かれるようだった。眼下の首都高速道路に、ウクライナの無人機が爆弾もろとも衝突したのではないかと思われた。

  大気の状態が荒れだすと天地の創成期を思わしめるほどの荒れ方である。近くに落雷したはずである。しかし、雷鳴はこの一発だけであった。視界を遮った大雨もにわかに止んでしまい、雲間から再び光が差してきた。上空に散った、あっという間の出来事である。八月初日、16万年振りの地球の暑さだと伝えられた昨日、大空に演じられた豪壮で躍動的な大気の乱舞に一瞬、陶酔しきった感じであった。
  それにしても16万年前の歴史を我々は想像することができない。地球生成の歴史をたどって、今日の地球の温暖化は、16万年前のそれと似ているというのである。つい先ごろのように思えるが、地球温暖化が騒がれ始めた時期は、そんな長くはない。産業革命前の地球の状態に戻すことが急務であるが、それとて18世紀半ばから19世紀にかけて起こった産業の変革である。人類が誇りとしてきた産業革命の意義は、今や大きく修正されてきた。そして、地球創生時期とも大きくかけ離れているが、気が遠くなるような年月を想定して、人間の犯してきた自然破壊、地球環境の破壊のもたらしている結果は、今はそのころの危機と同じような状況にあるという認識である。国連時事務総長が言っていたが、今地球は爆発寸前にあると警告している。愚かな人類は、些細なことで紛争が絶えないが、我々が永遠の住みかとするこの美しき地球が、怪しい存続の変化をきたしている、この時期である。戦争などしてる時ではない。もっと大きな問題をはらんで、我々は立ち向かっていかなければならないのである。      8月1日


 
   アメリカ国債の格下げ

日照りと熱波の吹き付ける異常な気象が続きっぱなしだが、トランプをめぐる気違いじみた政治と司法の騒動が続いて、こちらも異常な世相である。大統領選挙で敗れたにもかかわらず、異常な頭脳の持ち主の乱脈な行動で、アメリカの良識が疑問視されてきている。

  あれから三年近くが過ぎようとしているが、トランプの不法な、それを支持する民衆がいまだに多く、反省の余地を残していないありさまである。行動を支持する民衆の熱は冷めるどころか自浄作用の利かなくなったアメリカ社会を思うと背筋がぞっとしてくる思いで心配である。連邦議会襲撃事件の発端を作った人物であり、連邦議会襲撃を大衆に先導して暴徒と化した一部の民衆が、民主主義の牙城である連邦議事堂を襲撃て破壊し、これを占拠するという前代未聞の事件を巻き起こした。当時警備に当たった警察官の五人が死亡した。議会襲撃を大衆に扇動したとして首謀者の一人としてトランプについて、担当する検事が三度目の訴追を連邦地方裁判所に提出した。大統領選挙を来年に控えて現在のところ、共和党からの有力な立候補者がトランプ以外に見当たらない勢いであるが、今回の起訴はそうした政治情勢にも大きく影響を及ぼしてくるに違いない。

  こうした情勢を反映して、格付け大手フィッチ・レーティングスの幹部が2日、2021年1月に起きたトランプ前米大統領の支持者らによる連邦議会襲撃事件が、米財政のガバナンスを悪化させ、長期の外貨建て米国債の信用格付けを最高位の「AAA」から一段階、引き下げる要因になったと説明した。

 フィッチのシニアディレクターであるうリチャード・フランシス氏は、米議会襲撃事件について次のように述べている「ガバナンス悪化を反映するものだ」と指摘。「民主党が左傾化する一方で、共和党は右傾化し、中道が崩壊しつつある」と述べ、米議会襲撃事件に象徴される政治対立の激化が、米国の財政管理能力を低下させていると説明した。格下げ発表に先立つ財務省幹部への説明でも、米議会襲撃事件を格下げの決定要因の一つとして強調したという。

  イエレン財務長官は、こんな馬鹿げた話はないと痛烈に批判している。フィッチは又、今後三年間の財政悪化見通しに加え、連邦政府の借金限度額「債務上限」の引き上げを巡る政治的混乱など、米財政のガバナンス悪化を理由に、米国債の格付けを最高位から1段階引き下げたと述べている。    8月2日

トランプの連邦議会襲撃を扇動したる起訴の証拠に

明らかに壇上に立ち呼びかける大衆を前に議会襲撃を

長き事悪事を重ね財を成すマフィアのごときトランプの様

税金を払わず巨万の富を得て貧者の票を集むトランプ

口八丁手も八丁のトランプの詐欺師特有の名演説家とも

中国の訪日団体旅行の解禁

  テレビ東京のPM10時から始まるWBSを見ていたら、アナウンサーが、只今入ってきたニュースですと云った前置きをして「中国政府は、明日10日から中止していた対日団体観光客の訪日を全面的に解禁する」と発表したと伝えた。突然の政策変更の発表でびっくりした。しかし、民間人ので自由で活発往来は、心から歓迎すべきことである。中国経済はいま、経済停滞に悩みデフレ傾向が広がっている。こうした時期に、海外に出て活発な消費回復を狙っているし、我が国の観光事業にも「中国人のかっての爆買いを期待する声も大きいが、今、中国人のふところ状態を推察する限り、中くらいを期待するのが穏当である。


  台湾をめぐる中国の高圧的な姿勢は相変わらずだが、台湾有事の際に、日、台、米の軍事的連携についても険しい見解がなされてきて、中国との間では緊張状態が続いている。ロシアのウクライナ侵略を見てもわかる通り、中国がここで台湾統一を目指して一気に軍事行動に出るとは思わないが、アジア太平洋地区への海洋進出を図り、国際秩序を無視して傍若無人に振る舞う中国に対しては注意を怠ってはならない。さりとていたずらに刺激的、挑発的言動を採ることも厳に慎むべきである。麻生副総理が台湾を訪台中であるが、蔡総統との会談でも、「中国に対しては覚悟して臨まなければならない」と、刺激的発言を行っているのは如何にも敵対意識が鮮明で、刺激的であるがゆえに賛成できない。問題解決にはあくまで外交的交渉を以て図るを原則とするといった前置きが必要である。熟慮してものを発言すれば、ああした言葉は出てこないはずである。朝日新聞の夕刊の素粒子に、我々は覚悟が必要である、といった発言に打って返し、高齢者の覚悟すべき立場でない無責任者の極みと一刀両断である。あまり似合っているとも思えないが、マフィアに扮し黒いハットに気張った姿勢は、旧時代を想起させて、あまつさえ根拠の薄い強気の発言に、年寄りの冷や水と評してもいいだろう。

  一方で、当事者でもある中国は、先に述べたように訪日観光客の団体旅行を許可するという緊張緩和策に出てきている。コロナ解禁で、世界各国を対象とした措置であるが、もっぱら国内事情にもよるかもしれないが、それはそれとして、その結果、両国が手を指し伸べあうことは、相互理解の促進にもつながってくることで、平和的で歓迎すべきでことある。民間同士が助け合っているのに、国同士がいがみ合っていたでは話にもならない。政治家はいったい何のためにあるのか、あまりにも単純なことながら、根本に立ち返って考えてみたいものだ。麻生さんの場当たり的で無責任な発言にも困ってしまうが、田中角栄が中国にわたって周恩来と、毛沢東に会って握手している姿とは、格段の相違である。8月10日

銀座の空き店舗が

  銀座1丁目の空き店舗

  銀座一丁目にある、東洋経済新報社の本社のビルの一階が空いから半年が過ぎた。有楽町駅から交通会館の脇を過ぎて外堀通りを渡り、直ぐ左手の角地である。銀座でも一等地である。右手の角地は、大きな商業用のビルの解体が済んで、ヒューリックがこれから新しい商業施設を建築するはずである。この東洋経済のビルは10階建てだが、東北大震災の時には、不肖はちょうど真向いのビッグ1の喫茶店で遅い昼食をとっていた最なかであったので、このビルが左右に大きく、ゆっくりと揺れる様子を恐怖に近い気持ちで眺めていた記憶が今以て鮮明である。

  一階を、沖縄県がアンテナショップとして店を開いていたが、今年になってから有楽町の東口駅前の交通会館一階に移転していった。そのあとがずーっと空き家の状態が続いていたが、四、五日前に正面ドアに大きな貼り紙が貼られてて、すぎ薬局が近く開店することになったようである。ドラック景気を受けて成長著しい業界がが、大きな店舗を張って便利になってくるけど、猥雑な雰囲気にもなりかねない気がする。というのも、昨日、中国が突然に訪日観光客の集団出国を許可して、10日から実施しているというので、爆買いの店の対象にもってこいだからである。銀座の観光地としては、東京駅、有楽町駅から近いし、地下鉄など交通機関の便も良いし、町内にはユニクロをはじめ、近くには外国の有名ブランド店がたくさんある。銀座繁華街のど真ん中といってもいいので、さぞ混雑する特殊な地域として脚光を浴びるに違いない。薬品など手っ取り早く、日本の製品は良質なうえに健康医療品などは中国では不足しているので、いかに中国経済が不景気であったにせよ、訪日した中国の観光客が景気よく爆買いしてゆくのではないかと、小生の毎日の通勤路なので騒がしさが気がかりである。 

  最近に至って、昔あった高級喫茶店なるものが銀座でも姿を消していってしまった。昔は街なかには手軽に入れる喫茶店があって、コーヒーを飲みながら一時休憩したり、いっぷきしたいというときに気軽に入れた、しかも個性的な店がたくさんあったが、一部に店を覗いて見つけるのが大変である。ルノアールや椿と言って老舗もあるが、数からすれば大きく減少してしまって探すにも骨が折れる。ぜいたくを言うわけではないが、暑い夏の盛りに、喫茶店に入って涼を拭ってくれるような涼しげな美人にお目にかかれるといった趣向が自然にあってもいいと思う。極端に行き過ぎて、期待するものは直情的なキャバクラに変じて店を歓楽街に伸ばしたいってしまった。昔は「美人喫茶」と称して店に入るときれいな服装をして美人が迎え入れてくれ、休憩中は店内を、礼儀正しく御用を伺いにそぞろ歩いていたりして目の保養にもなったものである。そんな余裕は双方にないと、今は自動販売機に変身したりした。味気ない世の中である。

  そんなわけで東洋経済社ビル一階には、ルノワールが出店してくれれば最適だと期待していたが無理であった。小生がよく入る「ドトール」の店は、会社からの帰途、自宅近くの尾山台商店街で駅の近くにある小さな構えの店である。それでも愛想のいい店員が一人いて長く務めたりしているので親しみやすく、店に入るというものである。男子店員にして斯くの通りで、いわんや女子の店員であれば、それも「めんこいおなご」とくれば云わずもがなである。 コーヒーの味も格段においしく飲めるし、趣味としている和歌もたくさん詠んで書けるという仕儀である。  8月10日   

   麻生氏の発言

  台湾に行って蔡総統とあった麻生氏が赤い気炎を吐いて物議を交わしている。中国が台湾を軍事的に侵攻するような事態になれば、日本を含む極東アジア圏に対する直接的影響は無視できないが、飽くまで仮定の上に立った議論であり心構えであって、実際にそうした状況は高まってきているとはいえ、おろそかに口にすべきことではない。中国は台湾統一を国是としていることは事実である。だからと言ってロシアのように軍事的に強圧的に領土に侵攻するといった愚策は採らないはずである。たかが一力ずくで力ずくで収奪するとして、その結果、何万という自国の兵士を犠牲にするといった思想は、ナポレオン戦争時とかは別にしても、第二次世界大戦の日本の皇国思想の時を境に、今のこの現代において多くの支持を得られないはずである。民衆の思想がよりグローバル化して、人種的区別によって思想が変わるといった現象は、むしろ平面的になって思っていることは同じだという価値観が広まってきているゆえに、昔のようには簡単に対立構造が出来上がって、それを、チャットIJTといった手法が蔓延してきたりするとなおさらではないだろうか。台湾海峡に高波が生じないように願っている。ましてや八十二に際の麻生氏が言っているように「我々は戦う覚悟だ」と言っているが、戦えもしない老人が言っているだけで無味乾燥にしか取れない。素粒子が続けていっているが、「いつの世も線上に行かぬ人が軽々しく言い募る」と。まったくその通りだる。ばかばかしく聞こえてならない。 八月十日


  山の日

  八月十一日は山の日だそうである。しかも休日ときた。したがってお盆休みに前に三連休となって、猛烈な炎暑のこの数日間を、いかに過ごすかで頭が痛くなった。熱中症でいたくなるのではない。休日はありがたいが、山の日とはいったい具体的に何を祝うつもりなのか聞いてみたい。海の日があるから山の日がないのは不公平だというのであれば、それはそれで納得がいく。しかし取り上げるほどの意味があるのか疑問である。母の日に対して父の日があるが、おやじだからと言って謙遜しているわけではないが、それほどのことはしていないように思う。いかにもとってつけたような感じである。そのせいか、父の日は休日にはなっていないように思う。

 暗いニュースになって恐縮だが、山の日といえば明日十二日は、日本航空123便機が御巣鷹山に激突、墜落した悲惨な光景が脳裏に浮かぶ日である。支社五百二十人、生存者四人という、多くの犠牲者が出て痛ましい限りだが、あの事故には、坂本九ちゃんが含まれている。上を向いて歩こうといった名曲を世界に広めた人だが、若い命を失ってしまった。惜しい限りである。生きていれば国民的歌手として、たくさんの名曲を残しながら歌っているに違いない。九ちゃんは昔浅草の実家に訪ねてきたことがある。ぶっつけ本番の家庭訪問である。今でいえば笑福亭鶴瓶いが「家族に乾杯」という番組である。鶴瓶は、やたらと誰でもいいから相手かまわずの即興みたいだが、急ちゃんの番組は違っていた。一定の目的を以て、まとまった家庭、家族を訪ねて取材し、それをテレビに流す番組で一家だんらんを伝えるもの出る。

  テレビきょっから浅草猿若町に話が持ち込まれて、どこの家庭がいいか検討して実家が選ばれたようである。こたつ式のテーブルに家族が集まって、九ちゃんがその中に入って家族を紹介し記念写真を撮ったりして和やかな団欒が始まる。九ちゃんの当意即妙のタクトを以て家族とは何かを雰囲気でとらえていくものだ。母と長男家族に交じって、たまたま小生が子供の裕介を連れて、妻と一緒に浅草の実家に遊びにきていたので、妻と息子が運よくその番組に入って記念写真にまで納まっている次第である。おふくろと、長男の五人家族、そして家内と息子の裕介の二人が写真に入っている。娘の明子は、妻のおなかにいたかもしれない。二歳半の裕介は、九ちゃんの膝の上に乗って抱っこされている。この坊主、今や大手金融機関の社長である。藍は青より出でて青よりも青し、青蘭の誉れとは言うが、さりとて口には出さぬが、平凡なオヤジの上を行っている。九ちゃんとの出会いは、五十年前の話になる。番組を採るために大勢のスタッフが集まっていた。九ちゃんの慰霊は今も、御巣鷹山の頂にあるが、事故当時からすでに四十年が経過した。今日、八月十二日は、その尊い命の犠牲となった人たちの命日である。いまだに多くの遺族が、慰霊碑の前に花を手向け、おまいりにきている。

  御岳山の噴火も夏に起きて九月二八日が来ると丸八年になる。五八人が亡くなり、五人が行方不明である。小生は、御岳山が噴火する一年前の夏山登山を経験している。近所に住む親しい刈谷さんご夫婦と、その友人たち四家族からなるご夫婦たちと一緒に北アルプスと木曽路経由した時である。楽しい三泊四日のドライブ旅行であった。忘れられない旅路だったので、一年遅かったらと、うっかりして思うことがある。今年の山の日は、猛烈な炎天の気候が続きっぱなしなので、お盆休みを勘定に入れると人によっては十日間にも近い休暇ともなるので、涼を求めて内外に足を延ばす人たちで、どこもかしこもごった返ないだろうか。山の事故はもとより、人手の中の事故にはゆめゆめ遭遇したりすることのないように、各人が格段の注意を払ってゆきたいものである。

 四日前に起きたハワイのマウイ島の山火事は、折からの烈風にあおられて大惨事となってしまった。山火事は山で収まらず、炎火は市街地に迫って人家まで舐めつくし島全体が壊滅状態という痛ましき惨状である。死者九十六名とまではわかっているが、あとどんな犠牲者が出るか判然としない混乱状態である。特殊な気象状況下にあったこと、延焼し易い島の地形もあったであろう。しかし文明の利器と、有効な活用不足を指摘する面も考えられる。ハードとソフト両面からの検証が必要である。後進国で自然保護率の高いところに、こうした傾向が多い。マウイ島の災害でも、平時の危機管理を怠ってきた地区の行政の結果が、こうした事態を招いたのである。風光明媚なマウイ島の景色はお一瞬にして廃墟と化し、多くの人々は避難を余儀なくされている。復興には一っ兆円近い資金がいる都市、長い年月を要するといわれている。バイデン大統領は、特別災害地区に指定して、強力な支援に向かっている。

  
山火事が人家をを襲い延焼すマウイ島の壊滅状態

花火ではなく山火事の拡大し人家を呑みて大惨事にも

全島が火炎の渦に巻き込まる犠牲者九十六名を超す

穏やかで平和な島は一転し焦土と化して見る影もなき

被害額は出て犠牲者と不明者の数判然といまだせずとは

懐かしき思ひ出近く浮び来て尾瀬沼をゆく若き頃の日

木道を歩く前後に至仏山、燧ヶ岳の雄姿眺めつ

尾瀬沼の霧の木道をゆく先にほのかに眺む至仏山かな

かっこうの声遠くより聞え来て霧の消えゆく尾瀬の湿原

紫に浸たる天地の境ひ目を流れる白き霧の帯かな

うぐひすの喜こびの声あちこちに聞く初なつの尾瀬の朝明け

うぐひすの高鳴く声のひとしきり平滑(ひらなめ)の谷わたりゆくらし

残雪のいまだ輝やく尾瀬沼の燧ヶ岳ゆ朝日昇り来

三県に股がる広き尾瀬ヶ原至仏と燧ヶ岳に抱(だ)かるる

青天に浮ぶ一片の白き雲いづくにゆくや旅の果かも

快晴の空にも浮かぶ白雲にいずこに行くか問ふて見るかな

友垣の影浮びきて遥かなり木道をゆく尾瀬の湿原

人影の未だなき原に高き声吐けば山びことなりて返り来

白雲の影の沼面(ぬまも)に澄み映り燧ヶ岳のかかる昼かな

白樺の杜に朝日のさんさんと注ぐひかりのなかを行く身は

白樺の林をすぎて三平の峠に立ちて眺む尾瀬沼

尾瀬沼の大地に春の訪れて天然の美の息吹く時かな

藤村の初恋の詩を口ずさみ燃ゆる心の今に初(そ)めきて

青春のいとたけなわの我れが身の再び来ぬと云ふは能はず

億兆の先に在りしは如何ならむ世界と思ひ茫然たりし

億兆のなほ光年と謂ふ先の無限に永遠と思ふ術かな

我が思惟の無限の世にそ及びゆき大なる宇宙の果てに記さん    八月十四日

終戦記念日

  日本が対米に仕掛けた第二次大戦で、最終段階では連日連夜にかけて日本全土はもとより、帝都東京はB29の猛爆を受け、最後は広島、長崎に原爆の洗礼を受けて国土は灰燼に帰した。そして終戦の決意を表明した日から今日で、七十八年目の日を迎えた。感慨無量である。しかしながら戦争体験者が高齢化し、戦争の惨禍を語り継ぐ人もいなくなってきた。ラジオで蒙昧として流れた玉音放送は、日本が連合国軍に無条件降伏を告げて、戦争が終わったということを告げるものであった。母と弟と私は、その放送を疎開先のひなびた袋田駅頭で知ったのである。周囲には誰もいなかったが、小さな花壇に一本のひまわりの花が大きく咲いていた炎天下であった。母は袋田の駅長さんに何度も確かめていた。焼け跡の水戸にいる父と二人の兄に会いに行くためだっだ。焼け跡になってしまった水戸の街に、B29はもう攻撃してこないだろという思いからであった。その日は偶然にも戦争が終わったという知らせだけで、これからどうなっていくのかは全く分からず、希望と不安が交錯するばかりであった。夜間空襲はなくて済むという、恐怖から解放された喜びはあった。

  思い起こせば、小生が過ごした少年時代は後半に至り悲惨な毎日であった。アッツ島の玉砕が報道されて、「皇国の興廃この一戦にあり、各人奮励努力せよ」の思想は過激化して、敵に対して玉と散る、玉砕と云う思想は、次第に定着し始めたのである。日本軍が米軍の反撃に会うたびに後退し始め、敗色鮮明となってから激しくなってきた。ついには「戦術なき一億総玉砕」という自棄自爆的なまでに過激化していった。
  国民小学校に通う我々少年たちですら「山崎大佐指揮を執る」の国民唱歌を毎日歌いつつ、歌や絵画が戦意高揚の教育指導に使われて、小学年生ら全体が誘導されていった。長じて戦闘員として戦地に駆り出される若者たちをはじめ、国民総勢が異口同音に「お国のため」、「万世一系の天皇のため」という触れ込みで洗脳され、天皇はさらに神格化され、国民は意気高揚して軍国主義は称賛のうちに、天皇のための死を美化されていったことは当然であった。そうした過程を思うとき、いかに巧妙な手法を以てかくも多くの国民を一致団結させていったか、その巧妙な徹底ぶりに驚くばかりである。もちろん軍事独裁政治の網にかかった世情であるから、反対派に対する激しい弾圧はもとより、厳しい言論統制の敷かれた時世であれば、遂行しえた政策であったことではある。

  国民小学校の二年生までを、小生は地元の浅草富士小学校で過ごした。授業の始まる前に行われる朝礼には、打ち鳴らす太鼓の音に従って、全生徒と教職員が講堂に整然として参集して学年順に整列する。すると日本刀を腰に下げた軍服姿の要人が厳めしく講壇に立ち、軍人の号令の下、天皇、皇后両陛下がまします宮城に向かって遥拝する。講壇の中央に立った軍人は、憲兵であったかもしれぬ。終わって向きを正面に変えると、講堂の大きな緞帳が静かに上がる。日の丸の旗を背に掲げられた天皇陛下の御影に向かって最敬礼をする。御影は畏れ多くも薄いカーテンにひかれて見えないくらいであった。儀式を終えた軍人はそのまま降壇し、一同軍人の姿を直立不動で見送るのである。
  一応の儀式が終わると校長先生が、同じような雰囲気を引き継いで、万世一系の天皇様に守られた神国日本の今日の隆盛を語り、戦地で戦っている日本人の勇ましさを称賛し、天皇陛下のために潔く命を落とす覚悟を美しく語り、天皇陛下万歳を三唱して朝礼を終わり、整然と講堂を退出するしきたりであった。まさに少年時代からかくのごとき軍国主義、全体主義の教育が始まっていたのである。男組、女組と、それぞれに分かれて各自、それぞれの教室に帰り机に向かうのであった。今にして思えば、国粋主義、全体主義の徹底した見事な教育指導であった。不思議なくらい、皆心酔しきっており、誰一人として文句をつける人はいなかった。

  防空演習も授業の一環として行った。校庭に出ては列を作り、訓練するのは消火活動でバケツに水を入れて手渡していく作業だ。攻撃精神を高めるために、竹やりを以て、立てた藁人形を突き刺す訓練もあった。授業の大半が教育勅語の暗唱と、初期の軍事教練に費やされた。今日でいう学習といったものはほとんどなかった。もとより町内では、同じような趣旨で連日のごとく防空訓練が行われていた。空襲による火災の延焼を防ぐため、近隣家屋の強制撤去も始まったりした。日を追って日本は、アメリカと戦争しているのだという実感が身にも迫ってきた。
  父は大きな大きな店を張っていて雇人も多くいたので、戦況が激しさを増していくに従い、後を追うように若い店員が兵隊にとられていくことに心中悩んでいたに違いない。猿若町内の一隅に、憲兵が常駐している場所があった。憲兵登庁と呼ばれていたように思う。言問通りと、猿若町の通りと交差する角にあった。五、六頭の軍馬が飼われており、馬舎も設けられていた。家の前を、軍馬に乗った憲兵がサーベルを下げて闊歩していく姿をしばしば見かけたものである。馬が、糞を落としていくときもあった。

  学校では集団疎開が始まった。学業どころでなく、縁故疎開と集団疎開に分かれて、町を離れていく様相になってきた。地方に縁故のない生徒諸君は集団で、東北の岩手県や山形県の過疎地に連れていかれたようである。浅草の実家では父を浅草に残し、母と我々兄弟四人が唯一の親せきをたどって水戸に疎開することになった。父の弟が当時、水戸の中心街の泉町で「松藤」というデパート、百貨店を経営していたのである。水戸市には中央を仕切るように一本の市電が走っていた。水戸駅から西の端の大工町にかけて唯一の公共の市電である。松藤百貨店はその電車通りに構えていた。叔父の手ずるで、近くの天王町に一軒家を借りて住むことになった。高級で静かな住宅地であった。兄二人はそれぞれ茨城中学、水戸商業に転向した。弟と小生は小学校をいくつも転々として、定まるところを知らなかったくらいである。五軒小学校だけは覚えている。順応性があったのかどうか、小学校が変わるのがとても楽しかった。ゆく先々の学校で、転校生としてみんなに挨拶ばかりしていた。

  詳細に話していくことになっていくと話にきりがないのでやめたいと思うのだが、仕切るところに見当がつかないのである。いろいろな思い出が重なって脳裏に浮かんでくるからである。父の思い出、母の思い出が湧いてきて尽きることがない。父は東京で昭和20年3月9日の東京大空襲に遭遇し、幸いに九死に一生を得て、疎開先の水戸に着の身、着のままに避難してきた。B29の焼夷弾攻撃で焼け野原となった東京から、生きてこられたのが不思議なくらいであったからである。しばらく行方不明だった父と再会出来、家族が一緒になれた日のことを感激を以ていまだに覚えている。一緒になれた家族はその後も、水戸を襲った8月2日、B29による無差別の夜間空襲に出会ってしまった。

  この時は、実に不思議な運命に翻弄されたように思う。水戸の空襲は、近くに軍需工場の日立が近かったため、鹿島灘沖に停泊する米軍艦隊からの艦砲射撃の攻撃が激しかった。そのため母と私と弟だけが、水戸から出ている水郡線に乗って福島県境にほど近い袋田というひなびた地方に疎開していた。森林地帯で煙草の葉と、こんにゃくしか取れないやせた土地の場所である。最初の幾日かは駅近くにある「板屋」という名の旅館に泊まった。米軍の戦果を逃れていくには私と弟が足でまといだったのかもしれないし、父の度を越した心配であったかもしれない。安全な場所を求めてという配慮からだったに違いない。ここなら米軍もヤンキーも来ないだろうという考えであった。しかしこんな山奥の生活はしょせんできるはずがない。
  紹介された先とはいえ、袋田駅から久慈川に沿ってさらに山の奥にたどり、与瀬という名の山奥だったと思う。樹木の茂った森の中の、農家の一軒家であった。何日か宿泊したと思うが恐怖を感じたのかもしれない、意を決した母は、再び水戸に引き返す決心をして8月2日の夕方、水郡線に乗って水戸の泉町にいる父と兄貴のもとに帰って行ったのである。管制が厳しく切符がなかなか手に入らなかったが、母が駅長さんに頼んで分けてもらった。我々の姿を見た父は驚くばかりにびっくりしていた。米軍の偵察機が連日のごとく飛来し、8月2日の夜間空襲を予告していたからである。母はそれでもいいと言っていた。家族が一緒にいることが一番安心できるというふうであった。母の、おおらかな愛情の一言であった。
 八月十五日 続く

8月2日、泉町の電車通りにある化粧品の、裏手の住宅に間借りしていた父と兄二人に混じって早めの夕食をすました後、B29の予告を想定して6時半ごろ早々と避難のために自宅を出た。母と小さいガキの二人が付いていたのでは、空襲といったときに足手間といになってリスクがあまりにも大きすぎるからである。父の判断であった。警戒警報はすでに発せられていた。家族6人は手を取り合って家を出た。松藤の百貨店によって叔父夫婦の状況を確認したあと、水戸偕楽園に向かって避難していた。するとしばらくして警戒警報が出ていたにも関わらず、周辺の誰かが暗がりの中で、警報が解除されたという触れ込みであった。安堵した我々は今日の空襲はデマだったかと言い合いながらも、もと来た道を戻っていった。怖い目に合わないでよかった。爆弾は空から攻撃されて落とされてくるものだから、いったいどこの落ちるか分かったものではない。

  そんな恐怖心を抱きながら、何百万枚もまかれたビラの空襲予告の日に、疎開先からわざわざ帰ってくるというのも大馬鹿としか言えない、きっと口には出さなかったが、複雑な父の心中の程を思いやりながら、暗闇の道をあらかじめ退避していったのである。途中、松藤によってしばらく休息していた時である。突然、大地を揺るがすような爆発音が響いたかと思うと、あたりが急に赤く光った。振り向くと、通っていた五軒小学校と思しき場所から、太くて大きな火柱が上がっているではないか。すわっー来たぞ、逃げろという怒声が闇に当たりに広がった。一瞬にしてあたり一面が火の海と化していた。いつの間にか上空を低空で飛ぶ巨体のB29の影が映っている。雨あられのように焼夷弾が上空に飛散し、すでにあたりは猛烈な火炎に囲まれて逃げ場がない。偕楽園はだめだ。塞がれた。わずかな道が残されている、天王町を東に向かって行くしかない。そして岩崎町を抜けて千波湖のほうを目指すしかない。父は叫んだ。そちらへ行ったんではだめだ。こちらだと。火の手が高く上がり、横から火炎が大きな舌を巻くように我々を襲ってくる。走っていくすぐ目の前に焼夷弾が落ちて炸裂し火花が散ると、樹木がめらめらと音を立てて燃え上がった。思わず首をすくめて火の渦を避け、こごむようにして火の嵐を避けて又走り出した。おふくろと弟の手をしっかりと握って、手を放したら最後だと思って、むっ鉄砲に渾身の力を振り絞って無我夢中に走った。おやじは二人の兄貴を従えて、先頭を走っている。時折、後ろを振り向いては大きな声でしっかりついて来いと怒鳴っているようである。我々三人は懸命に後を追っている。そのあとに多くの人たちが追い付こうとして懸命である。うっかりしていると、何だかおやじは火の中に飛び込んでいくのじゃないかと思われるくらい、あたりはもはや灼熱の火と、熱風に煽られて取り囲まれている状況だ。生きて逃げられるか、家族全滅か、焦る気持ちが胸を走った。
  東京の大空襲では九死に一生を得て帰還した勇ましい父である。火の粉のように落ちてくる焼夷弾と、火炎の中で、的確な判断と行動を熟、しかもそれを本能的に身に着けていたのかもしれない。父の後には、可成りの人たちが後について逃げてきていた。石崎町の中の道を突き進んだ先の丁の字に付き合ったった。右手に坂を下っていけば、千波湖の縁に出る。そこから先は、広い田んぼと原っぱが広がっている。避けるものはないもない。上空から見れば、低空で飛ぶB29から地上の攻撃の的になる。父は素早く左手の崖下に三つ並んでいた洞穴のひとつに、吸い込まれるように飛び込んだ。我々も、後についてきた人たちも一団となってその洞窟に入って隠れたのである。真っ暗な洞窟に入るには勇気が要ったはずである。水が溜まっていたが、水深は浅かった。乾いた岩の上に、互いの居場所を定めた。瞬間、我々は一命を留めることができたと思った。洞窟の上に着弾するたびにドスンと、鈍い大きな音が洞窟に響いた。そのたびに岩が崩れ落ちないか、身がちじむ思いである。母と弟と私はしっかりと抱き合っていた。父は洞穴の出口にまで近づいて、上空の様子をうかがっていたりした。B29から容赦なく落とされる無数の焼夷弾である。空から降ってくる焼夷弾は、途中で破裂を繰り返しながら火の粉となって地上に降り注いでいた。たまったものではない。これでは、地上は蒸し焼きである。予告のビラに従って地上には市民はみな退避して誰もいないと思っての攻撃か、敵は、地上のものを全て焼き尽くすのを楽しんでいるようである。我が皇軍機は敵に立ち向かって飛ぶわけでゃなし、地上からは一発の弾も打てずにいる。消防車がサイレンを鳴らして被災者救済に走ることも皆無である。敵はやり放題の、当方はやられっ放しで、死に体の状態である。B29の夜間の焼夷弾空襲は、相手のやるがままに任せ、おののきの一夜が明けた。完膚なきまでに打ちのめされた一夜であった。重なり続けた鉄器の襲来は次第に収まっていき、洞窟の穴から朝日が斜めに入ってきた。うつろな目をしたまま、助かったと誰かがつぶやくと、洞窟内に安堵の笑いとどよめきが起きた。後についてきた非音の誰かの口から、ありがとうの声が上がった。みんながそうゆう気持であった。親父がいなかったら、洞窟に気づかなかったかもしれない。いな、ここまでくる道を誰も先導してくれなかあったかもしれない。みんな助かったのは神様の導きだったが、それを務めてくれた人がいたから助かったのである。親父に偉さをかんじて、涙がでたのである。

  しかしそれだけではない。いざとなったら親父の足手間問になりかねない私と弟がいたので、早めに家を出て避難した結果になったが、もし私と弟がいなかったら、頑張り屋の親父はいつまでも街に残って消火活動に夢中で、自分の危険を知らずにいたかもしれない、ましてや兄二人の力を得て気をよくし、焼夷弾に焼け焦がされるまでに踏ん張って、敵に向かって憤死してしまったかもしれない。それが避けられたのはやはり母が、死ぬときは家族一緒、生きる時も家族一緒にと言っていた言葉がふと浮かんだのである。みんなが手をつないで力を合わせて逃げることができたがゆえに、父を先頭に、神様に招かれるようについていっただけであった。そういえば真っ暗な洞窟なはずなのに、奥のほうに闇を照らす、光がさしていたように思うのである。
  はっきりと覚えていないが、洞窟を出て市内に向かって最初に目にしたのは一面の焼け野原であった。水戸の街が思っていたより小さく見えた。焼け崩れた五軒小学校が手の届くところに見えた。あちこちに煙がくすぶって異様なにおいが立ち込めていた。さq国屋夢中で走って逃げてきた道をたどって岩崎町の屋敷あたりにたどり着いたが、焼け跡には無残にも焼死体があちこちにたくさん転がっていて悲惨な光景にびっくりした。  続

   世紀の幕開け。107年ぶりの慶応高校が優勝

  格別な理由がない限り、会社を休んだことがない小生である。しかし、ホーム・ステイで午前中の仕事を済ませ、直ちに会社に赴く予定だったが、この日ばかりは慶応 対 仙台育英の高校野球の優勝決定戦が気になってうろうろしているうちに、試合開始の時間が迫ってきてしまった。思い切って甲子園まで飛んでいき観戦したい気持であった。かなわずにいたが、息子の上さんは運よくチケットを手に入れて、友達と甲子園に向かったそうである。元気があるなあと、自分の女房と話し合っていた。
  全国から選ばれてきた代表チームにはすべからく善戦して勝ってもらいたいというのが心情だが、トーナメントなので最後は一校だけが選ばれるのは致し方がない。それぞれが、この日のために想像を絶する練習と、訓練を積み重ねてきたのである。まじめな学生諸君たちの、努力と汗を思い起こすのである。だから敗者に対する純粋な思いが、勝者に対する祝意よりも熱くこみ上げてくるのである。試合が終わって戦いあった両者が、勝者、敗者の区別なく、互いに労り励ましあう姿こそ素晴らしい成果と映つてくる。勝ち負けをこえて、培われた寛容の精神である。
  真夏の太陽が照り付ける甲子園球場に、試合開始のサイレンが鳴り渡った。107年ぶりに優勝をかけた慶応、昨年に続き連覇を狙う仙台育英の激突である。快進撃を続けてきた慶応が、どんな攻略を展開していくか、片や、技巧を凝らし粘り強い仙台育英が名門慶応を根性でもって撃破するか、球場に青春をかけた若人の、健全な精神と、強靭な肉体と、おおらかな人間性を発揮する一大劇場である。

  場内アナウンスに従ってバッターボックスに立ったのは丸田湊斗外野手である。神奈川大会では打率6割超を誇る打者である。戦闘バッタに立った丸田は、二球目のど真ん中に来た速球に狙いを定め、大きくバットを振ったとたん、快音を立てた白球は大きく弧を描いて、何と観衆のどよめ・スタンドに吸い込まれていった。綺麗極まったソロ・ホームランである。この一発で、勝敗の雰囲気は決定的なものを感じた。慶応に有利な展開となった。慶応の意気高揚と打撃爆発で、今日まで王者決定戦を待った気概を感じた。スタンドは両陣営とも、超満員の応援団で埋め尽くされている。左右に群衆の波が常に揺れている。グランドに快心の場面が来ると、色とりどりの色彩に変わって、ウウェーブが激しく左右に揺れたりしている。満場が歓喜に包まれて、羅p-パン歩とが割れてくる。マウンドに立つ投手には、三振を求め、ボックスに立つ打者にはホームランを期待するといった騒然とした雰囲気である。得点差が大きく開き7対2で慶応が勝利の栄冠を手にしたが、仙台育英の食い下がる攻撃にも迫力を感じて、手に汗を握る熱戦であった。
  六大学野球の早慶戦は何度も行ったりして経験済みだが、燃える胸には独特な雰囲気があって頼もしいが、若さと力を如実に表して、あたかもそうしたものを連想させて余りある。六大学の早慶戦には、打倒、宿敵慶応を目指して戦ったものである。ましてや高校野球とくれば全国規模であり、別な迫力を感じて楽しさが横溢し、比類ない喜びを感じてくる。失礼になっては恐縮だが、甲子園の高校野球に慶応が入ってくると一段とレベルアップにつながってくる。品格と教養と機知である。体力と力だけでないものが備わってくるような気がする。時代を凌駕する歴史の重みと、見学精神のよってもたらす雰囲気かもしれない。背後に福沢諭吉先生が控えているから致し方あるまい。参加する観衆も違ってくる。それは仙台育英の監督が、慶応を相手に試合をする際の姿勢について、謙虚にコメントしていたように思う。朝日新聞は、大きく慶応の優勝を採り上げていみじくも、新時代の幕開けと評していた。  8月23日


プリゴジンの死亡

  何時かはこうした運命をたどる男と思っていたが、それが現実となった。上空を飛んでいた飛行機が真っ逆さまに地上に落ちてゆき、爆発炎上した。プリゴジンが所有していたプライベート・ジェット機である。プリゴジンはそのジェット機に乗っていた。彼がそのジェット機に乗っていることを知っているものが、関与していることは間違いない。

  2か月前のこと、民間軍事会社ワグネルを率いるプリゴジンが、プーチンに怒りをぶつけて反旗を翻し、自分の雇用する軍隊ワグネルを率いてモスクワに進軍、あと200キロの地点まで侵攻した。攻撃寸前のこと、計画を翻し、プーチン攻略を中止して引き返した。独裁的なプーチン政権に対する謀反を知った世界は驚いた。プーチン政権の意外な脆弱性が露呈されたこと、プーチン政権の政権転覆の可能性を否定できないものと解釈された。モスクワの攻略寸前で思いとどまったのは、ベラルーシ国の大統領、ルカシェンコの仲裁と忠告だった。プーチンは同朋で部下のルカシェンコに、プリコジンが蜂起した侵攻を思いとどまるように、その仲介役を務めてほしいと頼んだのである。受けて立ったルカシェンコは、激昂するプリコジンに対し、行動を自制するように求め、実行しようとすれば逆に蟻のごとく潰されると脅したのである。そして思いとどまれば、プリゴジンの命と財産は保証すると伝えたのだ。彼は、専制的政治を敷いているルカシェンコと、プーチンのカラ約束を鵜呑みにしたのである。百戦錬磨のプリゴジンではあったが直情型であるがゆえに、単純な人間といえば、その通りかもしれない。これが運命の分かれ道であった。捨て身で出たのかもしれないが、仮に実行されているとしたら、もう少しで歴史は大きく変わっていたかも入れない。

社団法人 昭和経済会
理事長 佐々木誠吾


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