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社団法人昭和経済会

理事長室より
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理事長室より

VOL.23.06

尾瀬沼の旅

  冬の間、厳しい寒さに沈黙を続けていた尾瀬沼が雪解けから目を覚まし、楽園の季節を迎える時期になった。尾瀬沼を旅したのは遠い昔のことである。記憶は山並みの遠くに消え去っており、おぼろな影となって同行した三人の友達の姿が懐かしく浮かんでくる。

  宿泊先の宿を早朝出発して大清水の村から、きつい山道を登り五時間ほどかけて三平峠にたどり着いた。そこから緩やかな山道を力を抜きながら歩くこと一時間、やっとのことで尾瀬沼の長蔵小屋にたどり着いた。山小屋の薄いランプのともりを見たときは、ほのかな旅情を感じたのである。山小屋に、夕方の日差しが光っていた。途中の、清々しい白樺林やブナの林を通り抜けて、雪解けの清らかな清水の流れをたどりながら、水芭蕉の花に迎えられての旅先である。

  あれから六十年近い歳月が流れた。人は変わり、世の中が変貌しようとも、尾瀬沼を行く先々の景色は依然と変わりなく、神秘的に、我々を優しく迎えてくれる。一大観光地として周辺の模様は変わったし、見違えるほど便利に整備されたに違いない。ただ気を付けないといけないことは、長い間に作られた湿原が一旦傷つけたり破壊されたりすると、元に復元することは不可能に近い。我々が昔、尾瀬沼を訪ねたときは訪れる人も少なく、文明の手も届かず、まだ開けない状態の自然のままの姿が映し出されて、天然の美の宝庫だった。尾瀬沼に古くある長蔵小屋にたどり着くまでは、容易ではなかった。今では交通機関が便利に開通して、誰もが簡単に、現地に苦労なく近づいて行けるようである。便利になったことはいいとしても、その分、自然破壊が進まなければいいと思っている。長い時間をかけて作られた湿原は、一旦傷をつけられたり、破壊されたりすると、元に復元することは不可能と言われて居る。あるがままの自然の奥深い魅力を、後世にいつまでも残しておきたいと思うこと切なるものがある。


    尾瀬沼

大清水より山道を登りきて三平峠にたどる夕べに

峠より眺むる広き尾瀬沼の黄昏どきの茜色にも

尾瀬沼の三平峠に立ちて見る長蔵小屋の淡き山の灯

懐かしき友の面影浮かび来て尾瀬に旅した遠く去りし日

しとど降る時もありぬる山道の雨なればまた止みて日の差す

重ね合ふ岩間の隙に湧く水の集まりて行く平なめの滝

木の間より霧とも見ゆる平なめの滝の優雅に流れ行くなり

雲間より微かに出でし燧岳わきたつ霧の白き流れに

水色のワルツを踊る精霊と絹の平滑ノ滝に尾を引き

山道を来て木の間より平なめの滝を垣間見嬉しかりけり

水色の雨蕭々としきる日の音なく明けし尾瀬沼の朝

霧の間の朝より昼にかけて降る木道を我ひとり行くかな

木道に踊り出でたる青蛙一息つきて水に潜れり

朝明けの霧の中より現れし燧ケ岳の黒きその影

かっこうの霧の狭霧を分けて聞くなんぞ哀しみ伝え聞くかな

山小屋を五時に出でれば早や白き霧にまみえる燧岳かな

雪どけの水きよらかに流れゆく先に平なめの滝の音しぬ

疲れきてたどる尾瀬沼の木道に水さはやかに流れ行くかな

木道の際に群れ咲く水芭蕉雪どけ水に身をさらしける

霧の中より生まれくる尾瀬沼の乳白色の時の間を行く

かんかーんと鐘なり響く尾瀬沼に霧立ち上る朝明けの頃

霧の間の朝より昼にかけて降る白き狭霧に濡れて行くわれ

霧の間に聞くかっこうのなく声にこころ打たれて母を偲びぬ

亡き母のおもかげ遠く我がうちにかすみて居ればなほも悲しき

行く先のあたりいちめんの霧ふかき白き世界に浸りけるかな

木道を進む能わず霧深き中にたたずみものも思はで

わびしさに心も濡れて蒼然と雨の降りしに行かば朝なり

足元の霧を払ひて木道をゆかば妖精の花浮かび来ぬ 6月1日


    我が住まいの地

不思議なことがあるものである。地元の会合にちょっとしたことで出かけたことがある。世田谷区が支援する企画で、高齢者を対象に器械体操を指導してくれる団体である。二十名ほどの小規模の会場ながら初めての参加であり丸テーブルに家内と座った。その席に高貴な感じの高齢な女性と、七十歳を過ぎたと思われる男性が席についていた。参加者は二十名ほどのざっくばらんな雰囲気の会合である。小テーブルであったが、こちらから進んで自己紹介するつもりはなかったので黙って成り行きを見守っていた。家内とその高貴な女生が親しく会話をしており、小生も何げなく隣に座った旦那とも挨拶を交わしていたところ、ずーと世田谷にお住みですかと、家内と会話を交わしていた女性から尋ねられたので、いや、所帯を持ってからこの地に移住して来ましたと答えた。すると女性は何やら安心したような気色であった。

  打ち返して、奥さんはずーと世田谷区に住んでいらっしゃるのですかと云うと、違うんですよと落ち着いた様子で同時に何か安心しきって誇らしげな素振りをしていたので、更に追い打ちをかけて畳み返して、ご出身はどちらですかと尋ねたら、浅草なんですのと答えるではないか。これには聊かびっくりした。下町の隅田川に近い浅草ですか、浅草のどちらですかと云ったら千束町ですというのである。何か最初から気が通じ合うような雰囲気を持っている人だと思っていたが、やっぱりそうだったか。いやあ、実は私も浅草で生まれ浅草で育った江戸っ子のしゃきしゃきなんですと云ったら、小さめな目を丸くして驚いてあらまあ、そうでしたかと、世間は狭いと云いながら、偶然にしても不思議なご縁ですねというのである。実は前に居るご主人も浅草なんです、それでびっくりしていたような次第なのに、と別に尋ねもしないのに奥さんの方から小生の隣に座っている御仁も実は浅草出身なのだそうですよと説明を受けたのである。

  奇しくもこの四人の席は、家内を別にしても、浅草育ちの人間同士が一緒の席に座ってるという不思議なめぐりあわせを思ったのである。隣の旦那は浅草の象潟である。今でも植木市がありますねと云うと、開かれるのは六月末ですとその男性は答えた。観音様の境内の裏手にある馬道、象潟、千束といった町なかに開かれる植木市で夜店も出たりして賑やかでである。夏の風物詩である。植木の商いも気前がいい。浅草の三社祭とは違った風情である。だとすると小学校はどちらですかと尋ねるまでもないことで、きっとそうだろうと思いながら、富士小学校ですかといったところ、まさにその通りであった。小生は猿若町ですと云ったら、聖天横町の隣ですねというので、聖天横丁は猿若町の裏手の横になりますと、変なところで気張って見せるような感じになった。これがご自慢の故郷への郷愁のようなものなのである。

  高貴な奥さんは佐野と云ってらしたし、隣の御仁は中田という名前であった。佐野さんには旧姓があるに違いない。そこまで尋ねる必要もないと思われた。 家内は別として、佐野さんは幾つの年か知らないが落ち着いて気品のある人でまあ美人の類であい、最初から感じが良かった。小生は専らこの佐野さんの人となりについて大変興味を以て、しばらくしてから自然に言葉を交わしながら、もう少し詳しく知りたいもんだと思った。

  区の指導員によって器械体操のエックササイズが始まったので、テーブルの会話は中断されてしまったが、立ちざまに佐野さんは一人で出席して、今までが寂しかっただけにこんな出会いは夢にも思わなかったわ、とっても楽しかったわと、有難いわとまで言い切って感動の思いを本音で表していた。 そんな言葉を返されると、ますます興味が湧いてきて、エックササイズは面倒だなと思っていたのが逆になって忘れてしまい、楽しみが込み上げてきた。家内もとても楽しい時間だったわねと感想を漏らしていたが、 こんなことも身近にあるんだなあと思っている次第である。エックササイズは2時から始まり4時過ぎに終わったが、結構ヴォリュームのある内容で遣り甲斐があった。普段使わない筋肉だとか関節の運動に繋がって、体を伸ばしたりすると気持ちのよい痛みを感じて刺激的快感をおぼえるのである。この分だと体の骨格だけでなく内臓や消化器にまで刺激になって活力を生じ、全体にいい結果をもたらすのではないかと、今から大いに期待しているところである。この調子で行けば、週一回はもの足りない気がして週三でもいいかなと思っているが、そうなると自分の都合がつかなくなってきて、逆に仕事に支障をきたすことにもなる。まあしばらくの間このペースで無理なく続けてみようと思っている。会場までマイクロバスで送迎してくれる、超サーヴィスぶりである。 続

ささやかな樹木と畑を庭として森と農地を体現いたす日

あるがまま自然の掟に従ひて生きる日々にて有り難きかな

此の年に悟りて畑の生活に根を下ろしてや生きるとも知る

不思議なる縁にてこの地の等々力に移り住みたる我ら夫婦は

振り仰ぐ空にも高き十字架の影美しきわれがふるさと

十字架の恵み豊かに充ち満ちて振り返り見る初なつの空

うぐひすの声に目覚めぬふるさとの水豊かなる等々力の地よ

十日ほど早く梅雨入りとなる年の何やらせはし心地するなり

我が宅の裏手に確か滾々と湧きし清水のあとの在るらし

湧き水の近くに在りて洗ひ場の水滾々と流れ入るかな 

洗ひ場と称さる場所が在りしかど止めてしまふは悲しかりけり

    6月3日

  昭和経済会の定期の講演会の主題を経済に絞って、講師の論陣を張ってもらおうと考えて事務局長に講師の選考を申し付けた。雨後のタケノコのように立派な講師が陣容を張っていてまばゆい感じだが、選考に苦慮している事務局長の苦労も分からないではない。人気があって講師の謝礼も馬鹿でかく、さりとて大した中身を開陳するわけでもないのに気を遣わなければならないとは、これ如何にである。昔、昭和経済会と古くからのなじみでいらした斎藤栄三郎先生がいらした早稲田の商学部卒で日本経済新聞で経済記者をされていたが、経済評論家に転身、博学を以て議論は立て板に水と云った感じで、実に理路整然として思考を展開されていった。私が萬社長の仲人で結婚したことについて大変敬意を払っていらしたので、斎藤さんは萬社長を遠くから尊敬して師と仰いでいたことである。奥さんに引き合わせるときも、それをしきりに強調していた。
  大学の大先輩にもあたる斎藤さんは、学識経験共に有能な指導者であった。著書も多岐にわたり商学博士、文学博士、法学博士と三つの博士号を同時に持っている学者、評論家はほかに居ないのではないだろうか。三つの博士号を持つ人物と自らを名乗って、聴衆に対し絶大な信頼を植え付け、講演会では質問に対しては心底真面目に答えていた。日曜対談、時事放談では小汀利得亡き後を務め細川隆元と丁々発止にやり取りとりを行って茶の間を沸かせ視聴者の知的レベルアップにつなげたものである。席には論客ながら舌鋒の政治学者の藤原康達さんがいたが、今日ああした天衣無縫の評論家がいなくなってしまったことは寂しい気がする。
  その藤原康達さんがかって講演会に出て申したことがあった。たかが北方領土の四つの島について日本はソヴィエトと返還交渉をしているが、あんなところでドンパチされたんでは堪らない。返還せよと交渉しても埒が明かないに決まっている。いっそのこと金を出して買ってしまったらどうだ。今日本にはバブルで入ってきた金がわんさとある。そんな金ぐらい出してやったらどうだ、とまで大声で喝破していた姿を思い出している。確かにあの時は旧ソヴィエトだったが、彼らは金を出せば歯舞、色丹、国後、択捉の4島は日本に帰ってきたはずである。けちけちして出すものを、出さなかった付けが今になって帰ってきている。
  唯、相手はロシアのこと、契約を反故にして力を以て取り返しに来ることも考えられる。クライナに戦争を仕掛けた今のプーチンにしても分かる通り、どちらにしても信用して取引相手にできぬ代物ではある。安倍晋三はことごとく嘘つきプーチンに騙されてきたし、27回もプーチンと会談して自慢したりしていたが、面構えからして欺瞞で詐欺的であり、アメリカのトランプと瓜二つである。国内ではあまり表沙汰にはなっていないが、それにしても現代ロシアの暗黒時代に暴虐、非情の独裁者として登場した妖怪である。自慢すべき点は、日本の岸田首相など何と純真な顔つきをしているではないか。

  経済問題を主点において次回の講演会の講師を著名なエコノミストに依頼してもらったが、経 済と云うと数字や指数、統計といった内容に傾倒しがちなので聴講者にとっては受けが悪い点がある。そこで経済公園の基本ともなる論点をあえて列挙し次の八点について講演の趣旨に含ませて各位に連絡した。1)ウクライナ戦争とロシア 2)米中関係の緊張緩和 3)日韓のシャトル外交の意義 4)気候変動と産業構造の変化 5)AIとチャットGPT課題と応用活用 6)FRBの金融政策 7)日銀の植田総裁 8)衆議院解散時期 といった内容についても付け足した次第である。先に挙げた斎藤栄三郎さんに就いては、論点を日常生活から切り出して広く経済を議論していってくださったので、難しい経済問題も分かり易く受けが良かった。初めにいくつかの論点を列挙して、それ等を逐次解説していくといったスタイルであったし、第一、原稿など用意することもなくご自分の話す内容は全て頭の中に入っていて、立て板に水の如くであった。参議院で代表質問に立った斎藤さんは、原稿なしで30分間の質問演説を滔々として行ったこともあった。中曽根内閣の時である。
  政治家を志し、経済評論家時代を抜け出したが、目指す経済企画庁長官の地位を叶えられず科学技術庁長官に甘んじてしまった。斎藤さんの残念の心中を窺った時がある。青年将校を自認して明晰な中曽根さんも、経済通の斎藤さんを見抜くことができず、上手に使いきれなかった点はむしろ惜しまれてならない。斎藤さんは選挙資金も金集めが下手で、田園調布に在った六百坪の屋敷を切り売りする始末で、経済評論家の名に反し、晩年は清貧に甘んじた。汚い金に手を汚すことができず、堅物で清廉潔癖な政治家であった。勝手な希望で恐縮であるが、斎藤さんは経済評論家として世に在って時の政治を論評し、時に指弾して民衆を大所高所から指導してほしかったと思っている。
  最近の岸田内閣に当ても予算のばらまきで節操がなく、財政政策は下手糞そのものである。斎藤さんがいたらどう解説して賢明な探りを入れてくれたか、伺ってみたいものである。少子化が大きな課題であるが、斎藤さんは常に、人が結婚して一家の家庭を築くことの重要さをしきりに説いていた。家庭を築くということの経済的効果も力説していた。そこを踏まえて、家庭とは住むべき一家の家を持つことであり、持つべき「家」には「庭」がついていて初めて家庭と称しているとし、土地政策の重要性を力説し、経済的基盤の大切さを説いていたのである。斎藤さんに云わせれば、家庭という文字が示す通り、「庭」のない家はそもそも「家庭」とは呼ばないことになる。その上で、家庭を以て初めて子供の出産意欲が湧いてくるし、子供を持てば親父に勤労意欲が湧いてくる。先ず子供を産むことを奨励しなければならない。

  それには先ず、結婚して子供ができたら、お祝いに200万でも300万でもやりますというキャッチフレーズではなく、実際に若者に約束して与えれば、若者は安心して子供を産む気持ちにもなれるはずである。時代の変化で若者の考え方も変えあってきているので仕方がないが、親に代わって国が経済援助をすることは、ここまで社会生活が、経済と企業の支配が如実になってきている以上、国が面倒を見るのは財政政策上織り込むべきかもしれず、300万では足りないかな。だったら500万の祝い金を出して差し上げなさい。この前のテレビニュースで、若者たちがインタビューで答えていたが、経済的不安で子供を持たないという若者や、若い夫婦が増えていた。可哀そうな実情を政治家がもっと真剣になって考えねばならない。
  昨今の努力によって、勤労者の賃上げが定着し、大企業中心にかなり改善されてきて、社会意識もそうした方向に向かってきているので向かい風に感じている。更に主張すべきは、単刀直入に生活に不安がなく、出産に必要な目先の金さえ余裕を以てあれば、ともかく若者たちは、子供を作ることに希望を抱き将来に向かって子供つくりに楽しみ励むであろう。岸田さん、大判振る舞いで「出産祝い金」を差し上げてやって見たら如何だろうか。 
  昔は貧乏人の子沢山と云われていたが、二人育てるも五人育てるも同じ苦労と楽しみと称しておおらかに考えていた。成長していく過程で、兄弟同士で助け合いの精神が自然とはぐくまれるし、人を愛することと、寛容の精神を培うことにもなる。 こどものことを考えるとき、今は強くおおらかに育てるよりも、華奢で学力重視に拘っているきらいがある。コロナ感染症の蔓延でオンラインとステイホームを体験してきた社会生活であるが、学習も、勤労も考え方が大きく変容し、生活手法も意識的に、価値観も大きく変わってきている。斎藤さんが常々語っていた家庭の概念も、新しい価値観で若者たちに浸透していくのではないだろうか。子育て予算を考える前に、先ず子供を産んで育てる喜びを体得できるような環境を作ることである。「白金も黄金も玉も如何せん勝れる宝子にしかめやも」。万葉集にのっている、大伴家持が詠んだ和歌である。 根本的な人間教育が重要である。      六月十五日


     科学技術庁長官、斎藤栄三郎
  昔、中曽根内閣当時、科学技術庁長官に就任した斎藤栄三郎さんを招いて、長官就任の祝賀を含めて講演会を八重洲富士屋ホテルの桜の西の間で開いたことがあった。出席者は60名近くいてロの字型に客席を設け中央に講師の斎藤さんに座って頂き、左右の隣の席に五人づつ役員、長老に座って頂いた。大臣なので玄関口に出迎えを置いてもらいたいとの要請である。常務理事をしていた野田君にお願いして、小生は宴会場の入り口で先生を出迎え、会場の席に先導した。その間講師に対し席上から歓迎の拍手が自然と湧いたのである。斎藤さんは、まんざらでもない様子であった。経済評論家の時にはこんな礼々しいことはしなかったから、小生もなんだか照れ臭い感じがしないでもなかった。勝手は違うものの、大相撲の横綱の土俵入りのような感じであった。斎藤さんは本来であれば時の経済企画庁の長官か、もっと昇って大蔵大臣に指名されてもそ遜色ない人物であったにもかかわらず、蓋を開けてみたら畑違いの科学技術庁の長官、所轄大臣ということであった。適材適所とは言いながら、所詮、派閥の均衡を維持するための苦肉の組閣である故、斎藤さんにとっては内心不甲斐ないポストで致し方なかった。次の大臣指名の時を狙えばいいということであった。こうした場合、総理の口約束など全く当てにならないのが常套である。政界は一寸先が闇は、ここでも通じた言葉である。

  会の冒頭、席上挨拶に立った小生は、まずもってこの度の中曽根内閣の組閣にあたり、敬愛する斎藤栄三郎先生が科学技術庁の長官に初入閣したことを名誉なこととし、会員一同とともに心から慶祝する旨を申し上げ、国政に於いて大いなるご尽力と、更なるご指導を祈念する旨を以て、用意されたシャンパンで乾杯の音頭をとらせてていただいた。追って、小祝賀会は講演の後行うこととし、斎藤先生の話を伺うことにしたのである。

  貴重な斎藤先生の講演を終わって質疑応答の時間になった。胸襟を開いて、親しく質問し、懇切丁寧な回答を窺っていたところ、出席していた家内までが挙手して先生に質問した。気持ちのまっすぐな女房なので、このような席であればこそ寧ろ忖度するようなことはない。質問するや威容を聞いてひやひやしていたが、人によっては遠慮しがちな雰囲気になってしまうかもしれない。家内が先生に質問していたのは、原子力発電が万一故障をして放射能が漏れだして地域一帯を汚染して多くの人命が失われたりするようなことはないでしょうか。日本は火山国であり、地震国であり、油断のできない予期せぬ自然災害が、多くの破壊をもたらしかねないのが実情です。原子力発電について先生はどのような認識をお持ちになっていらっしゃいますか。というものであった。専業主婦の素朴な質問であったが、その後に起きた東北大震災と福島原発事故と、その後の今日のことを考えると、まさに正鵠を得た問題提起と指摘だったので特に印象に残っているのである。    6月19日

農耕に親しむ

枝豆の苗を仕入れて庭畑に植えたる日にそうぐひすの鳴く

近頃の気候の変化に対応し農耕作業も手間取りにける

新緑の光り輝やく日頃ともなりうぐひすのしきり鳴き居り

さわやかに吹きすぐ初夏の風の色水色なれば空にとけゆく

主イエスの癒やしの深きあかしなり口もと赤く燃え尽くしけむ

限りなきイエスの愛の深きこと海の澄みたる淵の如きに

主イエスにみ顔を仰ぎ伏し拝むその美しき身にも触れけり

精霊の全地をおびて活きいきと復活の道備へ給へり

大空を仰ぎ聖霊のこの世をばおほひ給へる実相を観ん

壮麗な三位一体の実相を如実に示し我に迫り来

我れが身に息を吹きこみ永遠の命を給ふイエスキリスト

人の世の神の掟にさからひて愛の一字を忘る愚かさ

大君の天地創造の主なれば意に従ひて生きてゆくべし

幾そたび艱難辛苦の道を経て聖霊により立ち起きてきぬ


   深夜に手さぐる

近ごろの命を刻む一刻の音の夜中に聞くはあやしき

万象の息吹を身にも触れし夜の動きを確かと捉えけるかな

今の世を手に収めてる大国の米中なれば相互理解を

米中の諍いをやめこの丸ろき地球を治め先に進めん

ウクライナ戦争の悲惨を目の当たり耐えがたきかな多き犠牲者

朝飯を食らふ時にも凄惨の地にそ命を落とす兵士ら

ウクライナ、ロシア双方が声高に戦果を誇るさまの空しき

反攻を開始の小国ウクライナ勇猛果敢に駆逐ロシアと

前線を一キロ進むその間にも戦火に倒るあまた兵士の

無残なり兵士のしかばね踏みつけて塹壕を行く後の兵士は

塹壕の中を兵士ら伏しながら敵に銃弾を撃ちつ進める

熾烈なる銃弾撃ち合ふ双方にあまたの兵士が命落とせり

牛、馬の如く人間を操りて戦地に送るサタンのプーチンよ

反攻に移るウクライナ将兵のロシア連隊の抵抗にも会ふ

戦場に散る息子らの命をば知りて育てし親はなかりき

    有意義だった米中会談

   会談する際の席の配置なんかどうでもいいから、ブリンケン国務長官と習近平国家主席とが、北京の人民大会堂で面会をおこなっったことは大変有意義だった。周主席は「国家間の交流は常に相互の尊重と誠意にもとずかないといけない」と述べたという。そしてブリンケン長官の訪中について「中米関係の安定に積極的な役割をはたすことを期待する」と歓迎の意志を示したのである.訪中を歓迎する立派な挨拶であり、至極当然と受け止めている。

  ブリンケン長官が習近平主席と面会する前に、王毅外相と初めに面会して一応の段取りを踏んで臨んだことは賢明であった。中国にはもともと慣例としてあるものだが、形式的に取り組む序列があって体面を保つ風習がある。あらかじめ下地を作っておいてあとは儀礼的に認め合うといった風習である。大なり小なりどこの国でもあることながら、中国では儒教の教えもあってか、よりそうした傾向が重んじられている。王毅は表面上糞真面目で柔軟性に欠ける印象を与えがちだが、接すると胸襟を開いて話し合う姿勢を持っている。特に外交的交渉については、かたくなになることを避け互いが寄り添っていく姿勢を重視しているので、ブリンケンと性が合うのではないだろうか。ブリンケンも学者的であり、真面目腐って融通性が利かぬ雰囲気を感じるが、実直な点が信頼性を抱かしめる所以である。
  昔、周恩来が親日家としていたが、角栄と馬が合って、わだかまりを捨てて日中国交の道を拓くことができた。小異を捨てて大同に就くとは、中国にも通じた昔からの箴言である。外交交渉とは官僚任せでいく場合もあるが、詰めは大所高所から判断する大物でなければ達成できない。米中がそうした基盤に立って、交渉の場についていって貰いたいものである。


モスクワに風が吹く

  ロシアの民間軍事会社「ワグネル」の創設者・プリゴジン氏が反乱を起こし、突如としてモスクワへ進軍を行って、たった24時間でモスクワ近郊200キロ地点までい迫った。前方の市街地近くでは、石油施設が大爆発を越し、炎上する火花が空を覆った。反旗を翻して突撃するワグネル連隊に怯えたプーチンは、隣国のベラルーシ―のルカシェンコに助けを求めた。助言を得て、プリコジンの説得をしてもらうべく交渉した。話を受け入れたワグネル連隊長のプリコジンは急遽モスクワへの進軍を中止し、ワグネルの軍隊を引き返した。国防商に対して不満を持っていることは、時の政府、即ちプーチンに対峙する姿勢でもある。プーチンはルカシェンコの協力と助言を受け入れ、プリゴジンとの約束を履行することを条件にプリコジンの身の安全を保障したようである。
  それを伝え聞いたプリコジンが鵜呑みして、軍隊のモスクワ進軍を中止したに違いない。プリコジンの反乱が伝わって如何にも短時間で謀反は打ち消されたが、あとに生々しい事件が起こらないとも限らない。求心力を失った感じのプーチンの弱体化が、この先に待っている状況である。プリコジンが反乱を主導した根拠の一つに、ウクライナ侵攻は大儀ない侵略だと主張し、プーチンに反旗を翻した。これはウクライナ戦争を正当化してきたプーチンの主張を根底から覆すものであり、ロシア軍隊とモスクワの中枢部に大きな亀裂を歴然とさせるものである。国軍と政府内の混乱を惹起し、その実態が暴露されたに等しい。プーチンの威信は地に落ち如何に修復するかにかかってきている。
  想像するにプーチン内の政権の混乱は免れないし、求心力を喪失していくプーチン体制は、いずれ内部崩壊の危機を迎えるに違いない。ワグネルの本拠地であるロストフ州に帰還したプリコジンを迎える熱狂的に出迎える市民たちの姿勢には、反プーチンの勢いが想像以上に大なものを感じた次第だ。
  唯懸念すべきことは「ワグネル」創設者のプリゴジン氏が、ロシアのロストフ州を24日夜に出発して以降、広報担当者も連絡が取れていないとしていて、消息不明になっていることである。ロシア大統領府のぺスコフ報道官はプリゴジン氏の発言によると、軍隊を撤収したことで武装蜂起を呼び掛けた容疑の捜査は取りやめとなり、隣国のベラルーシに移動すると説明している。ロシアとベラルーシのこと、これはプリコジンにとって極めて危険な行動である。既に世界は今回のワグネルの反乱を受けて、アメリカのブリンケン国務長官はABCニュースのインタビューで、ロシア国内に「深刻な亀裂が生じている」と見解を述べているように、プーチンにとって重大な危機を齎していることは否定出来ない事実である。何時どこで起きるか分からないが、強硬な手段に出ることを狙っていることは想像される。

  今までのところ状況は混乱しており、「プリゴジン氏がすでにベラルーシに到着しているかどうかは確認できておらず、地位がどうなるかも不明だ」として居るし、怒り心頭の独裁者プーチンは、裏切り者を決して許さないだろうから、相互で交わした約束など反故にするのは朝飯前である。プリゴジンが殺されているか、移動先のベラルーシで殺される可能性もある。一寸先は闇の中であり、暗中模索の暗殺など殺人が行われる可能性大である。どういう形で有れ、この先問題を複雑化させないためにも彼が生きていることを望んでいる。そうでなくとも嘘つきプーチンは、今回の事件も欧米が仕掛けて仕組んだ仕業だと称するに違いない。   6月26日


    心電図の測定
健康診断を受けるにあたって、検査項目の一つに心臓の機能を調べる心電図の検査がある。通常は2,3分で済んでしまうが、心電図のもっと精密な検査となると24時間にわたってデータを観測する種類のものがあって、以前慶応病院でこの検査を受けたことがあった。その時は一部に不整脈が感知されたことがあったが、懸念すべき数値でなかったことがあって安心した。あれから4,5年が経過しているので、信濃町の慶応病院のほかに、地元で主治医の尾山台のユアサクリニックで健康診断をしてもらった。というのも毎日の生活上、時に脈拍の乱れや呼吸の乱れを意識することがあるので、注意、予防のため医師に診察をうけておきたいと思ったからである。
  幸い、当医院にもホルダー式心電図機器を装着できる体制に在ったので、去る6月19日の11時に通院したうえホルダー用の器具を装着してもらって翌12日に記録した器具を外し、検査に回してもらって、その結果を一週間後に聞きに行った。検査結果は多岐にわたって専門的に出ていたが、概ね、小生の心臓の鼓動は健全であること、当面危惧する点はないとのご託宣を得て安心した次第である。24時間のうちで脈拍数は何と8万3666回も打っている結果が分かった次第である。そのうち不整脈と思われる脈拍が23回あったそうで、無きに等しい数値で全く問題なかった。それにしても一日三万回以上も心臓が休みなく打ち続けていること自体、大変な事実であり、小生が寝ている間にも命の鼓動を休みなく元気に打ち続けている仕事に感謝するばかりである。
  心臓には、上室、心室という部分があって、ここから体全体に張り巡らされた血管を通して血液を送り込むという、活動の根源の働きをつかさどっている。送られた血液によって人間の体の細胞は新しくよみがえり、しかも常に更新されている。細胞が壊死しないで済んでいる。大切な頭脳にまで新しき血液が送り込まれて脳の活性化に寄与している。認知症はこの血液の十分な供給ができないことから発症するともいわれている。知能の機能も、体の細胞と一緒であり、心臓から送られてくる血液によって活き活きとして活動し、頭は体全体に指令していることにもなる。ボケ防止にもつながっている。あくまで健全な心臓の機能を重視し、健康管理に努めることが重要である。

  中年になった郷ひろみが元気に歌っている歌に「2億4千万の瞳」というのがある。かとんぼうのように軽快に踊りながら未だに歌っているが、この具体的な数字がどこから来たのか知らないが、「出会うは億千万の胸騒ぎ」とうたっているから、根源は小生が検査した心臓の鼓動と一緒である。胸というか、心臓というかの違いであるが、表現としては胸と称した方がロマンチックであり、恋の胸騒ぎにも素直に通じてくる。「この胸騒ぎは生命」と称しているから、心臓の意味にも直結していることになる。小生の心臓の鼓動数は、たまたま一日3万6千⒍⒍6回であるが、豪ひろみの2億4千万回に及ばないにしても、小生の場合は一日の回数であって一生に換算してみれば、郷が歌っている2億4千万よりも勘定が最も多く嵩んで迫力があるかもしれない。だとしたら郷に負けずに小生も飛び跳ねて、マッチの「ギンギラ銀でさりげなく」と踊って歌ってもいいはずだと思う。

心電図ホルダーを身に一昼夜心の鼓動を記録したるに

脈拍の打つ音を聞きて恐れたり何時止まるかも知れずその音

心の音を聞きてか細く打つ脈のはかなく思ひじっと立つなり

心の打つ度数は8万3000回何と昼夜を通し打ちおり

一昼夜休むことなくうち続け我が脈拍の音の頼もし

心の打つ音の七回も途絶えれば8万3千回の音の失せけり

有難き我が心臓のたくましく狂はず音を立てて動けり

脈拍の一日8万3千回打つは尊きと神の給ひぬ

脈拍の一日のうちの不整脈たった二十三回とは心配なきと

有難き医師の託宣を聞きて先ず心の動きの正常なるを

驚きもさもあらんとや心の打つ音の回数の天文学的

われが身の脈拍数の天文学的な数字に畏れ多くも

天文学的な数字にそ驚きぬ我れが一生に討つ脈拍の

医師の出すホルダーボートにたまげたり一生にうつ我れが脈拍

あっ晴れと己に聞かせ奮起せり脈拍数の力強さよ

居寝る間に打つ心臓の逞しさむしろ感謝の念の湧きて来

良きことをする間も悪きことを成す間にも心臓の動く等しく

良きことを成して味はふ醍醐味や心臓の音のこころよきなり

生きてる間にも良きことを積み重ね神と心臓に仕へ行くかな

驚異的機能を有す心臓の頭脳に勝るとも劣らずや

心臓の刻一刻を記す音に神の御業の畏れ多きも

心臓が止まれば命そのものもグッバイとなる全てあばよと


心臓の上室、心室の脈拍を調べて機能の確かなること



高木新次郎君の心筋梗塞

高木新二郎君が亡くなって早や五年の歳月が過ぎようとしている。歳月人を待たずというが、月日の立つのは早い気がしてならぬ。心臓に毛は生えているくらいに度胸の据わった朋友の高木新二郎君が、突然心筋梗塞に襲われて亡くなってから次の八月19日が来ると丸五年が経過する。人前で倒れたとか、病院に入院していた逝ってしまったとかいうのではなく、自宅で朝、奥さんが起こしに二階の寝室に行ったところ声がしなかったので気が付いた由である。既に死亡していた。午前二時ごろと思われる。誰も気が付かない間に高木君はあの世に旅立っていった。死因は心臓まひであった。
 彼を見た眼の世評とは違って、小生は高木君の荒々しくも一面に於いて極めて繊細な神経の持ち主であり、男らしい人間性を見てきているので、死に際も彼らしくあってあっ晴れな感じがして、長い人生の、ある時はほんの短い時間だったかもしれないが、どん底の暗闘を演じてきたには、人生の熾烈な戦いにしては、あっけない幕引きのように思われてならない。大騒ぎして、大暴れして死んでいくものと思っていたが、極めて静かでひっそりとあの世に逝ってしまったのであっけにとられていた。だから未だに信じられないのである。事務所のドアを開けて、ひょいっと入ってくるような気がしている。

高木君が亡くなる一年前のこと、母校の早稲田中学時代の同期によるクラス会が新宿の中村屋であった。クラス会では当時から高木君は「ウォ―トン」と」あだ名をつけられていたように極めて不細工な面立ちであった。オオカミと豚を掛け合わせたという意味合いで、武骨でおおざっぱな顔達であった。その代わり頭は良くてませており、つまりは早熟のタイプであった。ものをいう時も親父っぽく、教壇に立つ先生をしのぐ貫禄と趣きがあったので頼り甲斐があった。今になって思うと、高木君は最後となった同窓会の席上、自分自身で弔辞を読むような話を皆にしていたことを思い出すのである。その二番後に小生があいさつに立ったので、彼の少しばかり暗い話を打ち消して、自ら発奮する内容を以て面白おかしく話をしたような気がする。というのも高木君と小生は、今日のクラス会の早稲田中学を卒業後、その先の早稲田高等学校には進学せず、別の早稲田高等学院に受験して転向していった部類で、当時の諸先生の引き留めも聞かず、謂わば謀反を起こして他校に転向していった輩である。なのに恩情を以て旧OBとして仲間に入れて下さっているわけである。わだかまりを残さず、おおらかな心根を持っている、さすがは早稲田スピリッツの発揮するところである。

  彼がみんなに言った一言がある。この年になって気づいたことが、体あっての人生だから、みんな体に気を付けるように。俺は息子の嫁さんに手を引かれて50メートル歩くのがやっとだった。それ以上は息切れがして歩けなかった。血栓が溜まってだ。医者の治療でこの通り、ようやく元気になった、という話であった。病み上がりのせいだろう、以前ほどの精悍さはなかったが、禿げあがった頭は相変わらずてかてかに光っていたので喜んだ次第であった。今思えば彼の死は、意外であった。雰囲気的には限られた人生を突っ走っていってしまったような気がする。晩年は牙を抜かれた猪のように穏やかな感じがした。

 高齢にお達して天国に持っていかれる原因は色々あるが、脳溢血や心筋梗塞が意外に多いようである。血管の老化が原因で致し方がないが、最近は関係者によって血管を若返らせる手法も考えられている。又心臓疾患についても医術の向上によって的確に除去手術が可能にもなってきている。近親者でペースメーカーを装着して不愉快だった不整脈を完璧に排除して以前とは見違えるほどに生き活きと蘇っているケースを目の当たりにすると、疾患と治療に際しては、予防措置と早期の治療の大切さを実感するのである。

 小生も24時間の心電図を計測するための措置を講じ、結果を約二週間後に聞きに行ったのである。一昼夜に打つ脈拍数は何と8万3,666回であった。このうち不整脈と思われる回数が23回であった。無きに等しい数値である。完璧に近い心臓の鼓動である。時々疲れたり息切れを感じたりするが、それは小生が生きていて、しっかりと活動している証拠であるという話になった。平凡ながら無理せず元気に、焦らず穏やかに活動することに越したことはないと思った次第である。       


社団法人 昭和経済会
理事長 佐々木誠吾


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