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社団法人昭和経済会

理事長室より
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理事長室より

Vol.14.12

原油価格の下落

    さほど気にもかけていなかったが、ここにきて原油価格が急落していることに気付いた。価格がが下げ止まらず、今日の新聞のによると報道によると、一時60ドル台を記録したとのことである。シェールガスが盛んに開発されて世界的に脚光を浴びるさなかのことゆえ、いずれは原油価格に影響を及ぼしてくるものと期待していたが、昨今のこの動きにはサプライズを感じ、今日の報道を見ていささか驚きを禁じ得ないでいる。
    さらには石油輸出機構の減産見送りで、マーケットは需給関係が緩むとの見方を強めて売りが先行している。それにしても、ここにきての原油価格の続落は、世界の明暗を分けて、これが与える影響はさまざまである。シェールガスの産出が活況を呈し、オイルの価格調整が進んでいるとみているが、単なる経済的要因からくる変化でもなさそうな気がする。原油輸出の最大手のサウジアラビヤとアメリカとの戦略的な要素もあって、国際的には政治力学の色合いも強く感じてくるのである。
    一つには、資源大国を以て世界経済ばかりでなく、これを以て政治的圧力を行使してきた国に対する、抑止力みたいなものを狙った行使と受け取る向きもある。つまり背後には政治的戦略が、深層でし烈な攻め合いをしていると感じさせるものがある。
    それにしても原油安は日本経済の景気の追い風となって、好ましいことである。特に足踏み状態の続く日本経済にとっては、まさに神風である。ガソリン価格の値下がりは、直ちに家計に響いてくるし、物流経済圏にとっても車の動きが活発になることは確かである。特に運輸関連企業にとっては、その分大きく業績の改善に寄与し、波及効果が大きい。ところがなかなかうまくいかないのが、円安のマイナス効果である。ひところの為替相場から見ても、対ドルベースで円は2割弱の値下がりである。これで減殺される部分があって、痛し痒しであるが、しかし円安がこのままで、原油が高止まりであるのとは、経済環境は物凄い落差があって、円安悲鳴は、各種の経済分野で大きなダメージを蒙るところであったが、原油安がいささかなりともクッションになって、これをうまく回避できているだけ幸いとしなければならない。
    つい最近では、アメリカの禁輸政策の若干の見通しの変化で、株式が急落して商品市況に資金が流れたりしたが、原油の値下がりで、一時すすめられていた金の先物取引までが、下落している始末である。さらには商品市況に大量に流れた投機資金が正常化されて、金融経済、特に株式市場に戻ってくれば、大きなインパクトを与えてくるだろう。商品市況にも正常化された均衡状態に戻って、世界経済に良好な影響をもたらしてくれるはずである。予想的行動とは全く逆の現象が現れたりして、投資家の中には、思惑が当たらずに振り回されて大きな痛手を蒙っているケースが多く聞くのである。
    見通しが図に当たり、思惑通りにいくものであれば、何の苦労もなく蓄積されて金満家になる人がたくさん出てくるのだろうが、世の中はそうは簡単に許してくれないのが現実である。踏んだり蹴ったりだと泣き言をいう投資家が多い。相場の世界は昔から当たり外れとは言いながら、昔から聞きなれた言葉だが、「木の葉が沈んで小石がながれる」、「人の行く裏に道あり花の山」、といわれるように、えてして人様の逆を行ったりすると馬鹿当たりする場合がある。思惑経済に振り回されている段階では、確実な景気回復とは言い難い。実物経済にしっかりした動きが出てくるまでの試行錯誤であるが、いずれにしろ思惑経済が崩れずに、ある水準で維持されている間に、しっかりした経済社会の足踏みになっていくことが望まれる。思惑経済では、特に株式市場とか、為替市場では、常識を無視した理不尽がまかり通る世界だが、よほどの馬鹿か、気狂いでもない限り、その道での成功はありえないだろう。こんなつまらないことを考えていたら、訳が分からなくなってきたので、夏目漱石の草枕ではないが、意地を通せば窮屈な思いをしなければならなくなってくるので、ばかばかしくなってきた。意地と云えば、さる証券会社のおっさんが、相場に意地を張っては負けるといっていた。意味深な教訓である。
   今は安倍さんが国会を解散して、明日公示されるが、各政党が街頭演説を繰り広げて、選挙運動たけなわである。こうした中で自民党幹事長の谷垣さんが、これからの経済指針について語っていたが、とても分かりやすかった。経済の成長戦略と、財政再建は両輪であって、これを一緒に動かしていく政策が必要であるという。ここまで来た経済を腰砕けにしてはならないと、国民は念願し期待したいところである。この主張に対して真っ向から反撃する野党諸君があってもいいのだが、今の状況からすると、こころざし半ばの経済政策を否定して攻撃材料とするには、政治議論としては有効的打撃とならない。
   野党諸君の苦戦がはっきりしているゆえんは、反対のための反対と聞こえてかえって逆効果だろう。矛先を変えて、特定秘密保護法案とか、集団的自衛権の問題、言論の自由と憲法問題、さらには靖国参拝問題と山積する課題に取り組むか、新たな試練に立って、具体的な経済政策を提言していくといった積極政策に出て行った方が国民に受けやすいところがあるのではないだろうか。野党諸君の旧態然の姿勢で、大きく変わっていく自民党に太刀打ちできるとは到底考えられない。しっかりした政策論を展開してもらいたいものである。そして国会の質を高めるためにも、与野党の諸君の議員としての質を高めて、立派な国会を作るべく、皆が選挙に、投票に参加して、吾われ一人ひとりの賢明な判断を行使しなくてはならない。    
   アベノミクス解散といわれるほどに、安倍政権の二年間の評価を下し、将来の政策課題に期待の是非を問うための審判を下す選挙は今日、告示された。投開票は14日である。五十嵐先生のお話を受けて、真摯に自問自答するきっかけともなっている。12月1日  

奈良の法起寺

    私が短歌同人誌・淵を主宰して、はや十年が過ぎようとしている。淵は、歌人で、早稲田大学名誉教授であり、文学博士の植田重雄先生が創刊したものである。歴史は古く、三十五年余の歴史がある。先生は大歌人、会津八一の愛弟子であり、会津八一研究の第一人者としても知られている。 会津八一は書を書かせて日本一、歌を詠ませて日本一といわれるほどに、全国にそのファンの多いことで知られている。八一の歌の調べは、万葉調で格調高く、古典的余韻に満ち溢れており、これを読む人の心に触れて限りないものがある。短歌同人誌の淵は、会津八一の歌風を継いだ同人誌として古くから知られてきている。植田先生の歌風も雅と優美の世界を演じて迫真に満ちており、格調高い調べで、愛唱家の多いことで知られている。    
    短歌同人誌・淵を昔から愛読されているお一人に、名古屋は尾張に住む杉村浩さんがいる。 一度もお会いしたことがないが、淵を通じて、専ら手紙のやり取りで親しく心を交わしあっている間柄である。いただく杉村さんからの手紙は、和紙に墨字といった具合で、素晴らしい墨跡の後に心を惹かれていつも拝読している。そして、こよなく愛していらっしゃる奈良のお寺や、仏像や、風景を撮った写真を数多く送って下さり、私はその作品の詩情豊かな感性にひかれて、しばしの旅情に慕っていることが多い。優れた写真家であり、文学に造形深いお方でもある。というのも、多くの写真には会津八一の和歌が記されて、これを見る人に歌ごころを呼び起こし、古き都の世界にそこはかとなく、いざなわってくれるからである。
    又、時には私の詠んだ和歌をほどよき配置で乗せ送って下さるので、その作品を首を長くして待っているというのが、わたしの偽らざる心境である。杉村さんはきっと会津八一の和歌の理解者であるように、和歌について深い造詣を持っていらっしゃる人だと、いつも敬愛の情を以て便りをいただいている。時折、作品を淵の中に挿入して紙面を格調高く味わってもらっていたり、昭和経済の誌上にも載せさせていただき、各位に優美で細やかな詩情を味わっていただいている次第である。

    三年前に頂いた作品の一つに、法起寺のお寺の全容を写した、きれいな写真が送られてきた。法起寺の寂びた風情が気品よく撮られていて、だれが見ても心惹かれる作品である。古くから営々として絶えない鄙びたたたずまいが、重い歴史として語らずして感じさせる傑作品である。次の昭和経済に掲載したいと思っている。
    同時にこの作品が、私の心のふるさととして大事に秘めているゆえんは、私の懐かしい文章の一端と、和歌が五首載っているからである。昔の文章を読みながら、杉村さんが、これを取り上げて下さった細やかな配慮に、しみじみとした奥ゆかしさを感じて、人柄を慕う気持ちでいっぱいである。その文章を次に掲載して、各位にお届けしたいと思う次第である。

   いかるがの里 
  「 大学の卒業を前に一週間ほど友だちと四人で奈良を訪ねた。東京オリンピック前の昔のことなので、街並みも今ほど整っていなかったし、古びた風情が遠い昔を偲ぶには反ってよかったと思う。協和銀行に就職が決まった野尻茂雄君の誘いで亀井勝一郎の著書 「大和古寺風物語」 なども前もって読んだりもした。大歌人会津八一を知ったのはそれ以後のことであった。
   旅費を安く上げるため、旅館には泊まらず寺にとめさせてもらった。無名のお寺を選んだりしたが、一つだけ有名なお寺に泊まったのは法起寺であった。朝すがすがしく起きてから井戸水で顔を洗い、垣根越しに出会った少女がいた。顔立ちのきれいな子で、挨拶を交わしたが、住職の子供であった。大きくなってお嫁に行って、幸せな家庭を築いていることに違いない。」

      あやめさくわが家に孫のふたりきて佳と麗てふ名になじむかな

      恋に生き愛に身をよす我が家のうつろいやすき紫陽花のはな

      家に入り慣れてさへづる雀らに餌を与ふれば近寄りて来ぬ

      法起寺の庭の垣根に竹垣を乗り越えくるは幻の影

      かぎりなき雛の乙女が垣根よりほほゑみくるも今は昔に
12月1日


12月の講演親睦会

    師走に入った。にぎやかな銀座4丁目の並木通りのある三笠会館で、昭和経済会の12月の講演親睦会を行った。講師は著名なエコノミスト、五十嵐敬喜氏を招いて今を時めくアベノミクスと、将来の経済展望として、ご講演願った。年末講演会を企画はしたが、私ごとの事情もあって、若しかすると顔を出せないかもしれないと危惧してしていたが、医者がびっくりするほどの身体の回復があって、幸い主催者としての責任を果たすことができた。昭和経済会の仕事としては、正月元旦に各位に届ける月刊誌・「昭和経済」の編集と発刊である。これにも全力を投入して発刊日に間に合わせなければならない。
    ところで昭和経済会の会合は、三十五年の間、その頃華々しく開業した八重洲富士屋ホテルを常設会場として行ってきた。しかし富士屋ホテルが今年三月を以て廃業となってしまった関係上、会場を簡単に選ぶことができず、場所をあちこちと探すのに、その都度難儀してきた。今回は人気のある三笠会館を事務局の山本君が選んだところ、出席者から大好評を得て、三笠会館のサービスと応対の良さが気に入って、これからも親しくさせてもらい、なるべく利用させて頂こうと思っている。交通の便も、富士屋ホテルに勝るとも劣らずで、東京は銀座のど真ん中だから、かえって期待しながら来やすい利便性を感じている。料理の老舗だから、シェフの腕にかなったご馳走は、講演会の講演をうかがった後で十分おいしさを味わうことができた。部屋の雰囲気もデラックスでレトリックな感じを十分に堪能できた次第である。私は確か三十五、六年前に、こちらの店で何度かサーロイン・ステーキの、和牛ステーキを贅沢に食べた記憶がある。それ以来と言っては失礼だが、あの時の味が魅力的だったので、強烈に忘れられない記憶として残っているのである。三笠会館の歴史は、今の建物が建ったのがその頃だったと、接客係の御嬢さんに教えてもらい、古い話だと述懐しながら、これにもまたびっくりした。出されたフルコースのフランス料理の盛り付けがきれいに用意されて、大変においしかった。牛肉のステーキは格別であった。
    ご馳走の話ばかりで、講演会の話の内容に少しも触れていないで、いささか真面目さにかけてはいないかと、お叱りを受けるかもしれないが、今はアベノミクスの真価を問われる大事な選挙であり、これからの安倍さんの力量に期待する国民の意向を問う大切な選挙のさなかである。講演のお話が、あるいは選挙民の心を揺り動かすようなことがあっては、公平性に欠けるという意味で、あえて選挙中でもあり、一流エコノミストの論評を、また、論評したりすることを避けているところである。きわめて良識的と思っている。

    ところで五十嵐先生と講演前にあいさつを交わした折、WBSのコメンテーターとして長い間努めていらしたが、その時の穏やかな話しぶりがとても印象に残っていることをまず申し上げて、私の娘が今、朝早く始まるワールド・ビジネス・サテライトに出ているところです、と話したところ、「ああ、明子さんですか」と云われて、すっかり気持ちが打ち解けてしまい意気投合、テレビ東京にはきれいなアナウンサーが沢山揃っていて、来年のそのカレンダーを娘が送ってきてくれたので楽しみですよ、と申したところ、それは市販されているのですかと聞かれたので、それは市販はされていないものだそうですと答えながら、先生の心和む気持ちがわかったので、娘に頼んで送ってもらっておきましょう、届き次第差し上げますので楽しみにしておいてくださいと約束をしたのである。ひょいとした会話の出会いで、前座ですっかり心が打ち解けあって、とても楽しい講演会に臨むことができた。
    大事な先生のお話は含蓄と示唆に富み、出席した多くの人に多大な教訓の内容となって、感銘を与えたものと確信している。一年を総括し、新年の希望と成功につなげるべく、先生との質疑応答にも熱が入って、与えられた時間をフルに使って九時近くまで続き、充実した勉学の時間を持つことができ感謝に堪えない次第である。      12月2日


原油価格の連日の下落    掲載済み

  今日も(十二月十一日) 原油価格の下落が下げ止まらない。一バーレル六〇・九ドルまで値をつける状況である。これを受けて昨日のニューヨーク株式市場は急落し、二百六十ドル近く下げた。東京市場も昨日は四百円近く下げて終わっているが、今日もまた二百円前後の幅で下げている。最近のアメリカ経済の好調を反映して急速に上げてきただけに、日米とも多少の調整場面があってもいい感じである。
  原油価格の下落は世界経済はもとより、日本経済にとっても好悪両面の影響をもたらしている。日本にとっては原油の下落はこれを輸入して生産活動を行なっている企業には大きな恩恵を受けているが、最近の円安でかなりその幅を小さくされているものの、今日の新聞でも、電力や航空料金を下げるような動きも出てきて、家計や企業にとってはものすごく好影響である。手近かではガソリン価格もかなり下がってきてドライバーにとっても行楽に出かけるにしても気分は快適である。運輸関係の企業にとっても、さらには化学メーカーの企業にとっても業績に次第に潤ってきている。原油の調達の大部分を輸入に頼っている日本にとっては、景気回復の追い風にもなっている。
   原油価格の下落が、世界の景気の好影響を及ぼしていることも大きい。石油の需要が増し、一方でアメリカのシェールオイルなどの生産にブレーキがかかり、早晩、原油の下げ止まりといったことは、市場の需給関係の、均衡点を模索する段階に来ることで確かなものとなろう。
 石油輸出機構の減産見送りで端を発した原油相場の下落であるが、産油国でもサウジアラビアなどは、目先のことでなく広く将来を展望した判断が、賢明に働いている結果であると思っている。日本では今、アベノミクス解散で総選挙中である。更なる景気回復を望みたい。 十二月十一日

総選挙の真っただ中  
 
    今、選挙戦の真っ只中である。各党首も激戦地を訪れて、懸命に独自の政策を訴えて国民の信を得て、一票に賛成を投じてもらいたいと街頭に繰り出している。そうした中、安倍さんの意気軒昂が鮮明である。自民党が油断してはならないと党内の引き締めを図って頼もしい限りである。確かに油断禁物である。自民党の圧倒的な勝利の予想を聞いたりすると、有権者自身に緊張感が消えて、投票場に足が向いていかなくなるのではないかといういう懸念である。特に浮動票にそうした傾向が強うから、その流れが大勢に大きく影響することは間違いない。
   一方野党であるが、民主党の歯切れがどうもあまり芳しくない。攻撃する焦点を一本に示すことができないからである。アベノミクスを批判すると、それでは民主党政権時代に戻ってしまっていいのかということになって、大企業はもとより中小企業にしても、あの悪夢の再現だけは御免蒙りたいと思っているのが大多数である。同志社大学の浜教授が円高が進んで1ドル50円を予想するような経済状況を考えただけでも、空恐ろしいことである。一般庶民にしても、ああした過剰反応だけは避けたいという気持ちだから、事、経済財政政策を以てしては自民党に太刀打ちできない。批評はあるかもしれないが、環境は確かによくなってきていて、これが末端までいかに好影響を及ぼしていくか、アベノミクスに期待する気持の方がどうも強うようである。景気回復を優先して、消費税値上げを先送りしたアベさっぼ決断は、野党の攻撃をかわしたもので見事な戦術であった。
   むしろ共産党の志位さんのように増税中止と叫んでいた方がすっきりしている。うがった解釈をすれば、安倍さんの援護射撃をしているような感じを抱く状況にもなっってきている。あいまいな政策を訴えているのが、その他の野党諸君のような気がしてならない。焦点ボケである。これ以上消費税を上げていくようであれば、せっかく軌道に乗りかけてきた景気回復を、腰折れさせてしまうのではないかと共産党の志位さんが言っているのである。そのとおりと云いたい気もするが、それでは財政再建の道はどうするのかということにもなってくる。ひょっとすると、増税ではなくして、企業の業績向上から納税額が増えていくことを以て、財政再建の道は開かれるし、それと国会議員の定数削減やら、無駄使いをやめろといった議論の展開になって、共産党の方がまともだということかもしれない。
   野党の諸君にももちろん、自民党の一党政治は独走を、暴走を許すことになっていけないということも事実だから、それを納得させるような代替案を提示しないことには、如何にもだらしないし無能と思われても仕方があるまい。野党の党首演説を披露する番組があったが、なんと9個の政党が出てきていて、その数にびっくりした。少数意見を軽視してはならないが、なくてもいいような党もあって邪魔じゃないかと思うくらいである。維新の会ですら何が何だかわからないような始末だと思っていたら、それ以下の党が沢山あったりしている。整理が必要である。次世代の党というのもあったが、党首が高齢では次世代にならない。
    思うに小さな政党を作って立っている方々は皆一つになって、この際、主義主張を勝手に言わずにまとまって、政権政党に対峙するくらいの雅量が必要だろう。かってははあれだけの権力を誇っていた小沢さん、もいつの間にかしぼんでしまって凋落の象徴みたいで羞恥心もなくなり、何とか身の振り方を考えればいいのではないかと思うくらいである。壊し屋の異名をとって政界を震撼させた男も、その力はもはやなくなってしまい、哀れである。やはり壊し屋では政治は務まらない。栄枯盛衰の激しい世の中にあって、政治の世界も決してその例外ではないにしても、庶民のために安定した変わらぬ政治を望みたいものである。もちろんいつの時代でも改革改善を心掛けて前進していくことが要諦であることは言うまでもない。
    今回の選挙の様子を見ながら、日本の現状は世界が羨むほどの民主主義国家だと平凡な私の感想であるが、その中に実は重要な課題が含まれていることを、野党諸君は気づかないでいる。心して勉学に励むべしである。そして日本の平和と繁栄のために粉骨砕身、尽力すべきである。健全な野党があっての、自公民政権だからである。その意識をなくし単に扇動的なうわべだけの発言をがなぐりたてていても始まらない。古臭くて品にかけ、相変わらずの呑百姓的発想であり手法である。これではレベルの高まっていく選挙民の心をつかむことはできない。そうした中でも、公明党の理念と良識に期待するところも大きい。自民党の絶頂に紛れ込もうとするウルトラ極右的動きを封じ込め、安倍さん本来の健全な政治思想を死守しなければならない。ドイツワイマール憲法がいつの間にかナチスドイツとなってしまったことを、目論んでいる政治家もいるからだ。これを阻止する野党の存在意義もあるからしっかりしてもらいたい。選挙の結果が早く知りたい。そして大事な一票を行使したいものである。12月11日


    NHKのクローズアップ現代が、爆発的に普及するスマートホン時代を取り上げて、現代の若者が本を読まなくなったことを論じていた。読書も時代の流行に晒されやすいが、今のような作家の小説などが読まれなくなったことについて論じた方が早いのではないかと思ったのである。スマホの普及はそれなりにあってしかるべきだが、あくまで便利性の問題であって、辞書が手近かにある程度にしか思っていない私には、全然関係のないものと映っている。あの小さなボックスにあらゆる知識の情報が組み入れられていること自体脅威だが、それではそれにかじりついていかほどの知識の集積が自分の大脳に収めれれるかと云ったら、大した容量しかないことに気づいて、むしろ唖然として自信喪失につながってしまうだろう。子供たちや孫たちは、結構器用にフル回転で利用しているようだが、また市はそのようなせわしさが、彼らにいかほどの被害をもたらしていくだろうかと、むしろその方が気がかりである。立花さんをとやかく言うつもりはないが、読書をする人の激減がテーマで、その原因が簡単なスマートホンのような機器の普及にあるのではないのかとの危惧について、逆にスマートホンの便利性と有効性を強調して、何だか話が違った方向へ行ってしまっては、課題の話が進まない。あの人は独善、独断の評論家の一面を持っているから致し方ないが、もう古いタイプの人間になっているのだろう。その幻影を追っているようではNHKもあまりあてにならない。それに類似した人はこの頃いくらでもごろごろしている。はっきり言って、物知り博士になるなら、ああした機器を駆使して、頭の容量可能な限り知識を蓄積すればいいのだが、問題はその判断力、応用力ではないだろうか。知識をうのみにしていたら、間違った知識だってあるのだから、嘘まで鵜呑みしないとも限らない。私の高校時代にドイツ語の教授が言った言葉がある。辞書を信用しないようにしなさい。そうした態度で辞書をめくりなさいと。読書だから全ていいとは限らない、読む本の質を問いながら読まないと、下らないことに時間を費やすことになってしまう。だったら寝ていた方が良いとまで言わないが、要は読まない方が良いということである。
   友達の多くに読書好きが沢山いた。ものすごく読書に時間を割いていたが、余りり冴えない人物になってしまった。さえているのか、冴えないでいるかは判定が難しいが、とにかくパッとしない。そのうち躁とうつを繰り返す病にかかってしまい、朝早く誰構わずに友達に電話をかけてくるようになった。本人は真剣に問題意識を以てかけてくるのだが、朝早く電話に起こされるのも困ったものである。相手にされなくなってしまった本人は、やがて鬱になって沈み込んだままである。本人が満足しているからいいようなものの、他人の存在をあまり気にしない存在になってもどうかと思う。
   知識の集積を図る努力は必要であるが、それだけで満足しきっては読書も毒になりかねない。読書の一番大切なことは、一方で批判精神を涵養していくことにある。脳神経化の先生は、読書とスマホの相違を大脳の構造と機能を解説して説明していたが、余り納得いくものでなかった。ましてやスピードを持ったスマホのように、神経を使うほどには、肝心の大脳を刺激して独自の判断を促す領域まで行かないのではないかと思う。さらには思考力と想像力に及んできて、その方はさっぱり駄目だったということになりかねない。コンピューターのようにものすごい容量の蓄積はあっても、それは人間の持つ領域ではなくて、そもそもの意義は違っている。本を読むことと、スマートホンを見ることはどちらも勉学する意味では一緒だが、意味合いの深さが違うかもしれない。美香氏おやじによく言われたことがある。映画を見てばかりいる奴は不良だとよく叱られたものである。さりとて勉強しろというわけではない。もっと自分で好奇心を持てるような対象を、自分で探して来いということである。つまりものを見て考えて良し悪しを判断し、なんでもいいから真理となるようなものを探して来いということであった。そのうち広い世界から自分の道なり、世界なりを見つける努力をするかもしれないという期待でもあったのだろう。金がかからないから無責任に言ったとも思えない。

自民党の大勝

   12月14日に行われた衆議院の総選挙の結果は、予想通りの自公連立政権の続投を大勝の選挙結果を以て国民の審判が下った。一般的に言っても経済政策の積極的な運営にノーを下す人は少なかろう。投票の結果を待つまでもなく、国民の審判は半ば決まっていたようなもので、ここは安倍さんの鋭い勘が働いて、解散に勝機をつかむ目算が当たったといえる。国民はなんといっても経済優先の気持ちが強いから、それを以てする限り、野党の諸君に勝ち目はないことは最初から歴然としていた。だから投票率も低く、選挙に熱気がないのも、無風状態での自民圧勝の結果となった。あの民主党のだらしない政権担当字を思い出すのも、うんざりの国民の心情だから、自民圧勝と分かっていても独走されても困る。ワイワイなことに今の安倍さんにはそうした危険な思想はうかがえないところが、国民の信任を得ている証拠ではないだろうか。事実、麻生さんのような変な感覚を持った議員も中にはいるので、油断できないが、それにチェック機能を果たしたもらいたいのが、平和主義の公明党の諸君である。野党の諸君が純粋に政治的に公明党の思想、信念に触れて、参加してもらいたいと願う心境である。
   民主党のだらしなさは相変わらずであった。その象徴的なものとして、民主党の党首の海江田さんである。選挙区でも落選し、比例でも入らなかった。一生懸命に頑張っていたが、国民の気持ちをつかみきれなかった。むしろここで民主党が自民党に対峙した政党として成長してもらいたいのだが、勉強不足、未熟さをさらけ出して、国民の厳しい目をかわすことができなかった。離合集散の後始末をして選挙に臨んだに等しい日本維新にいたっては、釈然としない雰囲気があって、政党として推挙するには、政策の乱れ、内紛に明け暮れるようなものがあって賛同しかねない。今の内外の状況を以てしては、このまま自公連立政権を以て強力に経済、財政の改革推進に心したいし、だとすれば自公民に引き続き期待をよせるしかあるまい。今回の選挙は安倍さんの作戦勝ちであった。安倍さんには人間的にも安定感が備わってきており、今の時期、時代にふさわしい一面を以て、国民の魅力の一つになっていることは確かである。この先右顧左眄することなく、信託を寄せた国民の信にこたえて、さらなる経済優先、景気回復優先、デフレ脱却優先で進んて行ってもらいたい。経済が安定し民政の安寧につながれば、おのずと他のすべての道は開かれ、対外的にも優位な立場に立って、日本の政策を内外に広めていくことができるはずである。基本は、平和主義自由主義を貫いていくことに尽きる。
   私は、そんな意味を込めて貴重な一票を行使した。最近は内外ともに激しい動きを呈して、問題山積の様そうである。ただ、大勢としては自由主義経済社会が、幾多の試練を乗り越えて発展的過程に入ってきていることは好ましいことである。世界がいたずらに混乱することなく、秩序を守り、切磋琢磨の道を進んでいくことは、世界を大観するときも、個人に立ち返ってみるときも同じ理屈ではないだろうか。いろいろと不服はあったにしても相対的に選挙の結果を安堵して、明日への勤労の道を安心して進んでいける気がしてくるのである。     12月15日


アメリカとキューバ改善の朗報

   世界的朗報と受け止めたい。今日の各社の新聞の夕刊は、アメリカとキューバの関係が正常化に向けて大きく踏み出したという記事である。両国は長年、1959年の革命以来、キューバにカストロを指導sでゃとする過激な共産党国家が樹立されて以来、険悪な関係が続いてきた。アメリカにとっては目と鼻の先に協賛国家が踏ん張っていたこと自体不思議な事例であった。私に鮮明な記憶としてあるのは、1962年に発生したキューバ危機である。時のケネディ大統領と、片やフルチチョフ書記長の緊迫した対応であった。キューバに核施設を建設しようと、核兵器を持ち込もうとするソビエト海軍と、これを阻止しようとするアメリカとで一触即発の危機であった。アメリカは海上封鎖に出て、ソビエトをけん制した。核戦争の可能性に世界が緊張し、震撼を味わった出来事である。核兵器を積んで撤退していくソビエト海軍の軍艦の姿をみて、ほっと胸をなでおろした記憶がある。真っ青な空と、紺碧の海のカブリ海を焦がす閃光が走るところであった。この時のケネデイの決断の勇気に勝るものはない。   
   それ以来、過激な演説と行動で知られるカストロは、強烈な反米主義を掲げ、今でいえばテロの親分のようであったが、アメリカの経済制裁を受けて民衆は困窮していた。カストロは狂気に近い独裁政治を敷いて、民衆は自由を奪われて、悲劇な状況が長く、無駄に過ぎていったのである。リビアの独裁者カダフィーと、キューバ独裁者のカストロは、ともに狂犬とハイエナの異名をとり、民主主義の強敵存在であった。これらが地球上から一つ一つ消滅していくことは、世界にとって幸運の兆しである。
   世界の各地で紛争の絶えない状況が続いている。 そうした中で積年の怨念を払い、新しき友好関係の樹立と、民政の安定に向けて、輝く時代に進もうとする国々もある。
   アメリカとキューバの間では、今や新しく、良好な国際関係が築かれようとしている。二国間の関係改善と国交回復は、世界にとっても歓迎すべき出来事であり、大いに祝福したい。両国民にとっても世界にとっても祝福すべき歴史的出来事である。 カブリ海に新しく躍動する、大経済圏が生まれることであろう。さらには広く中南米諸国にとって、新しい民主主義の台頭をもたらし、経済発展に大きく寄与していくはずである。
   これと対照的なのが今のロシアである。プーチンが仕掛けたウクライナの内紛は、石油資源を以て力ずくで近隣諸国に、新しい覇権を試みたものだが、その妄想は徐々に矛盾をさらけ出してきているようである。欧米の経済制裁のボデイーブロウがきいてきて、さらには追い打ちをけるように原油の急落で窮地に立たされている。対ドルが30ルーブルだった通貨は、今や60ルーブルにまで下落しており、一時80ルーブルまで値下がりして、ルーブルの価値は散々な目に合っている。足元の経済が低迷し、プーチン政権が揺らいできている。
    ロシアの隣国で盟友であるベラルージュは、ここにきて決済通貨をルーブルからドルやユーロに変えようとしている。ロシア圏では、こうした傾向は今後も続いていくに違いない。 ロシアの石油を武器とした恫喝外交は、今後通用しなくなってくる。あっという間に通貨の価値が半分になってしまうような国との交易は、安心して付き合っておれないだろう。外国企業も引き上げていくだろうし、うかつに投資はできないことになる。 ロシアの経済は今後二年間は苦しい経験を経ることだとは、プーチンが告白しているが、果たして国内がそれに耐えていくことができるか問題である。ひょっとするとプーチンの足元が揺らいで混乱していくようだと、これも新しい火種となって別の問題を惹起しかねない不安材料となるかもしれない。そこで重要なことは、日本とアメリカの経済と政治が安定した基盤に立って、しっかりした足取りで進んでもらわないと、世界経済が新しい展望のもとで、力強い発展勢力となっていってもらわないと思うと、責任重大である。   12月18日

年末、所要があってオフィスに赴いた。小雨が降ったりやんだりして、時折り薄日が差したりしてはっきりして、はっきりしないお天気だった。薄日が差して一瞬空の一角に晴れ間がのぞいたりして、思わせぶりな空模様である。しかし、夕方から小雨が降りだして傘が必要になった。昼間の時、昼食に街中に出たが、行きつけの近くのカフェ・ドュ・銀座によって軽く食事をとるつもりで入ったが、結構お客さんで混んでいたが、接客のボーイさんが常連の私を見てすぐに案内して窓際の椅子を用意してくれた。通りに突き出した赤いテントが銀座通りの並木に似合って、少しばかり華やいで見える。クリスマスが近いから、行き交う人にも華やぎがうかがえる。昨日吹いた寒い風と打って変わり、今日の霧にような小雨は、何となく温かみがこもっていて気持ちがよい。道行く人にもそんな感じがうかがえる。最近の外人観光客の増加に対応して、銀座の街なかもそうだし、小売店やデパートも趣向を凝らして、飾り付けに念を入れている。お客への対応も温かみがあって、人々の表情にも何かしら選挙のあった後の落ち着きを喜んで楽しんでいるようである。さて、食事を終えて私は仕事に就くためにオフィスに戻らなければならないが、中味次第で気分が揺れ動くことは致し方ない。調子の変な時には、良い方へ持っていくことが仕事である。生暖かい雨の小さなしずくが、顔に当たってことのほか気持ちいいと感じながら、濡れた歩道を歩いて行った。明日は教会でクリスマス礼拝が行われる。穏やかな、良いお天気になっていてほしいと思う。    
そして気が付いたら夜の11時だった。幸いセブンイレブンで万が一に備え、おにぎりとバナナを買ってきておいたのでそれを夕食分として腹に収めたが、時間に気づいてオフィスを出た。八重洲から通りを一つ渡ると銀座界隈である。雰囲気はガラッと変わって街中はクリスマス気分にあふれている。ネオンが消えずに瞬いているし、通行人も相変わらずに多い。昼食をとったケフェ・デゥ・ギンザは普段はお目にかかったことのないビールが出されて、お客が楽しそうに飲んでいる様子がうかがえた。 雨もすっかり上がって気持ちの良い街中の通りを、若い人たちがクリスマス気分を味わって楽しそうに群がっている。私もなんだか若やいだ気分になって、仕事の疲れもすっ飛んでしまい、若者の群れの中に交じって、銀座交差点の地下鉄の入り口まで上機嫌で歩いて行った。すると家内から携帯に電話が入った。夜の遅いのを心配する電話であった。      12月19日

  明けて二十一日夜、私は約束があって重要な所要で夜遅くまで酒を付き合った。肝胆相照らす心境で、互いに素晴らしい会食団欒の席を過ごすことになった。難しい依頼事でもあったが、しかし男の一言で、すべてを理解し、自分としては蛮勇を振り絞って、その意にこたえたいと思った。六畳ほどの落ち着いた座敷に席を設けたが、付き合いは明朗闊達、明るい光が前途を差して、神に祝福を受けているように感じた。胃の手術をして退院してまだひと月半である。自分の今までの風采には聊かも後退した影はなかった。一人前に酒を飲み、あるいはもっと盃を開けて、達者な風情で友人と付き合えることができた。友人は感激して私の思いを受け止めてくれた。期待に応えたいという重圧が重くのしかかるが、やるべき仕事はまだ残っている。友人は、次の席に行き付けの銀座白いばらの店に寄った。半年ぶりである。そこで店長にも会え、ボーイさんたちにも会えて交歓することができた。久しぶりの酒にほろ酔い気分も上々、友人とは互いに十分に飲んで楽しめた。そして酔った私をハイヤーに乗せて、見送ってくれた。クリスマスに、久しくご無沙汰していたこの店によって義理を果した私にしても、実は陽気な心境であった。高速道路に乗って、夜遅く家路についた私は、悦に入り、希望に燃えて、家に着くまで人生劇場の歌を繰り返し歌っていた。大好きな人生劇場の歌を、感極まって歌っていた。こんな旨い酒を飲み、素晴らしい仕事の話に意気を感じ、こんな考えに浸った年の瀬は、今まであまり経験しなかったことである。明日は天皇誕生日で休日である。ゆっくりと休養を取ろうかと思っていたが、孫のピアノ演奏の発表会があるそうで、折角だから午後から妻と会場まで出かける予定である。先日の帰りに見た東京タワーはライトアップされて真っ赤に燃え盛るようだったが、今夜は遅いせいか、途中まで赤くライトが灯されて、これもまた違った味わいの風情であった。、             12月21日

クリスマスのイブ礼拝

   仕事を終えてあわてて銀座から地下鉄に乗り自由が丘までついた。玉川神の教会のイブ礼拝に間に合うか心配だったが、教会についたとたんに鐘がなりだした。途中握り飯を頬張りながらであったが、幸い時間に間に合った。7時から始まる玉川神の教会のイブ礼拝の始まりを告げる鐘である。教会の十字架が星空にくっきえりと聳え立つのを眺めて、聖夜にふさわしい時を迎えることができた。礼拝堂に入った。静まり返った礼拝堂には、既にたくさんの信者が集まっていた。それぞれ片手に蝋燭を用意して、キリストの降誕を喜び祝う雰囲気が厳かに感じられた。初めに小学生によるキリスト降誕の小劇が、影絵を以て語られていった。聖歌隊の歌う賛美の歌が、今年は真に迫って美しく、胸に迫った。妻も聖歌隊に参加していたが、きれいな賛美の歌が続いたあと、厳かに祈りが続けられて、そのあとにバートン牧師の説教があった。イエスに出会える喜びを熱く語り、その出会いがクリスマスであると話された。終わりにイエスの降誕を祝うキャンドルサーブすが始まり、ひとり一人が持つローソクに灯がともされて、会堂に喜びの明かりが広がって、全員で「聖しこの夜」を歌い、愛と平和の御子イエスキリストの降誕を喜び祝った。

    もろびとのこぞりて歌ふ讃美歌にイブ礼拝の祈り妙なり

    嬰児をひとり授かりうつし世に神のみ業の奇しき示して

    みどり児のいと麗しきみ姿のかいばのおけに居ねて安けき

    うしきこと卑しきことも打ちはらひ神のすがしき恵み浴くさむ

    クリスマスイブ礼拝にもろびとと愛と平和の光ともさん

    教会のイブ礼拝を告ぐ鐘に間に合ひてゆく祝福のなか

    喜びと祝いひの声の歌となり星の聖夜にひびきわたりぬ

    わが仕事終へて聖夜のイブ礼拝急ぐ夜空の星のまたたき

    星ぼしのきらめく空に教会の鐘なりひびく清き聖夜に

    十字架のもとに並びて主を讃ふ歌に妻も加わりて立つ

    もろびとのこぞりて歌ふ讃美歌に皆美しく見えし聖夜よ

    白百合のにほひ漂ふ会堂に立ちて十字架を仰ぎみるかな

    よき友ら聖しこの夜を歌ひつつイエスをたたへあすを目ざせり    クリスマスイブ


二十五日のクリスマスの夜、あきほちゃんと、ゆきほちゃんの姉妹が家内のもとに英語の勉強に来ていた。毎週火曜日にやってくるので、今年はもう見えないのかと思っていたが、二人はイブの翌日のクリスマスの夜に延ばして、勉強しにやってきた。そのことをすっかり忘れていた私だが、仕事を終えて帰途に就いた私は、いつも姉妹が勉強を終えて帰る時間帯にあった。知っていればもう少し早く帰れば、二人に会えたのに5分違いで帰って行ったという。わかっていればクリスマスのお土産にケーキを持っていきたかったが、と惜しまれた。おじさんの帰りが遅いねとつぶやいていたそうであるが、妻は今日は水曜日だから勉強のない日だと思っているに違いないと説明してくれたそうである。寒い風が吹いていたので、お母さんが車で未迎えに来てくれたそうである。それと行き違いになって、小生は家に帰ってきた。 ゆきほちゃんが小生に置手紙を残していった。
  「 おじさんへ、今日はクリスマスですね。会えなくて残念です。また来年会いましょう! 」
   優しい姉妹の気持ちに胸が熱くなって、私は次のように書いてファックスしたのである。
  「 おじさんから。 あきほちゃん、ゆきほちゃんへ
  クリスマスおめでとう。神様の恵みが、秋保ちゃんと、ゆきほちゃんの上に、そしてまた皆さんの上に豊かに注がれますように。 そして夢と希望にみちた新しい年をむかえますように、祈っています。
クリスマスに会えなくてごめんね。仕事を終えて急いで帰ってきたけど、間に合わなかったので残念でした。風邪などひかないように、元気で楽しく毎日を過ごしてください。置き手紙、ありがとう。  クリスマスの日 」   
  テーブルの上には、クリスマスの日に開けるはずだった郵便ポスとの赤い貯金箱が、そのまま置いてあった。 姉妹が私に為に用意してくれたものである。私は思いついたときに、ポケットにある硬貨を取り出してはポストに入れているが、これを開けるときに果たしていくら入っているかが楽しみである。あきほちゃんと、ゆきほちゃんも、もちろん関心を持っていることだから、何かのご褒美に使いたいと、ささやかな楽しみを持っている。来年の一月に英検の試験があるというので、合格祝いにいいかなと思ったりしているが、受けるのは今のところゆきほちゃんだけらしい。そこでゆきちゃんは一生懸命勉強をしているようだが、あきほちゃんは勉強している気配はない。二人とも試験を受けて同時に合格してくれることが一番望むところだが、ゆきほちゃんは受けたくないらしい。家庭教師を務めるワイフの先生は、このことで可愛い二人の間に差がついたりしてもいかないと思い、内心困っているようだ。来年の春には玉堤小学校を卒業して、雪歩ちゃんは市立を受験するというし、あきほちゃんは近くの公立の中学に進むというし、双子の姉妹と云っても、それぞれに違う考えを持っているようである。だんだんと大きくなっていくことであるが、かわいい二人の姉妹の毎日に、いつまでも幸せな道があってほしいと思う。

   クリスマス日にも勉学にふた姉妹訪ねてくればいとも安けき
     あんこうの鍋にせむむとてアンコウの切り身二さや買うて帰り来 12月24日

年の瀬

   穏やかに過ぎていく年の瀬である。しかし今年ほどいろいろな事件が起きた年も、まれにみる感じである。それほど世の中が文明の進歩とは逆に、人間生活の歯車が乱れて動いてしまっていることの証左でもある。科学万能時代に遭遇して、人間の思惟能力が減退してきていることは、嘆かわしいことである。しかしこのところ何事も起きずに年の瀬を迎えて、新年に向けて平穏に準備をしていることが、何とも言えぬ素朴な喜びとすることの幸いを良しとしているところである。
   小春日の日和に恵まれて、私は今年最後の日曜礼拝に出席した。妻が朝早く出かけて行ったがようだが、昨夜遅くまで私が仕事にかかわっていたので、妻が私の疲れを案じて仮眠中の私が起きないように静かに家を出て行ったらしい。今日は私が教会の日曜礼拝を欠席するのではないかと思っていたらしい。今日の朝は、一度早めに目が覚めてひげを剃り、体を清めたついでに兎に角食事を済ませた。寝不足意を補う、そのあとの仮眠である。睡眠こそは唯一の栄養剤であり、健康保持の一番の要件である。身体はもちろん、頭の回転も睡眠の及ぼす影響は大きい。快眠、快食、快便というが、そのとおりである。神経が高ぶっている時ほど、人間生存はもとより、存在のための重要な三要素だと思っている。
   幸いなことに、礼拝の始まる15分前にぱっと目が覚めた。熟睡したわけではない。単に横になって浅い眠りについているだけだが、それとて多少は疲労回復につながっている筈である。そう思うしかない。教会にはいつも車を飛ばして、あわててすっ飛んで行く。急げばたった2,3分で行ってしまうが、それほどの近距離にある。いつも滑り込みである。しかし今年最後となる日曜礼拝には、気分的に少しばかりゆとりを感じて出席に間に合った。受付にいた妻がいて役目を果たしていた。今日はひょっとしたら来ないと思っていたらしく、私の姿を見て喜んでいた。最後佳ければ始めよしで、逆説的発想も確かである。よい年を期待するなら、良い収めを済ますことである。紆余曲折の一年であったが、過ぎ越し年を感謝する意味もある。おかげで今日一日はまだ終わっていないものの、帰宅してから忙しく仕事上の連絡事項を済ませて、重要なきっかけを年内に収める成果を上げることができた。よって31日の大晦日も出勤して残務を始末することになっている。準備万端終えて、ともかく年を越したいと思う一念からである。そんなわけで、教会でひたすらなすべき仕事がうまく成就するよう祈ってきたことが、神様によって導かれたような気持になったのである。
  24日のイブ礼拝で一枚のカードを帰りがけにもらった。バートン牧師がはがきに書いた墨字である。「真」という文字である。これはヨハネの福音書八章三十二節に出てくる聖句である。一文字の墨字は力のこもった筆のあとであった。はがきの裏にはこう書いてあった。「飼い葉おけに泣寝かされた嬰児のイエスは,不変的な永遠の真理を現すためにこの世にこられた。そのイエスは「あなた方は真理を知り、真理はあなた方を自由にします」といわれた。聖霊によってひとり一人が審理を慕い求める心に恵まれますように祈ります」としるされてあった。さらに続けて「クリスマスの喜びがあなたの心を満たし来る2015年真理に満ちる一年となりますように」と呼びかけと祈りの言葉が書かれてあった。
   先にも述べた様にクリスマスは、巷の華やかな様子と違って、反面、厳粛な祈りの日である。日本的に要約すれば、一年を顧みて己の身を反省し、悔い改めと、希望を大きく抱く日でもある。それを自覚して、さらに向上を求めて、神のご加護にある身に気づき、感謝して前進する決意の日でもある。そう解釈すれば、万人に神への信仰心を心に植え付け、平和と自由の尊さを実感させてくれるのではないだろうか。

    「真」を説くバートン牧師のメッセージ自由解放の神のみ告げを
    万人に機会を与ふクリスマス主との出会ひに喜び合へり

新しい年に向けた素晴らしいカードをもらって、来年こそは聖霊に豊かに満たされて、神のご加護のもとに努力研さんに努めようと思った。すると、さらなる目標に向かってまい進する気概がふつふつと湧いてくるような感慨に慕っていたのである。神のみ言葉とともに生き、迫る年の瀬に思うことは、世界中が、愛と、光と、平和に満たされるように願ってやまない。     12月28日


     縁あって、使命を帯びて私が主催する短歌同人誌・淵は、来年208号を発刊する準備をしている。会計責任者の松田氏が夕方、前橋から上京された。上越の山々は今年はとても雪が深いという話を聞いて、西日本一帯から北海道にかけて今年の冬は激しい寒波に襲われそうですねと云う話になった。信濃町の慶応病院から事務所に帰ってきたら、松田さんが背中を向けて座っており、事務の中村さんと話を交わしているところだった。後ろから顔をのぞくようにしてお久しぶりですと挨拶をした。黒い皮の大きな鞄を下げている。口が開いて中にいろいろな書類が入っているのが見え、いかにも重そうに見えた。松田さんは郷土史研究にも詳しく、勉強家である。同時に植田重雄先生についても畏敬の念を以て師事してきており、私とはまた違った考え方を持っているので、大変参考になる話が多い。むろんその延長線上にある会津八一についても、独特の見方をされているかもしれない。鞄の中から出した一枚のパンフレットは、ある女性研究家が植田先生のことに触れて書いた記事であったが、とてもよく書かれているので持参した由であった。そこで私はそれをコピーして後日それを読ませてもらうことににしてた。話を本題に戻して淵の会計処理の報告を受けた。人数が多いので大変な仕事あるが、裏方さんを務めてもらってありがたいと思っている。
    何号か前の淵を取り出して、植田先生のうたを開いてみたら、こんな一首が目についた。
「 あめつちの開けしはじめに歌ありて高めきたりし人のこころを 」という一首である。私は常々多くの人たちにうたを詠むことを薦めているが、その本意とするところは、まさしく植田先生が詠んだかの一首を具現化するものだからである。歌を詠むことによって、人の心は高みを目指して陶冶され、より充実した人間に近づけていくものだと信じて疑わないゆえんである。植田先生の歌を拾い読みしていると次の歌に出会った。「 森に入り山をたどりて神々のひそかにめづる花をたづねむ 」という一首である。幾多の思いを、完全に昇華したものとして生まれてきたものだと思う。その心境は清冽にして崇高であり、表現は躍如たるものがある。
    不思議なもので、心を同じくする同人と会っているだけで、そのことについて触れなくとも、そうした心境になるものも、不思議である。息遣いで分かってしまうことかもしれない。歌詠みの同志のかすかな心の触れ合いがあって、こんな楽しいことはない。束の間であったが、同人の松田さんから意味深い話を聞くことができた。     12月29日


2014年大晦日

   白霜のたつ庭畑にひとり立ち年の晦日の朝の陽にあり

   白霜の立つ朝の陽にこの年の神のご加護に謝して祈れり

   艱難の中に立つ身をわが崇む君は出で立ち守りたまへり

   悪ろきこと祓い清めて新玉の年迎へんと神に乞ひのむ

   いくたびそ夏より末に襲ひくる苦難に立ちて挑む吾なり

   顧みて波乱万丈となる年のわが身を神は守りたまへり

   この年も闇に光をさす君の求めに応へ努めはげめり

   くる年もおほき仕事をなしとげて夢と希望につなぎ進まん

   人のため世のため尽くし我が道を進むまさきに光さしけり

   年の瀬の晦日を迎ふ庭に立ち輝く陽にそ恵みあふれり

   この年の晦日のいともあわただし荒事にくみ除夜をむかへり

   商ひの栄えし地元商店街アベノミクスの静かなる音

   年の瀬の輝く陽をばうけつぎて新しき日を迎へたつなり

   穏やかに澄みわたる朝庭にたちこの年の瀬の末に祈れり

   年越しの商ひに湧く尾山台鮮魚「魚辰」の店のにぎわい

   雨やみて穏やかなりし年の瀬の晦日の鐘の空なりわたる

 はるかなる富士の白ゆき遠く見て太平の世の大和まほろま

アベノミクス第三の矢を放てるに何はともあれこれを成就す

   この年の世界に起きてさまざまにされど生きるに英知を以てす    12月31日 朝


 



   


2014.12.1

社団法人 昭和経済会
理事長 佐々木誠吾


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