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社団法人昭和経済会

理事長室より
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理事長室より

Vol.14.07

好調な決算発表

    私が主宰している短歌同人誌、淵の五月号に気前の良い和歌を載せていますが、そのうちの一首をご紹介します。

      思ひきりよたりの子らと買いものし金をゆたかに使いはたせり

    休日の運動会に付き合って、可愛い双子の姉妹が参加するレースを応援するため、孫の佳ちゃんと、麗ちゃんを連れて玉堤小学校に出かけました。多摩川に程近く、環境は抜群に優秀なところにあって行楽にも絶好なところです。校庭も広く、子どもたちがのびのびと勉強に励んでいる様子が一瞥してわかります。学校の敷地の周囲には畑が広く続いて、都会の騒音から解放されて、自ずと田舎の風景を満喫することができます。文化祭とは違って競技を競い合うものなので、トラック一杯を競技場として使ってしまうので、食べ物などの売店は一切用意されていません。そのため朝から始まった協議の項目は、午後一時ごろまでにすべて終了して、解散するように組まれていました。
   ところで、あきほちゃんと、ゆきほちゃん姉妹の競争とマラソンレースを充分に応援したあと、みんなで腹ごしらいをする予定を組んでいたので、運動会のあとは、車に乗って食事の支度をするために、沢山の食材を仕入れることになっていました。運動会で頑張って優秀な成績を収めた、あきほちゃんと、ゆきほちゃんに対しては努力、敢闘賞に値いするものなので、何らかの敬意を表する必要があります。今日はできるだけの買い物を思い切ってして、夕餉までに備えることにしました。あきほちゃんと、ゆきほちゃんは共に家内から英語を教えてもらって、毎週火曜日の夕方に拙宅にきて勉強しています。今年六年せいになりましたが、気立ての優しい可愛いこです。
  
    休日をよたりの子らと過ごすあと夕餉の庭に卓をそなへり

    すがすがしいお天気になりました。拙宅の庭の中央に橋脚用に煉瓦を積んで、細工した大きな一枚の板を渡して十人ぐらい並んで座っても、充分にゆとりを以て向き合える食卓を準備しました。真ん中に焼き肉をする近代的用具のプレートを揃えて、準備は万端です。子供たち四人を連れて近くのスーパー・オオゼキにいざ出陣です。車の中でも買い物のことで話題は持ちきりです。今日はバーベキューに必要で好きなものは何でも買っても構わないからね、とこちらも意気揚揚です。
   上場企業の好調な決算の発表で、配当金が沢山入ってきたので懐ぐあいは好調です。何ぼ使ったって子供たちのこと、たかが知れてるし、三越とか高島屋で買ったりするものと違い、別にびくびくすることはありません。四人がそれぞれ籠を以て好きなものをぶち込んで、おじさんがあとは責任を以て清算していくからと伝えました。あきちゃんが心配そうな顔をして「 いくら持ってきたの?」 と訊ねます。ゆきほちゃんが「予算はいくらなの」と聞きます。「大丈夫さ、好きなものを好きなだけ籠に入れてくればいいさ。あきほちゃんは牛肉のたんが好きなんだろ?。食べたいだけ買って、焼いて食べればいいさ」、と云ったりしていました。野菜類は畑になっているものを摘んで来れば幾らでもあるから、他のものがいいねと云うことでした。ただしキャベツだけは家の畑に植わっていないから、大きな球を選んできてっちょうだいと予め伝えておきました。かなり贅沢なバーベキューが用意されるでしょう。アベノミクスがこんなところにも好影響をもたらしてきています。結構なことであります。 
   先日、あきほちゃんたちに案内されて「焼肉ぎんや」と云うお店に行きました。安くておいしいよと云うあきほちゃんの振れこみで、やはり四人の子供たちを連れて行きましたが、食べ放題、飲み放題とは言っても制限時間があって、なかなかあわただしい感じでした。驚いたことに、子供たちは良く心得ていて素早い食べ方は効率的で、とる品物も理にかなっていて感心してみておりました。食べる方よりも、子どもたちの食べ方の本能的、健康的な様子を素直に見ていたほうがよっぽど面白く、そのうちに食欲もわいてきて、こちらもペースにはまってしまうほどの勢いです。制限時間が一時間半と聞いて、自ずとピッチが上がってきました。こうした店は最近多くなってきたようですが、これで採算が合うのかなと思うくらいです。
品数が多く、注文すると迅速に持ってきてくれて、子どもたちはわがもの顔で威張っているようです。おじちゃんはいくつと聞かれて、いくつに見えると訊ねると、五十二才かなと云うのでうれしくなってしまいました。どんどん注文していいよとは言ったものの、既に勘定は決まっているので、あきちゃんは落ち着いたものです。逆に麗ちゃんはタダだし、おじちゃんは五百円引いてくれるからね、と云うことでした。会計は全て、あきちゃんに全権委任するに越したことはありません。使ったお皿などは店員さんに言いつけて、さっさと片家付けさせて次の注文を素早く云いつけています。店員さんは丁寧に、それを受けている様子が又おかしくてたまりませんでした。そんな愉快な体験をしたことがあります。
   今日はその時とは若干違っていますが、兎に角、バーベキューの食材を買うだけ買って、お金をたくさん使おうではないかと云う気概で私は望んできていますが、そうした気持ちを子供たちがどう理解し、納得してくれるだろうかと、しきりに気にしながら行動を共にしていました。牛タンだけでなく、松坂牛の落し肉だっていいよ、ステーキだっていいよと進言するのですが、子供たちにはそれなりの考えが潜在的にあるようです。こちらが贅沢に発言しても、それには従わずに、独自の判断で合理的に行動しているように見えました。ゆきほちゃんに、おじちゃんはあの大きなステーキを買ったらどうと、アドバイスを受けて感激して思い切ってかごに入れたりしました。そもそも私は肉よりも魚介類が好きで、それも体に良いという考えで来ていましたが、最近、高齢者でも肉を食べている方が長生きするということが統計的に実証されていると聞いて、生理的欲望が出たのでしょうか、勤めて肉を食べるようにしてきています。
大きなステーキを買うことはタイミング的にもよかったことになります。これから始めるバーベキューの味わいと雰囲気が、多少変わってくるかもしれません。大きなスーパーをあちこち歩き回って、買い物を思う存分楽しんできました。小さい麗ちゃんが、これがほしいと品物をかごに入れたりすると、それを見ていた姉の佳ちゃんが、それはダメと云って止めたりしています。身についた自制心なのでしょうか。賢い子供たちから、何かと教えてもらうことが沢山あります。
     教えてもらえる環境にあるということは、私はまだ青臭くて、若い証拠だということに気付きました。その人が、どういう立場にある人かどうかは別として、教えてくださる人がいるということは、何と幸せなことでしょうか。 年老いて畏敬する多くの先輩が、周囲から去っていくことは極めてさびしき限りですが、それを埋め合わせるように、溌剌とした青年が先ほども私のオフィスに見えて要談していきました。仕事に関する重要な要件で足早に見えて、一時間ほどして帰りましたが、礼儀正しく、人柄の良きことはもとより、理路整然として話すことに納得がいきました。若者の特権をすべて出し切ってみずみずしく感じましたが、将来きっと大成するに違いありませんが、溌剌颯爽として帰る様子を楽しみに、私はエレベーターまで見送ったのです。
    こうした若者を、勝手な解釈で戦場へ送るようなことをしてはいけません。理不尽な、屁理屈を述べて、権力を以て人々の良識を抑えるような行動をとって省みぬ政治家が増えてきました。選挙によって選ばれた政治家ですが、信認して期待した政治家は、その時の姿を変えて豹変し逆の事柄を行おうとしています。選挙で憲法の精神を守るといっていた人が、いつの間にか反対の違ったことをして平然としだしました。もともと一党独裁の政治体制にある中国の無謀さで、周辺諸国に脅威を与える避難すべき行為です。限定的とはいえ、これが微妙な問題なのですが、集団的自衛権を行使しようとする手段を閣議決定だけで行えるようにしようとするものです。
今、その力を武器に周辺の海洋に進出をもくろむ中国の脅威を念頭に置いたものですが、対峙する当方も与党の数の力を持った集団で、それに乗って暴走し始めたのでしょうか。また特定する国が攻撃を受けた場合にこれを援護して共同で反撃するという意味合いも含まれてきて、問題の広がりは複雑であります。抑止力を念頭に置いていますが、要は力と力の激突にもなりかねません、政治の世界で起き始めた、恐るべき風潮です。数の支配に求められることは、勝者の自制心です。   
   かっての戦争で多くの若者が虚しく、尊い命をなくしていきました。今、戦争を体験しない人たちは、国家のために英霊と化したと、云い張っています。国家とは、英霊とはと、そしてあの時の若者たちのと落い人生は、真剣に問い直してみると、自分本位の今の政治家の発言が、何と空疎で軽々しく聞こえてくることでしょうか。彼らの双肩に何十万、何百万と云う我々国民の命が、今この時にかかっているのです。私たちの生活は基本的に我が国の憲法によって守られています。それが時代とともに有効であり得なくなってきたのであれば、その憲法を国民の信に問うて判決を下して変えてもらえばいいのです。しかし決められた手続きを経ないで、数を支配する政党が勝手な解釈をして関連する法律を決めて行ったのでは、何のために憲法があるのかわからなくなってしまします。集団的自衛権の行使の容認について,これを閣議決定に持ち込むかどうか、自民、公明の与党協議が行われていますが、言うなればその密室、談合協議は、何と無責任で空々しく聞こえてくることでしょう。
    古今東西を見渡すまでもなく、近くに起きている内戦、戦いの何とむごたらしく、死臭漂う凄惨な戦場の光景でしょうか。日本が、何故そうした国々と無理やり関係づけて、わざわざそんなところに行かなければならないのでしょうか。日本人の命とはそんな軽いものではありません。日本人の若い人たちの命を、そんな軽はずみに扱ってはいけません。そのために戦後の日本の平和憲法が、瀕死の戦場から、死者の声から雄叫びとなって出来上がったものです。憲法に歌われている平和の誓いを永遠の課題として遵守し、自由と平和の精神を堅持し、以て豊かな経済発展を成し遂げて、社会の安寧を求めていくべきでないでしょうか。お互いに殺し合う戦争によって、社会の安寧を求めることはできません。勝者と敗者、加害者と被害者と云う熾烈でおぞましき関係は後々までも続き、怨念と復讐のみが、あとに残されるばかりです。それを作り出すか否かは政治家の平和を愛する信念と実行力にかかっています。今の政治家に、平和を愛する信念と気概があるでしょうか。    

時の勢いで今夕、多くの国民が時期尚早として反対する、集団的自衛権の行使を政府が容認することを閣議決定することになった。一方で憲法解釈の変更を容認するもので、今まで自衛隊の海外派遣を禁止していたものが、もし同盟国が攻撃を受けて、それが日本の安全を脅かす事態と判断される時は、日本が攻撃を受けていなくとも、我が国が攻撃を受けたものと判断して反撃に出ることが許されることになる。解釈によっては地球の裏側まで自衛隊が戦闘に参加していくこともありうることで、歯止めが効かなくなることははっきりしている。何事につけても、既成事実の上になし崩しでことは進めて行かれるのが現実である。恣意によって拡大解釈されていくことは、良い悪いは別として十分にありうることである。内閣が代わってもっと強烈な志向を持った指導者が出てくれば、進む方向は何とも言えない。
    習近平言動をはじめとし、中国の最近の政治的反日行動は理解しにくいし遺憾なことであるが、過去の歴史を殊更にいまさら持ち出して挑戦的態度に出てくる背景は、複雑であって何とも言えないが、はっきりした理由は、東アジアの海域進出に反対する有力な日本を、アジア諸国から切り離し中国に有利に運んで行こうとする魂胆が見え見えである。又ロシアがソビエト連邦の崩壊のあと民族問題や宗教的対立抗争で未だに痕跡を残して悩んでいるように、中国の経済的、民族的格差問題で紛糾が絶えないように、その裏返しと思えばいいのだが、八つ当たりを受け止める方はたまったものではない。中国には姑息な手段を以て対立する相手国を窮地に貶め、自国を有利に導こうとするのではなく、世界のリーダーとして大国にふさわしい行動をとってもらいたいものである。
    期待することは、これによって日本が戦争放棄をした平和憲法の精神を放棄したのではなく、あくまでその精神を堅持して、柔軟性を以て知的に事態に対応していくことが、肝要である。自衛隊員が、多くの若者たちが、自衛権の発動と称して海外の戦場や混乱地域に派遣されることがないように、その前に、忍耐強く戦争の解決に、英知を以て行動することがますます重要になってきた。それには忍耐が必要であり、このことがこれからの日本と,日本人に課せられた責務であると、みんなが合意することが大切である。  7月1日     続

血なまぐさい事件の多発

   最近のテレビ、新聞が報じる記事は何と血なまぐさくおぞましい内容なのだろうか、国内ばかりでなく、世界中に大きく報道されて、震撼する毎日である。誘拐、殺人が日常茶飯事のごとくであり、薬物、銃犯罪者が、街なかをわからずに沢山たむろしている実態がある。外国でも、ウクライナやシリア、イラクを初め戦争が止みそうもないし、イスラエルとハマスとの間でも、民族同士がお互いに反目し合って殺し合いを演じてやめようとしない。内外に起きている慢性的殺し現場である。好戦的蛮人が多く、大国は見て見ぬふりをして傍観するのみか、どさくさに紛れてひと儲けする死の商人、悪徳商人は直接、間接にうごめいている。これでは世の中が良くなるはずがない。
    こんな状況に、まさか日本も集団的自衛権を行使したりして、好んで首を突っ込んでいこうとしているわけではないだろうなと思ったりしてしまう。例えば末端の紛争に延々と講釈をのべて、もっともらしく洗脳し、遠いホルモズ海峡の封鎖が始まれば、石油はストっプされると、魚雷の掃海職務を飛び越して、自衛隊がオスプレイを使っていくようなことはまさか、否、あるかもしれない。突拍子な事態が起きたりする可能性がある。これは正に拡大解釈と云う不安で都合のいい文言であって、こうした事態は単純ながらいくらでも起きる可能性がある。争いはどこにでも起きる。利害対立で火花を散らしているのが、極論だが、生きる社会と云うものである。そうした社会でいかに巻き込まれずに自制していくかが、人間の理知の差である。
    特定秘密保護法が出来、武器輸出三原則が解禁になって、集団的自衛権の行使が出来、海外進出は華々しくなるが、行く先は殺傷行為を以て良しとする戦場である。やる前にやられる可能性がある。昔謳わされた敵を百万打倒しの軍歌ではないが、戦争を知らない自衛官たちが、現実を知って退官するものが出てくるだろう。しかし、そうした法律を作った老いぼれ諸君に肩代わりしてもらうことは不可能である。足腰の弱くなって、ただ食うだけの老いぼれ達に務まる話ではない。隊員の補充に徴兵制が敷かれるかもしれない。戦前の軍隊国家の再現である。飛んで火に入る夏の虫ではないが、好んでかかわっていった挙げ句が、戦争に巻き込まれて敵を作り、平和主義を貫いてきた日本の姿は微塵もなくなって、その理念は世界に通じなくなってくる。特に最近は、日本国の憲法がないがしろにされて、存在意義が薄れつつあるような気がしてならない。これは危険である。集団的自衛権もいいが、もっと知恵を出した思考ができないだろうか。アメリカが世界の警察官を発揮していた時代と違って、その力が及ばなくなってきたことが原因というが、決してそうではない。アメリカの経済力の躍進は今、目を見張るものがある。景気回復をいち早く成し遂げ、世界における唯一の経済大国であり、わけても民主主義国家であり、民意に基づいた完成度の高い形成を以て世界に臨んでいることは確実である。その変化こそは、世界の先を見越したものであり、世界の潮流が、単に軍事的圧力や行使をを以て、地域、国家間の対立抗争、戦争の抑止力となった時代と云われてきたことが、薄れてきたということである。力の支配が次第に効かなくなってきて、人間の英知が試される外交力にかかってきたということである。遅々として気づかずであるが、アメリカは着実に変化してきていると思うし、それは先を見越したものであると信じている。安倍さんが訴える日本の積極的平和主義の意義も、そこに見出さなければならない。
目先にとらわれた最近の政治動向を以てしては、 原子力の平和目的利用など云っていられなくなる。兵器への転用が叫ばれて来るほどに、軍需産業の優先時代がやってきて、これが又外貨を稼ぎ、経済発展の起爆剤だと称して歓迎され、クレイジーな雰囲気になって歯止めが効かなくなってくる。最近、温和な笑顔の安倍さんの顔が厳しくなってきて軍人ぽくなってきたという人がいたが、こわばって引きつった気色を感じるような時が確かにある。目は口ほどに物を云いとは言うけれど、本心を表情で隠すことはできないことも確かである。育ちがよく、真面目で直情的であるだけに心配である。うかつに上滑りして、順風満帆の政権に逆風が吹いてきたりすると、特殊な病気は突然現れて出ないとも限らない。そんなことをされたら、世の中がひっくり返ってしまうだろう。滋賀県知事の選挙で自民党支持の候補者が、反対勢力に負けたこともショックだろう。地方知事選挙がこの後続いてくるが、その動向に一喜一憂するころが気がかりである。世界の狼藉ものの存在を否定することは全くないが、日本は現在も、将来も、その暴走を排除する実力を十分持っているはずである。その努力は不断のものとして堅持し、尚、経済優先主義で平和外交を貫いて、日本が世界にその範を示し、活躍するときが到来している。
    今日18日の夕刊紙で一面トップに、二つの戦争現場で起きた生々しい記事が載っていた。ウクライナ東部の上空で、乗客、搭乗員298人を乗せたマレーシア旅客機が高度1万メートル上空を飛行中、何者かに砲撃を食らって墜落した。地対空ミサイルを以て撃墜したことは確実である。アムステルダムからクアランプールへ向けた旅客機で、むろん全員が死亡である。目撃者によると爆破された機体がバラバラになって落下し、人間らしきものがぱらぱらと空から辺りに落ちてくるのが見えたという。何たる絶望的光景だろうか。ウクライナはテロリストが撃墜したと、親ロシア派の武装集団の犯行だとした。一方、武装集団側はウクライナ政府軍による撃墜だとして、当然ながら事件の原因を巡ってなすり合って、双方が違った見解を主張し合っている。民間機を撃墜するとは、未熟な武装集団の仕業か、軍隊が体をなしていないか、謀略にはまったか、いずれにしろおぞましき戦争の被害であって、悲惨である。後ろで手を引いているロシアの影は歴然である。性能的にはロシア製近い空ミサイルであることは疑いないが、誰がボタンを押したかである。
     又、ヨルダン川西岸では、イスラエル軍が、パレスチナ自治地区のガザを実効支配するパレスチナ原理主義ハマスと激しい砲撃合戦を繰り返し、ガザ地区の市民に多くの死傷者が出て悲惨である。乱暴極めるハマスの行動も、困りものである。性能のいい武器で猛攻を加えるイスラエルに対し、ハマスは懸命にロケット弾を何発も撃ち込んでいるが、途中で迎撃されていている。そうした中、イスラエル軍が地上作戦を展開し、ガザ地区に進攻した。悲劇に甘んじるのは、いつも罪のない市民であり、わけても子供たちである。動かない子供を抱えて、泣き崩れる母親の姿が痛ましい。パレスチナ原理主義者のハマスがなぜあの地域で実効支配しているのか、その実態が複雑で理解しきれないが、歴史的に帰属意識が旺盛なことは判るが、どこかで根本的な解決を図らないと、歴史は繰り返すどころではなく、何時まで経っても同じことの繰り返しである。いっそのこと市民をすべて避難させ、ハマスの軍事拠点だけを壊滅させて、イスラエルにちょっかいを出させないようにすることが望ましいかもしれないが、これまた背後に大国同士の思惑がからんでいるので、ほぐしにくい問題である。
    しかし、罪のない市民が、狼藉ものたちに巻き込まれて犠牲になること、鬼畜にも等しいこうした蛮行が、地球を巡って繰り返されているとき、押しなべていえることは、こうした地域が常に、圧政と隷従、圧迫と偏狭に苦しむ人たちであることが分かる。根底には平和を愛する公正と信義に欠け、人々の安全と生存を軽視する社会意識、政治意識に蝕まれているところである。今日の近代科学、医学の恩恵にある物質文明から疎外され、教育の未熟さに災いされて、貧困を余儀なくされている悲しむべき人たちである。差別的で不平等な感じがして納得できないが、これが現実である。神の恩恵にあって幸いな人たちは、困苦に打ちひしがれた人たちを救済すべく立ち上がるべきである。貧乏は人を不幸にするとは、古代ギリシャの哲学者セネカの云った言葉である。互譲の精神が人々の経済的発展を促し、対立抗争を絶ち、戦争をなくす道筋であることを忘れてはならない。兵器の開発に使う金を、貧困にあえぐ人たちのために回すべきである。さすれば、無益な戦争を無くしていけるだろうし、人類は、殺人狂の時代に別れを告げることができるだろう。
    地域の惨状を見ればなおのこと、飢餓の追い討ちに荒手は言語道断、弾丸を以てしてはならない。    
                                                  7月20日

清ちゃんの釣果


  梅雨が明ける三日前の日曜日まで、連日のように真っ黒な雲が空を覆って白い稲妻が走り抜け、雷鳴が天地に轟いていた。午前中、薄日が差したりしてお天気に騙されかちで、境界から帰ってきた後は、どこに出ることも出来ず、尾山台駅近くの店をのぞいて、気ままに入ったり出たりしようと支度をしていた。支度と云っても私の場合は衣服や化粧ではなく、万年筆とざら紙の二、三枚を持って出るだけである。出かける先々で、ひとときの無聊にまかせて、和歌を気ままに読んで書いてくるのである。ついてくる家内にとっては、お茶を飲んでいても会話をする時間がなく、私は自分の思考に浸ってしきりとペンを流しているので、相手になることも出来ない。だから妻も持参した本を黙って読んでいる。時間が来ると、と云うよりは、書いている紙がなくなると、万年筆のキャップをはめて、私の時間が終わるのである。そこで初めて妻と向き合ってお茶を飲みながら話すことがあれば、お互いの言葉を吐いて、ある種の会話の時間を過ごすことになる。
出かけようとした矢先、電話がなった。近くに住む友人の狩谷さんからであった。笑いながら話をしていた妻が電話を切った後、夕方から狩谷さん宅で久しぶりに魚焼きパーテイーを開くので来ませんかと云うことで、二つ返事で行くことにした。どうせ三連休の今日は二日目である。夕方の五時半ごろからやると云うのである。仲間の釣の名人の清ちゃんが、昨日から海釣りに出て沢山の釣果を得てきたそうである。清ちゃんと云っても子供ではない。壮年の域にあり、悠々自適の資産家である。かくしてこの日は四家族夫婦が集まって、釣ってきた魚料理を食べる会を楽しむことになった。
時間があったので取り敢えず尾山台駅魔まで出掛けて行き、予定通りコーヒーショップに入って所定の勝手気ままな時間を過ごしてきた。短歌は気ままに即興を楽しみ、三十首ほど読んできた。流し詠みなので、後から読み返してみるとなめらかである。この判らない字を、オフィスに行ったときに事務員さんに頼んで活字に打ってもらうのである。自分のことが実際に書いてあるので、和歌は、体験的であり、実証的である。従って事務員さんも、私の現実の行動や、生活の様子がすみずみまで判るので、打っていても楽しいらしい。狩谷さんのパーテイーには手ぶらで行くわけにはいかないので五百ミリの缶ビール六本を持ち、家内は庭畑で採れたトマトや自家製の野菜サラダや新香、漬物などを用意して行った。
清ちゃんがこの日に運んでくれた釣果はイサキが二十五尾、深海に棲むオコゼが三尾である。今にも崩れそうな空を見上げながら、この分なら大丈夫そうだと期待して、魚焼きパーテイーに向かった。狩谷さん宅は素敵な日本庭を配する家で、先代から引き継ぐ豪邸である。庭木も立派なものが多いし、手入れが大変だろう。庭から入っていったら野外でバーベキューを楽しむコンロが用意されて、釣りたて新鮮のイサキが十匹ほどが炭火焼きされている最中である。もっちゃんの旦那が小気味よく音を立てながら団扇を煽いで、イサキをひっくり返しして焼いている。焼くのは炭で焼くのが一番である。しかも備長炭が、味わいがあって最高に良い。居間を覗くと、清ちゃんが既にご機嫌でいっぱい気分である。ともちゃんも、にこにこしながら食膳の支度を手伝っている。ともちゃんとは狩谷家の御主人である。魚を釣っては来るものの、せいちゃんは自らはあまり食べたりしないで、専ら他の人がおいしそうに食べているのを見て楽しむタイプで、食べてもらって満足しているのである。本当の名人と云うのは、そうなのかもしれない。王者の風格と云うものだろうか。
みんなが、 こうして会うのは久しぶりである。きっと十年ぶりかも知れないと話し合った。それまでは家族夫婦が一緒になって、併せて大概は六組ぐらいで、いつも冒険的な旅行をしていたりした。車を三台ぐらい連ねて行くので行く先々で機動力を発揮し、食事は当意即妙、どんなところでもテントを張って野営専門の自炊である。その道のベテランがいて、リーダーとなってやってくれるので、こちらは楽ばかりしていたのである。何度も経験した楽しい思い出である。最近は馬力がなくなってきたから、穂高に登ったり、御嶽山に夜中から登ったり、金時山に重いリュックを背負って登るような機会は遠のいてしまったが、トライしてみようとする気概は、お互いに十分持っている。しかし時間が上手く合わないでいる。ひょっとすると時間が合わないと言い訳しているのかもしれない。実は馬力が以前のように出なくなってきたのかもしれない。一体いくつになったのかなあと云うことになると、みんな勝手な数字を述べて年齢をはぐらかしている。
空の雲が次第に黒味を帯びて、如何にも崩れてきそうな気配である。イサキの焼き具合がこんがりと、極上に達したようである。その時特大の「紅かさご」が、どーんとコンロの網の上に置かれた。目にも鮮やかな紅色の肌をした、朱に染まった色はまるで陶器のようである。焼いているうちに、白い透き通った肉が剥けて見えてきた。この白い肉が紅かさごの特徴で、美味を最高に象徴するものである。高級料亭で出されると、綺麗どころが必要になると云う。贅沢な、お座敷の様子が自然と目に浮かんできた。今晩の狩谷家の座敷も、それに勝るとも劣らぬものである。きれいどころは、それぞれの「ちゃん」の奥方が勤めてくれるだろう。余り確信の持てる話ではないが、人生は夢と希望をもつことが大切である。今日は、その奥さんたちがイサキの刺身も別にたっぷりと用意してくれているし、紅かさごは大鍋に煮物にして、魚の紅白の身を丹念に、芸術的に試食することも出来、これ以上の贅沢な食膳は考えられない。何年振りかに開いた清ちゃんの釣果を楽しむ会は、もはや最高潮である。
三枚におろしたイサキの刺身は、小生の大好物である。刺身は口の中でコリコリとして舌にからまり、噛むほどに甘い味が染み出てくる。思う存分に味わい、食べることが出来た。さらには高級魚は一尺二寸ほどの大きなオコゼで、丸ごとに皿の上に乗った姿は、鍋で煮ても崩れずに、赤い綺麗な姿を白い皿の上に残している。煮汁にねっとりと体を濡らし、妖艶にも見える。箸をつけて崩してしまうのが、惜しいくらいである。花魁に手を付けるとは、このことかもしれない。箸を以て指しながら、頬の肉が一番おいしい所であると云う清ちゃんである。一昨日、誕生日を祝ったばかりの家内のために、再度目出度い紅かさごの絶品の肉を、まず第一に頬の肉をお祝いとして下さったのである。かさごの白い肉が、確かに光って透き通っているのに気が付いた。私も胸のあたり一部を割いていただいたが、この味は今までに味わったことがないほどに、肉に模して言えば、さしずめ松坂肉の最高級の部分の肉を食するのと同じかもしれない。清ちゃんが自慢して釣果を語るのも、むべなるかなと思った次第である。
   外は大ぶりの雨となってカミナリが光り雷鳴がとどろく様子であったが、狩谷家の広い座敷は静かな音に、まさに宴たけなわの折、たくさんの食膳で賑わい、昔をしのんだ話も加わって、みんなの笑いが絶えなかったのである。帰るころには雨も止んで嘘のような夜空が広がっていくように思えた。あしたあたりから梅雨明けだそうである。関西、東海地方は今日、梅雨明けになった。子供たちは、昨日から待ちに待った夏休みだ。海や山に繰り出して、元気になって帰ってくることだろう。出来たら魚釣りも楽しんでくるといい。ついでに覚えてくると良いだろう。夏休みの大きな成果を獲得することになる。若いうちから釣りざんまいでも困るが、そんな怠け者はいないだろう。夏休みの宿題は、釣りだ。  
釣の極意を会得するには、 機敏で忍耐が必要だから、凡人には難しい。いわばこれは人生修行のひとつである。当たった時の感触、引くときの力と勘案、釣の醍醐味を知ると、川崎のおじさん、清ちゃんみたいに、人生が普通の人の何倍も楽しむことが出来るからね。 7月22日

私は、先の原稿を流れるままに書いて記入していたが、今、ふと思いついたことがある。シリアや、イラク、そして今、ウクライナやパレスチナで馬鹿どもが、貧しい人、弱い人たちを苦しめ、挙げ句には殺傷を繰り返している狼藉どもの犯罪者が沢山いる。こいつらがのさばっているのは、それをゆるし、且つ助長せしめる社会がそこにあるからである、と云わんばかりであるが、実際にそうだと思う。 しかしよくよく考えてみると、罪のない市民が、狼藉ものたちに巻き込まれて犠牲になること、鬼畜にも等しいこうした蛮行が、地球を巡って繰り返されているとき、押しなべていえることは、こうした地域が常に、「 圧政と隷従、圧迫と偏狭 」に苦しむ人たちが、その犠牲であることが分かる。根底には社会そのものが、「平和を愛する公正と信義」に欠け、そうした地域や国家が、人々の「安全と生存]」を軽視する社会意識、政治意識に蝕まれていると云うことなのである。
    翻って、わが日本国はどうであろうか。我が国の現状は、市民の間でたまにたまに偶発的な犯罪が起こってはいるものの、そうした事件に対する市民のアンチムーブメントは社会的にも、組織的にも、教育的にも、伝統的にもしっかりとしており、それによって乱されることは全くないことは幸わせと云うほかない。即ち制度として民主主義が成り立っており、国家として、も社会としても、治安と秩序がこれほど確立されている国はないだろう。以てして範とすべき国ではなかろうか。人間が住みついている社会であるがゆえに、起こりうるべくして起こる些細な事件や犯罪はもとより、警察的にも、暴力団の如き、反社会的勢力の排除に官民一体となって運動を展開している。
    しからばこのことを広めて考えて行った場合に、先の言うなれば戦争の混乱の中に国家や、社会や、市民を立たしめている原因とは何か。と云えば圧政と隷従、圧迫と偏狭であり、最も重要なのは、平和を愛する公正と信義に欠けることだと断定していいだろう。それをいみじく述べているのが日本国の憲法である。その言葉を無意識のうちに、私は先に述べただけである。それは日本国憲法の前文に燦然として書かれてある、前分の一部である。 普遍的な政治理念であり、世界の、万国の国民に共通する原理、原則である。この原理原則を遵守する限りにおいて、戦争は起きないはずである。  
戦争放棄をうたって、民族の自由と平和主義を掲げている日本の 日本国憲法の精神こそ、今、
世界に求められている言葉である。この原則的、普遍的言葉を偶然的な事象を以て、恣意的に覆すようなことがあってはならない。依前と世界の態様は、歴史的変化を遂げつつ、著しく変わっていることに、我々は気付かねばならない。 この悠々たる大河の流れを看過してはならない。日本国憲法の精神の堅持を叫ぶ理由が、ここにある。     7月28日




 



                                              


2014.07.01

社団法人 昭和経済会
理事長 佐々木誠吾


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