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社団法人昭和経済会

理事長室より
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理事長室より

Vol.22.11

ソウルで起きた ハローウィンの悲劇

  いろいろな空想を交えて変装し、街なかや田舎の家々を訪ねて人間の喜怒哀楽を以て家々を廻るハローウィンの楽しい季節がやってきた。土曜日の夕方、地元の近くの東横線の九品仏駅前のあたりを車で通りかかったとき、踏切手前の商店街に沢山の幼児たちが、にぎやかな服装をして列を作って並んでいるのを見かけた。一瞬のこと、辺りがロマンチックで童謡の幻想的な世界が繰り広げられていた様子に、心惹かれた。

  ハローウィンはもともと古代ケルト人を発祥とした風習で今は世界中で愛された行事の一つとして受け継がれてきている。クリスマスイヴに次ぐ宗教的色彩の行事であり、世界中に行きわたっていて、それぞれのお国柄なども反映されて思い思いの表現がなされていて面白い。「Trick or Treat(トリック・オア・トリート)」の由来には諸説がある。そのうちの一説は、死者への畏敬の念を示して供える 「ソウルケーキ」をもらう風習があって 「ソウリング」という中世ヨーロッパの儀式に由来するものである。

 今では普通にハロウィンの夜に仮装した子どもたちが近所の家々を訪ね、「Trick or Treat」とその家の大人に声を掛けてまわるならいである。するとその言葉に 「Happy Halloween」と呼応した大人が、チョコレートやキャンディーなどのお菓子を子どもたちにあげるというのがハロウィンの風習になっている。
  ここで云う 「Trick」とは 「たくらみ」とか「悪ふざけ」などといったことを意味している。 それに対し英語で「Treat」とは 「待遇する」、「大切に扱う」 「もてなす」 などと訳し、言葉通りのそうした意味を持っている。面白いことは子どもたちがここで、家族のもとへ戻ってくる死者の魂に、紛れてやってきた悪霊に扮することだ。中学時代に使った英語のコンサイス辞書を引いてみると、文法的に命令形の言葉が先に来ると、この場合の「or」は「さもなければ}という意味になるが、「and」というと「そうすれば}という解釈に訳されている。「Trick or Treat」とは、「悪霊にいたずらされたくなければ、お菓子をちょうだい」と大人におねだりしているということである。 いたずらっぽい、ほほえましい遊戯とでも云うべきか、小さい頃の朴訥な思い出にふと立ち返る気持ちである。 

子供たちが楽しんで遊ぶ遊戯を大人たちが奪ってしまって、演出の主役が入れ替わってしまった感じがする最近のハロウィーンだが、それはいいとしても、大人たちのハロウィーンの悪ふざけは得てして度が過ぎて、悪霊を本当に演じて予期せぬ騒動を起こしてしまうことがあって、こればかりは大切にもてなすわけにもいかない。31日に起きたソウルの繁華街のハロウィーンは、大人たちの仮装した人たちで街なかはごった返し、収拾がつかないまま人混みはカオス状態となって混乱し、狭い通りに押し込まれた群衆は、押しつ押されつしながら押しつぶされて圧死する危険な渦に巻き込まれていった。坂道に足を取られた人が仮死状態になって倒れると、群衆は将棋倒しとなって助けを求める悲鳴と怒声の中に多くの人たちが息を止め血を流し、やがて声を無くしていった。

  楽しいはずのハロウィーンは、想像もつかない大惨事となってしまった。死者が157人という発表に慄然とした気持ちになって、周囲を覆う悪霊に鳥肌が立つ思いである。悲鳴と死臭芬々とした現場は正に、地獄絵図となってしまった。警察官が出てきて早いうちに人の流れを誘導していたら、こうした惨事は起こらないで済んだ。そもそも主宰者がいない催しものであり、いうなれば責任者のいない催事である。10万とも15万ともいう人出で混雑する街なかに、交通整理もなく、警備する警察官の影もなく、無秩序の中に起きた必然的結末であるといわれても仕方がない惨事ある。持っていきどころのない憤懣やるかたない事態だ。  11月1日

   昨日の夜6時7分から始まった皆既月食の始めの頃と、月が、全く地球の影に入ってしまった瞬間を、庭に出てこの目で確かめていた。一点の雲のない澄み切った夜であって、無限にわたる天体ショウを観察し堪能するには、立冬を過ぎたとはいえ風もなく温かい絶好の機会のようであった。家内も一緒になって見つめてた。今回の皆既月食では、多くの地域で月が地球の影に完全に覆われた「皆既食」中に、月の後ろに天王星が入り込む天王星食も同時に見られはずになっている。皆既月食は、月が地球の影に徐々に覆われていき、太陽と地球と月が一直線に並び、月全体が地球の影に完全に覆われてしまう。
  
  通説通り、ゆっくりとした速さで月の形が少しずつ欠けていくが、月面に薄くであるが赤黒くにじんだ影が地球のものだという実感がわいてこないのも不思議であった。その背後に天王星がかすめていくのもめったに見られない光景だというのだが、肉眼では見られないが望遠鏡なら可能だというその光景は442年ぶりに見られる壮大な天中の光の動きだそうである。

  
  皆既食で月が地球の影に隠れてしまうとは言いながら、月の影は淀んだ赤黒い色を残して、完全に闇夜となってしまうわけではない。不気味な色を残しており、あたかも月が地球の悪しき亡霊に縛られて苦しみあげんでいるような錯覚すら感じたのである。金色に輝く月が欠けていき、すっかり闇夜と化すかと思っていたが、中途半端な影を残しているのが、大宇宙のときめきを減殺させてしまった感じである。その間の息苦しい時間がたって、金色に輝く月が出てきたときは何かしらほっとして、思わず深呼吸した次第であった。あの赤黒く映る月の、苦しむような残照が不愉快である。近くで輝く火の星、万座の真砂の星々を後ろに控えて、火星がひときわ奇麗に光を放っていた。11月8日

   葉梨法務大臣とは

この男は面白い男で頓珍漢なことを言ってのけて、平然として居れるという無神経さは唖然とするばかり出る。法務大臣という要職に就きながら、法律の一片をも知らぬ置物としか映らない。手招き猫の置物ならましだが、暖簾に腕押しとかで、何の役にも立たぬ代物である。置いておくとむしろ害毒をまき散らす手合いである。一国の法律を遵守し監視していくはずの行政官が云ってのけた無責任極まる発言には、血の気の一滴もなく余りの非情さに歴然として来る。今までも政治家のはしくれとしてよく務まってきたものである。登り詰めて法務大臣の椅子を手にしたところまでで、あとは化けの皮がはがれて、ぼろが出てしまった。ぼろが出たというよりも、大臣に指名した最高責任者の眼力が鈍って、とぼけていたことになる。最高責任者とは首相の岸田さんだが、よく聞く耳を持つとは結構な姿勢であるが、よく聞いていればこうした人物を登用するはずがない。よく聞いたふりをして、よく見ていないことにもなる。人物をよく観察することが必要である。

  失言の張本人は、法務大臣の葉梨氏で、9日の夜、東京都内で開かれた自民党衆院議員のパーティーであいさつした際、法相の職務について「朝、死刑のはんこを押す。昼のニュースのトップになるのはそういう時だけという地味な役職」と、自らの職務について語った時の発言である。今問題の波紋を広げている件のことにも触れて 「旧統一教会(世界平和統一家庭連合)の問題に抱きつかれてしまい、問題解決に取り組まないといけない。私の顔もいくらかテレビに出るようになった」とも語った。又法務省は金と票が集まらないともいう始末である。事実をありのままに語ったことを是としても、法務大臣の要職にある人間の云うべき言葉ではない。死刑囚についての言葉では人間性欠如を示して情愛にかけ、品性にもかけて下劣極まりなく、情愛にもかけて政治家としての素質も屁もあったものではない。いわんや、刑場に向かう受刑者に対しめくらばんを押して素知らぬ顔をする非情極まりないやからである。即刻、大臣の辞任の責を負うべきである。同時に人の命の露ほども感じぬ人間を、法務大臣に指名した首相の責任は大と云わねばならない。

  受刑者がいかほどの犯罪を犯したか知らぬが、法の最重の裁きを受けて刑場の露と化す人の命を思えば、刑の執行そのものは厳粛なものでなければならぬ。いかめしくあるべきはずの法務大臣、そのカエルの面に小便ではないが、いかにも軽薄であり、無責任である。少なくとも受刑者の存在と、その生い立ちを知り、受刑者の身に至ったいきさつぐらいは身に覚え、刑の執行に対峙しなければならない。ハンコを押すものは、たかがハンコと心得てはならぬ良心的責任があるといっても過言ではない。ハンコには、見えざる神の手が乗り移っていくものでなければならぬ。葉梨という人間の、遊び半分で大臣の職を弄ぶ、言語道断の極みである。岸田内閣にはこうした人物がうようよしていてあまりにも激しく汚染されている。ぬるま湯につかった大臣諸侯をふるいにかけてDDTに漬けて汚物を洗い流し、国会議員も指導教育する機関を設けてばらまき予算の一部でも使って、どぶ掃除をした方が国民のための奉仕精神の涵養につながっていいのではないか。岸田の最初に出てきたときの機敏と真面目さは、どこかに霧と消えてしまった感をいがめない。支持率低落の黄金の三年間は無事どころではない、岸田首相も一から出直す必要がある。   11月8日

十一月に入りあたりの樹木も秋の色づきに染まる頃、パソコンに設けてある理事長室からの発信も好調に思われて筆を執ったが、 公私にわたり重要な仕事に関わっている関係で複雑な神経の状態が継続する状態が続いていた。それから又、十月末から始まったガス管と水道管の修理、更新工事が始まって、自宅前の道路の掘削と埋め戻しを繰り返す工事が始まった。そのため自宅からの車の出入りが制限されたため、自由が丘駅まで毎日タクシーで出勤することになり、この日も表の通りに出てタクシーを捕まえようとしていたが、なかなか捕まらなかった。しばらく歩いていくうちに等々力6丁目の交差点に差し掛かって、しばらく様子を窺っていたところ、目黒通りの方から自由が丘駅行きの赤い都バスが走ってくるのを見かけて、それに乗っていくことに決め、バスの停留所に急いだ。
三人ほどの乗客が待っていて一番最後に小生が乗るはずであった。ところがどうしたはずみか一瞬のこと足元が狂い、乗車口で靴のつま先を、バスの入り口の床先にひっかけた拍子に、そのまま体を預けて車内に突っ込んで転んでしまった。運転席の横板に頭を強くぶっつけてしまったことは承知していたが、一瞬頭に強い衝撃を受けたまま、バスの車体の床に両手を突いた格好になった。運転手は「大丈夫ですか」と声をかけてくれたが、正気に戻った私は公衆に迷惑をかけてはならないと、その方に気を取られて男らしく頑張って、「いや大丈夫です」と云って気丈にも起き上がり、出来るだけ平静を装ったのである。バスはそのまま動き出し、交差点を左折して自由が丘駅に向かった。バスを最初に降りてから、ふと頭に手を触れたところ、先刻打ったおでこにできた軽い傷口から少しばかりの出血があったので、駅前ロータリ-に面したコーヒーのエックスセレッソの店に入り、椅子に腰かけて人目を気にしながら血の跡をぬぐったのである。店員がおでこに流れている血を見て、「どうしましたか」と心配げな表情でかばおうとしてくれた。白昼、初老の紳士?が額から血を流していること自体、既に異様な光景である。近くに交番があるが、見つかれば警官が駆けつけてきて事情を聴かれて直ちに救急車かも知れない。瞬間を襲った異常事態に、少しばかりショックを受けているせいか、落ち着いてきたら胸の動悸を感じてきたので、アイスコーヒーを注文して、じっとして動悸の収まるのを待っていたのである。

   自由が丘駅の改札口を抜けて階段をのぼり、東横線のホームで特急が入ってくるのを待ってそれに乗った。青シートが空いていたが次の停車駅が中目黒だったので立ったまま東京タワーとその先のスカイツリーを遠望して、今日は途中の事故も大事に至らず縁起がいかったなーと、自らを慰めていた。中目黒駅からは折り返し運転の地下鉄日比谷線に乗り換え、空いていた箱だったのでゆっくりと椅子に座って発車するのを待っていた。ふと今日のやるべき仕事のことが頭に浮かんできた。気持ちが落ち着いてきたので、先刻バスに乗る際に右足の向う脛を痛いくらいにぶっつけた痕は大丈夫かなと思いながら触ってみたところ、ぬるりとする嫌な感触に気付たのである。見たおところ、靴下は全部が出血したままに赤く染まってべっとりとしていたし、履いている靴までが血で染みついていた。打ったと思われる足首の上部辺りを触ってみたら、平らなはずの皮膚に段差がついていて、深い傷を負っていることが分かった。段差の傷を確認するまではいいと思っていたが、これでオフィスに出向くわけにはいかないと思った。停車した恵比寿駅で急遽下車してエスカレーターに乗り、反対側のホームで入ってきた地下鉄に乗って帰ることにした。これだけ出血していながら痛みもなく来たことが不思議であった。
  途中からかかりつけの尾山台整形外科に連絡したが、水曜日の診察はお昼までで午後は休診とのこと、時計は十二時を回っていたことで仕方がないとあきらめた。頭に浮かんでのは以前ご厄介になった奥沢駅前にある大脇病院である。救急患者受け入れの地元では中堅病院である。いったん帰宅してから家内とも話し合って、そこに行くことに決めた。家内が心配して足のあたりを観ながら「随分と出血しているわよ」と不安そうである。小生も、傷の程度に気が付いてからは足に痛みを覚えつつ、引きずって歩くようになった。歩くたびに足の皮が捌け、盛り上がった傷口が前後左右に広がって今なお少しずつ血が出ていく気がしたのである。ズボンまでが広く血がしみついて、その部分の布が硬く固まってきている。今となっては歩くことは無論、階段の上り下りがとてもつらくなってきた。気が付けば、やっとのことで自由が丘駅等に降り立つことができ、タクシー乗り場までたどり着いて車に乗り帰宅した。水道工事の現場は騒々しく、十人ほどの作業員が加わってまだ作業中である。愛想のいい現場監督は、もうお帰りですかと云わんばかりの表情をしていたが、ご苦労さんと云いながら何ごともなかったように軽く会釈して家に飛び込んだ。応接間で右足の傷の様子を見ながら、これはひどい傷だなとつぶやきながら、大脇病院に電話、事情を説明していくことになった。大脇病院は、東京明日佳病院という名に変わっていたが、急ぎそこに行く準備をして出かけて行った。

  自宅近くで捕まえたタクシーの運転手に、大脇病院を指定したところ奥沢病院に連れていかれたが、駅には近いが以前あった場所と違うので、改めて問いただしたところ、駅前にある大脇病院は、その後「東京明日佳病院」に名称変更になっていること分かり、急ぎ明日佳病院に車を回してもらっ
た。受付で病状を記入して手続きを済ませて待つこと五分、一階の脳神経外科の診察室に呼ばれた。高齢の先生で信頼が持てた。早速、隣室のCT による撮影を行い結果が判明して再度診察室に呼ばれた。打撲による影響は見当たらないとの診断で安心した。井沢先生は右足に受けた傷の具合に視線を流し、むしろそちらの方が当面大事だからと謂われて直ぐに整形外科に書類を回してくださった。車いすを用意してくれたが歩いてゆき、看護婦が付き添って整形外科の診察室に案内してくれた。担当医の札には山名と書いてあった。順番待ちで一〇分ほどして診察を受けに入室、中年の医師であった。靴下を脱ぎ受けた傷の場所を観ながら 「これはひどい、痛くありませんか。」と云いながら看護婦たちに何かを指示していた。大きなガーゼを当てがわれていったん外室した。付き添っている看護師から、「これから点滴をしますので三時間ほどかかるので、トイレに行きたければ済ましておいてください」と言われたりした。用を足し案内された部屋に入り、カーテンの引かれた小さなスペースのベッドに横になり点滴の用意に備えた。小生はもともと血管が細いのである、ある町医者が注射をするときに「見かけによらず血管が細いですね」と見事なせりふを吐いたことを思い出した。注射を刺すのが下手なことを棚に上げて、見え見えのしゃれにも思えた。毛深く胸毛が生えている割には、という意味の皮肉のようだ。別室で点滴を受けながら天井を見てさまざまなことを思い浮かべて深刻になりかけていたところ、4,5人の看護婦さんたちが忙しく準備を整えている様子であった。他の患者さんらの診察を終えてきた担当医の山名が見えて、「佐々木さん、これから手術しますから宜しくお願いします」と、逆に言われて、「こちらこそよろしくお願いします」 と申し返したのである。「麻酔を打ちますので最初ちくりとしまから」といって、何本かの注射を傷口のあたりに撃ち込んでいるようであった。看護婦さんが優しく付き添って、小生の容体をしきりに気にかけている様子に感謝した。家内は点滴が三時間もかかるのに、その間待っていられないから外に出て時間が来たら戻ってくるので大丈夫かしら」というので「大丈夫だ」というしかない。従って家内は最初は手術に立ち会っていたが、その後はどこかに行ってしまった。居てもらってもむしろ邪魔かもしれない。
 麻酔を打ってから約三〇分は経過しただろうか。再び先生が見えて傍に座り、器具を持ち出して傷口を縫い始めた。はがれた皮をむいて中を消毒しているようである。それから針を刺して縫っていくのだろう。看護婦が「痛くありますんね」と尋ねるので、痛いには違いないが、痛いと云えば仕事を辞めてもらわれても困るので「痛くありません」と云うしかない。針を刺して糸を通しているのだから、患部は痛くなくとも、気分的に痛い思いをしているには違いない。だから現実には痛いのである。針に糸を通して傷口を縫い合わせているのだから、大した技工士だなと思いながら、少々の痛みに耐えていた。痛いと云って医師の機嫌を損ねてもまずい。手術の経過と成果に影響を及ぼしかねない。   今までに何日間も入院し、もっと大きな手術を何度も経験してきているが、脊髄に打つ全身麻酔なので、麻酔を受けてこん睡状態の、知らぬ間に行われて目が覚めたときは「おめでとうございます。手術は大成功でしたよ」 とずーと言われて来ていたので、無意識の中で行われたものばかりである。今回は局部麻酔なので意識ははっきりしているので、手術している様子や、看護婦さんたちの動きを目の当たりにしながらなので、現実味が鮮烈である。手を振り上げて下ろしては傷口を一つ一つ丹念に縫い上げている様子が、懸命な医師の様子がはっきりと窺えた。局部の痛みはないが、何回も針を刺されたりしている様子を見ているだけで、針を刺されるその都度チクリと痛い気がするのはやむを得ない。傷口は結構大きいような感じである。想像だが十二針ぐらいは針を挿している。そして糸を通して縫っている。傷口は一直線ではなく、脛をまたいでV字型のようである。医師にとってはやりにくいのではないかと思う。小生の全神経も一刺し一刺しに集中しているので、聊か興奮してくる感じである。それを見て取った看護婦さんが小生の腕をつかんで「大丈夫ですね」と労わってくれるのが何ともうれしかった。手のぬくもりが気持ちよかった。手術は30分ぐらいで終わった。医師は、縫い上げた場所を消毒液で拭っては仔細に傷跡を確かめている。手術の途中、手を当てて盛り上がっている箇所を押しているような気がしてびっくりもしたのである。しかし手術中は幸いにも事なきを得て、医師の納得している様子に安堵し、気分が落ち着いてきたのである。「はい、終わりました」という医師の言葉を聞いた時には、医師のお勤めを心からねぎらい、感謝に満たされた思いであった。最初に診察した医師であったが、白衣を着た医師は別人のように静かにその場を立ち去って行った。看護婦さんたちが、傷跡の回復を願いながら丁寧に包帯をまいてくださっていた。歩いていきますかと言われ、手を貸してもらいベッドから立ち上がって、大丈夫ですね、このまま歩いていきますと返事して手術室を後にした。人間の皮膚は、丈夫に仕上がっている。裂けた場所を縫い合わせると双方が確りと繋がって、くっついてしまうことも不思議であり、完全を目指す神の恩寵の賜物である。
  上記に記した事案によって小生の日常活動は一時鈍って停滞し、理事長室からの発信も途絶えた形になってしまったが、二週間が経過した今日現在、右足に負った傷口は順調に回復し、次の金曜日、即ち12月2日の午前9時の予約の診察の時に、抜糸をするのではないかと思われる。不自由な思いをしてきたが、文字通り解放されて又もとのように、自由に体を動かし、仕事に集中することができることに確信を得て喜びである。                     11月30日


  右足のすねに傷を負って今日で二週間が過ぎた。順調な経過をたどって傷自体はほぼ完治したのではないかと思いながら、未だ分厚い当て物を張り付けているので、歩行にもどかしさを感じて結局余り歩かない毎日が続いている。抜糸が終わって当てものが解かれてしまえば、元のように自由に歩行が可能となる。後しばらくの辛抱である。中地半端な状態なので結局オフィスには行けないことになっている。幸い会社の仕事は自宅でインターネットで済ませる類であり、来客も電話で用を済ませて面談による話し合いの約束はできるだけ避けるようにしている。職員が取捨してるので、日常の業務に支障をきたすことはない。

    高等学院時代の良き先輩のこと

  高等学院時代、一年先輩のSさんが既に故人になっていたことをインターネットで知るに及んだ。亡くなられたのもつい最近のことのようである。過去を思い出しながら、静かにSさんのご冥福を祈った。Sさんは、小生の学生時代を充実させてくれて未だに尊敬して止まないお一人である。クラブ活動のドイツ語研究会を通じて知り合って以来、何かと親密な厚誼にふれ、学生時代にとどまらず、社会に出てからも何年かはお互いに交信を深め、家族的な付き合いもさせて下さった。S先輩は知性派であり、真面目で温厚な性格で、常に静かにしている様子が今も鮮明に浮かんでくる。家業の出版会社であるD書林をひきつがれた。ある日のことSさんの母堂が親しみを込めて、浅草に実家まで訪ねて来れれたのをはっきり覚えている。居合わせた母と気持ちが通じ合い、親しく話をされていた様子も覚えている。その時、Sさんたちは帰りの道すがら浅草の観音様をお参りして帰って行かれた。Sさんのお母さんは、小生のことをいつも「佐々木君」と呼んでくださって、物凄く親しみを感じていた。S先輩の下には三人の弟さんたちがいて、皆りっぱな人がらであって、その人達ともお付き合いさせていただいたが、皆達者でいるだろうか気にもなっている。
 その昔、Sさんの実家がある静岡の去るところに案内されて、結構なもてなしを受けたことがある。実家はもともと古くからある家系で立派な屋敷であり、杉の木の無節で赤の木材をふんだんに使って、贅を尽くした立派な普請に驚いた。腕の達者な立派な大工が手掛けたものに違いない。小生の父も、家の普請には随分とこだわっていたことを思い出したりするので、小さい時から多少の関心と知識を持っていたりしたゆえ、S家の、高尚にして格調高い伝統意識を身に感じて、見習う点が多々あったのである。昔は浅草の土地は古くから「土一升、金一升」と言われてきたほどで、今でこそ時代は大きく激変してしまったが、昔は賑やかだった下町、分けても猿若町に商人が成功して普請することは大事業で名誉なことでもあった。土地柄のこと、ささやかなにも池を配し、銘木を植えた庭が懐かしく思われる。戦後に建てた総ヒノキ造りの住まいだった。渡り廊下の先には全体をヒノキで仕上げた風呂場までがあった。斯様に昔の人に共通したものであるが、両親についても、昔風の古風で、潜在して共通した美意識と感覚があるような気がしていた。D書林が所在する今の場所にも、立派な庭をあしらえ、杉材をぜいたくに使った平屋の屋敷が、離れとしてまだ大事に存続されているかもしれない。これは先代の格調高い趣向であり、S先輩はそれを自分なりに引き継がれて生かしてきているのである。
 ご生家と思われる土地のご案内を受けた思い出は、何日かお世話になったこと思うが遠い記憶の中に在って定かに覚えていないが、静岡行の中には、豪華絢爛の久能山東照宮を訪ね、日本平の絶景を楽しみ、不落の犬山城の威厳に触れ、いまだに我が脳裏に収まっている。アルプスの槍ヶ岳も、八ヶ岳の峰々も眼前にある。学び舎での学習のほかに、旅路の果てにも習い慕った真の学友といっても過言ではない。先輩後輩の区別なく多情多感の青春時代の、人生峠を共に越えていった仲である。忘れがたきS先輩には、亡くなられる前に一度お会いしたかったと思っている。惜別の思い切なるものがある。

朋友の読むドイツ語四週間読み明かしたる秋の宵かも

良き友に巡り合へたる学窓を思ひだすまま暮るる秋の日

偲ぶれど思ひは尽きじ青春の友に恵まれ過ぐる旅の日

人情と友情ともに篤き氏の人柄に触れ過ぎぐる学び舎

シュトルムの「みずうみ」を読み青春の日を追ひもとめ思ひ深きも

朋友と古きみやこを訪ね行く南禅寺より哲学の道

名著にて語学学習四週間「叢書」を学ぶ青春の日々

友に就き一切経より五色沼山路をたどる若き日の旅

アルプスの槍を目指して夜道ゆく音を白くきらめく満天の星

図らずも友の訃報に触れし夜の男泣きして偲ぶ在りし日

我に尚やるべきことの山ほどにあればひそかにひとり思ふ夜    11月30日

imamadeni

社団法人 昭和経済会
理事長 佐々木誠吾


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