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公益社団法人昭和経済会

理事長室より
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理事長室より

VOL.25.1

  二〇二五年元旦

明らかな話題満載の良き歳の気配に望む遠き富士かな

  天気晴朗の日が続く令和七年元旦を迎えた。内外政情の混沌として予測不可能な時世の真っただ中に立っているが、闇に光を見る如く万物の力は人類、人間の希望を絶つことはできない。今年も多くの努力が払われて嫌な事象は断ち切られて、光明のさした世の中に大きく変貌を遂げていくに違いない。個人的には、己の力を存分に発揮して苦難を払しょくし、成果と果実の期待を裏切ることなく邁進していく気持ちに燃えている。
  世界的には昨年から引き継いだ課題が満載だが、それらが残している課題を解決すればすべてが大きな成果として変容することばかりである。要は、努力をして決断し成功へ導くか、なお運が巡ってきて幸運の波に乗って希望を果たしていくかである。元旦の真っ青な空が広がった先を見つめると、天地晴朗にして限りなく、将来の夢と希望が満ち溢れていることが明確に描くことが出来たのである。もとより真っ青に晴れ上がった空の天候を我が精神に移し返して心境を述べているが、ここから来た帰結は西日本の豪雪地帯にも、戦火の広がるウクライナやガザ地区などの地域をも包含している。そうした努力を執拗に目指していくべきである。国連のグレーテス事務総長が警鐘乱打していることについても、戦争や異常気象の深刻な警鐘に、世界の指導者は真剣になって耳を傾けて従うべきである。
  元旦は、家族全員が揃って我が拙宅で新年を祝った。酒の代わりにお茶を以て乾杯、今年一年の幸福を心から祈った。健康で自らの職務と学習に精を出して、他人の幸福も願っていく一年とさせたいと願ったのである。賑やかなお節料理は、子供たちが用意してきてくれたし、私と家内は場所の提供だけで済んでいるが、その分お年玉は奮発したつもりである。お年玉は、小生が子供の時を思い出してもそうであったように、毎年お正月に手にするお年玉は、いくつになっても期待して楽しみなことは十分承知しているが、昨年、開期末になってようやく成立した新年度の国家予算の膨張と一緒で、年々膨れ上がっていくのは致し方ない。否、差し上げる方も大きくなっていくことが楽しみでもある気がする。無論、息子や娘婿は既に社会的地位もしっかりとして大きく、準じて社会的役目を果たし貢献も尽くしているので、先に述べたように気持ちはわかるがお年玉の論外なことは当たり前の話ではある。
  一家だんらんの食卓を楽しんだのち、早速初詣に出かけることにした。お正月のお祝いを済ませたあとは、それぞれ後に付き合いもあって自由行動としたが、息子と一緒に近くの宇佐神社にむかった。瀟洒なたたずまいだが、霊験あらたかな雰囲気が気に入って十年ほど前から、この宇佐神社にお参りをして一年の抱負と無病息災を祈ってきている。高台に位置した社と境内は、眼下に多摩川と遠くに相模の連峰、富士の景色も遠望できる絶景地である。お参りを済ませてから田園調布駅横のスターバックスに入り、ちょうど席が空いていたのでコーヒーをのみながら、息子と歓談出来た次第である。元旦から開いているのは、外資系の飲食店だけである。息子と落ち着いて話し合うのは久しぶりであるが、息子の活躍ぶりを称賛するよりも、どちらかと云えば息子から親父が誉められていることが多く以て喜ばしきことと内心満足していた次第である。
  家内も一緒になって歓談すること尽きなかったが、先ずは満ち足りた元旦の日を過ごすことが出来、幸先よい初日のスタートを切ったと確信した。帰宅して配達された新聞に目を通して世の雑念の報道をもとに己ながらに新年の見通しを描いてみたりして、結構面白い年になると個人的には確信した。くだらない戦争を起こして何十万人もの兵士や市民の虐殺に加担したプーチンやネタニアフを含め、戦争犯罪人の汚名を背負ってどのあたりで首をはねられるか、登場する変わり者と天才の裏合わせのトランプが、果たしてどこまで暴れまわることが出来るか、表情は鬱っぽい習近平がいつまで大人しくしてくれているか、もろもろの関心事は結構豊富だが、国連事務総長の言や、天下に轟いて神の声と感じるほどに、光って見えることは幸いである。これを以て世界の良識、しいては人類の良心と信仰心が勝利の剣を抜いて一刀両断のもと、悪事をたくらむ悪人どもを切り捨ててもらうべき年としたいものである。
  翻って日本の場合はどうだろうか。日本国の国会と政治が、実は旧自民党のどろ船に載せられて何十年という悪癖の施政下に、虐げられてきた市民が立ち上がって改革の先鋒に立ち、贋金作り、裏金作りに狂奔してきた連中を国会から追放に近い注文を付けて、これを行うまでに成長を遂げたこと、どろ船のリスクを負って政権を担った石破さんが、国民の共感を少ならからず手にして懸命の操舵をもって沈没を免れてきていることは、いたずらに思惑と混乱を招くことなく、以て幸いと云うべきかな、天の配剤と感謝している。新聞の一面、二面を見ても不安材料が満載の世界だが、日本がしっかりとした政権運営と民間の努力によって世界情勢を上手に指導していく大役に、そら!見たことか、気づくに違いない。
   GDPは中国に抜かれて三位にとどまっているが、問題は中身である。今中国は長い景気停滞の闇から抜け出せないでいる。買って日本も経験したことである。これからは油断するわけではないが自由と民主主義を堅持して国民生活の繁栄を希求する日本の、以て今の世界が見習うべき姿を提示することが出来るだろう。旧自民党の腐れ切った輩を国会から追放し、与党の諸君の建設的な意見や政策をくみ取った、新しい形の政治を行っていって、対立と混乱を招かぬ新しい理念に基いた新自民党、生まれ変わった自民党を作り上げていくべく、できれば石破さんに頑張ってもらいたいところである。あまりにも多くの悪童がうろついている故、検察も弱腰になってうかつに手を出し切れず、汚れて腐りきった旧自さっぱりと民党の議員らを芋ずる式にしょっ引くことが出来ないでいるのが実情である。
  元旦早々に腐れ切った政治のテーマを検索してもつまらんこと甚だしき限りで憤懣やるかたなき仕儀ゆえに、さっぱりと風呂に入って軽い夕食を取ってのち、テレビのスイッチを入れたら、NHK放送でニューイヤー・オペラコンサートが本場のウィーンから生放送されるという字幕に吸い付かれた。リッカルド・ムデイーの指揮するウィーンフィルハーモニー交響楽団の生演奏とくれば見逃すわけにはいかない。心の浄化も含めて、意気軒高の且つ優雅な世界にいざなわれて行くに違いない。案の定、絢爛の演奏会場に招かれて、元旦の夜は華麗なシュトラウスの音楽とオペラの舞踏がさわやかに美しく演出されて興味尽きない連続であった。コンサートはお決まりのアンコール曲を二世の美しく碧きドナウと、一世のラデッキー行進曲で賑やかに且つ躍動的に締めくくられて、歓喜と感動に包まれたのである。ワルツの首都ライスは「酒、女、歌を愛さぬもの」を指して愚か者と云っていたそうである。真をついてこの上なしと覚えるが、ラデイッキー行進曲を高らかに繰り返したあとに、指揮者のリッカルドムーデイーは音楽を通して「平和、愛、絆を全世界に」広めていこうと言葉を結んだのである。
                           2025年元旦                                          

裕介の車にのりて多摩川の堤を走る元旦の午後

振り仰ぐ天地晴朗の元旦に希望を託し眺む富士の嶺

うららかに空ひろごりて元旦に家族ら集ひ祝ひ酒かな

紺碧の空の広ごる元旦に妻と息子と初詣に行く

去年今年運良きことの多くあり目出度き歳と願ふ元日

明らかに話題満載の佳き歳と気配に眺む遠き富士かな

伝統と歴史を刻み学者らを昭和経済誌に世をリードして

優れたる学問研究を発表し昭和経済誌に名をば記さん

公益の力を集め世に問ひて自由と平和の成果収めん

この年も公益のため尽力し責務を果たし世に尽くし行く

日本のすぐれた学者を網羅して世を導び行く昭和経済

新しき年の初めにシュトラウス曲に小躍りの我は若きも

ラデッキーの振る指揮棒に力ありこもる生気に歳の明け行く

跳躍す天地晴朗の元旦にデッキーの曲繰り返し聞く

晴れやかな青春時代を呼び起こす碧き美しきドナウ川かな

ベートーヴェン第五番の田園の調べの我を鼓舞し止まざる

   箱根駅伝の復路を観戦

  快晴に続く好天に恵まれ、箱根駅伝の復路の選手たちの奮闘を観戦、応援した。前日の往路は観戦を見逃したが、今日は最終ランナーが拙者の勤務先近くの銀座目抜き通りの中央通りを快走し、京橋、日本橋と抜けて大手町の読売新聞本社前の、ゴールを目指す選手らの復路を競う白熱したレースである。前日に続いて一位に飛び出した青山学院が二位の駒澤大学を大きく引き離して先頭を制して独走し、そのままゴールに入る展開であった。駒澤大学に続き早稲田と国学院大との競り合いが続いていたが、早稲田の惜敗するところとなり我が母校は4位に収まった次第である。各大学間のレース展開は手に汗を握る様相で終始緊張の力を以て観戦、応援することが出来た。二回連続で優勝した青山学院の選手らは、日ごろの鍛錬が結実したものである。選手の乱れぬ快走ぶりは実にさわやかであり、そのまま我々の目に鮮明に映り立派な結果と相成った。心から称賛したい。1月3日

青春の日を鮮やかに受け止めて箱根駅伝を応援いたす日

富士を背に箱根街道の坂道を走る冠者に身を乗り出して見や

小田原を過ぎて渡れる酒匂川我が若き頃思ふ束の間

初春の湘南の地を堪能し海、山、川の輝きわたる

幾たびか箱根の山を逍遥し元箱根ゆ芦ノ湖めざし

街なかや村のすみなど通り過ぎ店で干物を買ふて行くかな

道行きの小さく刻む思ひ出の穏やかなりし湘南の海


  成立した第二次石破内閣について、過半数荒れの政権与党を以て早晩、早い時期に政権運営な難しくなって投げ出すか、倒閣の対象になるかとの憶測得あるが、従来の踏襲からすれば考えられたりするところであるが、以前にも述べた通り自民党のどろ船となった根拠の払しょくが出来ればその限りでないことを断言している。既にその途上にあって自民党は、かっての大派閥の安部派が完全に解消されているにで、他の派閥もその存在意義を失いつつあるので、弱小の石破内閣であるが、それを以て自民党内から内紛を起こす理由も力も消滅しているとみていいだろう。その石破さんが首相である限り、その特殊性ゆえに長期政権につながっていく将来性がある。。
なぜか――。理由は、148議席の立憲民主党、38議席の日本維新の会、28議席の国民民主党という野党の存在だ。その上に乗っている石破さんだからである。
  端的な分析が示すように、先の国会審議で補正予算が全会一致で衆参両院を通過した通りの現象が、これから先続いていくものと思われる。野党の提案した内容に、自民党の歩み寄りで成立したものである。従来は、野党の提案だからと云って味噌もくそも一緒で、忌避されてきたものであるが、自民党の寛容な態度と、納得のいく野党の提案が上手にかみ合った、妥協というより、熟慮、洗練された提案として認められる結果となったのである。今までは得てして自民党の都合にいいような解釈ばかりが物いう国会だったが、初めて野党の諸君の建設的な意見も受け入れられるように柔軟になったということである。民主主義の前進と言っていいだろう。それは自民党一強独裁の弊害が、長く続いてきてた弊害であり、その間にいろいろと悪事を重ねることを容認し、気づかなかったが故の国会であった。何十年と泣く、かかる国会の所在と運営を許してきた国民にも、大きな責任があるといっていいだろう。
   石破さんは、旧来の自民党という政党が、民主主義の垂れ幕に隠れて長い間のうちに腐敗混濁し、死に体の旧自民党に籍を置いていながら、常に本流にあらずして呑み込まれることがなかったがゆえに、沈没寸前のどろ船にきづいて、操縦を誤らなきよう、日本の政界をどん底から救い出した救世主とでも云おうか、そのために登場した快男児である。しかる後、総選挙によって政界の再編成にも似た現象を起こし、先に述べた自民大敗の結果を見たが、質的には野党の諸君も含めて大きく舵を切って覚醒の道に踏み出したとみていい。新たに成長した野党諸君とともに、自民党の力を補充する勢力として大きく躍進した。対立抗争から協調平和の国会運営である。野党の諸君の編み出した政策を、これが長所を生み出すのもであれば政府与党が率先して受け入れていく、そこから生み出されてくる諸々の施策は、国民の支持を得た最大公約数とみることが出来る。自公民による少数与党の国会運営は、野党の責任も加わって是々非々と云う建前を採って全員参加の国会運営となって、国民の信託を得た理想的な姿である。いたずらに政権奪還を叫ぶより、協調路線を突き進み、いたずらに混乱と浪費を招く政治体制よりも、国会運営よりも、こんままの状態で突き進んでいく方が、国民は願ったりかなったりという気がしてくるのである。


どろを吐き腐った議員を追放し議会の浄化を図る国たみ

国民の先頭に立ち奮闘す石破先輩に幸運の在れ

清廉な石破内閣を注目し穏健政治の世界に及ぼし

確かなり我にこの年に幸運の山と積まれる心地してなほ

顧みて八一の学規を確と読みなほ学芸に励まんと欲す

大国の今や米、中、露の国体の民意を損なふ仕儀と相成り

政界に専制独裁の傾向の強まる中に唯日本のみが

白雪の不二やまを見てうららかな気分になりて世にそ臨むまん

箱根路を登りてくれば十国のゆはるかに眺むまほろば

黒柳徹子は夢を見ないと云ふ嘘かまことか実かうそかや

日本の民主政治を堅持して自由と平和を世に謳歌せん

くだらない戦争をやめ略奪の野蛮行為に終止符をうて

プーチンもネタニアフも目を覚ましこの世の者に立ち返りけん

強欲に振る舞ひ富を築かんとすれどいずれはお陀仏の身に     1月5日

   初仕事

  昔、こんなことわざを学んだことがある。「一日なさざれば一日食わず」。一目的、封建的、古臭い感じがする。勤労を重んじた言葉であるが、去年今年に続いた連休は、通算すると長い方で10日間に及んでいた。人間は正直な凡人であれば、ことわざに従って10日間も飲まず食わずにいたら、が死しているはずである。せっかく授かった連休を内外の旅行日に充てて楽しく過ごしていれば、空白と思わないが、どこにも出かけずに在宅となると、休養も休暇も時間つぶしの持て余し、いささか疲れ気味で、何もしないでいることがこんなにもつらいことか、終いにはものを食う気にもならなくなってきて、そのうち衰弱して、とどのつまりは自然死にすら至る可能性無きにしも非ずである。連休が明けて、仕事のないことはつらい仕事という諺も思い出した。前記は贅沢三昧な休み、後記は仕事のない辛さ、全くの正反対である。しかし連休が明けて、実のところほっとしているところである。
  人それぞれの立場によるが、休日になると仕事も休日になってしまう場合と、仕事に影響を及ぼさない場合とでは全く様相が違ってきてしまう。会社に出社して職場の環境にかかわらないと仕事にならない場合には、家にいてぼんやり型になってしまう。家にいて家事に携わる主婦からすれば、何もしないで終日家にいる主人を見て甲斐性なく思えて目障りであり、粗大ごみにしか見えなくなってくる。心身ともにストレスがたまる一方であり、健康上にもいいことはない。人間は結局のところ、健康で生きている限り、考えること、思索することと、体を動かすように創られている生き物であるということかなと、天命であり、寧ろ幸運を呼ぶ立ち位置を、宿命的に思っているのである。      1月6日

 
 個人的に、石破さんに頑張ってほしいと願っていることなので、新聞に小さく記した「首相の日程」を読むまでもなく、メディアに報道される映像を見ていると、体の休まることもない、秒読みの続く働きぶりに、早く体を休めてもらいたいと思うことしきりである。早めに官邸を引き払って自宅に帰り、風呂に入ってゆっくりとしたあとは、夕食に就きビールを干して寛ぎながら新聞記事に目を通し、そうだ、寧ろぼんやりとして休んでいることも賢い休養の取り方かもしれない。その晩はゆっくりと、羽根布団の床に入り睡眠を十分にとってもらう、とそんな余計なことも気遣って考えてしまうくらいに思うのである。律儀で、謙虚な人柄ゆえに、人と会うたびに頭を下げている様子も、疲れ切って前にこうべを垂れ下げたまま、つんのめってしまっても困る。大事な反り大臣を務め、ひとえに国と国民のために東奔西走の大役を以て時局に臨んでいるわけで、正月連休もあったものではない。ご自愛を祈るところである。

まさかアメリカ大統領にプーチンのコピーが

  次期大統領に就任する間のトランプさんが、矢継ぎ早に自説を唱え、政権稼働の準備に余念がないが、おや、これは一体どこの国のおっさんが出てきたのかと一瞬戸惑うような事態が発生してきている。第二のウクライナかとも思われて心配になった。トランプさんの強欲の極意をついて余りある発言だが、就任式もやっていないのに、金で買収して要職に就いた車屋のテスラと一緒になって子供みたいにはしゃぎまわっている。鉄砲こそ撃ちまくってはいないが、それもありうるとまで言い切っている。つまり云うことを聞かなければ高い関税をかけて経済的に窮地に追い込んでやるし、それでも聞かないなら鉄砲やミサイルを撃ちまくって欲望を満たすという、甚だ物騒な話であり、無鉄砲な発言である。アメリカと云う経済、軍事大国だけに、自由な国際社会を混乱せしめるような話は、控えてもらいたい。世界の国々に関税を一律に10パーセントかければ、たちどころにアメリカは経済の大繁栄を享受できると云うラッパを吹いて世界を震感させている。貿易は二国間の相互主義で成り立っているのが原則で、一方的な関税の引き上げは極めて単純であり分かり切ったことで、相手が何もしなければ、その分相手は損を受けることになる。損を受けて黙っているはずがないだろう。
  大物の成功した人間と云うものは得てして奇人、変人が多いし、天才とうらはらであったり、隣り合わせなことが多い。トランプもテスラもそうした類に違いない。加えて近く成立するtpランプ政権はトランプに忠誠を誓う連中が集められているというから、そうした雇われ人、子分たちは親分の言いなりになって仕えていくという理屈になって、親分の行き過ぎや踏み外しを忠告し、止める連中が全くいないという、イエスマンたちばっかりである。いわば独善的ワンマンの政治が敷かれて行くことになる。ヒトラーやスターリンや、近くにはシリアのアサドみたいな残虐無謀のことをしでかされても困ったものである。
  就任を一〇日余後に控えた昨日の記者会見で、トランプさんが口にし出した四つの事柄について、これは正気の沙汰ではないといぶかったのである。
  ここからはいつものように天下御免、敬称略で行くことにするが、プーチン、いや間違えたトランプは北極圏にあるグリーンランドについて、これを買い取りたいと云って所有権を放棄しなければ高い関税を科すと言い切った。それでも承知しないならば安全保障上、軍事行動も辞さないと物騒なことを平気で言いだした。グリーンランドはデンマークが所有している。デンマークは寝耳に水である。突然、降って湧いたような話に困惑している。デンマークは、グリーンランドは売り物ではないと怒りを込めている。これは、プーチンが北極圏に出てきたと錯覚をする良いなことになり、しかも、アメリカ大統領になる人物からである。やたらと他国の領土を欲しがるとは、いったいどうゆうことなのか。
  トランプは亦カナダのトルドー首相に対して、カナダはアメリイアの51番目の州となるべ気だと、言い切って提案した。最近のカナダのトルドー首相の人気の低落振りは目に余りあるもので、近かずく総選挙に勝つ見込みもなく辞任を申し出たが、国民の意見は大多数が選挙を前倒しして政権の交代をうながしたりしている。アメリカにとってカナダは別段独立国として大した意義もないということから51番目の州になれば、だらだらとした長い国境は必要でなくなり、国民はアメリカの経済的繁栄をそのまま享受できるのであると述べている。
  又、アメリカの南海岸に面して浮かぶメキシコの国に向かって、現在メキシコ湾と云っているが、これをアメリカ湾と云う呼称に変えたいと主張しだした。これは又新たな物議をかもしている。
  そしてまた、パナマ運河の権益をアメリカに返還しないと、軍事力の行使を辞さないと表明したりしている。
  確かにそうした発言をするについては、それなりの根拠があって、だとすればそうした根拠となる問題をあらかじめ提起して検討しながら相手と交渉すべき事案ある。中国、ロシアなどの海洋進出や領土侵略をはじめ、最初はウロウロ、チョロチョロしていながら他国の領域に侵食して、やがて実効的支配を試みるのが中、露の常套手段であり戦術であるが、アメリカはグリーンランドにもそうした兆候があって、憂慮していることが明白になった。トランプの発言によって当面4点が課題として浮き彫りになったということは、アメリカがいかに、中、露との当面の新たな具体的接点として捉えているかが判然としてきたわけである。トランプの鋭い臭覚が先回りした感じである。準備を要するに越したことはない。それにしてもプーチン顔負けの、対・グリーンランドの島の買収提案と、その後の危ない発言である。
 20日のトランプ大統領の就任式が終わってからの本格的な言動に注目して、アジア諸国やEUなどが連携して無謀な行動をチェックできるような体制を早く積み上げていく必要がある。トランプの脅しや牽制のうちに、こちらがその渦に巻き込まれぬよう対策を講じておくべきである。
                                 1月8日

年賀状の欠礼

  毎年年末近くなると、それぞれ年賀状の発送準備に取り掛かることが通例であったが、これを楽しみに書く人と、負担に感じる人があって、正月に届いた賀状を読んでいると様々に受け止められて楽しみであり感謝の念を感じてやまないものがある。新年に当たり、希望と抱負と期待励ましを以て、語っていただく賀状を未だに多く受け取っていることを深く感謝している。一方で又、「今年を以て賀状を欠礼させていただきます」といった文言を見つけることが多くなってきた。高齢に達した理由が多い。高齢に達したがゆえに、古い付き合いが大事になって気はしないかと、勿体ない感じがしてくるが、要は肉体的にも精神的にも負担に感じるゆえんではないだろうか。油断付き合いがないからこそ年に一度のあいさつを交わし、人間的な絆を保っておきたいと願望する人もいないではない。そうした人は、精神面でまだ闊達、旺盛な証拠でもある気がする。早稲田大学名誉教授で、昭和経済の巻頭随筆を長年にわたって執筆してこられた大内義一先生は、百歳手前の白寿でこの世を去って行かれたが、毎年暮れになると千人近い知人、友人、教え子といった人たちに年賀状を送っていらしたが、楽しみと同時に責任みたいな心情があってのことと記していたことがある。自ら常に教育者として社会に臨んでおられた証かもしれないが、そうした人が無宗教であったことに、意志の強さが感じてならない。大内先生は簡単な賀状の言葉を印刷して、宛名とご自分の名前は必ず自筆で書くかれて送っていらした。教え子の中には、専制の自筆の下乗を額に入れて敬意を表している人もあって、先生は律儀にそうした気持ちに向かって賀状をしたためておられた由である。昭和経済に随筆を連載するようになってからの先生の名は、随筆家としてその文学的な世界に名をとどろかせることになるが、敬愛者にとってはさもありなんと思う次第だ。
  高齢に従って賀状を欠礼するといった報せは、きっと高齢ばかりが理由ではないと思う。気分的に人との接触を回避していく傾向に陥っていく弾みかもしれない。それが証拠に法人からくる賀状が、申し合わせたように、ぴたりと異口同音に来なくなったのは事実である。欠礼の言葉を以て、年賀状じまいと称する人もいた。墓じまいと云う言葉は、最近よく聞く言葉であるが、年賀状じまいという言葉はきっと初めてではないだろうか。これかは一般的に使われていくことばになるかもしれない。年末年始の少し間を置いた人間の無沙汰が、賀状に特別な関心を寄せさせる原因の一つとも思われた。そういえば今年も賀状がだんだんと減っていく気がしたが、それについて賀状の来なかった人の消息を訝しげに思ったことも余りないので、これが普通になっていくかもしれないと、つまり虚礼廃止の気風がごく当たり前に、普通に思った次第である。1月14日

公益社団法人 昭和経済会
理事長 佐々木誠吾


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