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社団法人昭和経済会

理事長室より
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理事長室より

Vol.15.03


超激務の安倍首相

  ここにきてアベノミクスの成果を占うデータが示されてきている。それは一部上場の優良企業の業績の上昇と、賃金のアップが顕著にみられるようになったことである。特に輸出産業を主体にして、円安の恩恵を受けて、電気、自動車、電子部品などの企業に特徴がある。問題はこうした企業に関連する中小企業に、社員の給与としてどのような効果を齎してくるかが焦眉の点である。連日の国会の予算審議でも、野党の攻勢を巧みにかわして、専ら経済の好調を宣伝する安倍さんに軍配が上がっている。世間では堅調な企業業績に添って経営者諸君が、押しなべて賃金アップに前向きな姿勢を示してきていることは、好ましく思うし、ひいてはブーメランではないが、これがさらなる企業業績の好循環をもたらしてくることは確実である。かくたる上は、自信満々の政局運営、心身ともに絶好調の安倍さんである。
   テレビの報道を見る限り忍者のように活動する素早い安倍さんを見て、いったい休む時間が十分に与えられているのだろうかと案じるくらいである。内外の仕事を迅速にこなしている様子に、真似るわけではないが、毎日の仕事を前にして自分も負けじと発奮して考え、動き回っている昨今である。官僚の諸君が安倍さんを補佐して準備万端、そつがなく用意してくれるとは言っても、骨子は首相自身のものがなければ、仏彫って魂をいれずで、価値あるものとはならない。大事なところは安倍さんの政策理念を基本に入れて、国民に訴えるものとしなければならない。国会の開会に始まった衆参での施政方針演説、代表質問に対する答弁、衆参での論客を相手にした予算委員会での集中審議に対する答弁に、連日のごとく終日を費やしていたと思うと翌日には、来日中の英国のチャールズ皇太子と福島視察に向かっており、また常磐高速道路の開通式に臨んで帰京したと思ったら、今日は又朝から国会での集中審議に熱くこたえている。
   野党の質問者に対して、質問中に思い余った首相が言葉をはさんだことを以て野次を飛ばしたと、その品格を問われたり、散々な目に合う場面もあるが、総じてそつがなく野党の攻撃をかわしているようである。仕事だから仕方がないと云ってしまえばそれまでだが、うかつな発言は厳に禁物である。首相自らこうしてみると質問者に野次を飛ばすというくらいでなければ、我慢ばかり強いられていても気の毒な気がする。そんなことは云っていられないのだが、事は国家、国民に関する重大な話し合いをしているのだろうから、真剣であれと云うことに理解すればそれでよい。国会の論戦のテレビ中継を見て、言論の自由がいかにこの国で行われているか、如何にこの国の民主主義に貢献しているか、如実にわかるような気がした。こうしてみると年齢的に首相が務めるのは、せいぜい65までだろう。論戦では管轄外の所轄大臣が欠席する中、いつも安倍さんの隣に座って黙想の副総理、財務大臣の麻生さんが勤めているが、苦虫をして、ご意見番としての威厳を以て臨んでいるのが頼もしく映るのである。
   これまでも大臣が政治と金を巡って辞任したり、辞任すればすぐ次の大臣の就任式であったり、それ以前に、疑惑の大臣を一生懸命かばったりして神経の休まる時もないだろうに、同情しながらも声援を送っているのである。頓馬な大臣の答弁で、議場が荒れることもある。議事進行も、安倍さん次第でどうにでもなってしまうから、その場の当意即妙の適宜、適切な判断が必要である。官僚諸君との緊密な連絡と意思の疎通がなければ一人ではやってゆけない仕事である。安倍さんに付く菅官房長官も大変だろうが、安倍内閣は安倍さんが一人舞台の大活躍で、ほかの大臣諸侯は無論のこと政務次官や、党幹部や普通の自民党議員などは付け足しみたいなもので、所詮仕事としては一体何をやっているのかなあと訝しく思うのである。まさかどこかの村会議員の諸侯のように、温泉料理屋の部屋を借りて、親交を深めながらコンパニオンを呼んで議論をしあっていることはないだろう。どちらかと云えばそのくらいの呑気な時間もあってもいいだろう。ただしけちったりして、コンパニオンの線香代も払わずに税金で落とすような気持では大した仕事はできない。失格、落第である。安倍さんが懸命に働いている間、暇を持て余し、好きなことをして遊んでいることはあるまいと思うのであるが、それは見ているわけではないので分からない。仮にそうであっても、公私混同ではいけない。コンパニオンだってちゃんとした職業である。呼んで差し上げることはあってもいいが、呼んだ費用は自分で払いなさいということは当然である。そもそも酒を飲みながら公務について話し合うとか、遊び半分で公務について議論しあうとかいうことは、所詮国民をばかにした話になって不見識丸出しで、あってはならないことである。
   一人舞台の偉人とは云っても一人の力には限りがある故、有能な政治家や官僚諸君が隠れているとすれば、安倍さんを見習って進んで意見を発表して、多くの賛同を得て積極的に行動を起こすべきである。それが公人としての務めである。近頃は何かと云えばすぐにマスコミにスクープされたりして物議をかまし、物言えば唇寒し、で優秀な官僚諸君たちの発言が後退しているのもさびしい気がする。昔は、当会でも各省の優秀な官僚諸君に講師をお願いしたりすると、積極的に喜んで来て下さったものであるが、あの頃以来、影をひそめておとなしくなってしまった。最近は退官したりした諸君が独立して評論家に転身したり、大学に籍を置いて学徒の教育がてら教授にとして籍を置いたりして新天地を求めていく人が多く見かけるようになったが、これは甚だいい傾向である。
   学生時代から実社会で活躍する人たちの指導を受けたりすることは、若い研究者にとっては早くから実践的な訓練を積むことにもなって、世の中に即戦力として活躍できることにもなる。むろん基礎的な学問研究を積んでのことである。優れた先輩たちに学んで、多くの人が立派な理念、立派な意見に賛同して行動を起こすだろう。安倍さんが提唱する積極的平和主義と同じように、積極的民主主義につながってくる。積極性を発揮することは、世の中のエンジンを最大限に有効に使う力であり、これを駆使しない手はない。話は飛ぶけど、東北大震災の復興が遅々として遅れている現実がある。会計検監査院の調べによると、震災、原発事故の東北被災地への復興予算について、その35パーセントが使わずに残されているという。又日経の報道によると、昨年の7月31日現在2兆6523億円の使い残しがあるというのである。さっぱりわからない事実が露呈されたが、これがいい加減な始末の実態なのかもしれない。
  巨額の復興予算が現実に使われずにいる事実が分かったが、そもそも不必要なところに金を使わそうとする内容だから、使えないでいるとも言える。稚拙な検討で予算を要求したりすると、こんな始末になるのである。余って居るからとか、残っているからと云って、早く使うように指示したりするのもおかしいのではないか。不必要な予算かもしれない。無駄な使い方は厳に慎まねばならない。そのお金は降ってわいたものではない。国民の尊い、汗と努力の結晶の税金である。国の予算の組み立ても大切であるし、予算の施行も現場で実効性、有効性を実現するものでなければならない。
  一生懸命に働いている安倍さんもそうだが、同じように中小企業の社長さんたちだって一生懸命になって働いていても、なかなか会社の業績を回復するまでにアベノミクスの恩恵が及んでこないというのが実情である。日銀の黒田さんによってこれだけ金融大緩和がなされて、日銀からお金がじゃぶじゃぶと市中に出回っていても、中小企業の資金繰りは楽ではないようである。必要なところに、必要な生きた資金が向かっていないということである。
   東北の被災地ではお金が使えずにじゃぶじゃぶになってお金のバブル状況のようだが、中小企業の資金は枯渇して操業度が低下している。資金分布の格差だ。地域的、限定的かもしれないが、その資金量は大きい。そうした観点から見ると都会と地方の資金的格差が存在して、おかしな逆転現象が起きている。
政・官指導の経済だと、どうしてもこうした傾向になりがちだが、幸い民間経済の指導者を得た企業では、世の中の変転に即座に対応して、企業の発展にむかっているし、それはトヨタを代表とする日本の大手企業の躍進する姿に似ている。地域間のギャップ、企業間のギャップ、生活者のギャップ、こうした現象の解消こそ重要である。外に向けては軍事的連携の誘惑を排し、平和的、友好関係を推し進めていくことが必要である。
   戦後70年を迎え、今、首相談話が論議の的になっているが、談話があるとすれば、国内はもとより国際社会に大きな感銘を与えるような夢と希望にあふれた内容のものであってほしいものである。即ち、清新にして気宇壮大な内容のものであってほしい。過去の歴史に偏重しすぎてもいけないし、決して無視するわけではないが、河野談話をはじめとして村山談話とか、小泉談話とかがいつまでも課題の焦点になっているが、それはそれとして近隣諸国との積極的な平和への交流を進めることによって、青年らしい未来志向の弾力性を持ったものであってほしいものである。将来の希望に向かって実現に向けた輝くロードを構築する先鞭をつけたものであってもらいたい。人類に発信したもので、先進国、発展途上国だけでなく、例えばアルカイダ系、イスラム系暴力組織を飲み込むくらいの勇壮な政治的意識を確たるものとして、どこにでも向かいきっていくような理念と信念が肝要である。
   平和主義、民主主義に徹してきた戦後70年の重い歴史があればこそ、できる仕事である。戦争によって日本は原爆の洗礼を受け、焦土と化した国土から立ち直って、平和憲法のもと、戦争放棄を以て今日まで発展の道を歩んできたこの実績こそ、尊いものだし誇りとすべきものであって、この実績こそ海外に向けて広く発信してゆくべきである。日本だけにしかできない業である。残念ながら東京電力の原発事故のような事件もあるが、技術立国、経済立国の誇りを示し、物心両面からみた高らかな心情を吐露したものであるべきで、現実的に見ると、こうした意味でアベノミクスも今、すべからく真価を発揮すべき正念場にあることは確かである。        3月2日


四年前の大震災

被災で亡くなられた人々の、み霊の安からんことを祈ります。


   おおなゐと巨大津波の東北の地を襲いきて被害甚大に

    ちょうど4年前の今日、3月11日午後2時46分、太平洋三陸沖を震源とするマグニチュード9,2の巨大地震が発生し、その後に起きた高さ15メートルを越す巨大津波は、東北地方の沿岸一帯を襲った。死者15,884名、行方不明2,633名を出す大災害となってしまった。加えて東京電力の福島第一原発事故の発生で、大量の放射能拡散で、国土は未曽有の大災害を伴って現在に生々しく及んでいる。悲惨の歴史にいまだにうごめいている日本である。会既に4年が経過したが当時あった避難民47万人は、現在23万人までに減ったものの、今なお多くの人たちが苦渋の避難生活を余儀なくされている。懸命の復興計画を遂行中だが、ここにきて鉄道と道路の復旧は先の常磐高速道路の開通で、全線開通をはたした。しかし被災地の人たちにとっては、65%の人たちが、復興を果たしたという実感を抱いていないという状況である。安倍さんは、東北被災地の復興5か年計画の終わる来年も、また引き続き5兆円規模の予算を組んで、復興5か年計画を延長すると云っている。確実な、充実した復興計画を実現するまで、官民一体となって努力しなければならない。
   銀座の繁華街、首都高速道路が走る下は、銀座4丁目の数寄屋橋から銀座一丁目までの間にかけて続き、インヅ・Ⅰ、インヅ・Ⅱ、インヅ・Ⅲと横に走る道路で区分され、それぞれに綺麗な商店が沢山出店している。一階は華やかに、女性用装飾品などのブティック専門店である。、二階は個性豊かな飲食街となっている。
    大震災の日、私は遅い昼食をとって、インヅⅠにある喫茶店に入って軽食をとりながらコーヒーをのんでいた。その時である。軽い揺れを感じて地震だなと思っていたが、何となくその揺れは止みそうにない。揺れが、次第にゆっくりとした波長に代わっていくように感じた。かなり長く続きそうな気配に、次第に大きい地震だなあと感知するようになった。ゆっくりと左右に振れる、柱時計の長い振り子を見ているように思った。堅牢な首都高速道路がかかる高速道路の構造物の中に居ながら、まるで釣り船に乗っているような辺りの揺れに思わず立ち上がった。店にはわずかな客人がいたが、同じように立ち上がって、狼狽気味である。ぎしぎしと音がし始めて建物が揺れ始めた。あわてた客の一人がドアに駆け寄ると、皆が後を追って外へ飛び出した。周りのビルが大きく揺れている。ゴーと云う地響きと思われる図重いく鈍い音が、地面を割って地下から鳴り出してきた。
   一目散に外に飛び出した私は、街路樹の木につかまって体を支えながら辺りの騒然とした様子に固唾をのんで唖然、呆然とする有様であった。巨大な街が、銀座のビル街が轟音と共に左右に動いている。地面が割れて、大きく横ずれして、ビルが左右に揺れている光景に震撼として立ちすくんだ。真向いの実業の日本の、重層な本社ビルが動いている。巨木を思わせた、戦車のようなビルだが、これがいとも軽々しく左右に揺れている。途中から折れてビル全体が今にも崩れ落ちると思うくらいである。何やら地鳴りに似て、巨大な轟音の塊が、背後から押し寄せてくるみたいだ。外に出てもめまいがする。視界に収まる物体が、今度は回転が止まずに恐怖に襲われて生き地獄ひさらされるみたいである。一体どうなってんだ。地球最後の日になるのか。この揺れは一体いつまで続くのか、さらに激しい揺れが襲ってくるのか、だれも気が付かない。もっと激しくなったら、東京駅前のセンチュリー・ビルも崩れ高層ビルが雪崩を打って倒壊してくるに違いない。街路で右往左往する人たちが、都会にうごめく人たちは、なぎ倒しにあって、みんな圧死である。首都高速道路の下に居ても危険だ。橋脚が折れて道路が頭上から落下してきたら下敷きである。行き場のない群衆が地下に動いたが、地下街は安全を求めた群れの人で埋まっている。天井が落ちたら、全員生き埋め、埋没である。秩序を失った天変地異の混乱と恐怖と狂気は人語を絶するものだ。 襲ってくる余震が人々を震え上がらせている。 携帯電話が通じない。交通手段は機能不全だ。騒然とした混乱の都会に、立ち往生する救急車のサイレンが鳴りっぱなしである。逃げ惑う人たちで、方角を失った群衆が固まったまま立ち往生している。 これで人々の息の根を止められたら、町は暗黒の深淵である。人々が息をしている間は、町はかすかに動いていることになる。人ごみを縫ってオフィスの前にたどり着いた私は、勇気を出してビルの中に入った。おびただしい水漏れとがれきである。停電だし水道の破裂で館内は水浸しであり、地下には入れない。階段をまたぐようにして登って7階まで決死の覚悟で登って行った。恐怖の思いだった。時々ビルが揺れている。途中からビルが折れそうな気配の地震がまた襲ってくる。部屋に入ると書棚が倒れ足の踏み場もない。柱に、壁に、ひびが入り私の机と椅子がかろうじて柱に止まって固定されていた。倒れていたパソコンを起こし起動させると電気が通じた。ラッキーだった。インターネットを開くことはできなかったが、パソコンを打つことはできた。現実の恐怖の模様と心境を寸時に打ち込んだ。水が漏れて天井から落ちてくる。倒れた什器の間に大事な書類があるが手の付けようがなく片付けは当分できそうにもない。オフィスの中と部屋の状況を知って、諦めと安堵の交錯する中、混乱した階段を足場を探しながら、壁に手をかけ慎重に下りて行った。

災害に逢った時の訓練を思い出した。あの時はB 29による夜間空襲であった。ちょうど70年前、父は3月10日、東京大空襲にあって、火炎の中を隅田川にかかる言問橋を燻るしかばねを超えて隅田公園にたどり着き、言問神社の境内にある公園の防空壕に入り死なずに済んだ。夜間、東京の下町の上空を飛来したB29爆撃機は320機っである。おびただしい焼夷弾攻撃を受けて、下町は火の海と化した、死者は10万人を超した。この後B29による焼夷弾爆撃は、その後さらに大阪、名古屋に広がって、最終的には広島の原爆投下につながっていった。私は、終戦まじかの8月3日、疎開先の水戸で夜間のB29による焼夷弾大空襲に遭遇したのである。両親と兄弟四人がはくれないように、固く手を結びあい握り合って、火の海と化した火炎の中を逃げて行った時のである。目前に炸裂する焼夷弾を避けながら、見上げると火の粉のように焼夷弾が空から落ちてくる。直撃を受けないのが不思議なくらいだ。神のご加護である。千波湖のほとりにたどり着いたが、幸い洞窟の中に逃げ込むことが出来た。今もあの時のことを思えば、地震の揺れなど何でもない。ビルが崩れて下敷きになったにしても自分は助かるはずだ。すべては神のご加護だからである。背中にイエスの像をしょっているように思えた。祈りの時と同じように家内もついており、イエスもいつも一緒だと思っていた。大空襲のときは背中に仏様を背負っているようだった。父はこうした時はいつも位牌と過去帳を懐に抱いていた。危機と災難にお遭遇した時は、念仏を唱え、祈りながら過ごすようにしている。続 

その後の余震は間断なく襲ってきた。先刻の大揺れをはるかに上回る地震が来るかもしれないという恐怖の念に襲われていた。 街に放り出された群衆は、交通機関の不能で行き場もなく、あたりを徘徊するのみである。地震の震源地をはじめとして、その後の状況は判らず、混乱の中に立ちすくんでいた。携帯電話も通じなかった。目の前の富士屋ホテルは、避難して押し寄せた群衆で既に満杯である。ホテル側は、緊急の事態に館内を三階まで解放し、避難民を受け入れていた。阪神淡路大震災の時は、火の手が上がって方々で火災が発生したように記憶しているが、幸いそうした事態は周辺に起こらずに済んだ。家族との連絡も遮断されて、大災害の不安と恐ろしさが身に染みていた。娘の明子からは無論のこと連絡がつかなかった。きっとテレビの報道で必死の活動をしていることだと思ったが、夕方近くになって息子からの連絡が携帯でつながった。交通機関は全線不通だし、都会を脱出しようとして歩いていく群衆で、沿線道路はどこも大渋滞の上、大混雑しているという。だから動かずに今の場所にじっとして建物の中にいるのが一番安全だと伝えてきた。弊社のビルは、使用不能に陥っており、術なく富士屋ホテルに入れさせてもらった。館内も大混雑である。収容できるだけ避難民を収容した富士屋ホテルだが、職員の応対も大変であろう。大きな余震が来るたびにどよめく有様で、気が休まらない。6時を回って外が暗くなってきた。今夜はこのまま富士屋ホテルに避難させてもらうしかないと思った。幸い館内に入ることが出来たが、多くのビルが、この夜の為に解放された。私は館内の二階の、いつも講演会場として使う桜の間に入った。ここにはしばらくしてテレビの大きなスクリーンが用意されて、悲惨極まる被災地の、地震と大津波の状況が伝えられるようになった。
   そこでわかったことは、恐ろしいことに地震だけでなく、東北沿岸一帯に大津波が押し寄せて甚大な被害をもたらしている状況を知るに至った。その状況をとらえたフィルムが刻一刻と映し出されて、港の街一帯を飲み込んでいく姿が映し出されて身の毛がよだつ恐怖感に襲われたのである。高さ15メートルを超す大津波の恐怖である。海面が大きく盛り上がって、巨大な海の壁が沿岸一帯の陸地を目指して押し寄せてくる。海浜の人家を飲み込み、さらに陸地の奥深く容赦なしに襲ってくる。大小の漁船が、自動車が、家が、木の葉のように軽々と流されて津波にのみこまれていくではないか。そうした中で、逃げ惑いながら多くの人々が無残にも波に飲み込まれていく状況も映っているではないか。目を疑いたくなるような戦慄の光景である。平和な海辺の町が一瞬にして消えていくさまは、既に地獄絵の様相である。圧倒的なエネルギーを以った巨大な津波の破壊力は、言語を絶してすさまじくテレビに映った。 それを現実に凝視しながら、頻発する余震におびえながら、それでも富士屋ホテルの献身的配慮に感謝して、この夜は用意された椅子に腰かけて仮眠をとりつつ、翌日まで避難民に解放された宴会場の桜の間にとめさせてもらったのである。 未曽有の大災害で、東北地方の被害甚大な状況が、刻一刻に報道されてきた一夜であった。   3月11日

プーチン先生の暴言、これを梃子に核兵器廃絶へ


    冗談じゃない、気でも違ったのかと一瞬思ったくらいである。餓鬼ざまに似たプーチン先生の発言である。大国の指導者としての、見識欠如も甚だしき暴言である。即刻、国際政治の舞台から退場すべきである。たかがクリミア併合程度のことざまで、核戦力を戦闘態勢に置く準備があったとぬかしおった。飛んでもない発言をするやからである。たかがクルミア程度だろうがなんだろうが、小さかろうが、でかかろうが、核戦争を仕掛けようとしていたなどと、やくざががまいの、無茶苦茶な指導者を据え置くロシアと云った国は、その国民は、あのニヒルな顔つきそっくりの非情な民族でしかないと思われても仕方がない。どう見ても正気の沙汰ではない。たかがと云ったのは、クリミアで左様な暴虐をしでかしたら、核戦争を起こしたことになり、核戦争が始まったら、人類は破滅しかないということである。まさか核兵器使用を限定的に絞ってやるなんて考えたわけでもあるまい。
   プーチンと同じような考えを持った人物が、ロシアにいるとしたら、お先真っ暗な世の中になってしまうだろう。せめてかくのごとき気違いざまの人物は、プーチンだけであってほしい。プーチンだけに限定しておいてほしい。そしてそのプーチンに核兵器のボタンを押させないようにすることだ。かような発言を許した国民の責任も重い。
ロシアの経済は今タガが緩んで、国民は経済の低迷とインフレに苦しんでいる。 原油価格の下落とルーブルの下落、そして欧米の経済制裁で経済は委縮し、苦渋を強いられている。国民の鬱積する不満のガス抜きを図るつもりで云ったとすると、いささか軽率である。世界が核軍縮に向けて努力中であり、核兵器廃絶に向かってきた努力と歴史を踏みにじり、道半ばの成果を完全に否定する暴言が、今の世界に与える悪しき影響が、仮に広まっていくとすると世界は恐怖のどん底に落とされてしまう。 世界の一人ひとりが、プーチンの暴言に目をさまし、改めて核の脅威を認識し、さらに核兵器廃絶の声と実践の足掛かりをつかむものとしなければならない。テロの拡散が今、世界の各地の地盤の緩いところで惹起されているが、プーチン先生の発言が、こうして地域に漫然と伝播していくとしたら、人間の殺戮に無神経な人物たちの衝動を駆りたてる結果になりかねない。
  こうした風潮を限定させて封じ込め、これ以上の拡大を阻止していく必要がある。だとすれば逆にとらえてプーチン先生の暴言が、世界の人々に改めて核の脅威を認識させて、核兵器廃絶のための行進を世界に促したというように解釈すればいいわけだ。プーチン先生よ、これで良かった、今後はあまり軽はずみな言葉を吐くことのないようにお願いしたいものである。そして核廃絶の行進に参加して、世界に啓蒙のうねりを高めてもらいたいものである。地域紛争の無益な、残酷な状況を目の当たりにして、今こそ人類が真の人間性を取り戻す機会とならんことを、繰り返し述べている点だが、世界の政治家、とりわけ大国の指導者が率先して範を示し、世界の人々の啓蒙を図り、そうした状況に気づいてもらわないと困るのだ。    

日本は、近く来日するプーチン先生にお願いしなければならないことがある。それは北方領土の四島の日本への返還問題である。戦後七〇年が過ぎようとしている。終戦間際、旧ソビエトは日ソ不可侵条約を破り、敗北して無政府状態の日本に宣戦布告して軍隊を以て怒涛のごとく侵入し、邦人を苦しめ、満州、樺太、千島列島を占領し配下に収めた。無謀な攻撃にあった日本人は多大な犠牲を払って、今なお悲惨な当時の状況が語り継がれてきている。厳冬のシベリア抑留で過酷な強制労働を強いられ、6万人とも言われるおびただしい日本人が倒れて亡くなった。看過しがたい歴史的事実があるが、それはそれとして、ロシアは、日本古来の領土である択捉、国後、歯舞、色丹の領土を潔く返還し、日ソ平和条約に向けて締結する具体的な交渉に入るべきである。これら四島は、軍事的、地政学的に見れば、或いはロシアの極東地域におけるそれなりの重要性があるとしても、日ソの間には対立、抗争する要素は将来においてもないはずである。仮にあるとすれば、ロシアの日本に対する対応の仕方にあって、敢えて言うならば外交上の信頼を損うことに起因するものである。紳士的に信頼関係の構築に、日本は常に積極的に、平和的に友好関係の精神を原則として対応してきている。そのためにも懸案となっていている領土問題の解決に取り組んでもらいたい。広大なロシアの領土からすれば微々たるものである。日本に返還して、これらの地域開発を高度なレベルに引き上げて、日本の開発技術と意欲にゆだねた方がロシアにとっても有利になるのではないだろうか。低迷したままのロシア経済の回復が、これからさき何年かかるかわからないが、視点の転換を図り、日本の技術と、資本を駆使して、逆にロシアに多大な利益をもたらし、さらに交易の拡大に利すること確実である。             3月17日


公社 昭和経済会の総会と理事会

   今日12時から昭和経済会の総会と理事会が開かれた。富士屋ホテルが昨年の4月以降閉館となってしまった。残念である。長年、常設会場に使用していたが、会場を選定するに困っていたところ、東京駅近くに理想的な会場が見つかってよかった。今回は事務局の山本君が見つけてきてくれたので助かった。北大路と云う洒落た店で会食を兼ねながら行うことが出来た。
   第1号議案 平成26年度事業報告・決算の承認
   第2号議案 平成27年度事業計画・予算の追認
   第3号議案 役員選任の件
を事務局からの説明があって監査報告を得、のちこれを審議して異議なく決議して所定の手続きを経、つつがなく1時40分に終了した。

  そののち親睦懇談と会食に入ったが、乾杯を井浦康之理事にお願いし、楽しみの会食と歓談の時間に移った。重鎮の井浦理事はあと一週間で満87歳を迎えるということで、心身共に意気満々に溢れんばかりの様子である。人生百歳まで計画が詰まっている由で、小生などは当然のこととは思いながらも皆びっくり仰天である。井浦理事は、人生は健康で満足して、にこやかに過ごしていくことが最良の道と常々申しているので、小生などはすぐに感化されやすく平気で聞いていたが、他の人はそうでもないらしい。年齢を全く感じさせないはつらつとした雰囲気であって、頭は光っていても、声の張り、肌の艶やかさからして60歳ぐらいにしか見えないのである。同理事の笑顔は無理して作られたものでなく、自然とこみあげてきているものなので魅力なのである。服装はいつも威儀を正して崩れたところがなく、清潔感にあふれている。お洒落である。笑顔は、その上に積み上げられたものである。もちろんいつも笑っているわけではないが、人と会っている時は自然と笑いがこみあげてきて人を幸福にさせる業と云うか芸と云うか、それも作為的に強いるものでなく、人間性が心の底から自然体でにじみ出てきているので、人としての品性を高めて、栄養は濃密である。笑顔、微笑、時に大笑いで会場を沸かせるのである。同じように皆の心も同理事に和合して、喜びを味わうことが出来て滋養たっぷりに吸収して心身の英気を養ってこられるのである。一期一会の心情は昔からの信条であり人生のモットーとして、人生に臨む姿はいつも人生賛歌に徹していて美しい。感謝である。
   当会は公益社団法人として、この経済社会活動を通じ広く社会にその信念を広め伝えていく使命を担っている。元、旧・大蔵省、現・財務省大臣官房所管の公益社団法人としての名誉ある経歴を以て、80年のゆるぎない歴史を誇る企業経営者団体である。自由で公正な競争社会をめざし、市場経済を目指すことによって、民間企業の発展を促し、格差是正に努めていくことが肝要と心得ている。
  企業の発展は正しい企業経営を通じて社員の所得上昇につながり、雇用市場を正常化して家計を、そして資本の充実を図り、以て家計と企業の良好な相互の発展的循環を図り、社会を潤すものと解釈している。これこそ公正で平和な社会の発展の原動力である。古代ギリシャの哲学者セネカが、貧乏は人間を不幸にすると説いている通りである。無駄な贅沢は経済的価値観からすれば悪徳に通じるが、ほどほどの贅沢は人間の品性を高めるものである。一方でシュンぺター謂うところの企業家精神を発揮し、良好な環境維持に努め、前進と改革への意欲を示すバロメーターでもある。物財の循環型消費と生産の経済を促進していくことが重要である。生産と消費のバランスを得た道こそ経済社会の鉄則である。
公益社団法人としての使命を認識し、歴史と伝統に軸足を置いて、尚当会の使命と活動を清新なものとして持続させ、将来の展望を確たるものとしてとらえ、力強く運営に心してゆく所存である。    3月20日

宣教師 バートン牧師を送るの歌

  バーナード・バートン牧師が玉川神の教会の牧師に赴任してきたのは2009年の春のことである。歳月の過ぎるのは速いもので、あれから6年が過ぎてしまった。玉川聖学園の校長を務め、また現在も理事長を務めているが、この度九州の二日市にある教会に赴任していくことになった。
三年前に愛妻のチェルさんをがんで亡くして寂寞の念を消し難いに違いないが、そうした素振りは寸時も見せず、毎週日曜日の礼拝をはじめ、宣教活動に情熱を燃やし続けてきた。その間、愛妻の病の治療と看病に、日本とアメリカの間を幾度となく往復した。東京では最初近くのS医大に入院し、腎臓がんは、腹くう鏡の手術を得たが6か月後に再発してしまった。今、群馬大学医学部の附属病院で同様の手術で、術後の死亡者が多く出ていることで社会問題になっているところであるが、S医大でも同様の症例と事例が懸念されるところである。未熟な医師が新しい処方に挑むこともあって、最初からミスとリスクを以て行う風潮は消し難い。その後、夫妻は手を取り合ってアメリカにも幾度となく渡ったりして治療に励んだ。バートン牧師は、愛妻のため最先端の手術と治療を受けたりして献身的な看病に徹してきたが、約一年後に希望を絶たれてしまった。残念である。
  チェルさんは副牧師として玉川神の教会の職務に就いた。伝道活動も道半ばで天に召されたと思われるが、すべては神のご意思で、チェルさんは、さわやかに笑みをたたえてこれを受け入れ、喜びつつ神のみもとに召されていかれた。我々から見ると全くのおしどり夫婦と映って、苦楽と浮沈の人生を共に歩んできた夫妻の来し方をほほえましく見守ってきているわけだが、花の命は短くて、の林文子の言葉ではないが、凡人はすぐにそのように解釈してしまうのだが、正直のところ無念の一念もこみあげてくるのである。バートン牧師はそうした状況に堪えながら、また一人宣教の旅について、別の新たな開拓の地を選んで行くことになって、それは神様の意志に従ってゆくことと、使命について極めて爽快かつ明快な決断なのである。
  バートン師らは夫婦ともども、日本にきて三十年になろうとしている。初めは九州の二日市にある教会に赴任して、そこで約二十年の伝道に時が過ぎた。言葉と慣習の違いを克服し、十分に宣教の務めを果たし、そして東京に赴任してきた次第であった。日本を深く理解し、愛し続けてきて、日本人以上に日本を理解し、愛し、第二の故郷以上ではないだろうか。富士登山をする夫妻の写真は、なんと美しく晴れやかなことであろう。幾度となく思い出の記録をとどめてきていることが、また魅力である。そして活動は、東北震災の被災地の救済にたびたび出向き、車を運転して、我々が献品させてもらった沢山の物資を、現地に運び続けてきた。感謝の念でいっぱいである。これから赴く慣れない土地でのひとり暮らしは、難儀もあることであろう。持ち前の意志堅固、身体強健をもって、情熱的に人生を歩んで、宣教の道を貫いていくことを私は希望し祈っているのである。

礼拝の終わった後、バートン牧師に感謝する会と銘打って午後一時から愛餐会が開かれた。老若男女が、バートン牧師に心から感謝してささやかな会食会を以て臨んだが、バートン牧師は終始笑顔を絶やさず、皆と歓談して別れを惜しんだ。妻が玉川神の教会を代表してバートン牧師に感謝の意を述べるとともに、バートン牧師との思いでに触れて懐かしく語った。特に親しくして付き合ったチェル夫人とは格別な思いを持っており、がんの病に侵されながら気丈に宣教の道を歩む姿を熱く語ったのである。あとに残されたバートン牧師だが、神のみ心に従って懸命に生きていくことであるが、熱い思い出を残して一人旅立っていく後ろ姿を気遣い、ひたすら神の救いと恵み、そして励ましと癒しを求めているものであった。我ながら感銘して聞いていたのである。

     春風のそよぐ夕べにふるさとの花のたよりに出でし旅かも
     

  
    

     バートン牧師を送るうた

宣教に発てるバートン先生にパウロの姿重ね合わせん
宣教にひとり旅立つ先生に道ゆくパウロの姿偲べり
愛妻のチェル姉を胸にひとり発つ桜咲く日のバートン牧師よ
世の人の喜怒哀楽を打ち鎮め慎ましく生く時のうれしさ
九州の栄えの土地に宣教のチェル師と共によみがえる日よ
素晴らしき祈りの道をつきすすむ三位一体の法界に立つ
梅の香の匂ふあしたの説教に心すがしく主に仕へけり
惜別の思いもふかしバートンの情熱あふる今日の説教
春を告ぐ陽ざしに梅のほころびて牧師のイエスを語るよき日や
梅の香のにほふあしたに相まみえ桜散るころ君は去りしも

われはなほ浅き信仰のしもべにて悔ひ改めの道に励めり
信仰の道なほ険し行く先にかがやく神のみ国ありしも
朝にけにつつがなき身を感謝して道に励みて実り多きも
おびただし聖句の中にキリストの愛と光を示す我が妻
時あらば常に聖書をひもときてイエスと語る妻の目に入る
信仰の道をひたすら歩みゆく妻を眺めつ朗らなるべし
汝が友に愛と光をともしゆく笑みを絶やさぬ妻が居りしも
朝やけの空しみじみと明け初めて聖書にむかふ妻を見つけり
何かにと友らを交えキリストの妙なる教へ語るわが妹こ
艱難と辛苦に勝ちて高らかに行くバートン師の宣教の道
愛妻を失ふあとを何かにと牧師を気つかふ妻のこころね
あるときは夕餉の煮物を持ちて行く不自由な身のバートン牧師へ
縁ありて君が大和に居り間に和歌を学びてあれと申せり

寂しさにひとり山路をたづねきて咲く山百合にチェル師偲べり
渾身の力を示すバートン氏パウロの東北救済に似て
東北の地にいくそたび駆け走り貧者救済に尽くす牧師よ
情熱のバートン牧師にキリストのみ霊の移り尚もえさかりけり
理不尽のこの世に多くまかりけり正義と情義を尽くす故なり
十字架のイエスをあほぎ活躍す艱難辛苦に打ち勝ちゆかん
日本の今の繁栄に感謝してなほ民生の安寧を期さんや
うぐひすの高鳴きをきき教会に行く道すがら摘みし菜の花
さはやかな春風に触れ我が妹と恵み豊けき辺りそぞろふ
バートンのイエスに尽くす生涯の常にチェル姉が寄り添ひぬ日々
キリストの教へに添ひてゆく身にも南無阿弥陀仏の声の聞こへ来
ててははとはらから居まし昔いま極楽浄土の天にまします
みほとけの愛と癒しに救はれて極楽浄土に居ますててはは
バートンの聖餐式に黙想す一念静思の面影ふかし
東北の大震災に幾そたび被災の人をはげましに行けり
主を讃ふみことばにつき学ぶ日のバートン牧師の玉川教会
いつの日か又相まみえよみがへるバートン牧師とチェル副牧師
被災せる東北の地を救済に尽すバートン氏の姿尊とき
おおなゐと巨大津波に砕かれし東北の地をゆくバートン師よ
大船渡浜辺に立てる一本の松に命の力尽くせり
朝まだきワゴンの車を運転し救援物資を運ぶ牧師よ
激浪の激しく襲ふ大船渡廃墟の浜に残る松かな
富士を背にほほゑみて立つチェルさんのマリアににたる姿ゆかしき
日本人より日本語と心をば機微に賢こくとらふバートン
バートンの今朝の説教に奮ひ立ち勝利に向けて我は進めり
梅の香の匂ひてくれば亡きチェル師その人柄のなつかしきかな
清楚なる匂ひおのずと漂ひてチェル師の居りし教会のうち
水仙の咲きそろふ日の陽だまりに早や菜の花も出づる気配に
菜の花のそろりそろそろ咲くころと窺ひ知りぬわれが庭かな
菜の花に思いを託し忘れ得ぬ人浮かび来て思ひ過ごす日
不二を背に登山姿のチェルさんに神さぶ道の厳しさを見ぬ
チェルさんと親しく語る我が妹と共にイエスの香りにほひ来
玉川の神の教会の十字架にまたたき光るオリオンの星
春の夜にきらめき光る法界の真砂の星に魅せられしかな
春風のそよぐあしたにまほろばの花のたよりに出でし旅かな
指を折り年を数へてわらべ歌うたふわらわの遠き夢の日
梅の香の匂ふあしたに身をあかし桜のころに去りて行く君
麗しき三位一体の法界に立ちとこしえの果てを眺めん
満天の星をあほぎて限りなき宇宙の果てに思いはせなむ
星々の身を寄せあひて輝けばほのかに白く霞とも見ゆ
満天の輝く星を仰ぎ見てなぜかゆへなく人の恋しき
愛妻を亡くしてひとりさびしさの道ゆく先に山百合の花
妻につき礼拝前の会堂に居ればおのずと心鎮めり
十字架のイエスを仰ぎあがなひの痛々しきに胸の裂けるを
聖書より父よ彼らをゆるせしとみ言葉をきき仰ぐ十字架
落ち着きて主の御言葉をとりつぎし藤原牧師のそれなりによし
陽春のひかり大地にみちあふれ喜び合ひて仰ぐ十字架
思へらく力と権威にみたされて神の言葉に満たされしかな
麗しき頃あひとなるあめつちの燃えさかり出づよろずもの皆
真なるやまと字をかきみ言葉の意義を記せるバートン牧師は
キリストの血と肉を皆さづかりて喜び合ひし聖さんの儀に
花の日に塚本兄弟の受洗せりイエスの香り匂ふめでたき
大いなる恵みをもちて花の日の牧師の最後のメッセージぞ良き
富士を背にほほゑみて立つチェルさんのあな美しや貴き面影
不二やまを登るバートン夫妻より高みをめざす便りとどきぬ
チェルさんの病ひに倒れ逝ゆきしあと主に支へられ生くるバートン
この国にチェル師と共に宣教の道行く聖しバートン先生
艱難は忍耐を経て練達を尚成功へと聖句の述べり
汝が妹と高みをめざす富士やまの主に仕ふ身のつつましきかな
最愛の妹子と別れてひとり行く旅路の空の高くあらまし
面立ちの猛きますらおと覚へしも良きこころねに惹かれけるなり
花の日の最後となりしメッセージバートン牧師の主の道をゆく
この国に縁と絆にありしかば文化の和歌を君に勧むと
この国に祈りの道を広め行く牧師に神のご加護あれかし     3月22日


3月29日にバーナード・バートン牧師の最後となる説教があった。教会に行って、外人の牧師に説教を聞くのは今までに2度あった。一度目は大学時代である。ドイツ語の教授を得るために、私は自発的に当時難解とされていたゴットル経済学を酒枝義旗名誉教授に教わった。そのついでと云うわけではなかったが、経済学原論をドイツ語で学ぶ機会があった。放課後になると夕方から大学院の酒枝研究室に行き原書を講読しながら経済学を学ぶ時間だったので、そこでドイツ語を勉学した。酒枝教授は敬虔なクリスチャンである。我が国でも内村鑑三と並ぶキリスト教研究の大家であり、傍らゴットル経済学研究の第一人者であった。当時は経済学と云えばマルクス経済学と、それに対峙してケインズ経済学が人気の学問流派であって、今でも続いている世界である。中国に代表される社会主義的計画経済の社会、片やアメリカに代表される自由主義的市場経済の社会である。政治的には前者は一党支配の中央集権的国家体制であり、一方複数政党による自由民主主義的国家体制である。そうした中でゴットル経済学は経済社会の機能を構成体論的に把握して、如何に経済を最大公約数にして公正な所得の配分にならしめて、国家存立の基盤を作り上げるべきかを論じた学問である。
  酒枝教授の流麗とした弁術は、その右に出るものはなかったくらいで、西ドイツのアデナウワー首相が来たときは、早稲田の大隈講堂で講演を行ったが、その通訳をしてあっ晴れな講演となさしめて、その翻訳と講演はアデナウワー首相よりも格調高く聴衆の胸を打ったのである。私はその後酒枝教授とは公私にわたり親しくご指導を受けて、社会に出てからも親交を深めた行ったが、そうした思い出の話は含蓄に富んで、いずれ機会があったら小生のコラムに綴っていきたいと思っているくらいである。学問研究においてはもちろんのこと、各方面に多彩な才能を発揮して学園で誇り高い名声を以て迎えられていた。中野区の鷺ノ宮にある自宅を開放して集会場に使い多くの信者が教授を慕って見えたのである。現子夫人にもお世話になった。そうしたことを懐かしく思い出したのである。
   教会の牧師として赴任したエーラー先生は、やはり西ドイツから早大の教授として招聘されてきた。大学ではドイツ語の会話を教わっていた。同時に宣教師として文京区本郷の富坂教会に赴任してきたこともあって、その教会に何度となく通って、エーラー先生の説教をたびたび聞いたことがある。しかし私を見ると、必ずドイツ語で話しかけてくるのである。日本語を話すことがよほど難しいことだったに違いない。それは私にとってドイツ語会話の訓練の絶好の機会であった。それに比べると勿論、滞在期間が大いに違ってくるから致し方ないが、バートン牧師の日本語は抜群に優れたものである。日本語の抑揚を上手に使って聞く人の心を捕まえて、語彙は豊富である。ただ一か所だけ注意したいと思って今日まで来たが、折角の弁術が、たった一か所間違えて使っているがために、全体の意味が損なわれてしまっているのが残念である。接続詞の言葉の使い分けである。注意しようと思っていながら機会を外してしまった。30年以上もその調子でやってきたから、今更注意しても感じを悪くするが落ちだと思ったことでもある。だから敢えて言わないことにした。それがバートン氏の特徴ととらえれば、それはそれで生きて来るかもしれない。
   最後の説教となったが、その記念すべき日に洗礼を受けることになった人が居た。一年前ぐらいから教会に見えていた人だったが、しっかりして寡黙な人格者と思しき人であった。60歳代の人かと思ってたびたび挨拶を交わしていたが、深くは知らなかった。家内が親しく言葉をかけていたので、教会の雰囲気に次第に慣れてきたようで、たまに礼拝の終わった後のお茶飲み会に加わったりして過ごしていくことがあった。私はどちらかと云うと礼拝に出席するよりは、こちらの方の会に出て、みんなの話を聞いたり、こちらからものを申したりして歓談する方が楽しみなのである。時折、皆と自由が丘に出て昼食をとって帰ってきたりするが、そうした時ほどさらに有意義に過ごしてきたと思って、その分喜びが増してくるものである。精神衛生上にもいいし、これを以てイエスの癒しであり、恵みだと私自身は勝手な話として解釈し、左様に称しているのである。
   洗礼を受けた紳士の塚本さんは、信仰告白の際に述べたことで詳しく分かったが、今年77才、大学を出た後にイギリスに留学して、帰国後は脳神経外科を専門とする医者として活躍し、その後は大学病院の重鎮の地位にあって努めてきたが、退職後早や喜寿を迎えるころとなって医者として真剣に生と死の問題について考えるようになってきたとのことである。そして行き着いて教会の門をたたくことになったらしい。人間として自分について真摯に考えた挙句に、洗礼を受けたという心境を明かしたのである。喜寿と云われたが、実際には60歳ごろかと思われる感じの若々しさである。お茶を飲んだ後、都合がついて気の合った人たち8人で自由が丘へ行く途中のレストラン・モッコによって昼食をとっていくことにした。モッコでの昼食会は、この日に洗礼を受けた塚本兄のお祝いを込めたものでもあった。私は「 花の日に塚本兄の洗礼を受けてめでたく祝ひけるかな 」の一首を詠んで差し上げた。花の日は、文字通り桜の花の季節である。折から満開の花を見上げながらふと浮かんだ一首である。  
   昼食会には、久しぶりに内科医の大武先生も参加された。先生は89才である。つい最近まで九品仏駅近くで開業医をなさっていた。趣味は写真撮影で、プロ級である。医者の仲間同士でグループを作って撮影のため外国に出かけることもあり、たびたび個展を開いたりしているベテラン写真家である。藤沢から見えている。神田から見える岩金夫人、学芸大から見える松本夫妻が揃って昼食の席となった。岩金さんはお茶の師匠である。お弟子さんが沢山いて忙しいが、玉川聖学院でお茶の教室の教授もしている。旦那は神田の生まれで生粋の江戸っ子ゆえに、今宵は隅田川に屋形船を浮かべて桜見物だそうである。粋で、なんとも風流な、贅沢な遊びである。粋な文化人である。松本さんは元NHKの職員であった。一部ながら、こうした種々多彩な人の集まりで、塚本さんも安心したのではないだろうか。教会と云うところは神様との出会いと、神様と対話の場であるが、その会堂を一歩出ると、穏やかな人間同士の付き合いがあって、損得勘定抜きの、ほのぼのとした心境に癒されるものだということである。      3月27日


   

2015.03.05

社団法人 昭和経済会
理事長 佐々木誠吾


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