HOME > 理事長室より
- 最新ナンバー
- バックナンバー
- 2024年12月
- 2024年11月
- 2024年10月
- 2024年09月
- 2024年08月
- 2024年07月
- 2024年06月
- 2024年05月
- 2024年04月
- 2024年03月
- 2024年02月
- 2024年01月
- 2023年12月
- 2023年11月
- 2023年10月
- 2023年09月
- 2023年08月
- 2023年07月
- 2023年06月
- 2023年05月
- 2023年04月
- 2023年03月
- 2023年02月
- 2023年01月
- 2022年12月
- 2022年11月
- 2022年10月
- 2022年09月
- 2022年08月
- 2022年07月
- 2022年06月
- 2022年05月
- 2022年04月
- 2022年03月
- 2022年02月
- 2022年01月
- 2021年12月
- 2021年11月
- 2021年10月
- 2021年09月
- 2021年08月
- 2021年07月
- 2021年06月
- 2021年05月
- 2021年04月
- 2021年03月
- 2021年02月
- 2021年01月
- 2020年12月
- 2020年11月
- 2020年10月
- 2020年08月
- 2020年07月
- 2020年06月
- 2020年05月
- 2020年04月
- 2020年03月
- 2020年02月
- 2020年01月
- 2019年12月
- 2019年11月
- 2019年10月
- 2019年09月
- 2019年08月
- 2019年07月
- 2019年06月
- 2019年05月
- 2019年04月
- 2019年03月
- 2019年01月
- 2018年11月
- 2018年10月
- 2018年09月
- 2018年08月
- 2018年07月
- 2018年06月
- 2018年05月
- 2018年04月
- 2018年03月
- 2018年02月
- 2018年01月
- 2017年12月
- 2017年11月
- 2017年10月
- 2017年09月
- 2017年08月
- 2017年06月
- 2017年05月
- 2017年04月
- 2017年03月
- 2017年01月
- 2016年12月
- 2016年11月
- 2016年10月
- 2016年09月
- 2016年08月
- 2016年07月
- 2016年06月
- 2016年05月
- 2016年04月
- 2016年03月
- 2016年02月
- 2016年01月
- 2015年12月
- 2015年11月
- 2015年10月
- 2015年09月
- 2015年08月
- 2015年07月
- 2015年06月
- 2015年05月
- 2015年04月
- 2015年03月
- 2015年02月
- 2015年01月
- 2014年12月
- 2014年11月
- 2014年10月
- 2014年09月
- 2014年08月
- 2014年07月
- 2014年06月
- 2014年05月
- 2014年04月
- 2014年03月
- 2014年02月
- 2014年01月
- 2013年12月
- 2013年11月
- 2013年10月
- 2013年09月
- 2013年08月
- 2013年07月
- 2013年06月
- 2013年05月
- 2013年04月
- 2013年03月
- 2013年02月
- 2013年01月
- 2012年12月
- 2012年11月
- 2012年10月
- 2012年09月
- 2012年08月
- 2012年07月
- 2012年06月
- 2012年05月
- 2012年04月
- 2012年03月
- 2012年02月
- 2012年01月
- 2011年12月
- 2011年11月
- 2011年10月
- 2011年09月
- 2011年08月
- 2011年07月
- 2011年06月
- 2011年05月
- 2011年04月
- 2011年03月
- 2011年02月
- 2011年01月
- 2010年12月
- 2010年11月
- 2010年10月
- 2010年09月
- 2010年08月
- 2010年07月
- 2010年06月
- 2010年05月
- 2010年04月
- 2010年03月
- 2010年02月
- 2010年01月
- 2009年12月
- 2009年11月
- 2009年10月
- 2009年09月
- 2009年08月
- 2009年07月
- 2009年06月
- 2009年05月
- 2009年04月
- 2009年03月
- 2009年02月
- 2009年01月
- 2008年12月
- 2008年11月
- 2008年10月
- 2008年09月
- 2008年08月
- 2008年07月
- 2008年06月
- 2008年05月
- 2008年03月
- 2008年02月
- 2008年01月
- 2007年11月
- 2007年10月
- 2007年09月
- 2007年08月
- 2007年06月
- 2007年05月
- 2007年04月
- 2007年03月
- 2007年02月
- 2007年01月
- 2006年12月
- 2006年11月
- 2006年10月
- 2006年09月
- 2006年08月
- 2006年05月
- 2006年04月
- 2006年03月
- 2006年02月
- 2006年01月
- 2005年12月
- 2005年11月
- 2005年10月
- 2005年09月
- 2005年08月
- 2005年07月
- 2005年06月
- 2005年05月
- 2005年04月
- 2005年03月
- 2005年01月
Vol.16.02
暖冬でない厳寒の冬
九州、沖縄にまで寒波が南下して、記録的な寒さになった。雪を見たこともない地域の人にとって珍しい自然現象の、一面の銀世界で綺麗な贈り物となったが、農作物の被害や、漁貝類の生態にもマイナスの影響を及ぼしている。この寒波のため海水の冷却化で、温帯に生息する魚類が一様に海岸に打ち上げられている。自然の厳しい掟とでもいうべきか。この寒さは、偏西風の蛇行に変化があって前線が南下した結果、寒波がそれに乗って例年より南に下ったがためである。厳しい寒さが、海水の温度にまで変化をもたらしている。いずれこの気まぐれな偏西風が元の形に戻れば、平生の気圧配置となって寒さが和らぐに違いない。沖縄、九州と云った暖かい地方に30センチからの積雪をもたらした今回の気象異常である。
暖かい南の国の九州地方に思わぬ大雪が降ったことを書いていたら、知らず知らずに学生時代に九州地方を友達と旅行をした時の思い出が脳裏をかすめて行った。大学3年生のころだったと思う。春休みを利用した、大旅行であった。当時は、黒いダイヤと呼ばれたほどに石炭ブームであった。戦後の産業復興には欠かせない唯一のエネルギー資源として脚光を浴びていた時代であった。優秀な学生は、こぞって石炭会社を志望し、華やかに就職していったものである。その石炭ブームで財を成した友達のお父さんの会社が日本橋の馬喰町にあって、一度訪ねたことがあった。凛々しく風格のある立派な人であった。家族が目黒の高級住宅地の八雲の大きな屋敷に住んでいて、お母さんが又、感じの良い静かな人であった。友達もそこから早稲田の学校にかよっていた。九州地方を旅行するに当たっては、そのお父さんの尽力もあって取引先に紹介してくれたりして、現地に着いたときは、温かい歓迎に預かった記憶がある。何も知らない私は、その友たちに素直についてゆくだけであった。行く先々が私にとってまるで初めて経験することばかりだったので、この時の九州一周旅行は、ことのほか熱い思い出となって未だにに鮮明である。
小さい時から喘息持ちで長期の旅行については自信がなかったので、誘われたときは行かないつもりでいた。しかしみんなの計画しているのを見て結局決断して一日遅れで私一人が皆とは別に列車に乗っていくことになった。当時は未だ国鉄経営の時代であって、国鉄・東海道線と山陽本線を乗り継ぎしながら、夜行列車に乗っていったが、その時の記憶はあまりない。不安な旅であったに違いない。九州の博多駅で一行の五人と会うことが出来た。携帯電話もなかった時代にどうして会うことが出来たのか不思議である。文明の慣れとは恐ろしいものである。文明がもたらす利便性によって、人間が日々の生活で横着になっていき、とどのつまりは身体、頭脳の退化につながっていくものだと、ある科学者が云っていたことである。100年前に電磁波の存在を予測していたアインスタイン博士ではないが。一行は世話になった川滝信義君を初め、渡辺節、鈴木貫太郎、舘昭二、武田なんとかであった。彼らは第一日目に、北九州の八幡製鉄の工場を見学して有意義な体験を積んでいた。博多についた小生は夕方一行に合流し、その夜は博多にある安川電機の立派な寮に宿泊した。贅沢な部屋に通されて、贅沢なご馳走のもてなしを受けたことを覚えている。安川電機の会社の寮を安く泊めて下さったそうである。おそらく就職活動の一環として、優秀な大学生を招へいするための活動の一部であったに違いない。しかし一行のうちだれも安川電機に就職した者はいなかったので、申し訳ない気がした。いずれにしてもそのあたたかいご厚意を今も忘れることはできない。この夜、一行の一人が体調を悪くして急遽、病院に運ばれた。誰だったか覚えていない。ご馳走に浮かれて飲みすぎ、食べ過ぎの結果かもしれない。
翌日、福岡、諫早を経由して長崎に向かった。市街を散策したが、異国情緒の漂う石畳の坂道を登って、グラバー邸に向かった。異人さんが住んだ家だと聞いたが、オランダ人で、商館として使ったモダンでユニークな作りの建物だった。海と郊外に延びて起伏のある山なみが際立って美しく、港の景色に溶け込んで、一幅の絵を見るようであった。歌謡曲に長崎の鐘、長崎の女、長崎は今日も雨、長崎のザボン売り、と云って長崎にちなんだ名曲が沢山あるが、歴史と文化に事欠かない街である。歌劇バタフライ、「蝶々夫人」の舞台ともなった由緒ある場所である。浦上天主堂も訪ねた。原爆を投下されたとも思えないほど、復興は目覚ましいものを感じた。一行は先を急ぐ旅で雲仙に向かった。バスに乗って雲仙温泉街にある宿についたところ、従業員の多くが玄関先に出迎えてくれた。そして一行の誰かに、歓迎の花輪を首に掲げてくれて陽気になっていた。ここでは大きな野天風呂が大変気に入った。晩餐の手厚いもてなしを受けたが、鉄道の旅で疲れていた一行は、早々と就寝して翌日に備えたのである。起床して朝風呂に浸かった思い出は確かである。バスで雲仙を下り、有明湾に面した島原についた。島原の港から伝馬船で大牟田に渡り、そこから鹿児島駅行き鉄道でやや南下して熊本に出た。この日、熊本の市街地を寄るでもなく、あっけなく通り過ぎて夕方近くであったが、阿蘇の火の山に向かった。
阿蘇山は太古に於いて大爆発を起こした時、周辺1000キロの範囲にわたり、噴石と噴灰で覆うほどの規模であった。火砕流は海を越えて、山口県の秋吉台にまで流れたという。現在、中岳を初めとした阿蘇五岳を抱き、南北25キロ、東西15キロの世界最大級の典型的なカルデラであり、今も活発に活動する活火山である。外輪山の内側は380キロ㎡の広大な面積になる。中央の東西を貫いて当時も日本国有鉄道が引かれ、太平洋側と日本海側をつないでいるわけだ。あの時は目前に、大パノラマを堪能する思いで、煤煙をかぶりながら汽車の車窓からの景色を眺めていた。カルデラを形成する外輪山が、低く波うって広大な大地を取り巻いている。そして落ち行く夕日に真っ赤に染まって焼け、あたかも焔と立っているように見えた。その中を、まるでゴマ粒のような機関車が煙りを吐きながら、その広漠とした大地を走っていく、あの力強い強烈な印象が、私の脳裏から消えることはない。のどかな草千里と放牧の群れ、奇態な恰好をしたすり鉢山、阿蘇五岳の雄大な火の山なみ、麓に点在する小さな集落、幾筋もの清冽に光る河や大小の池、豊かな田畑の畝と畔、何と言っても澄みわたる快晴の空の広がりに感動を禁じ得なかった。これも川滝君の厳父の道益商会の取引先で、石炭会社の社長さんのご厚意で熊本駅から阿蘇駅まで乗り合わせて案内をされ、ホテルの宿泊まで手配くださった。社長さんは近くのゴルフ場で球を打って、その日に帰って行かれた。翌朝ホテルを出たあと熊本に出、鹿児島行きの列車に乗って四日目の旅を迎えた。 こうした紀行文を、わずかな記憶をたどって書いていると、気持ちが和んできて、嫌なこと、うっとおしいことなどが忘れられて、清新溌剌の気分に転換できるので良い性格だと皆が云っている。世間には簡単に気分の切り替えがつかないので、問題を引きずったまま悩む人が多いようである。そうした状態を放置しておくと、慢性化して脱却できなくなる場合が多い。欲をかかず、ほどほど人生を送ること、いくら功績をあげても甘利大臣みたいな結末になっては、身も蓋もないし、これほど虚しいことはない。前例には今太閤の田中角栄がいた。貧乏な家庭に生まれ育ち、土建屋で基盤を作り、選挙に打って出て、時の総理にまで上り詰めた人物である。その間、蓄財にあらゆる手法を駆使し、金をため、金で多くの子分を作った。口利き料の授受など朝飯前である。人の好さかもしれないが、頼まれればヨイッシャと云って簡単に引き受け、簡単に金を懐に入れていた。利権をむさぼり、国有財産を安く払い下げさせては、自分の利益に還元していた。派閥をうまくとりまとめて行くことが必須であり、子分はそれに群がる。代わりに親分は子分を金で釣り、権力を握り、金力で目を光らせていた。謂うところの金権政治である。そして挙句にロッキード事件を起こした。金で身を起こし、金で身を潰した。今太閤を誇った人物にしては、末路が惜しい気がする。偉才を発揮し得た人物だったが、運命のいたずらに翻弄され、がむしゃらに突っ走っていった人生は短命に終わった感じである。
甘利大臣も一皮むくと、人の良さがたたって、小粒だがそれに近い感じである。田中角栄と違って、それほど露骨ではないにしても、あっさりと話に乗ってしまう当たりが、実に軽薄である。それにしても大臣室で口利きの報酬を受けるとは、愚の骨頂であった。壁に耳あり、障子に目ありで、所詮は結末がばれてしまうことは戒めとして持っている筈なのに、目の前に金をちらつかされると、遠慮なく手を出してしまうのか。ここで国民は一人の優秀な政治家であり、将来の総理として嘱望されていた人物を失ってしまった。経済知識を豊富に持ち、国際感覚に鋭い修行と体験を積んできた政治家だけに、残念である。雇っていた秘書が頭が悪く、性格も悪かったかもしれないが、本人が責任を取らざるを得ないだろう。何事によらず欲望からの脱却、これこそが人間にとって最大の試練であり、同時に成功への道である事を肝に銘じているべきである。私独自の精神療法とでもいおうか、人間なんて単純なもので、気持ちの持ちようでどうにでもなるということである。 学生時代の旅行記から 又話がそれてしまったが、この項目は一時中断して、次に続けるとすることを許していただきたい。 熊本から更に汽車に乗って鹿児島に向かった。単純に、犬を連れて散歩する西郷隆盛に会いに行くような気分であった。 * これからまだ書いてゆきます。 2月1日
サプライズな出来事 日銀のマイナス金利の導入
確かにこの十日間程の社会の出来事を拾ってみても、重要な案件があった。フィリッピンに戦没者の慰霊の旅に就かれた両陛下の決断と現地での模様、中国経済の更なる減速で乱高下を繰り返す世界の株式市場、TPPで大きな業績を果してきた甘利通産大臣が、政治とカネの問題で辞任、黒田日銀総裁の異次元的政策遂行で、マイナス金利の導入など、重要な問題が次々にあったりした。
特にマイナス金利の導入は既に欧州の 中央銀行が実施しているが、日本では初めてである。聞きなれない言葉であるが、対象となるのは一般の預金ではなく、民間金融機関と日銀との取引で生じる金利である。市中銀行が日銀に預金すると、逆に金利をとられるという仕組みである。日銀に預けるより、民間の貸し出しに用いるようにする政策効果を狙っている。企業や個人がお金を借り入れやすくするようにするわけである。いろいろと弊害も出て来る話であるが、日銀の政策当局が未知数のリスクを負った意味合いも強くにじんでいる。経済の実態がよくならないままに、金利だけ下げて行っても、堅実な資金需要がなければ、金融機関も資金の運用に困るだろう。ずさんな融資をすすれば、かってのように不良債権を積み上げて行くことになる。黒田さんの思惑と反対の結果を齎す可能性があるし、経済も魔術師に適う人はいないから、注意しないといけない。斯くの如く、日々変化する社会の出来事であるが、気にしていたら落ち着く暇すらないことが分かった。憑りつかれていたら神経衰弱になってしまうだろう。企業家や事業化が余り神経をとがらして、取り越し苦労しないことが賢明である。それにしても黒田さんの打ち込む弾は、不意を衝くことが多く、斬新で大胆である。人は黒田式バズーカ砲とか評しているが、本人にしてみればものすごく神経を使っていることであろう。周囲への配慮はもとより、周囲からの圧力も相当あるに違いない。太っ腹の賢人でなければ務まる話ではない。国民は賢人の英知に期待して任せているわけだから、大いに蛮勇をふるって実行して行ってもらいたいものである。蛮勇と云っても、人気取りめいたことをするのではなく、サプライズなことを求めているわけではない。穏健な政策は、国民にたいしてリスクを伴わず、犠牲を伴なわず、国民経済を発展に導いてゆくことである。アベノミクスの成否も、要は黒田さんの腕にかかっている。暗いデフレのトンネルから抜け出して、ここまで改善させて持ってきた日本経済を、頓挫させるわけにはいかない。なんとかして今の国際経済の混とんを打ち払い、ひいては日本の経済回復が、世界のそれを凌駕して、力強く牽引していく結果を齎したいものである。
日銀がマイナス金利の導入を発表した後、ここ二、三日の株価の動きは堅調に転じ、大きく反騰して、これが世界のマーケットに大きく影響を及ぼしている。しかし異次元の変質的な金融政策に突入しているので、効果は未知数である。予断を許すことはできない。金融政策を効果あらしめるには、経済産業の強い回復政策を伴っていないと、単に金融政策だけを以てしては無理である。経済財政政策を含め、更には弊害となっている規制の緩和を推進し、一体化したものでないと片手落ちになってしぼんでしまう。地方経済の活性化も大きな課題である。地方は、中小企業と同様、まだまだアベノミクスの恩恵に浴するような状態ではない。失速してこのまま謂うところのアホノミクスに成り下がってしまっては実もふたもない。
ただ、ここで注意しなければならないのは、原油の値下がりだけは構造的なものであって、こうした状況はこれからの経済動向として定着し行く可能性が充分にある。現在1バーレル30ドルちょっとで推移している。1年前に100ドルしていた値段が、三分の一にまで急落するとはだれ一人想像だにしなかったことだろう。経済産業を根底から支えるエネルギー資源を受け負う原油価格が、それほど激変したということは、それだけ世界の経済構造の激変をもたらしているということにもなる。産油国が騒いだり、原油市場に何らかの規制を勝手にかけたり、政策を打ち出したりしても、どうにかなるものでもない。世界的な、構造的な変革の時代に突入して、油の需給関係が大きく変質した。中国はもとより、資源国の新興国をはじめとして広範囲に及ぶ経済習縮小は、子にの財政収支を圧迫し、国民経済の停滞に導いているので、日本を初めEUなどの努力に限界もあることを承知しておかないといけない。
原油が下がって良い面と、悪い面とが交錯しているが、次第に収斂していくはずである。ゼロ金利、マイナス金利で資本市場がどのように変化していくか、実体経済にどのような変化をもたらしてくれるか、経済産業構造が国際的に変貌を遂げつつあるが、依然として不透明感を払しょくできそうもない。資源安と新興国の経済縮小、そして14億近い人口を抱する、深刻な中国の経済減速、その回復には長い時間と辛抱が必要である。周辺でも昨年以来、中国から引き上げる事業家が多い。しばらく時間をかけて、そうした状態から、混沌の状況から、いずれはっきりした道すじが描かれてくるだろう。世界は今、そうした事態に対応した経済構造の再構築が求められてきている。
明後日は、節分の豆まきである。一昨年来、鬼が周辺にたくさんうろついているのに気が付いて追い払ってきたが、最近になって、しかも、でかい鬼を追い払うことに成功した。随分と月謝を払う結果になってしまったが、極悪非道の魔女を追い払って毎日が快晴の大空を仰ぐような気持で、心身爽やかに仕事に励めるようになった。今日、オフィスの帰りに尾山台駅近くのスーパーオオゼキに立ち寄ったところ、袋に入った豆まきの豆が山のように積まれていた。鮭の切り身のあらの部分が美味しいので買って行こうと立ち寄ったが、節分の豆に奮い立って、それも三袋まとめて一緒に買ってきた。すると家内も、私も買ってきたわよと云うのである。一階、二階と窓が沢山あるので鬼を逃すわけにはいかない。クリスチャンだけれど、その豆をご仏壇に供えた。来るべき節分の日には声を張り上げて、鬼退治に使うつもりである。豆とは云え、おろそかにできない念力を持っている。 2月1日
豆まき
馬鹿馬鹿しい話になって恐縮だが、私ごとで一昨年以来、正装をした変な奴らに取り囲まれていたことに気付いた。もっとも商議についての事柄であった。今日でざっと515日目である。ちょうど節分の日にかかる。鬼を退治してさっぱりしたが、悪さをした相手方は夜も眠れないのではないだろうか。心身共にのめり込まないで、毅然として責務を果たしてきている自分を、変な話、見直しているのである。昔、日本経済新聞社の元社長の萬さんが下さった、渡辺幾次朗著の大隈重信の精神と云う本の中にこんな一節がある。健康こそが人生の第一条件であるという信念に生きた大隈は、次のように述べている。「健康には肉体的健康法と、精神的健康法がある」。大隈は、特に精神的健康法が大事だとして、自ら精神的健康法五箇条なるものを案出して、日常の生活に取り入れて、これを実践したのである。その精神的健康法五箇条とは一体何であるか。
曰く、
怒るな、愚痴をこぼすな、 過去を顧みるな、 将来に希望を持て、 人のために良きことをなせ、
である。謂うべくして為しがたしで、人生の毎日は現実にこうあるべきであり、こうした気持ち、精神状態にあることが、健康にして長寿を全うできる秘訣だと喝破して、私も又信じている一人である。くよくよせず、人のために尽くす毎日であること、 加えて「欲をかかず」とすれば、尚安らかな毎日を過ごすことが出来る。そう思ったとき、大隈の精神的健康の五箇条は、全てが人間の欲から発していればこそ、戒めの言葉として意義を持ち、光ってくるのだと確信したのである。悪の根源は、人間のあくなき欲から発している。端的に言えば、単なる物品ではなく、金そのものである。札束を見せつけられると大脳ばかりでなく、五臓六腑が揺れ動く人間に性である。従って欲を捨てるために、大隈が述べた五箇条の真意を身につけて毎日に励むこと、これが健康長寿の道につながるゆえんだからである。
昨日は午後から会社を出て、浅草の顧客のところに行って商談を済ませてきた。京橋から地下鉄に乗って、浅草駅の一つ手前の田原町で降りた。繁華街に近い客人で所要を済まし、次の客人の居る花川戸に向かった。浅草で一度に用事を足すのは、初めてである。ビュウ・ホテル辺りから浅草浅草寺に向かって歩いて行った。しばらく行くとロック街にでた。五叉路の角に昔から交番のあるところである。この通りには、昔の子供のころ沢山の映画館が立ち並んでいた。映画が唯一の娯楽であった時代、毎日大変な人で埋まっていた。活動写真と云ったくらいで、チャンバラ映画が多かった。エノケンやロッパが喜劇で活躍し、嵐寛や右多衛門がチャンバラ劇で活動していた。映画全盛時代のころである。ストリップショウをやっているロック座は今も健在である。この映画館通りのそばに、ひょうたん池があって浅草は昼夜の境なく栄え、情緒があった。しかし戦争の空襲で焼け野原となった浅草に、観音様の本堂も焼けてしまってその姿はなかった。本堂再建のためにこのひょうたん池は埋められて売却され、本堂の建設資金の一部に使われた。今は斯くも荘厳な観音様の本堂が、目前に見ることが出来る。進むと左手に花やしきがある。子供のころお正月に父に連れてこられて遊んだ記憶がある。ぐるぐる回るメリーゴーランドに乗った記憶である。
更にこの辺、言問い通りには象潟の粋な花街がある。料亭・草津邸は有名な一つだが、そこで長男が盛大な結婚披露宴を催した。当時の披露宴だから派手であった。二百畳敷きの大広間で二百人以上の招待客であった。父の経営する会社の得意先や、職方衆であった。三味線、つつみ、太鼓と云った座敷道具一式も持ち込まれて、歌えや踊れやで新郎新婦そっちのけの、楽しい宴会であった。その時料亭・福八の娘もでていた。娘は富士小学校時代の同級生で、お店を手伝っているうちに芸者にもなった。浅草田圃・草津亭、そんな料亭も、新しく建て替えられたとはいえ、今もって健在なのはふるさと浅草の誇りである。まっすぐに行くと、真っ赤な社の浅草寺の本殿が見えてきた。見上げるような真っ赤な社は多くの観光客で、参拝者で一杯であった。正面階段を上ると大きな賽銭箱が用意されているが、正面の黄金に輝くご宮殿には観世音菩薩が安置されている。秘仏であって非公開である。手を合わせて拝した後賽銭を入れたいが、参拝者の群れの中ではうかつに硬貨を投げるわけにもいかない。たまにお参りするわけだから、お札を備えようと思っても投げるわけにはいかない。お札だと賽銭箱まで届きそうもない。そうかと云って札束を投げるほどの決心はつかない。一枚だとひらひら上に飛んでうまく届けばいいが、それも無理だろう。仕方がない、硬貨で一番額の大きな500円で勘弁してもらった。こんなことで思案する暇があるなら、呑気な分際で結構な身分である。こうした大らかな気分でご本尊と向き合うことが出来れば、ご利益があるに違いないと思った。鰯の頭も信心からである。日本人ほど、大らかな信仰心を持つ民族はいない。世界には一神教の民族がそれぞれに多いが、得てして信仰の勢力争い、対立で、民族間で互いに血を流すほどの喧嘩をしたりして、時に世界の戦争に発展することがある。千代萬世の神々を奉る大和には、素朴で慈悲深い人々の願いが秘められている。
観音様には周りを見ると大体が、中国をはじめとする東南アジアとおぼしき観光客の人たちでごった返していた。この日は右手の宝蔵門をくぐって仲見世に出ることはできず、そのまま三社さま、浅草神社を左に拝し、二天門から馬道に抜け、花川戸に向かった。三社神社は戦争の焼失から免れた唯一の古い由緒ある建物である。この神社の由来を辿ると、古事記に出て来るような逸話があって床しいものがある。三社神社の縁起によると、昔隅田川で、桧前浜成、竹成という名の兄弟の漁師が網を放っていたところ一体の仏像が網にかかった。これを聞いた土師の真中知が、その仏像を自宅に奉安してこれを守った。その仏像が、今の浅草寺の本堂に秘仏として安置されている高さ一寸八分の観世音菩薩である。そして隅田川で網にかけた兄弟の二人の漁夫と、これを奉安した土師の三人を、三社権現と称し、神として奉っているのが、三社神社である。浅草境内には戦後に於いて、このほか雷門、二天門、宝蔵門、五重塔と豪壮な建築物が豪華絢爛として建ち並んで、庶民の豊かな信仰の対象になっている。夜に拝観するときは、そうした朱色の建物がライトアップされて炎が上がるように荘厳の趣が漂って、一つの極楽浄土の世界を形成している感じである。
こうして来てみると、浅草界隈も随分と変貌を遂げてきた。地元の人たちの努力もあって、古い浅草も現代に合った趣向で発展してきていることが分かる。きっと若い人たちの活躍が大きく影響していることだろう。一時は衰退して時代に置いて行かれた浅草だが、これも地方活性化の波に乗った活動の一翼を担っているものである。馬道通りを渡ると浅草小学校が右手にあった。花川戸公園の隣、新しく立てられた小学校は、まるで教会のようなモダンな建物に感じた。戦後の焼け野原で、富士小学校は一時、この浅草小学校の二階に間借りして授業をしていた。多くの生徒は疎開先から未だ帰ってきていない時期であったし、亡くなった生徒もいたので、そんなに広い教室は必要でなかった。あの時に教室で教鞭をとられた長浜テル先生は今も健在だが、一昨年まで開かれていたクラス会は、先生の都合で開かれなくなってしまった。食糧不足の毎日のこと、苦難な時代をくぐって教育に携わってきただけに、ご苦労も多々あったことである。早稲田の鶴巻町から通っていて、とうとう独身を貫いてしまった。映画、青い山脈の歌が唯一励ましになったが、原節子と一緒に共演して、女学生を演じた杉葉子に似ていて小柄で清楚な美人だった。今もご健在であることは、うれしい限りである。クラス会が今まで開かれてきたのも、地元で健在なクラスメートが活躍して居るお蔭である。
田原町からぐるりと浅草寺境内をよぎって、70年前の戦後に通った浅草小学校まで歩いてきたが、世話になった学校が健在であり、大いに活躍していることを、この目で確かめることが出来て安堵したし、遠い昔のことを思い浮かべながら、郷愁に浸っていたのである。と云うのも、奇しくも前号で書き綴った疎開先の芳野村小学校では、少年としてはまさに「蛍雪の光」であり、貧乏ながら劇的な体験を積んで思い出に鮮烈に重くのしかかってきているので、せめて当時の面影を現実に保存しておきたいと思っていた。しかし芳野村存立小学校は、廃校になり、その後はなくなってしまったとのことである。若い時には私財をなげうってというところまでにはいかないし、あの程度なら何とか後世に残していけるという自信があるが、今となっては遅きに逸してしまった。というのも、戦後の混乱期であり、物情騒然とした世のなかにあって、如何に少年時代を過ごしていったかの記録は、沢山あったに違いない。せめてそれらを辿るよすがとして、木造の平屋校舎や運動場、そして小さな図書室、二宮尊徳先生の立像など、貴重なものがあったがゆえに、残しておくべきだったと痛感している。当時の小学校の同窓会が毎年開かれてきていたが、数年前から隔年に開かれるようになったが、今年も2月の14日に水戸から数キロ離れた涸沼に一泊2日のクラス会、芳友会が開かれることになっている。年を経ても朋友の思いは同じで、ヘルマンヘッセの小説、郷愁ではないが、気持ちは純粋であり、幼いころの山川の澄み切った景色は思い出に浮かんできて尽きないものがあろう。贅沢をいうわけではないが風貌は多少変わっても、心根は朴訥として馴染み安さはそのままである。親しさは以前に増して、ほがらかそのものである。ところで仕事の方のことは、花川戸にいる客人を訪ねて用をたし、浅草駅から地下鉄に乗ってそのまま帰宅の途に就いたのである。
今日は豆まきである。しかし今晩9時半から仕事の打ち合わせが神谷町である故、豆まきは今日の朝、会社に出かける前に、家内と一緒に済ませてきた。一階、二階のすべての窓を開けては漏れなく豆を打ちまいて、悪を追い払った。家だけでは満足せず、庭に出て東西南北、四方八方に向けて福豆をまいてやった。「福は内、鬼は外」であるが、声は控えめにと思ったが、この際、今度は福豆であるから、元気で大きな声で豆をまいてきた。小さい時の小学校の教科書に「豆まき」と題して、絵付きの短文が載っていることを思い出した。豆をまいている子供兄弟が、しまいに「福はうち、福は外」と大きな声を張り上げて巻いている本である。私も最後の締めには、「福はうち、福は外、総べて福」と云ったのである。声を聴いて、豆まきは、古い人はこうした慣習を知っているから平気かもしれないが、新婚さんの家庭や子供たちは,いったい何事が始まったのかと、訝ることもあろう。
この朝、我が家では成田山新勝寺での高い場所から豆をまく以上に、気力充実して鬼どもを打ち払ったのである。福は内、鬼は外、ついでにホーホケキョだ、と云って豆を投げたら家内が、ウグイスの声、とても綺麗だけれど、それは余計だわよと云って大笑いしたのである。知らねえんだなあ、その声は「法華経」と云っているのだと、意味深にのたもうた次第である。一昨年以来、変な奴らだと思っていた人物らしき影が、またぞろ徘徊していたり、潜伏していたりしていてはたまらんから、時折そ奴らを思い出しながら、思い切りよく豆を打ちつけてやった。ざまあ見ろ、というわけである。撒いた豆を、二羽のヒヨドリが夢中になって啄んで食べている。豆を啄んだヒヨドリが、ウグイスに成り代わって上手に「法華経」と鳴くかもしれない。雀たちには炒り豆が大きすぎて戸惑っている。大声で「鬼は外」と、追撃の手を緩めずに、日銀の黒田さんではないが、バズーカ砲を打ち続けて、鬼どもを全部撃退した。黒田さんのバズーカ砲が効き目があるかどうかは、まだわからない。それはそれとして、大事なことはそれからである。お祓いした後でもあろうかと思うが、確信して、大隈重信候の精神的健康法の五箇条を思い起こして、無病息災、商売繁盛、家内安全と欲張って祈った次第である。やはり世間並みの平凡な願いごとになってしまったようであるが、大人の大隈候はそれを許してくれるだろう。地に足を付けて、無理なく踏ん張って前に進んでいく気概こそ、必要である。そうした気持ちが又、大隈精神に通じて行くはずである。
明日は待ちに待った立春である。 夕方になっても直ぐに暗くなったりしないで、窓の外には何となく陽が残っているような感じである。日が少しずつ長くなっていくのかな。 春の季節がまじかになってきた。 2月3日
一般社団法人、某・中小企業団体連盟の新年祝賀会、紀行
去る1月14日正午から、私が古くから会員として所属し且つ支援してきた某・中小企業団体連盟の新年祝賀会を、東京大神宮で厳かに開催した。要請を受けて、私は現在、この団体の理事長を務めている。この団体は、昭和24年に日本の中小企業の育成と発展を期する目的で創立されたもので、初代理事長に元通産次官だった人格高邁の士が初代理事長を務められた。以来、戦後の経済復興と共に、日本の中小企業を中心に活発な活動を続けてきて今日に至っている。日本の中小企業の発展なくしては大企業の発展はありえない。日本の企業構成を以てすれば99%は中小企業である。それが大企業の今日を支えてきているのであって、大企業だけで発展してきたことなんて云うことは論外であり常識外である。大企業はいわば中小企業の取りまとめ役であり、極論すればピンハネ会社である。例えば大手建設会社が、或いは工務店でもいいが、大工、左官、とび職、瓦職、鉄骨、鉄筋、生コン電気、給排水、都云った職人の技の結集をまとめて一軒の家を完成し引き渡しを済ますのと同じである。それらの職域に従って、それぞれが活躍して仕上げることが目的である。品物を完成させるには、一人の職人を欠いてもいけない。中小企業は、斯様に重要な部分を担っているのである。
老練の専務理事が長年のこと、活動拠点の事務局を盛り立ててきている。私は、たまたまその専務理事のたっての要請と、理事会の満場一致の推薦を得て、理事長になっているが、短期限定型をお願いしているところである。その団体の理事長職を務める私は、此の春の日の快晴日和に勇んで出かけて行った。平日の勤務であったが、昭和経済会のオフィスには出向かずに、直接拙宅から、便利な地下鉄を利用して飯田橋駅に向かって行くことにした。事前に事務員の中村女史に、地下鉄路線の利用方法を調べてもらい、それにしたがって行くことにしたら、なんと乗り換えが一度で済む最短距離の路線を教えてくれたのである。遠いと思っていた飯田橋の駅が間近かに感じて、何とはなしに親近感が持てた。学生時代は当時の国電を利用して、浅草は都電で浅草橋駅まで行き、総武線に乗って飯田橋で降り、其処から又都電に乗って早稲田に通っていたので、よく覚えている筈だが、飯田橋の駅については大した記憶に残っていないのは不思議である。それほどに魅力に欠ける駅の一つかもしれない。そもそもホームに降りるのに電車との間がカーブになっているために跨いで降りるといった感じで危険極まりない。また、下りてから北口改札に向かうまでの、あの長い殺風景な渡り廊下は無感覚丸出しである。今もって旧国鉄時代の亡霊をJRが引きずっているかのごとく、知能程度の悪さをさらけ出している結果である。「次は、老人虐待駅です」と車内アナウンスしていた方が分かりやすいだろう。
下らぬ話になって恐縮だが、通勤に使っている東横線の最近の車内アナウンスには、「吊り革を持ち去る人が居ます。お見受けしたら駅員若しくは近くの警備員のお知らせください」と云うセリフである。何本盗まれたか知らないが、たかが吊り革を取られたからと云って、毎度のように繰り返し聞かされるのはたまったものではない。吊り革を掴むことすらためらってくる。「李下の下で冠を正さず」という中国のことわざではないが、吊り革を掴む動作もためらってくると云うものだ。吊り革を盗む人を見かけたら、直ちにお知らせくださいと云うのも、けったいな話である。大袈裟の度を越している。犯罪を通報してくれと、犯人逮捕に協力してくれと云っているのだが、モノは云いようというものがある。直接そうした行為を行う人に呼び掛けて、そうした行為はおやめくださいと云った方がまだましである。それにしても吊り革を盗んでいく奴は一体、吊り革を何に使うのだろうか。電車に飛び込み自殺を図る人に、それを使いよく加工して与え、それを使って首をつっていった方が社会の為になるからと云おうとでもしているのだろうか。下らぬ話になって失礼したが、飯田橋の駅の品のなさを以て貶しっぱなしだが、そうはいっても今日は飯田橋駅を使って行くわけだから、余り無碍にけなすわけにはいかない。お伊勢の分霊を祀ってある東京大神宮に行くのだし、多くの人はこの駅を使ってくるのだから、言葉を慎まないといけない。飯田橋駅から眺めるお堀の風景は、穏やかな景色で、心和むものがあるはずである。続く市ヶ谷駅までのお堀の景色には、ボートの漕ぎ場があり、池を見渡してレストランもあったりして上品な場所だし、加えて市ヶ谷駅に寄っていくと釣り堀があったりしてレジャーとして健康的である。宣伝不足にしては勿体ない話だ。学校以外にお世話になった理由としては、父が病気を患って、飯田橋の逓信病院に入院して、毎日看病に行った時に乗り降りに利用した記憶である。辛かった記憶であるが故に、敢えて好きにもなれないのかもしれない。
尾山台駅から大井町線に乗り大岡山駅で降りて南北線に乗り換えると、そのまま飯田橋駅に着く。その間ざっと25分である。利用してみると随分と便利になったと思う。東京の大都市の地下を網の目のように走っている地下鉄線である。その案内地図を見る限り、何本もの地下鉄線が走っているが、見ているだけで乱視になってしまうほどに線が絡み合っている。1100万人の大都市の人口の機能を効率的に働かしていくには、日常活動の交通手段としての地下鉄は極めて重要な役目を果たしている。路線は細かく網の目のように絡まっているが、乗継ぎ乗り換えは、利用客にとって実に効率的に出来ている。現在、地下には14の路線が敷かれている。そして882の駅が設置されているという。今、JRと地下鉄の交差する駅で一番混雑しているのは、渋谷駅ではないだろうか。渋谷地区の大開発もあったりして工事中なこともその理由である。JR,私鉄、メトロなどが交差したり発着駅になったりして、混雑の度合いは東京一かも知れない。ということは世界一かも知れない。現在取引先の東急不動産では、そうした事情で三年前に本社を渋谷から今の南青山に移転した。青山一丁目の交差点から渋谷に向けて行ったほど近いところに、立派な本社を構えている。一階にはいると広いスペースが白色の色彩で明るく3階までが吹き抜けになっていて、正面受付にはきれいな女性社員が応対してくれている。ここ青山界隈は昔から雰囲気の上品で、モダンなところであって、今でもそれがいかんなく継承生かされている。京橋から地下鉄渋谷行きに乗ってきたが、十二、三分で着いてしまった。この銀座線は、浅草駅と渋谷駅を結ぶ全長14,3キロの路線である。1927年12月31日に開業した。我が国では都市開発を担う画期的な事業であり、最初の路線であるが、世界では14番目になるそうである。因みに地下鉄の歴史はイギリスのロンドンから始まった。1863年1月10日、イギリスのロンドンで、メトロポリタン鉄道のロンド駅からファンドン駅の約6キロの間である。浅草・渋谷腺と云われても余り大した感興を得ないが、ロンドンの地下鉄と云うと何となく響きが違って、哀愁のこもった情景が浮かんでくる。フランス映画で地下室のメロディーと云う名画もあった。昔、終着駅と云う映画があったりしたが、鉄道が人生の道のりと重なり合って、始発駅、終着駅と云う情景に、情感が漂ってくる気配である。ロンドンの地下鉄建設以来、世界各国の主要都市で地下鉄道の建設が始まった。そして地下鉄の利便性を活用しながら、いろいろと歴史的役割をも演じて来たのである。
今日地下鉄の利用度は大幅に上がってきている。その役割は都民の毎日の生活に欠かせず、都市交通機関の大動脈である。前日の仕事で神経をすり減らし、眠りが浅かったせいもあってこの日は疲れ気味であった。電車のなかで居眠りをしていこうと期待していたが、初めて乗ってみる路線であり居眠りする余裕はなかった。10分の居眠りが出来れば最高の状態になれるのに、こうした時にはむしろ焦る気持ちが募ってきてしまい、居眠りできるような落ち着く心境にはなかったのである。連絡がついていて、すぐに乗り継ぎが出来るようになっているからであろう。日本の鉄道の運行時間の正確さは定評があるが、最近はちょっとしたミスの事故が多く、乱れがちなことが気にかかる。正月早々に縁起でもない話になるが、運行時刻の遅延の原因の一つにあるのが人身事故である。飛び込み自殺である。自殺に至る道は、正常な人間が重なる精神的な圧迫から統治能力を喪失して、心身腐乱の状態に至った結果である。正常な判断を失った発作的な行動である。通常、良心的な潔癖症な人ほどそうした傾向が多い。同情する余地はあっても、地下鉄に限らず、公共交通手段を悪用してこれを乱し、多くの人を巻き込んで迷惑を及ぼすことは良くない。自殺を奨励するわけではないが、別の方法だってあるだろう。別の方法とは、自棄自暴のそうした道を選ばずに、人間の思惟の方向転換を図った決断である。いい意味で人間は、物事の扱い方について時にはもっと大胆に考えて、結果に於いて生命の尊さに気づくべきである。自分の命とは、自分のものだけではない。自分のものだからどのように使っても、どのように処理しても勝手だという考え方になってしまうわけだ。そうではないと自覚して、積極的に、前進的に思考の転換を図ることが、もっとも人間らしいということである。熱海の錦ヶ浦は、昔も今もそうだが、自殺の名所であった。断崖絶壁で、はるか眼下には太平洋の荒波が裂けては砕け、飛び降り自殺の絶好の場である。飛び降りた死体は海の底深く沈んで、二度と浮かび上がってこないと云われている。だから自殺に立つ人に対して自殺を思いとどまるよう、立札が立てかけてあり「ちょっと待て、思いとどまり考えろ」とあるらしい。良心的で責任感の強い、潔癖性の人に対して失礼だが、人間以外の生き物で、自ら命を絶つ生存物はいないはずである。こんなことを云うと、いかにも情がなさすぎると思われたりすると全くの誤解であるが、むしろ逆である。自殺志向の人は、自殺によって物事を解決しようとする人は、犬、さるよりも人間は下衆な存在だということになる。こんなことを考えていたら、居眠りするどころではなかった。
飯田橋の駅に降りて案内の標識に従って表に出たら、目の前が神楽坂商店街に続く場所であった。そこを反対の九段方向に向かって橋を渡り200メートルほどを行ったところを左折すると、向かった正面に神社のこんもりとした樹木が目に入った。左手の鳥居をくぐると、大神宮の境内である。正月の境内は人のにぎわいの中にあって、樹木の影に清涼感が漂っていた。霊的な雰囲気に触発されて、大脳を流れるらしき血流までが澄みきってきた。面白い生理的現象である。勿論、人によってその影響するところは個人的相違があることは当然だが、小生にとっては自分自身の精神療法としては抜群の効果を発揮するので、往々にして活用しているところである。フロイドの精神分析学を紐解くまでもなく、いとも単純である。電車の中であくびをすると、それをきっかけに十数回にわたって続けられるので、あえて大きくする欠伸は、タイトになった神経を緩和させるに相当の効果を発揮するものがある。高ぶった一日の疲れをほぐすには絶好の処方であり、快い気持ちにさせてくれるから不思議である。
約50名ほどの団体の会員一同が定刻に集まって下さったので、巫女の先導を受けて本堂に向かった。巫女の、さわさわとなる衣擦れのかすかな音を聞きながら、後に従い廊下を渡っていった。本堂に入ると天照大神を奉る神殿を前にして、冷え切った堂内の聖らかな漂いに、神霊あらたかな雰囲気を感じたのである。神主のお祓いを受けて、しばらく黙想し祝詞を聞いていた。私が一同を代表して玉虫の榊を捧げ、参拝を終えた。新年の奉賀を終えて、お昼から始まる懇親会の会場に向かった。会場となるマツヤサロンは以前に来たことがあるが、余りにも遠い記憶なので定かではない。東京大神宮が伊勢神宮の分霊を祀ってあること、新式の結婚式に多く使われて来ていることから、縁結びの信仰が厚く、神式の結婚式場でもあるので、そうした施設があることは非常に便利である。エレベーターで3階に上がり、会場に入った。その前に顧問の先生、専務理事と共に記念撮影に収まった。
開会は丁度12時半であった。事務局長が司会を務めた。最初に理事長職の私が挨拶に立って、新春を寿ぐ祝辞を申し述べた。新春の祝賀会であり、出席者一同のご健勝と弥栄を祈り、併せて事業の発展を期する旨を申し上げた。そして団体に対する一層のご支援をお願いした次第である。加えて新年度の経済情勢を大観して若干の所感を述べた後、私としては斯くあるべく一年を行動していくことを参考までに述べた次第である。
特に昨年来続いてきている原油価格の急落と、減速する中国経済が、将来の景気動向に暗い影を落としていること、国内的には安倍政権の経済政策が正念場に差しかかかっていることの意識を強く持つ必要があることを強調した。原油価格の急落は、市場原理の経済原則で仕方がないにしても、余りにも下値の価格を破っていくようだと世界経済に悪い結果を齎すので、これ以上の下落は食い止めなければならないと感じる旨申し述べた。それに連動して株式相場も急落する場面と、急上昇する場面とが繰り返される、世界同時発信の波乱含みの展開になることも重要な関心事である。別けても世界的な金融情勢の変化期にあるので、それに振り回される株式市場の変化にも十分留意する必要があるである。即ち,一年前に政策的成果は思惑的に織り込み済みであることなども私見として付け加えた次第である。国内的にはアベノミクスが正念場に差しかかかっていること、好調に回復するアメリカ経済、反して減速する中国経済と、資源国として潤ってきた新興国の減速が加わって危険水域に入ってきている感じである。そうした世界的、経済的現実と云ったように、内外の経済、政治など多面的に問題をとらえ、分析して適切な判断のもと、企業経営に臨まれるよう切望した次第である。約15分ほどの話を終わり、即席の作で恐縮であったが、新年の喜びを共有して、次の和歌の一首を朗詠してお集まりくださった皆さんに感謝して贈った次第である。
元旦の空ほがらかに晴れ渡り光かがやく大和まほろば
そのあと、顧問をしてくださっている先生から同じく祝辞を賜った次第である。ご多忙のところご出席いただき、ここで厚く御礼申し上げる次第である。
年末とお正月の和歌 つれづれに詠む
小気味よく粉ひく石の臼の音の水車を回す水の音きこゆる
正月を迎ふ里山のあたたかく山を背にして注ぐ天つ日
やま里は静まり返り正月の日当たりの良き高きところに
親元は当主が皆を出迎えて一族郎党集まりて来ぬ
搗き立ての杵もちは良しこしありて長く伸ばしつ雑煮食むなり
紺青の空ほのぼのと明け初めて光り輝くわれがふるさと
お向かひに一族郎党集まりて餅つき行事を済ます年の瀬
この辺り未だに古きしきたりの餅つき行事の在ればゆかしき
餅つきの道具を広く並べ置き本番前の持ち場そなへり
歳末の頃合ひに搗く餅つきの田舎暮らしを思ひ起こせり
山椿ほっかり咲いて奥ゆかし寂しき庭の隅を染めしむ
年越しのそばを食はむと家族みな打ち揃ひたりわれが宅にて
いつしかとせがれむすめのおほらかに育ちておればさいわひなりき
何時経ても子供はこども親はおや親は威厳を常にもつべし
日当たりの良き屋敷こそ幸いのこもりて人の命長きも
山茶花のいつしか咲てはらはらとひとひらごとく知らず散りゆく
大晦日迎えて街は活気づく今年最後の商ひゆえに
年ごろの娘が晴れ着に正装し丸髷に結ひ笑みて迎えり
丸髷にさす花櫛のあでやかに揺れて乙女の妙に艶めく
下町に住みつく人の穏やかに隣り合わせて助け生き行く
むかしより向かふ三軒両隣声かけあひてはらからのごと
鐘の音の夜のしじまをつきて聞く自ずと浄め祓へける身に
さざ波の遠き果てより聞こへきて見上ぐる空に光る星々
里山の暮れゆく空にしずしずと早やのぼりくる白き月かな
大声をあげて丁稚がさまざまな魚を並べ客に呼びかく
新聞も読まずテレビも又見ずにしばし混濁の世と離れける
混濁の世を抜け出でて己が身をじっと見つむる時の実存
小学生クラス会への誘いあり涸沼湖畔の安ホテルにて
候補地を皆に尋ねて聞くもよし涸沼はあかんと云ふ人多き
何もなきホテル一泊のクラス会無意味の宿に懲りず決めをり
水戸なれば偕楽園の辺りにて懐旧の念親しみ湧くに
懐かしく思ひて古き文学書たどれば手にす若菜集なり
藤村の若菜集を書棚より取ればおのずと美しきかな
岩松を採らむと岩をよじ登る少年の日の袋田の滝
山道の険しき岩をよじ登り滝のしぶきをくぐりゆくなり
貧しさに耐へ学校へも行かで過ぐひとり学べる蛍雪のとき
蝋燭の明かりを頼り古き書を敵機襲来に灯を吹き消しぬ
ひもじさに卵一つを盗み来ぬぬるぬるなれば足しにならずに
米軍の夜間空襲を避けて行く流離ふ旅の先知らずして
焼夷弾夜間空襲を逃げ惑ふ水戸に疎開の辛きさなかに
焼夷弾攻撃に遭ふ猛烈な炎火のなかをくぐり逃げ行く
はらからと手を引き合ひて逃げて行く火の海なれば死ぬる覚悟に
ぬすみたる卵一つを割って飲む液体なれば足しにならずも
夢に見し卵一つを盗む身の驚き立ちて目ざめけるなり
戦ひに敗れたる日のむなしさを子供心に記す日記に
焼夷弾攻撃の止む翌朝に見る焼けあとの死者の数かず
焼けあとの燻ぶる煙の中に見し人の気配に震えたつなり
食べ物に不足しがちなあの時をよくぞ学びてよくぞ生きたり
田のどじょう沼のたにしを楽しみに煮込みて食めし少年の日よ
田の稲を犯すイナゴを取り合ひて夕餉に煎りて美味し食めるに
栗色に光る栗の実を拾い上げ宝の如く持ち帰りけり
軍人と大人の馬鹿が仕掛けたる戦争だけが憎しかりけり
罪のなき力なき身の人々が犠牲となりぬしかもあまたに
如月と云へど名のみの寒さゆへ旅のしたくもものぐさに思ふ
クラス会一泊旅の趣きに水戸梅園とあんこう鍋かな
水戸近く袋田温泉と名瀑を頼りて行くも楽しきと思ふ
春立ちてぬくむむわが家の庭畑に蕗のとう出で愛しかりけり
蕗の芽を味噌汁に入れわが妻と地味な暮らしも味わひ深き
紅梅のいつしか開き我が宅に春とうぐひす共に訪ね来
枯れ枝にメジロのつがい遊びきて素早く枝ゆ枝に飛びゆく
水仙の陽だまりに咲く二つ三つ妻が知らせに笑みて見にけり
雀らに餌を与ふにさまざまな鳥いつしにか紛れ来るなり
様々な鳥もまぎれて雀らとなかよく餌をつつき遊べり
枯れ芝に交じりて生ゆるあら草を今のうちとぞ抜きて除けり
荒れ草を丹念に抜き今のうち芝の根の張る土を起こさん
鎌を持ち根よりほじくりあら草を除き芝生を守ろひにけり
紅梅と柿の木の間を整へて濡れ縁に座し空を見上げり
店頭に置く花々の売りものと歳末戦の佳境に入りぬ
水戸に住む友の誘ひに鮟鱇の旨し老舗の名も記しけり
鮟鱇の鍋をつつきつ肝と皮もう一皿と頼む仲居に
安売りも投げ売りとなる大晦日巷の店の掛け声高き
この年の悪しきことなど大方は気を確と置き打ち払いけり
来る年の商ふ企画を描きつつ意志を貫きこれをなさむや
長崎のオランダ坂にきりさめの降るランタンの淡く灯りぬ
ランタンの灯る急な坂道を流るる春の雨のきらめき
長崎のグラバー邸より壱岐の島めぐる小舟の眺むかなしき
さすらひの旅こそよけれ煙吐く汽車の遅れに道をたのしむ
大いなる目的をもち興発と東急の縁結び付けむと
われが持つ土地もいずれは売却せん意志貫徹に執念をかけ
この年に良き友を得て商ひの好機をつかむ奥野氏により
久々に懐かしき友訪ね来て松竹梅の酒を汲み干す
明暗を分けて節目となるこの夜新たな希望に燃えて行かんと
殊のほか鐘の音を聞く厳かに行く年くる年過ごす晦日と
血色が良いなと互いに褒め合ひて快心の笑み交わす
朝飯に蕗の薹の佃煮を作り下さる三井家の人
めずらしき蕗の薹の佃煮を軍飯に乗せ食むはうましも
ほろにがさ強く含みて味はへば春の寒さも味はひ深き
あきちゃんのダンスに合はせひくるい後のすがしさ身にそ覚へし
ゆきちゃんの跳ねるダンスに従ひてアクロバットをしたる心地す
食欲もまし排便もよし子供らのダンスに合はせ踊る結果は
あなかしここの晴れ晴れとした大空の空気をいっぱい胸にすいたし
いずれかに聞きたる歌の恋しけり春は名のみの風の寒きと
謹賀新年
紺青の空ほのぼのと明け初めて初の日の出に光るまほろば
会員各位の益々のご健康を祈りつつ
今年もよろしくご支援の程、お願い致します。
平成二十八年元旦
元日は、予想通り早朝の金色に輝く初日の出を見ることが出来、終日、真澄に広がる大空に恵まれ、穏やかな正月の始まりであった。公私共々、平和で安寧な毎日の年であるよう希望する明らかな予兆として、目出度く受け止めていた次第である。今年の新春は、日本列島が概ね同じような雰囲気で各位が過ごされたものと思っている。新年の挨拶に臨んで、各位のご健康と弥栄を心から祈念する次第である。 平成28年 元旦
昭経俳壇
粕汁やアベノミクスの正念場
バズーカ砲荒れる市場の寒波来る
異次元に荒れる経済冬嵐
強欲の有象無象の荒れ相場
どうなれと株の急落春一番
猪なべや鉄砲撃ちの見せどころ
どうにでもなれと新春株相場
梅一輪平和日本の香りかな
豚汁やマツコのような女かな
爆買いに走る春節銀座街
北鮮の核実験に熊怒る
北鮮の人工衛星冬の陣
北鮮のスマイル発射紙風船
スマホ見る世界株安鮟鱇鍋
狼藉の人工衛星冬銀河
流鏑馬や地上のISに的を射て
ISが各地に暴れ虎落笛
ISの沙汰の鮟鱇吊るし切り
熊突きやIS潜伏先の穴
湯気立ててこもる番屋のひとり酒
どうにでも株急落や鮟鱇鍋
大根も二股待乳山聖天
岡目づら春を装ふ厚化粧
大荒れの株式相場春一番
どんぐり 2月13日
年初来の株式急落・恐慌的な株式相場の状況
年明け早々、世界経済を震撼させるような株式相場の動きである。投資家もさることながら、これが経済に及ぼす影響を考えると、町で買い物をする主婦たちにも少なからず不安心理を与えかねない状況である。ましてや直接投資に係わらない企業経営者にとっては、経済の先行きに不安を感じて経営戦略を考え直さないといけないと思う人も多いことであろう。政界を初め経済界も、この先アベノミクスが足元から崩れ落ちるのではないか、これで消費税を値上げするようだと景気回復どころか、成長戦略を目論むアベノミクスが足元から崩壊すると思うような昨今である。財政再建どころではなく、景気減速で企業業績が悪化し、再び税収不足を生んで、またぞろ過大な国債発行をせざるを得ないような逆行した結果になりはしないかと、巷の観測は戦々恐々なものが窺えるのである。過去にその例を見なかった急落場面に、巷の人は唖然として立ちすくんでいる。株式相場の「思惑と狼狽」に、「期待と不安」に振り回されるのは常道で、冷静な対応が必要である。
黒田総裁がサプライズと称してマイナス金利の導入を図った。2月16日から実施である。最初は何を意味しているのか分からないほどに、聞きなれない言葉であった。狙いは最近の円安、株高の傾向を示す市場に対して、それを阻止しようとして、狙い撃ったバズーカー砲であったが、結果は全く逆の効果しかなかった。思惑は目を覆うばかりの散々たる恐怖相場である。早晩、収束されるとは云いながら、かかる状況が現実に現れてきていると、黒田さんの打ったバズーカー砲はみじんもなく途中で粉砕されてしまった感じである。打ち尽くして後の弾が無くなってしまったという時こそ、血を吐くような株式急落と、その波及効果の混乱を考えると、意固地になって政策を行うことの危険さが出て来る。昔若い時に、私も株式相場に手を出した一時期があった。その時、日興証券の大手町支店があった。50年前のことだから既に時効であるが、一橋大学を出た優秀な営業マンがいた。若いのに父っちゃん刈の頭をしていて、男意気を感じさせ、飾り気のない無骨な青年だった。本名を忘れてしまったが、ただ「がんちゃん」と云って支店でも人気者で、そうした愛称で呼ばれていた事は覚えている。株式の実態の勉強をしたわけではないが、たまたま手を出したがゆえに、値動きの荒さとスリルに醍醐味を覚えいつの間にか馴染んでいったのである。その時、猛烈な仕手戦に巻き込まれて寝汗が書くほどに寝られなかったことを覚えているが、結果は、がんちゃんの指導宜しきを得て逆に少しばかりの利益を得て矛を収めることが出来た。あの時有名な仕手戦を展開した株に、三光汽船があった。1960年、たった65円ぐらいだった株価が、ある日突然動きだし、二年後のは2500円まで暴騰する有様であった。景気動向を加味しながら証券投資に参加すると云った感覚からは程遠いもので、伸るか反るかの、まるで滅茶苦茶の感じであった。私はいたずらして少しだけ売ってみたが、途中で怖くなって手を放したことを覚えている。中曽根さんが首相の時代で、三光汽船の社長をしていたのが河本敏夫で、当時の自民党の副総理をしていたというのだから、今では考えられないことであった。自社株を操って政治資金を稼いで、自民党内で河本派を作るほどの威力を堂々と持っていたということであって、未熟な政治の時代であった。この河本なる人物については、三木派に属し三木首相も一時は頼り切っていた節もある。その三光汽船はのちに海運市況の低迷で破たんした。
証券金融も投資信託時代に入って、大衆が市場に直接、間接に参加する領域が拡大していった。私も若い頃、最初は手堅く日本重工とか八幡製鉄と云った株式を売買していた。当時は投資信託が華やかなころで、株式投資も「投信相場」と云うほどに、投資信託の大量の資金が支配する相場であった。四大証券の作る相場で、自由自在で金が動いた。銘柄を選別した推奨販売が活発な時代であった。翌日の推奨販売に掛ける株式を前日の終値で大量に買い込み、翌日の買い気配で始まった様子を見て売却するという大胆な手法もあった。短期決戦の信用取引を使って、例えば30万株買って置いて翌日決済して5円の利幅を採れば、証券会社に払う手数料を引き、取引税を払っても120万の利益を確保することになる。投資信託が、或いは市場が買ってくれるので安心して玉を建てられる。組み入れた株が上がれば投資信託の基準価格が上がって、多額の分配金を出せて投資家の利益につながっていくという、良好な循環が、市場の上昇過程で行われていた。
日本も高度経済に向けて驀進中であった。証券会社としても比較大手の優良顧客に対して政策的に進める商談であることに間違いない。大学を出た初任給が壱万円前後であったことを思うと、まるで天下を取ったような錯覚になってしまうことだってあろう。厳しいお袋の言葉にあって、いい塩梅な時に身を引いたがゆえに、乱脈な、大言壮語の世界から卒業することが出来、今では大いに勉強をした後をうかがって回顧しているところである。ダブルの背広を着て、ドイツボックスを履き、悠然として店頭に現れる若き青年? に憧れてくれる店の女性が沢山いたように思う。大学を卒業したあくる年に父が他界し、遺産が少々転がり込んできたこともあって、申し訳ないが颯爽とした時代であった。ある知人に言わせると、未だその片鱗が残っているというからうれしい限りであるが、それは金のことではなくて、意気込みが失われずに人間的に磨きがかかって感じられるというのである。またとない励ましの言葉としてありがたく受け止めている。持つべきは友である。期待にそぐわずに懸命に努力しなければならないと思うのである。金がなくとも金を持っているような気持でいられるので、自分でも得をしていると思う。というのも小生にとっては、実に手痛い額の金を持っていかれても平然としているというのである。謂われてみればそうかもしれないが、あまり気にも留めないで次に仕事をして稼げばいいやと思っているかもしれない。精神的ゆとりがあるというのも、考え方にネガチーブなところが比較的少ないのでこれを良しとしているのである。
そんな時は飲まず食わずで、アメリカ軍の艦砲射撃や艦載機の攻撃や、夜間空襲の中、煙火のなかを生死をかけて逃げ回っていた少年の時のことを思えば、どんなことだって耐えて行ける自信がある。水戸の焼夷弾の夜間空襲では、危うく焼き殺されるところであった。あの時は、賢明な父の誘導で逃げ場所を見定め一家全滅を免れて、神の助けもあって難を逃れてきたのである。逃げ込んだ水戸の千波湖近くにある洞窟を知っている人が居て、先日、六本木の全日空ホテルでその人と昼食中であったが、意気投合して思わず話し込んでしまった。当時のそうしたことを思えばどんな暮らしだって人様に迷惑をかけない限り可能なことであることは確信している。家族を、とは云っても子供たちは今は皆独立しているから、小生の生活責任は女房と二人だけで、思えば贅沢さえしなければ天下泰平の人生観である。これからは今まで以上にいかに人のために尽くしていくか、それからが人生の正念場となるであろう。
最近のこと、私から金を奪って行った魔女がいた。私から見れば大変な月謝を払ったことになるが、これも若気の至りだと思って、気分的にはむしろ未だ働いていけると確信を持つようにしている。しかし目の前に現れた女に危険だと気が付くのが遅かったが、まさしく隠れ蓑に正体を隠した魔女そのものである。それは女に限ったことではない。それと知った時、もはや近寄りがたいし、恐怖感に脅かされてくる。命を締める結果にもなる。人面獣心と云う物凄い言葉があるが、現実には、あまりお目にかかれるものではない。しかし現実にそういったお化けが居ることをこの年になって初めて知った。その社会的地位を考えると、知り及べば、その猟奇的生活の一部を垣間見て、すべてがわかると云った内容は凄まじいものである。人の恩義をあだで返し、努力、奉仕を無下に扱い、挙句に支払った報酬を、脅しを以て奪い取ろうというもので、もはや商道徳も規範もあったものではない。何期にもわたる決算を通じてやろうとするのだから、たまったものではない。しかも億単位だから小生にとってはたまったものではない。2億で手を打つか3億で手を打つか、5億に跳ね上がったら。相手がお化けだから手探りの状態である。経済行為を無視して略奪経済の時代に逆戻りしたようなものである。一昨年の春、一橋大学の山内学長の講演をしていただいたとき、中世の海賊船時代の略奪経済の話があったが、まさにそれを髣髴させるようなことが、現代の経済社会に公然と起きているのである。摩訶不思議で、信じがたい光景と、その深層である。その主役を見ると、真正面から見るとそれなりに体裁を繕っていて普通の人、否、それ以上の人と見分けがつかないが、後ろを向いたとたん鬼の恐ろしき面相が想像される。
さて相場の激しさは、このところの急落は、目を覆うものがある。四年前のこと野党で質問に立った安倍が、その時の総理の野田と論争中に、国会を11月14日に解散しますからといって、言質を取られたときから株式相場は一気に奔騰を開始して始まった。だらしない民主党政権に辟易していた国民は、安倍が率いる新保守政党の自民党に大きな期待を注いでいたのである。ぬるま湯に浸かって呆けていた野田はそれに気づかなかった。総選挙が行われて、民主党が惨敗し、自民党が圧勝を図り政権を奪還した。そこでまた株価は奔騰し、やがて1万9000円台を付けたが、株式はそこで目先か将来か知らないが、兎に角希望的観測のすべてを織り込んでしまった。間抜けとは言わないが、平凡な指導者から優秀な指導者に代わると、世界はこうも変わるものかと思わしめるに十分である。その代り、あの時に政権が代わらなかったなら、今日本はどうなっているかと思うと、背筋が寒くなってくるのである。その後、安倍の腰巾着の黒田が日銀総裁に就任して金融面で後押しする異次元政策をとったが、株式市場としては何ら影響を及ぼすようなことはなかった。アベノミクスの総仕上げと云うふれこみであった。円安誘導と株高を目論んだが、さっぱりであった。気の毒だが、株価的には黒田が出てきた時点で、日経平均は終末を迎えたのである。いくら異次元とは云いながら、単なる日銀主導の金融政策では限界があった。財政のダイナミズムと、旧態然として幾多の規制改革が求められていた。日本が根本的に変わらないと、小手先だけでは駄目だということである。黒船到来の意味と、明治維新に匹敵するような変化がないと、アベノミクスが目標と掲げる真の意味での成果を実現すること、その効果が発揮できないということである。三年前のある日のこと、クラスメイトが胃がんの手術で入院するが、株は売った方が良いだろうかと尋ねてきたので、思い切って全部売っておいたほうがよいと云った。3年前である。その後の紆余曲折はあったが、株価はその時の高値を抜けていないし、昨今の株式の急落を見れば、売っておいて正解であった。そのクラスメイトは健在だから手術は成功したのだろうが、株式を売ったかどうかは判らない。忙しいのでそんなことを聞いている暇もない。
株式が急変して大きく上下に揺れることは一年のうちで何回かある。株が上がるのは「思惑」で上がり、急激に株が下がるのは「狼狽」で下がる。これは私の持論であり、常道だと思っている。動きが激しいほど、その理屈が通じてくる。そもそも株式の株価はいろいろな見方があって、はっきりした尺度のあるものではない。有象無象が株式市場に参加して売るか、買うかで勝負をしている。はっきりした二者択一の世界である。いわゆる相場師と称する人は、昔から売り方に回って儲ける。高値で売っておいて、安くなったところを買って、その差を利益とする人である。百日かけて上がった相場は、崩れるとなると一日で帳消しになってしまう。空売りをかけた人は百日に辛抱が必要である。そうでないと一日の暴落の日にお目にかかれないことになる。上げ相場の時にあえて売りあがっていく勇気と忍耐が必要である。例えば百日間、張った相場の逆を行く状況に、忍の一字で耐えられるかだが、変な人でない限りそうした道を選ばないだろう。陰湿な人が多いという。それに対し、陽気な性格の人は相場の上昇に陽気になって買い載せて行く人が多いという。大方の人はそうした部類の人である。そうした世界でありながら、株で財産を築いたという話は聞いたことがない。株で蔵を建てた人はいないという。売り買いの常道、逆も又真なりということであろうあか。株で成功したという人は途中でやめて、もうけを他の資産に振り替えたりして蓄財に成功したひとであって、よほどの勇気のいる話であり、ほんの僅かな一握りの人しかいない。株で勝負を張っている人は、最後までその世界に浸かり通しで、いつかは敗北していくのが常道である。人間の性とでもいおうか、それほど確率度、命中度の低い投資であり、成功度であり、世界である。たやすく金を手にしようとする甘い誘惑が、人に仕向けるようなものである。株の世界から足を洗うという言葉がある。伸るか反るかの大ばくち、と云う人もいて男意気のあるところを示したりするが、所詮は計画性のない博打打ち、単に運を天に任せる成り行き任せ、野放図で、断末魔にも聞こえてくる。しかしながら景気、好景気、不景気、不況と云った経済環境と現象は、マーケットに参加する不特定多数の人々によって作られているからこそ、その先を読むことが難しいのである。忘れてはならないことは、マーケットは大衆資本主義の殿堂であるがゆえに、産業資本の調達を図る重要な機能を担っているのである。我々はその崇高な理念を以て、経済活動の一環として考えることが大切であることは言うまでもない。
株式の仕手戦で打った張ったの伸るか反るか、死ぬか生きるかの壮絶な戦いが過去にも何度かあった。まるで鉄火場さながらの演出である。今は近代化されて、証券市場はそれなりに大衆資本主義の擁護の元、公明正大、透明性を以て運営されてきているが、昔は後進国さながらでやりたい放題であった。従って決して品のいいものではなく、兜町にはやくざまがいの,胡散臭い連中が跋扈していたようなものであった。だから兜町で一つ当てたら、この町から足を洗って出て行くことが男の希望であったらしい。証券市場は幾多の試練を経て、戦後アメリカ式民主主義の下で次第に成長して行って、証券行政もスマートになって、今日までその育成の健全化を図ってきた。既に打った張ったの博打相場のような場面は少なくなってきた。証券業務に参入する企業は証券行政のスマートな指導もあって、盛んになり、資本調達の責務を担う健全な形に改革改善されていった。大衆の直接投資もさることながら、その代りM&Aが盛んに行われるようになった。株の買い占めと云うものから脱皮した、資本提携と買収である。国際的な規模で、大きな資本が動く世界と変容していったのである。産業資本主義が、金融資本主義の傘下に収まったわけである。その代わり産業人は産業人としての役割と、競争に打ち勝つための努力を払って行かなければならない。そして金融資本と円滑に結びついて、自らの発展の道を突き進むわけである。昔は戦争で解決して略奪していったものが、平和的に取引して解決し、結果、世界市場の安定化に寄与していくことになったのである。経済のグローバル化の結果である。島国の日本である故、広い世界に雄飛していくにはどうすべきか知恵を絞る必要がある。 司馬遼太郎ではないが、昨日のテレビ番組にあったNHKスペシャル、司馬遼太郎の「この国のかたち」を見ながらしばらく考えをめぐらしながら、さてそんなに単純に割り切って結論を出してもいいものかどうか思慮していたのである。
これからの株式市場はますます多様化して、国際経済の激浪に晒されていくことであろう。何を基準にして株価を判断し、何を基準にして投資を行って行くか、自分で勉強して自分で判断して行くことが大切である。先ず身近なわかりやすい株式を選んでいくことであるが、商人、企業家は先ず自らの仕事、本業に徹して研究、勉学をし創意工夫を以て新しき進取の精神で競争に打ち勝ちながら、会社の成長を図り、従業員の生計と希望について重視し、前向きに進んでいくことが肝心である。ことわざにある、金と灰皿はたまるほど汚くなるとは云いたくはないが、そうした場面もあるということで、そうしたことのないように修行と勉強は大事である。そして今の制度では、創業者利得をたんまり手にして、後進の指導と還元に当てることである。畏敬する井浦先生が常日頃申している通り、素朴な設問ながら所詮、この世で通じる金をあの世に持っていけるものではないし、やたらと残骸を残して後の親族間の奪い合いの醜態を見るようでは、あかんと云うわけである。其れよりも生きている時に、正しい金の使い方を優れた先人から学ぶべきだというのである。 然り。 2月15日
聖徳太子像、先輩からの書状にて
先日、主宰する短歌同人誌・淵の大いなる支持者で先輩の友人から書状を頂いた。先輩は奈良の斑鳩の里に造詣が深く、奈良の風景はもとより由緒ある寺や仏像を撮り続けて多くのすぐれた作品を残しておられるが、同時に敬愛する大歌人、会津八一の和歌に触れながら、時に斑鳩の里を逍遥しておられる。その先輩からこのほどの書状で、日本画壇の大家である杉本健吉画伯が、五年の歳月をかけて完成した聖徳太子の障壁画についての参考資料を送られてきた。杉本健吉画伯は四天王寺の絵堂の障壁画を昭和58年に奉納されたが、制作にあたっての、ご苦労と喜びを語ったお話を掲載されたもので、杉本美術館の事務局から発刊された「杉本美術館だより」の小冊子である。先輩の送ってきて下さった「杉本美術館だより」を読みつつ、聖徳太子の典雅な障壁画を見て尚、改めて考え深く拝読した次第である。画伯のご苦労談の中から、太子像を描くにあたって想像するに、大言壮語に過ぎて偉ぶらない、むしろ画伯のひたむきな太子に対する畏敬の念と、素朴で純粋な心境が窺えて意外な面を知って感動を覚えたのである。聖徳太子の人間像を生き生きと描くことによって、威徳と同時に、人間的な豊かな親しみを覚え、その高邁な人間像に迫ることが出来るからである。そしてしみじみとした心境で太子の遺徳を偲ぶよすがとすることが最大級に重要なことかもしれないと思った。画伯の並々ならぬ思いと、ほとばしる意欲を感じ取ることが出来る。それを扱いうるのは杉本画伯をもって代えがたき逸材のお方と理解するのである。画伯は、その高邁な使命を引き受けられて、五年余に及ぶ歳月を費やし思想、哲学、信条、情愛、思惟、実存と云ったあらゆる人間的な観照を凝縮させてこれを遺憾なく発揮して、優美な太子像を普遍的に追求、完成されたものと私は考えている。
画伯は、雄渾にして且つ壮麗な太子像を理想とするそのお顔を描くに当たって随分と悩まれた。そこでお顔を最後に描くことにして、その部分を半紙で張り付けて覆い隠して周囲の部分を仕上げたそうである。お顔を描くにあたって浮かんできたのが奈良東大寺にある戒壇院の広目天であった。四天王のうちの一体の広目天については奈良を訪ねた時と、国立東京博物館で開かれた奈良の国宝展の時、そして日本橋の三井本館で開かれた美術展で親しく拝観したことがあって、私も美術的に優れて強い印象を抱き、広目天の優れた風貌に忘れがたい記憶を持っている。広目天のその表情は、遥か遠くを見つめる深淵で哲学的なまなざしと、思索的で思慮深い表情がむしろ比類なく力強い感じを与えて、強く胸に刻まれている。一面に於いて瞑想的であり威厳に満ちている。想うに広目とは、広く世界を見渡し、万物を見据えて根源にまで及ぶといった、人間の存在と思惟を超越した意味合いがあるのではないかと思うのである。広目天の尊厳な表情には、そうした云いがたき意味合いが厳粛に漂っている。画伯はその広目天の顔に惹かれ思いを込めて、太子のお顔を最後に描かれたそうである。同時に為政者としての普遍的な理想像を象徴した形で、現実的で経世救済の現世肯定的な理想像を描きたかったのではないだろうか。この聖徳太子像は、四天王寺絵堂の中央扉を開いて立つと、み堂の正面の真中中央に拝観出来るそうである。
まごころのこもりて熱き巻紙の尾張の友ゆたより届きぬ
おくやまに湧きてながるるま清水の友の思ひの墨のあとかな
民衆の安きを治めこの国の先を示せる聖徳太子は
聖徳のみ代を治めてこの国の形を作り今に至れり
春の日の注ぐ御堂にあきらけく太子の姿のひかり浮かびく
みこころを高く示してくにたみの安きを願ふ太子まします
そのままに威徳を偲びふつふつと太子の姿前にあほぐに
やまかわに湧きて流るるま清水の友の毛筆の便り読む春
まほろまを聖く治めてこの国の形を今に示したまへり
菜の花の咲く野辺に立ち眺めやるおほきみ寺と高き塔かな
紅梅の炎となりて咲にけり四天王らを祀るこの寺
聖き世を治むる聖徳太子像それを守れる広目天とも
太子像描く画伯に推し量る広目天の旨しその顔
聖君の優美にこそ見て比類なき尚法界を広く臨みて
優雅なり聖徳太子のみ姿の気高く人のよすがなるべし
瑞雲を背にこの世を眺め給ふその面ざしのかしこみて見ん
天平のみ代の栄へに聖君の姿偲べる太子像なり
この寺に杉本画伯の筆による太子のみ顔を拝したまふに
この寺に気高く香る聖徳の治めし太子の威徳しのべり
ひそやかに咲く紅色の山つばき戒壇院の庭のたもとに
菜の花のゆるる彼方におほてらのいらかの屋根と高き塔かな
白壁に描く聖徳太子像杉本画伯の渾身のあと
かしこみて仰ぐ聖徳太子像わがまほろまに今もあられり
戒壇院に祀らるる四天王凛々しく邪鬼を踏みて立ちます
面白く楽しくわめく餓鬼のつらむしろ人ざまの性に合い似て
法界をうすきまなこに見渡して根源にまで及ぶ英知よ
果てしなきこの法界に我たつにただ無と感じ云ふことのなき
満天の星を仰げば常づねにこの法界の謎に迫らる
餓鬼の面にも捨てがたき性ありて喚く声さへ聞こえくるなり
この世をば徳政を敷き愛の手を差しのべ貧しき民を救ふと
願はくばわがまほろまに安寧の栄への道を授け給はん
類ひなき秀でて高き信念の太子のみ顔描く画伯は
四天王てらのみ堂の太子絵を花の盛りに見にも行かむや
みこころを今に示してまほろまの安きみ民の行方あらしむ
奈良やまに吹く春かぜに草木の芽吹きてうまし大和まほろま
春風の招きに遭ひて斑鳩の旅に出でむとそぞろ思へり
そよ風の吹きすぐあした山ざくら咲きそふ間にそ急ぎ散りなそ
四天王てらの絵堂のしろかみに太子の像のすぐれ描かる
まほろまを聖く治めてこの国の基礎と形を今に示せり
白壁に描く画伯の渾身の筆に全き太子像かな
あるままに威徳を偲びふつふつと太子の姿を前に仰ぐに 2月19日
社団法人 昭和経済会
理事長