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社団法人昭和経済会

理事長室より
LAST UPDATE: 2020年08月12日 RSS ATOM

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理事長室より

VOL.20.8

梅雨明け

記録的な梅雨の長雨が上がって今日の8月1日、いよいよ待ちに待った夏の到来である。本邦に大雨をもたらしていた低気圧が、南から張り出した高気圧に押されて梅雨前線が北に移行したがためである。見上げるともくもくと湧き立つ夏雲は白く輝き、真っ青な青い空が雲の隙間からあちこちに見つめることが出来た。美しき空の大乱舞である。木立の葉っぱを揺らす風のそよぎも、久しぶりにすがすがしく肌に触れて吹いてゆく。太陽のまぶしさを知って、蝉がしきりに鳴き始めている。庭畑のトマトが、急に真っ赤に熟れて染まっている。なま温かい長雨が止んで、みょうがの芽が沢山出てきている。

庭に出ていた家内が、両手いっぱいに茗荷の実を摘んで見せてくれた。あめ色に光った実は大粒で丸々として締まっており、みずみずしい香りが魅力的である。茗荷は庭の三か所に生えていて、毎年季節になると摘み取るのが楽しみである。庭に出ていた家内は、まだ五分の一ほどの面積の茗荷しか取っていないという。残った分は、小生に取ってもらいたいと云わんばかりである。 でも、それは小生にとっても楽しみな作業なので、 残しておいてくれたのだと思ってむしろ労働意欲がわいてきた。

  茗荷の畑の一部ではあるが、妻が両腕で抱えてくるような収穫であると、これから収穫する予定の茗荷は今までにない記録となるに違いない。 九州、中部、東北地方に甚大な被害をもたらした面倒な長雨と時には豪雨であったが、じわじわとした長雨は茗荷にとっては生育の大きな滋養になったと見える。遠くからも茗荷のクリーム色の透けた花が、密集した葉の暗がりに見えるところからして豊作の様子は手に取ってうかがえる気がした。家内には夕方にかけて小生が茗荷を摘み取ることを伝えて、籠を用意するように言い添えた。 急に気温が上昇して夕方になると蚊の集団が襲撃してくるから、服装はもとより長ズボン、長そでの重装備である。 蚊取り線香を炊きながらやってもいいが、面倒なので省略した。 ちょっとした冒険に出かけるような気がして、ステテコ姿で居間のソファファーに横になって寛いでいたが、何やら浮足立ってきた。

夕方になると蝉が盛んに鳴きだした。このところ連日の大相撲夏場所の好取組に目が離せずテレビの観戦に夢中であるが、桟敷は四分の一に制限、横綱の休場の場所ながら皮肉にも、相撲の内容はだいご味が増して面白さは増大している。 新大関の朝の山の大活躍と、序二段まで落ちた照ノ富士が前頭十五枚目で復活、今場所は好調の波に乗り、優勝を狙って朝の山と互角の力闘である。地獄から這い上がってきたという照の富士、名誉奪還なるか、今日十四日目と千秋楽が見ものである。その照の富士は今日は関脇、御嶽海との対戦である。

  夕方になってもカンカン照りの日差しが残って、文字通りの真夏日である。日差しが強い成果日が長く感じて日が暮れようともしない。幸いとばかり茗荷摘みに支度を整え、大きな籠を持ち畑の澄みに立った。青い茂みの中に頭を突っ込んでみると、想像したように茗荷の実が頭をもたげてそこここに沢山出ている。なかには薄クリーム色の花びらを付けて、麗人があたかもスカーフを首に巻いて小躍りしている感じである。 今年は雨が沢山降って、その分茗荷の実もたくさん実ったというこで、あめ色に光って丸く大きく育ったみょうがは、摘むにも張り合いがあるというものだ。摘み終わると足を延ばして次の茂みに移り、同じように頭を突っ込んで摘み取っていくが、これが何とも楽しくてたまらない。こごんだ姿勢なので腰が痛くなっては立ち上がって背伸びを繰り返す。 そらした体に清涼感が走り、頭に冴えを感じて、仰いだ空には薄い月がかかっていた。 

   無造作に摘み取ったみょうがは、大きな籠にはがいつの間にか茗荷の実が山ほどに嵩んでいた。大豊作である。別に入れ物を持ってくるように頼んだ。家内を呼んで収穫の実感を改めて感じてもらったが、びっくりしていた。丁度その時、表に出てきたお迎えの安達さんの奥さんにも差し上げたが、今晩の冷ややっこの薬味に使いたいと喜んでいた。 ご主人は茗荷が大好きだという。 昔から茗荷を食べすぐると馬鹿になると云われていたが、どうしてそんな言い伝えが浮かんできたのかと不思議である。この茗荷、毎度刻んで食べるわけにもいかない故、お酢に甘みを加えて漬けておくと長持ちして茗荷の風味をたしなむことが出来るので、去年もそうして瓶につけておいたのがある。今年も同じような手法で、というわけで家内が瓶を買いに行くというのである。幾つもあったはずだが、今年も梅の実を取った後に、梅酒を作るのに使ってしまってなくなっているというわけである。 梅は瓶に就けるものではなく、甕につけるものだと思っていた。確か例年、梅雨が明けるころには茗荷を摘み取るのが楽しみであった。

  実は三か所ある茗荷のなる場所だが、その一か所が梅の古木の下に茂っている。ところがこの場所には、茗荷と蕗が一緒に同居していていつも奇妙な収穫を経験している。蕗と茗荷の根っこが絡み合っていて、時期が来るとそれぞれ後退して目を出して来る。春先に先ず蕗の薹が芽を出してくる。摘み取ると香ばしい匂いを放ち、食べ物の薬味として貴重である。生の葉っぱはすがすがしく減るを告げている。そのあとになると蕗の葉が育ち莢が大きくなると、それを刈って煮つけにする。刈り取った跡に今度は茗荷が生えてくる。歌舞伎の回り舞台さながらである。そして今茗荷の実を摘み取っている最中である。他愛のない報告だが、それを摘み取るのも梅雨明けを告げる収穫でとりとめのないことながら、小生にとっては一年のうちの楽しみの一つである。ゴルフを楽しんでいる諸君たちと同様、豪快にティ―ショットを打った時の感じと同じである。            8月1日


テドロス氏の発言

  WHOの事務局長のテドロスさんが、新型コレラウィルスについて、「現時点では特効薬はなく今後も存在しないかもしれない」と語り、人類に覚悟を決めるよう警告を発した記事が8月4日の日経夕刊紙で読んだ。居直るわけではないが、早い段階から権威ある言葉として受け止めていた方が、対応の仕方も無駄をしないで効果的に措置を講じていくことが出来ると思う。戦々恐々の事態が想定されるが、世界の国々の指導者には、そうした意識が欠如しており、その結果が国民の犠牲を増大させて、国民の安全と安心を見逃していることにもなる。トランプ然り、ブラジルのボルソナなどは、自分勝手な人間が地上を跋扈する結果にもなって、多くの犠牲者を目の当たりにしても平気でいられるというものである。

  新型コロナウィルスについては次第にその実態がわかってきたし、我々もいつの間にか話題や知識になついてきて、ひところのような狼狽や不安が消去されて冷静に考え対応するようになってきた。しかしながら感染者数が依然として収束しないし、むしろ以前より拡大傾向にあることが懸念される。外に出ると、行き交う人が全て罹患者、感染者だと思われて用心したり、相手もこちらをそう見てるし、お互いに警戒し合っている感じである。ましてやこの暑さだからといってマスクを外して歩いていようものなら、言いがかりをつけられても仕方がないと想像するほどに、ピリピリした雰囲気が漂っていて薄気味悪い感じである。これほど人間不信の念が植え付けられた時期というものは、他の時代になかったのではないかと思われる。マスクの嫌いな小生も、アベノマスクに慣れて身に着けていたら、その安倍さんがアベノマスクをしないで大きいサイズのマスクに変えてしまっていた。大きいマスクの方が顔全体を覆ってしまうとしたら、むしろその方がうっとおしい感じがして、安倍さんの肩を持つわけではないが、小生はアベノマスクの方が小さくてさっぱりしているし、その分マスクをかけている人の表情も解っていいような気がする。

  テドロスさんが言っているように、コロナの対する有効な特効薬はないし、ワクチン開発も期待できないとすると、武器は「三密と」、マスクの着用と、外出先からのうがいに、こまめな手の消毒しかないことになる。日常的なエチケットとして、且つ三度の飯を食うのと同じに考えて、出来るだけ自分が感染しないように、そして人に感染させないように工夫して、何とも頼りない話だが、将来の生活に万全を期していくしかない。そのうち何とかなるだろうと思いきや、植木等が歌っていた「俺について来い」の歌を思い出した。あれは青島幸夫が作詞したらしいが、意地悪る婆さん、当意即妙、臨機応変の楽天主義、彼にしてさもありなんである。「俺について来い」も、無責任時代をほうふつさせて余りある気がする。トランプもロドリオスも、この歌を歌って手を振り足を上げ街路を踊りながら言ってみたらどうか。とってもよく似合う気がする。二人の先に植木等が先導したりして。 だってアメリカのコロナウィルスの感染者の死者が今日現在、18万人を越えていてもトランプはゴルフで玉打ちに興じているという無神経さ、無責任さである。 テドロスさんに聞くまでもないが、こちらの方も治療薬はない。 お二人さまの「俺について来い}は最早、絶望的である。      8月6日

猛暑到来

   焼けつくような猛暑到来である。テレビのお天気姉さんの予報の地図も、北は北海道から、西は九州にかけて真っ赤な太陽のしるしがついて、日本列島が茹だっていることが一目瞭然である。今日の気温は40度を超すとの予測すらある。コロナ禍もあるが、加えて日射病や熱中症にかからないように各自が十分注意を払って、謂わば国民的難局に対処してもらいたいと願っている。

   私が管理組合の理事長を務めてすでに15年余が経過しているが、箱根の長尾峠に立っている眺望絶佳の、6階建ての白亜のマンションに妻と久しぶりに行ってきた。このマンションの一室は3LDKで結構な広さである。小生所有の5階のマンションだが、ベランダの窓を解放すれば、霊峰の富士の全容が眼前にうかび、雄大な景観に天下泰平の気概が髣髴としてくる。この一瞬、謂うところの下界の猛暑を避けて雄大な彼方から吹き来る冷風を受けて、あたかも天空に舞う感じすらして涼味満点の日々は爽快である。終日、富士山の霊峰を仰ぐことが出来、心身を清め鍛える絶好の機会ともなった。          

天空に所在するこの富士ビューのマンションに来た以上は、久米の仙人にならずとも、少しでも下界との接触を絶ちたいと思うのが人情である。したがってトランプも習近平もプーチンからの情報を絶ち、安倍さんからの通信も絶つことにしている。ただし小池さんや連坊女史からの便りは別扱いである。したがって極論すれば新聞ラジオはもとより、テレビもつけないことにしている。申し訳ないが、血気盛んな青年諸君との接触を絶ち、欲深な老壮の青年諸氏との通信も絶ち,出来るだけ孤高の心境に在りたいと思うからである。それも人生の修行と心得てのことである。さりとて鑑真和上に習うわけでもなく、陶淵明の詩興に浸るには及ばないが、せめ己なりにて沈思黙考、願わくば無念無想に触れてみたいと思う所以である。 そこから生まれてくる和歌があるが、無意識のうちにしたためることにしている。行雲流水、雲の浮かびて行くままに、水の湧きて流れ行くままに、思いは自然の摂理に従うまでである。          8月9日


夏富士

   富士ビューマンションの部屋から鳥瞰する天地の間は男性的で雄大であり、真中にそびえる夏の富士は、沸き立つ雲に表情を変えて穏やかであり女性的である。頂上からなだらかに引くすそ野は優雅で富士の全容を包んで母性的な温かさを感じてやまない。高貴な夏の富士山は、穏やかに表情を変えて留まることがない。夏の激しい気象状況を想像して、富士山の荒々しい趣きを浮かべやすいが、むしろ逆である。化粧のない単調さで、動かざること山の如しといった表現は、象徴的な夏の富士山に当てはまるような気がする。そこに群がる雲のさまざまな動きが、天然のもろもろの動きと変化が、天空に立つ富士山の趣きを一層際立たせている。


夏雲の湧きたつ空に茜差し富士の高嶺の赤く燃え映ゆ

朝明けの光みなぎる高はらの富士の高嶺の空にそぎたつ

静けさに明け行く富士のもうろうとして朝霧のなかに在りしも

生命のたぎる息吹きと覚へしか富士やま高く天空に立つ

朦朧の淀む狭霧の中にいて物語せる人のありしも

濃き霧の全てを包む静けさにそろり浮かびく富士の山かな

うぐひすの高鳴く声に澄み渡る今朝のすがしき富士の高はら

我がうちの喜び叫ぶ心地してそこここに聞くうぐひすの声

汗だくで昇る富士やまも魅力なり座して眺むるこれに然るも

朝霧の明け行くさなか鶯の喜び歌ふ声を聞くかな

万象を黙してつつむ朝霧の静けさにわれ富士とまむかふ

煩悩を解きて明かせる富士やまの対峙の我に斯くぞ応へり

奧深き闇よりそろり明け染める霧の中にて在りし我かな

落日の色鮮やかに燃え尽きてやがて漆黒の富士の影にも

燃え尽きて夕日に真紅の富士が嶺に力を秘める神の居ませり

忘れまじこの歳月のおぼろにも浮きつ沈みつ今に在りしを

法界の掟にならひ物体のなべて動けば生きものも又

一陣の風吹きたれば富士が嶺の雲すみやかに去りて眺めん

蒼天に気高くそびゆ富士やまの辺りの山をしもに治めて

見上ぐれば真砂の星の天上にかがやくもとに富士ぞ立ちけり

懐かしき調べを聞きつ富士が嶺の月の光に薄く浮かび来

ベランダに立ちて眺むる富士の嶺の神の姿の如く思へし

豊かなる森の木立の間にも見ゆ富士の高嶺のかくも妙なり

いとほしく思へてならぬ富士やまの常に眺めしわれが部屋より

変りゆく富士の姿に万感をこめて我のみひとりたむかふ

登り来て金時山のいただきに声はりあげて富士にたむけり

ゆるぎなき富士の姿に色そへて遊び消えゆく雲の峰かな

旅に出で駿河の果ては久方の雲井に高き富士の山かな

編み笠をかぶりて似合ふ不二やまの旅立つ芭蕉の姿にも似て

笠雲をかしらに載せて富士やまの艶めく時もたまにあるらし

紺青の空を流るる星すじの富士の裾野にひきて消えゆく

三日月の薄くかかれる富士が嶺にフクロウの影よぎる気配に

さすらいの果ての旅にも思ふどち我がいとほしき富士の山かな

なかぞらに舞ふ大鷲のおほらかにのびのびとして云ふすべのなき

穏やかにそびえて映えし富士やまに天津おとめの舞ひて降り来ぬ

山道を登りてくれば富士やまの雉の番が鳴きて飛び立つ

夕映えの雲ちりじりに消えふせて我が不二やまも眠り就くかも

富士やまを巡りて光る満天の今宵はあけき星の群れなり

流れ星よぎりて富士の山に消え我に良きこと何かあるらし

富士が嶺に今朝笠ぐもの座りまし天地の間の空を旅せる

ゆるぎなき姿の富士を仰ぎみて我が信念もかくや在るべし

朝日影かがやき夕べに夕日影灯る峠の富士に立つ影      8月12日

  

   

   


社団法人 昭和経済会
理事長 佐々木誠吾


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