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社団法人昭和経済会

理事長室より
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理事長室より

Vol.14.08

         異常気象の夏の到来

八月、季節は炎暑の真夏に突入である。裸かになってても暑いし、ステテコ、クレープシャツになっても暑いし、手の付けようがない。節電の夏だからクーラーをやたらに使うこともはばかるし、くらーに当たりきりも良くないし、体を冷やして健康上も良くない。一番いいのは蛙みたいに適度な温度の水に浸かっているのがいいのかもしれないが、家ではそうもいかない。庭に樽を出して水を入れ、日傘を立てて入っているのもよいが、しかしこれもじわじわと体を冷やすだけで健康的にも良くないし、第一、清涼感が味わえない。一風呂浴びてビールを飲みながら、軒下に葭簀を立てて、風のそよぎを肌に感じている方が気持ちいいだろう。風鈴の音も、時に涼しさがあって、さわやかな風情が加わってくる。風のない時は、かき氷を口に入れて、氷嚢を頭に似せて、うちわで煽いでいればいい。自家発電だから、これには電気代がかからない。無論贅沢にホテルやアスレチックのサウナに入って思いきり汗を流した後なら、尚、爽快感を味わえるかもしれない。サウナ付の自宅か。そんな条件を満たすような家だと、葭簀は張れないだろう。
   そんなことを白日夢のごとく夢に見て、縁側に寝転んでいたら、上品な家内の声がした。そんなところでなにしているんですか、蚊に食われますよ、と云って蚊取り線香を持ってきてくれた。やることがクラッシクである。決してエステティクとは言えない。氷嚢をおでこに置いて、ステテコ姿でころがっている旦那を起こそうともせず、そのまんま寝ころんでいろと云わんばかりである。もしかすると、蝉の声を聞かせておいてやろうという配慮かもしれない。せっかくいい気もいで仮眠をとっているのに、用もないのに億劫だと、小生も起きようとしないのだから、先を見越した賢明な家内の行動である。折しも木の幹にへばりついた油蝉が突然、鳴き出した。久しぶりに聞いた蝉の声である。朦朧と聴いているらしい小生を、そのまま置いておかせておこうという家内のやさしい配慮である。別に来客があるわけでもない。こんな時に訪ねてくる客人は、無酔な客に決まっている。葭簀に囲まれた縁側から氷嚢を持ったまま八畳の間に移動して、畳の上に大の字になって、ぼんやりと天井の杉板の渋い木目を眺めていた。むくの杉板の木目を見ていたら、自分が木にとまって一心不乱に鳴いている蝉のような気がしてきた。僅かな移動距離だが、ステテコ姿の身軽さが幸いして、畳の艶めかしい感触が豊かな想像力を芽生えさせてくれる。こんな夢想にふけりながら、筆を流して書いていけば、直木賞だって、芥川賞だっていくらだってとれると思った。しかしあんなものに憑りつかれて小説を書いたりしている奴は、馬鹿者だと思った。商業主義に振り回されて欲につかり、ろくなものは書けない。そもそもの発想がいけない。物を書いて金を儲けようとする連中には、ろくなものがいない。
    家内が今日から二泊三日の旅行に出た。神の教会の女性会の全国大会が、伊豆の天城山荘で開かれる。毎年の行事だが、家内は全国女性連盟の会長を務めている。昨日聞いたところによると、八年間もやっているそうである。勉強会や、祈祷会などが重なって、夏の修養会だから仕方がないが、敬虔なクリスチャンだから、その資格は十分備えているとは思うが、何で八年間も務めているんだと聞いたら、いつの間にか経ってしまって、気が付いたら八年だというのである。一期四年の任期だそうで、二期目を務めたので、三期目は誰かにやってもらおうと思っているというのである。それであとを誰かやってくれる人がいるのかと云ったら、それがいないから困っているんだともいう。政治家は別として、人間、世間では皆が、そんなものかもしれないと思った。自分だってそうかもしれない、今まで気づかなかったことだが、引き際が肝心だとは思って遠慮しても、いざとなると傍がそうさせてくれないのが、いつもの状況かも知れない。要は緩急自在で、事に臨むべしで、これも政治家は別として、つまりはなるようにほっとけということだろう。選挙にかって政治家になれば、よほど悪いことをしない限り、安泰に暮らしていける。
   今夜は、ひとり酒でもあおって帰るとするかと思っていたら、昨日も今日も、おとといも、月末にあって、商談と付き合いで午前様続きである。これでは身体がもたない。真面目に早く帰宅しようと思ったら、電話が鳴った。申し訳ないが、これには出ないことにして、七時過ぎにオフィスを出ることにして、家に帰るつもりである。七月は忙しく大いに働いたので、家内がいないが、風呂に入ってソーメンでも茹でてさっぱり夕食を済ますつもりである。ビールのつまみに尾山台駅前のマーケットで、焼き鳥を買って帰ろうと思っている。 タクシーには乗らずに、地下鉄に乗って帰ることにした。                                                八月一日

    オフィスを出たら、何やら空の雲行きが怪しく見えた。昼間の真夏のカンカン照りで、夕方になればいつ夕立が降ってきても不思議ではない。プランタン通りを銀座の四丁目交差点に向けて歩いていたら、きれいな声に呼び止められた。ふと見たら、昨夜寄って軽く飲んでいった店の子である。昨日は七月の晦日である。運が向いて、気がかりだった仕事が三つ、どうしても片付けて行かないと、重大な岐路に立たされかねないものであった。それを我ながら見事に成し遂げた後だったので、一人祝い酒をと思って、しばらく不義理をしている店に立ち寄ったのである。気持ちの優しい感じの良い子なので、飲みに行った時はいつも席に呼んで付き合ってもらっている。折角だったので近くのルノワールによってコーヒーでも奢ってやろうかと思ったが、これが引き金になって今晩も午前様になったりしては、天城山で神の子として奉仕している家内に申し訳ないと思って、挨拶だけにしてわかれた。ポツリと降ってきた雨の一滴が、帰路を急がせたのかもしれない。
   自由が丘駅におりてタクシーに乗って帰ろうと思ったら、駅前広場は今夜から盆踊り大会が催されていた。櫓(やぐら)が二つ建てられて、踊りの大きな輪が二つ出来て、競い合う形である。櫓はいつも一つしかないが、今年は気前よく二つも立てられて、例年になくにぎやかである。踊る人たちと、これを見る人たちが、約半々である。踊る人たちが例年に比べると多くなっている感じである。アベノミクスのおかげである。その安倍さんは今、中南米諸国を歴訪中である。そして豊富な資源を背景として発展する勢いの、中南米諸国と経済連携を深めるべく、奮闘されている。中小企業も含めた経済界の一大デレゲーションを編成して、自らトップセールスを行って、日本国の経済の売り込みに懸命である。おかげでブラジルでは地下鉄の受注に成功したりして、その全受注量も大きく貢献している。立派なものである。
   安倍さんは日本の長いデフレ経済からの脱却は、尚完全とは言えないが、経済の回復は顕著に始まっており、これを全国津々浦々にまで広めていかねばならないと強調している。 確かにそうでであるが、ここ自由が丘の盆踊り大会では、景気の回復を反映してか、踊る舞台の櫓も増えて、踊る人たちも増えて、これは正しく安倍さんのおかげである。景気を良くするにはお金を振る舞えば、使う人も増えて景気はくょくなる。俗っぽい話になって恐縮だが、判り切ったことが出来なかった今までの政治家、とりわけ総理大臣は馬鹿者のろくでなしであった。ろくでなしに国民は税金をあてがう必要はない。どこかの県議の野々村さんではないが、あんな奴みたいのが政治家に成りすまして税金をかすめているのである。志高く、懸命になって実行している安倍さんに、敬意を表したいが、事につまずくことのないように祈っているところである。九月には内閣改造を実行したいとのことである。強力な布陣を敷い、まちがいのないように政権運営を図っていってもらいたい。目標は国民の平和と繁栄である。 
   踊っている人は大体が女性である。浴衣を着た女性が多かった。若くてよっぽどきれいな人でもない限り、自分の目が惹かれることはないが、今年は稀に見る美人の品評会のような感じで、踊りの輪に目を奪われてしまった。踊りの輪が混雑せず、しかも大きく広がっているので、そうした人を見つけやすい状況かも知れないが、これで行くと盆踊りが数倍楽しくなってきて、見飽きないでいる。そうした中で若いサラリーマンと思しき男性と、二十歳前後でジーンズをはいた若者が踊っているのが印象的であった。一見してぎこちなく、下手くそな踊り方がユーモラスで、滑稽である。踊りが得意でもないのは素人でもすぐにわかるし、踊りたい理由もわからないが、衝動的に踊りの輪に飛び込んだのかもしれない。前方、左右の人の踊り方を見ながら、しきりに真似ようとして踊っている。文字通り、手振り身振りの格好である。それにしても勇気のある人だと思いながら、感心して見ていた。若くて、綺麗な人は、踊りも上手である。陶酔しきった感じで踊っている。こちらも陶酔しきって踊りを見ている。どこのどうゆう人かしれないが、息が合うということは、こうした心境かも知れない。
    この一週間、忙しくして休む暇がなかった。心身ともに疲れ果てたが、無駄がなく仕事をやり遂げて満足であった。実って終えた件もあったし、種をまいて芽が出てきたのを確認した件もあってさまざまだが、大きな仕事を成し遂げた自信は十分にある。 来週は事情があって一週間の休暇を取ってある。私自身の、その間の仕事はブランクである。タクシーを拾って家について、玄関に入ったら電話が鳴っていた。出たら家内からの電話であった。これから飯を食う、自由が丘で盆踊りを見ていたと云ったら、笑っていた。そばにいた仲間の松本さんにも云ったらしく、笑い声が重なって聞えてきた。                                8月1日夜

八月に入ったら 一週間の休養と思って、七月末に大方の仕事を片付けて臨んだが、その重圧から完全に抜け出たわけではなかった。多少引きずったまま健康診断を兼ね、K大学病院に入院、かねてから懸案だった疾患を除去するに成功し、今日無事に家に戻った。何事につけ欠陥、欠点はすべからく善処するに越したことはない。油断すると状況を悪化させて、後で取り返しのつかない事態になり得ることだってある。五十歩、百歩ではない。この時の一歩は、千歩に勝るものである。
  たとえは辛辣で、あまり好ましいものではないが、世間でよく言われていることがある。人間浮き沈みの世の中だが、そこにも人の一生が運によって大きく左右される場合がある。否、むしろ運が大きく左右して、本人がそれに気づいていない場合が実際には多いのである。だから今日まで多くの先人たちが、我々に多くの処世術を以て戒めている所以がある。傲慢に至らずに、謙虚になってみづからを反省して、先に生きる姿勢が求められるわけである。意味合いは多少違うかもしれないが、孔子が説くように、毎日を以て三度、自らを反省して、誤りなきを以て一日を過ごしたかと、厳しく自問自答している。
   これを各人各様に当てはめてみると面白い。思索、行動においても然り、自分の動作の俊敏さ、遅滞さを測定しながら、自らの心身の健康状態を認識することができる。何かに気付いた時には、しかるべき対応することが肝心である。こうしたことは、自分だけに関するものではなく、他人に対しても取るべき友情であり、思いやりの一つではないだろうか。妻が夫の状態に気付いて取る愛情と同じように、夫も妻に気遣ういたわりの大いなる気概ともいうべきか。偉そうなことをおくびもなく、云い抜かして、これは失礼仕るが。     しかしよくよく考えてみると、男の行動と云うものはおおむねこうした気概の上に立って成し遂げている仕事は、全て皆うまくいっているように思う。こうした思いの一片すらうかがえないようなおっさんの仕事と云うのは、自分本位の傲慢さがあって、大小に限らず必ず失敗している。神様はいつどこからでも、ちゃんと見ていらっしゃるとは、昔親父が云っていたことであった。小出しして云うわけではないが、今回、私は運よく夏の休暇に合わせて、自分が堆積してきた汚物らしきものを取り除いて、名医にかなって帰宅することができたのも、一つの天命だと思って感謝している。堆積した汚物と云っても、悪名代官が仕様三昧のことをしたようなものではなく、その間、自分の心と向き合う時間を与えられて、なお研鑽努力を顧みる機会を与えてくれたという、控えめで甲斐甲斐しいものである。これでまた私なりに奮起努力して、艱難辛苦に立ち向かっていく情熱を持つことができたと思っている。肉体の、わけても五臓六腑の一部の悪いところを除去したが故である。心境は、小金井カントリークラブで、最終ラウンド、やっとのことでグリーンに乗せた私は、15ヤードの長いパターを見事に沈めたあの時と同じである。直線コースを進めてからゆるやかなカーブを切ってそのままホールに沈めた。ベテランの手塚印刷の手塚社長と一緒に組んで回っていたが、それを見ていた彼は私に対し、正にプロ級だなと褒めあげてくれたが、その意味が分からなかったくらいの純情無垢さを、懐かしく思い出している。たまたま奇跡的に入ったものだが、まさに有終の美を飾る快挙だと常に思っており、そうした思いを胸に抱いて、いつも奪還していきたいものである。 あれを最後に私は、そもそも下手なゴルフをやめてしまった。    続    8月13日


    お盆休みで帰省客の帰郷が始まるというのに、天候がはっきりせずに荒れ模様が続いてきている。沖縄を暴風圏に置いた台風10号が、南側に大量の雨雲をもたらして朝鮮半島に上陸した行ったのはそれとして、そのために九州、四国、中国地方に歴史的大雨をもたらし、河川の氾濫と家屋の浸水、土砂災害を多くもたらして、甚大な損害となった。今度は後続の台風11号が沖縄南沖を北上、本邦を狙う形で大きく成長した。この台風も気圧配置の関係で、右側に大きく雨雲をかかえながら領域を広げ、結局四国に上陸した。それまでにも大量の雨をもたらして三重や和歌山ではかってない降雨量となって、全域に特別警戒注意報をだして住民に避難命令を出した。三重県では1300ミリを超す降雨量となって全地が水浸しである。
    今年の台風の特徴は、太平洋側に高気圧が大きく張り出しており、台風の北上に伴って、その間を南から湿った暖かい空気が大量に流れ込んでくるため、分厚い雨雲が形成されやすい。この精力的で活発な雨雲が、各地に大量の雨をもたらして災害を発生させている。この間交通機関も混乱し、ダイヤが乱れ、多くの人が足止めを食う結果になってしまった。子供たちの夏休みも台無しである。うちの孫の佳ちゃんと麗ちゃんも、三重県のさる富豪の家に一週間の予定で遊びに行くつもりで羽田まで行ったが、全便欠航で致し方なく引き返してきたという。敷地を流れる川で遊んだり、、山に登ったりできるそうだから、そのおうちは、大層な大地主で山持ちの人に違いない。だとしたら浩然の気を養うべく、ぜひともご厄介になって精一杯遊んでくるといいと期待していたら、翌日のつかの間の天気の回復を掴んで、はねだから再び羽田から出航した飛行機にちゃっかり乗って三重に向かっていたそうである。宅地内に山があったり、川が流れたりしている場所だから、広大な敷地の中を終日駆け回っていたって飽きることはない。ハイキングに出向くような場所のようなものだから、大雨のあとに気を付けなければいけない。
三重の白浜と云えば、昔、新婚旅行に選んだ場所であった。四泊五日の楽しい旅であった。何もかもが珍しく映り、珍道中であった。白浜の海岸で、好物のアワビの壺焼きを一人で食い過ぎて、腹痛を通り越し、半日も下痢に悩まされた。幸いにも医者にかかることもなく自然治癒を試みて、白浜の海岸を気持ちよくかけていたら、しばらくして不思議なくらいに改善してくれたことを思い出して苦笑したりしている。.思いでのアルバムをひらけば仔細に楽しいことが沢山かけてくるし、思い出の和歌も泉のごとく詠まれてみずみずしく回顧することができるだろう。その白浜の海岸を、今、孫の佳と麗が嬉々として飛び回っていることを思うと、感慨無量でる。同時に何となく時間の過ぎ去っていることに慌ててしまうような心境である。懐旧の念に浸るわけではないが、万人に共通する心情ではないだろうか。それがまたこれからに勤労と希望への一里塚となれば云うことはない。
   巷ではお盆を迎えて故郷へ帰る人たちでいっぱいだったが、騒がしかった時間が過ぎて、何時の間にか世の中が閑散として、時間が停止してしまったような錯覚である。お盆は、日本の季節の巡りの中に、昔から育まれてきた行事の中の大きな意味合いを持っているが、お正月とは変わった過ごし方と趣きがある。それは先祖の御苦労に対する尊崇の念を自らの胸に呼び起こすことであり、故人となった身内のものはもとより、親しき縁を以て故人となられた人たちを静かな気持ちになって弔う意味でもある。そうした思いを以て、極暑を避けてのこの時を、清涼な禄陰のもとで心身を癒す休暇を楽しみたいものである。これは日頃、無沙汰に過ぎる私たちを慈しみ、先祖が私たちに用意してくださった大いなる思いと恩恵のたまものである。 8月10日


     終戦記念日

天皇の戦争終結の放送にひまわりの咲く袋田駅頭
      激動の昭和のみ代の天皇の苦悩をつづる昭和実録

   終戦記念日と云っても意味合いは、敗戦によって日本が自ら連合軍に無条件降伏を受け入れて、今日の自由と平和と民主と繁栄を勝ち得た日を、戦争の反省と不戦の誓いを以て将来の道筋を獲得した日として思い起こす日である。不戦の誓いとは、相手に戦争を仕掛けないことであって、自らの主権、即ち国と国民の平和的生存の権利を放棄するものではない。そのための準備は、英知を以てしておかなければならない。当然なことである。しかも、世の中があの時から既に大きく変化を遂げ、国同士が以前のように、たやすく戦争を遂行していける状況ではなくなってきた。一国の戦争行為は、相手から同じような、それ以上の反撃を食らって双方が自滅の道を歩むことであり、決して得をする算段はない。共存共栄がいかに重要になってきたかと云う、歴史的、時代的j状況の変化がもたらした、明らかな結果である。ましてや核兵器の使用は不可能である。核兵器の攻撃に対しては、さらに強力な核兵器の反撃を以て応酬され、双方にとって破滅しかない。危機意識が高まって今は世界的にも、そうした抑止力が完璧に近く構築されてきた。
   私は、今まで昭和経済を通じて長い間、終戦、敗戦のこの日の意義を私なりに世間に訴えてきた。その気持ちは依然として変わることがない。そしてそのことは普遍的真実であり、戦争がいかに人類にとって罪悪であり、大犯罪を犯すものであり、冷酷無残で反人間的、ヒューマニズム精神に反するものであるかを訴えてきたつもりである。私にとってそのことは最早、議論の余地すらない、神を冒涜する行為であることは、古今東西戒めの言葉として決めてかかることができる。人間にとって自由と平和と民主と云う理念ほど崇高なものはない。それは云わずして、人間の尊厳性を示し、謳い上げるものである。これを犯す輩は、悪魔的存在であって、少なくとも人間として資格を有する者でないことは確かである。馬鹿な人間がひとたび権力の座に就くと、結果がいかに悲惨であるかと云うことは、如実である。
   太平洋戦争によって多くの痛ましい犠牲者を出した悲劇は、身近に経験して、自らも少なからず戦争の実態に向き合ってきた。敗戦の色濃くなってきた昭和18年半ばごろから、国民小学校の学童疎開が始まった。集団疎開、縁故疎開の二者選択を強いられ、空襲の被害から逃れるために都会から日本各地に移っていった。例えば私は病弱だったがゆえに小学校二年の春、縁故疎開で水戸に移っていった。水戸でいろいろな事情で各小学校を転々とし、ゆっくりと勉強した記憶は全くない。学童疎開と云う名目で、子どもたちや女子高齢者が都会を追われ住みなれぬ僻地に移されていったが、いわば難民である。何百万人と云う難民が発生したのも同然である。私の場合は兄弟四人が散りじりになりながらも水戸を中心に転々とし、すさまじい食糧難の毎日であった。そして戦局の悪化に伴って空襲と艦砲射撃におののきながら、行く先々を変えて行ったのである。
   昭和20年3月10日の東京大空襲は、疎開先の水戸からもすさまじく映った。空のほぼ半分が真っ赤な火に包まれて、遠く100キロ離れた水戸から見ていて、今にも火の粉が真上に飛び散ってくるような光景で上空に迫ってきていた。猛爆を受けている、その炎火の下で何十万の民衆が逃げ惑っていたのである。東京の浅草で父がひとり残って奮闘していたが、迫る火炎に取り巻かれいたたまれず外に出た。すでに累々の焼死体の中を、九死に一生を得て助かった父からの話は、じっくりと聞くことはできなかった。ただ言問橋を渡って向島の牛島神社の防空壕に逃れるまで、橋の上に黒焦げになってくすぶり燃える人の上を這いずってきたという凄惨な一言が全てであった。近所では一家全滅の場合も少なくなかった。言語を絶する状況を、生々しく子供に語るそれ以上の勇気を、父は持ち得なかったのかもしれない。
   幸い甚大な被害を受けた我々家族であったが、あらゆる艱難辛苦に耐えながら家族が力を合わせて生き抜いた。しかし終戦間際の8月2日、家族六人が一緒になって水戸での空襲に遭い、ここでも命からがら難を逃れて、B29の夜間の猛烈な焼夷弾攻撃の火炎の中を逃げ切ることができた。以て神の救いと考える以外に思い当たる節がない。それでも馬鹿な戦争は続けられ、さらに多くの犠牲者をだし、膨大な国益を失いながら、本土決戦、国民は一億総玉砕の思想に駆り立てられていったのである。
   8月6日、広島で原子爆弾が投下された。一瞬の閃光で14万人が亡くなった。新型爆弾と云うという説がひそかに広がった。8月9日には長崎に原爆が投下されて10万の人が一瞬にして亡くなった。一説には水戸に投下する予定で飛来したが、その日の天候が悪かったため急きょ方向を変えて、長崎を選んで投下したということである。この日は水戸に我々家族が一緒に生活していたのである。恐怖が日本国中に広がって、竹槍を持って本土決戦に臨むどころではなくなってきた。史上最大の悲劇となって、人類史上最も凄惨な地獄絵図を体験して、結果8月15日正午、69年前の今日、玉音放送を聞いて、戦争が終わったことを知った。この戦争で350万人の日本人が亡くなった。半数近い民間人が殺された。戦地で亡くなった兵士は240万人、うち120万人近い兵士の遺体は、今以て南方戦地で放置されたままである。多くの国民を苦しめて国策、国益の美名のもとに殺されて、国土を焦土、荒廃に導いたこの戦争から69年が過ぎた。思い起こすには余りにも戦慄すぎて語るすべを知らないほどである。そして語れる人もだんだんと高齢化して、そうした機会が少くなってきた。
    真珠湾の奇襲攻撃で始まった対米の太平洋戦争では、次第に拡大する戦線を維持できなくなり、後退する羽目になってきた。大本営発表は虚偽の情報を以て国民の戦意高揚に狂奔し、祖国一致思想を作り上げていった。虎の尾を踏んだがために、虎の威を買う結果となった。起き上がったアメリカにガダルカナルの攻略をゆるし、サイパンの攻略をゆるした時点で撤退するべきであったにもかかわらず、頓馬な指導者、わけても狂信的軍人たちは神国の妄想に盲従的であった。サイパンの攻略によって米国は日本本土の爆撃範囲を得たことになる。高度一万メートルで飛来するB29に対し、わが友軍戦闘機は迎撃すること能わず、対空砲火も届かなかった。編隊を組んで悠々と上空を飛ぶB29の編隊に日本の小さな戦闘機が向かって行くが、途中で皆撃ち落とされてくるくると、きりもみりながら落下していくのみであった。実力の差は歴然であった。日本の制空権は米国にあった。さらに硫黄島では史上最大の激戦となり日本軍は玉砕、更に戦火は沖縄の攻撃に突入してアメリカの物量作戦に惨敗したのである。沖縄戦は史上最大の悲劇的な激戦地であった。武器弾薬はないままに飢餓に苦しみながら、最後の力と試みる肉弾もむなしいほどの悲惨な結末であった。戦況は本土決戦にと映っていった。そうした状況下で我々小学生も挙国一致のもと、容赦なく駆り出されたのである。学徒動員で特攻隊に出陣した兵士はであるが、戦場に散った青年諸君も次第に激増していった。そして女子供も含めて、本土防衛のため真剣になって竹槍の訓練に毎日が費やされたのである。長兄は少年義勇兵と云って、勤労奉仕から戦地に向かうための、その特訓の毎日であった。もとよりお国のために死ぬ覚悟であった。
    記録すべき事実は小誌においても沢山あるが、兎に角原爆の洗礼を受けて日本の指導者たちはようやく目が覚めて、これ以上の戦いは日本を再起不能の亡国の地と化す日を考えるようになったのである。騙され続けてきた挙句に一億火の玉、本土決戦で木端微塵のそう玉砕を良しとするなど、馬鹿ほど怖いものはないの言葉通りで、狂気の沙汰である。家の前に防火用水があって、バケツに砂が用意されてあって、火を消す大きなはたきがあって、いざとなったら竹槍で敵アメリカ兵を打ちのめすなどと考えていた我々も、考えてみればド阿呆で馬鹿丸出しで知恵がなさすぎた。いくら言論統制、情報遮断の社会で好き勝手に飼いならされてきたとはいえ、洗脳の恐ろしさがここにあった。軍隊に支配され、犬猫のように民衆が奴隷的隷従を強いられていたといったにせよ、手出しのできなかったお上にしても、アメリカのB29に向かって真剣に考えていたことも滑稽ではなかったのか。しかもそうして洗脳された国民も又、早晩、状況の変化を知ることができて一億火の玉総玉砕の妄動にかられずに済むようになっていったことは、神の導きであり、神の助けであったとしか言いようがなく、幸いであった。
    アメリカ軍の本土上陸をゆるし、竹やりを持って迎え撃つと本気で考えて、最後まで戦うつもりでいたが、その前に、あの原発をこの狭い日本に何発も落されていったら全土は墓場と化して、日本人はこの世から消されてしまっていたであろう。その瀬戸際で妄想から抜け出て、国家存亡の危機を回避できたことは幸いであった。今だからこんなことも言えるのであるが、記念すべき日ではないが、我々が得た教訓は、この日を限って、日本と日本人が、暗黒の地獄の状態から、自由と平和と、更には民主主義を勝ち取ることができたという厳然たる事実である。この教訓を如何にしてこれからも永続的に維持していけるか、旧態然の、急進的保守層の老いぼれ連中の幻想を排除して、清新にして豊かな理念と発想のもと、大きく変化してきたこれからの国際社会に対応、指導していくかにかかっている。
    日本でも最近の傾向的風潮として、特に政治の世界で、国会で旧態然で死にはぐったその老いぼれのくそじじいたちち、一部の跳ね上がり分子が、依然として蛆虫のごとく懐古趣味にあって、かっての国体を取り戻そうと妄想中である。紛争の地に好んで入っていこうとする知恵なき亡者である。若者をそそのかして、イラクやシリアやアフガニスタンで殺傷を繰り返している原理主義者の気違いと同じである。日本にもこの種の輩がうじょうじょしているから、やりたい奴らをそうした場所に送り込んでやったほうがいいだろう。若もののなかにも周囲の注意を聞かずに勝手にそうした場所に飛び込んでいって、敵方に、あるいは何でもない奴らに捕捉されて消されているのが多い。覆面して銃を持ち、徒党を組んで狼藉を働く無頼漢みたいな連中が数多く紛れ込んでいる。傭兵みたいなものも多い。
日本からもNPOの肩書を持って単身乗り込んでいく若者や無職となって突き放された中年が、はったりと冒険心で飛び込んでいくが、事の是非はいろいろとあるが、そもそも無謀である。相手方の関係者らに捕捉され、いろいろと取引の材料にされて、とばっちりを受けたりする国はたまったもいのではない。ちょうど雨嵐の中を、注意を押し切って登山を試み、遭難して山岳救助隊の救助を求めてくるようなもので、わかりきった結末を強行する人騒がせであり、誠に持って迷惑千万な話である。宗教的対立で原理主義を掲げ、周囲構わず武装勢力と称して妄動されると、甚大な迷惑と被害をこうむるのは武器を持たない民衆であろ。加えてそうした武装集団が残虐極まりない行動を良しとして、無力の住民を相手に狼藉を働いて、略奪、殺傷の破壊活動をしている。無駄の多い世の中で枚挙にいとまなしだが、恒久的な平和を希求する思索のさなかであるが、そうした単独的行動を以て、海外の紛争地で仲間入りして、どっちつかずの活躍をするのもよかろう。一時的ガス抜きの効果も考えなくてはならない。
   大戦によって尊い命を奪われた多くの人たちに対し、鎮魂の思いを限りなく示し、この日のために心から祈る次第である。      8月15日


連日のように報道される広島市北部の、豪雨による土砂災害は深刻である。記録的、局地的豪雨が間断なく続き、住宅地を襲った土砂崩れで、生き埋めになって救助が間に合わず、死亡する人たちが想像を超えたものとなり、いたたまれぬ思いである。異常気象がもたらした事象には違いないが、それにしても目を覆うばかりの光景に愕然たる気持ちである。現場で救出に懸命な消防隊、警察隊、自衛隊の諸君たちが決死の救助活動を行っている。それに加えてボランティアの人たちも、雨の中危険を冒して活動しているが、二次災害の危険もあって忸怩たる思いである。助かった母親が、土砂で埋まった家に向かって「助けてと、声をあげなさい」と、子供たちに叫んでいる姿が痛ましく、助けてやってくれ、助かってくれと祈るばかりである。
    不幸なことに死者は50名を越し、行方不明は38名となって、土砂災害の死者数としては過去にないほどの最も大きな数にのぼっている。災害発生から生存率が急に低下するといわれる72時間をまじかに、必死の救援活動が続けられているが、非情な雨は断続的に激しく降って、現場の救出活動を妨げている。一人でも多くの人が土砂の下敷きから救出されることを祈るばかりである。  8月22日




2014.08.01

社団法人 昭和経済会
理事長 佐々木誠吾


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