line

社団法人昭和経済会

理事長室より
LAST UPDATE: 2019年04月22日 RSS ATOM

HOME > 理事長室より

理事長室より

新しき元号の名は如何に

新しき元号の名の如何ならむ今日の発表のつとに待たれる

天皇のご都合により図らずも新元号の世にもこのたび

元号は平易簡潔を旨として平和と希望の思ひ新たに

美しき音感にも響きよく読み書きしうる文字が良きとも

滑らかに縦横に文字つなぎ行く術あるゆへに簡易よきなり

常日ごろ万人が読み書きする故に意に深く止め易き適へん

新しき元号の名は生活と日々係われば要なりとも

新しき元号の名は活動と日々係われば基本なりとも 

元号の発表に良き青空の今朝を迎えて意義深きかな    4月1日


    新元号は「令和」と決まる

新しい元号は今日四月一日、「令和」と決まった。出典は万葉集の「梅」にちなんだ和歌三十二種の序文にある文章から、「令」の文字を採ってこれに収めた。ことばに慣れて来ると、綺麗な響きを持ってくるし、書き慣れて来ると平易な二文字に親しみやすくなってくる。出典からして難解で、くどくどしい解説をされるよりも、素直に聞きとって受け入れていく方が、自然であり、国民にとっても広く、元号として意義深いものを感じさせてくる。令和、この文字を使って頻度こそ人によってまちまちだけど、この先、この世の中と、いろいろな人々と長く付き合っていくことになるが、違和感はない。万葉集からの出典と講釈を、まさか安倍首相から拝聴するとは思わなかったし、意外であった。しかし丁寧な応対であり、この言葉を意識の中に無意識に受け止めて、同時に磨き上げていくことも我々の務めでもある。令和、この文字と言葉に、自由と平和と栄えを植え付けて、たやすく使っていく時代にしたいものである。無事に発表を終えて、幸いであった。
 新元号、令和の発表を受けて、我が短歌同人誌、淵でも、その遠因を汲みとって、ますます詠歌に励んでいきたいと念願している。日本の古くからの伝統である和歌、その原点を成す万葉集から引用されて広く国民の生活と活動に根差していくきっかけを、そして万葉集は改元に当たり改めて脚光を浴びて万人に理解されていくことに違いない。我が短歌同人誌・淵は、詠歌のしらべを万葉集にこれを求めていると云っても過言ではない。会津八一が和歌のふるさとを万葉集にも留め、自分の詠歌を磨き上げ、独自の世界を切り開いた実績と云うものがある。従って、淵の系譜は会津八一と記されている。これを機会に、万葉集の山上憶良、柿本人麻呂、大伴家持と云った歌人の和歌も改めて読み直してみたいと思っている。先人の観念と美意識に学び、之を自分のものとして飛躍を図り、新境地を開いていくことに、淵と共にある自分を誇りとし、その喜びを同人各位と共有したいと念願している。四月一日。


令和てふ元号の世に己が道探求しつつ楽しみ行かん

國たみの安きと栄えを末永く祈りて令和の元号とせり

令の字に聊か抵抗の有るものの万葉集より採りしものなば

日常の社会生活に欠かし得ぬ呼称のゆえに己がものとし

和を求め令に基づきこの国と民の栄えを築き行く良し

わが和歌は万葉集の格調に習ひて独自に開くものなり

万葉の和歌より旨し文字を採り令を以て和をもたらさむ

令和てふ名の元号の定まりて新しき道すすみ行かまし

かぐわしき匂ひ漂ふ春の日の野べの盛りをそぞろ楽しむ

如何ならむ名の元号かと気がかりに心待たれる今日の発表    四月一日


追歌

元号は民が日常諸々に用いる故に要なりけり
日常の社会生活に欠かし得ぬ呼称なるゆえ己がものとし
何かにと議論の末に決まりたる元号故にまとまりの良き
明らかになれば釈明の余地のなきその意を平易に求むものなり
令の字に聊か戸惑ふあるもなほ万葉集より採りしものなば
わが和歌は万葉集の意味合いと調べにならい我がものとせり
わが和歌は思ひとしらべを密やかに心のうちにその場にて詠む
わが和歌は過去の研鑽を卒業し独自に読みて拓くものなり
平成より令和に変わる元号に似ること何かありて易きも
夜遅く書きものをして寝入るにも思考の冴えて又起きにける
明日のこと来客のこと何かにとめぐらしをれば朝のまじかに 4月1日

元号の令の字

  正直のところ、元号について「令和」と聞いた瞬間、令と云う字について今まで目に留まらなかったように思うし、興味を感じていなかった。無理やり二文字を結びつけたような違和感を以て、これを以て何か意味合いがあるのだろうかと訝しく、親近感が持てないでいた。それほどに関心の薄い字が、元号に取り入れられたことに非常に奇異な感じを抱いたのである。不勉強なこともあって、令と云う字が「良」いと云う解釈をすることも余り馴染めなかった。直ぐに気付いたことは、令と云う字が、令夫人とか、令嬢と、令息と云った言葉として日常使っていたことが不図浮かんだ次第である。さてだからと云っていきなり元号に取り入れられたことが、とは思っていたが、それ以来読んでいると嫌いでない字に変わってきたのが不思議であった。
   抵抗気味の感じたのは、令の字が命令すると云う字からくるイメージが強く、上から押し付けられていく気がしたので、イメージとして触りにくかった。敢えて申せば、令と云う字には命令するといった意味合いが多く含まれている。命令、指令、発令、辞令、令状と日常いくらでも使っている言葉の熟語字である。まだまだある。訓令、政令、軍令、勅令、号令などなど、民間同士だと、上のものから、官民だと役人からと云ったある種の陰湿な束縛感と響きが伴ってくる。万葉集に出てくる令と云う字は、美味し、旨し、綺麗、素晴らしいと云った感嘆に近い表現手法である。時代と共に随分と意味合いが変わってきたとも思う。
   慣れると云うことは不思議で、「令」の字は音で行くと、通常よく使っている文字、麗に変わるものとして充分に感じ取れるような気がしてきた。わたしには二人の女の子の可愛い孫がいる。二人とも利発で美しい女の子である。上の子が「佳」と云う一字の名前で、下の子が「麗」と云う一字である。音読みで発音すると「れい」は即ち麗であり、美しい、麗しいと云う意味になる。佳は文字通り賢さを表している。大きくなるにしたがって、才色兼備のだから「令」を直ちに「麗」の字に置き換えて味わうことが出来る。令の字が綺麗に見えてくるのはそのせいかもしれないが、加えて今回のように改元に用いられたとすれば、否応なしにそれに従って少しでもレベルアップとして受け止めなければいけない責任も出てくる。
   万葉集に古くから令の字として理解されているとなれば、一段と艶やかさが分かってくるようである。この令の字は、又広めると云う意味も込められているらしい。であれば、和を広く人々の間に広めていくと云う意味にもつながってくる。なかなか味わい深い文字であり、言葉である。であったにしても、令の字を以て、令嬢、令夫人と云ったように「良い」「美しい」という意味で実際に広く使えるかと云ったら、この場合、何となく限定されているように思う。

  それはどうあれ、令和の元号の令の字は、実に綺麗なものとして頭に描くことが出来るので、幸いなことにも、むしろ幅と深さは大きく広がって、気持ちが豊かになってくるような不思議な魅力がある。そんなことに気が付いた。


元号の令和の令を万葉集より引用なれば頷き居りぬ

令の字の命令、令状、号令の字とも覚へて複雑なりき       4月2日


一斉に先を競ひて散り急ぐ花の花びら空に迷ひつ

花吹雪く空を見上げて降りしきる雪のあととも見まがひにけり

ゴーン容疑者の四度目の逮捕

  午前中の仕事を終えてお昼のニュースを見ていたら、「ここで今新しく入ってきたニュースをお伝えします」とアナウンサーが、ニュースの途中で言葉をはさんだ。入ってきたニュースとは、保釈中のゴーン容疑者が、東京地検特捜部に特別背任容疑で先程逮捕され、身柄を拘束されたとの趣旨だった。保釈金の10億円はそのまま保管されるとのことである。弁護団は保釈中の逮捕は不当である、恣意的で論外と反発している。昨年末の逮捕劇以来、長期拘留で疲れ切っている筈だが、賢察の追及も激しさを増してきてるから致し方ない。古くからある日産の企業体質にも大きな問題を孕んでいて、予断を許さない。
  日産の資金をゴーン容疑者が知人の会社の口座に送金し、このうちなにがしかの金員がゴーン容疑者個人の口座に振り込まれ、これを横領、私物化したと云う背任の容疑である。高額の報酬に飽き足らず、尚強欲に走った付けが、こうした悲惨な結果を招いたのだろうが、権力の座に就いた者が、自制心を失った顛末は如何にも悲惨である。いつの世も性懲りもなく繰り返される事例だが、日産に限ったことではない。人間と社会に対する警鐘と思われる。

  論語には、孔子の沢山の教訓の言葉が残されているが、その一つをふと思い出した。中学時代の学習に合った言葉である。漢文の時間であって、記憶にとどめた文言で、未だに覚えている。中国の言葉で、大人という文字がある。「おとな」という言葉に聞き勝ちだが、そうではなく立派と云う簡単な言葉に言い換えて理解した方がいい。小生は、この大人という言葉を、泰人と云う風に普段から書いている。そんな思いを抱きながら、ニュースを見た途端、受けた印象を直ちに和歌に詠んでしたためてみた。


知、仁、勇、まことの男に備ふもの孔子の言に待つまでもなき

分別と云へば判らぬ馬鹿が居て又も大臣の見識の無さ

ゴーン氏の使う金額も巨額にて公私の分別に問はる人がら

日産の企業としての在り方も醜態の体さらす天下に

保釈さるゴーンの再び逮捕さる拘置所の身に置かる日々にも

四度目の逮捕となりぬゴーン氏の生き様けはし天と地との差     四月四日


フェイスブックの軽薄さ

   人に勧めらてフェイスブックに参加したから二年がたつ。途中休暇を取って半年ほど遠ざかっていたが、不審に思われたりしたので、再び登壇した。健筆は相変わらずで、モノを書かないでいるとストレスがたまるばかりという稀に見る性癖となってきている。パソコン時代の最大の利点であり、以前より勉学する機会が何倍にもなっている。便利な機械が発明されたものである。勿論こうした機会は一夜にして出来上がるものでなく、発明と実用の集積から得られて、今に及んでいる結果である。小生の場合、以前は原稿となるべき文章を用紙に書いて、それを印刷所に郵送し、仕事の初めを創ることになる。

飲み食いに騒ぐ昨今の乱痴気の席にあきれて望みなくせり

啓蒙の発信と見て参加するフェイスブックに失望のあと

膝をつき年老ふ人を慰めつ被災地にゐて祈る天皇

天皇の旅先に見る被災者の癒す言葉に祈りあかせり

平成の御代に尽くせる天皇の天災の多く心なやむ身

人情の希薄を感ず昨今のスマホ時代の申し子なりき 4月4日


   長閑にひばりのさえずりを

ひばりの歌を思い出しながら、昔の光景を頭に描いていた。すると直ぐにでも童心に返って、疎開先で過ごした生活が走馬灯のように巡ってきて、いつの間にか上げひばりではないが、体を震わせながら空高く飛び上がっていくさまを夢想している。小さなひばりが全身を震わせて声を出し、さえずる様はいじらしいくらいである。すると心の糸を手繰るように、ひばりの賛歌の和歌が清水のように湧いてきて、詠んでいると心がひばりの声のように震えて来るのである。有難いと思う。歌っている歌が上手か下手かはお構いなしで、浮かんできた台詞を、心のさまを言葉に置き換えてさえずり止まないのである。鬱積した思いがいっぺんに吹っ切れて、すがすがしくなってくる。
五月になると、麦の穂が黄金色になびく明るい季節が田舎に訪れる。青い空に浮かんでいる雲を目指すように、ひばりが鳴きながらあがっていく。小さい体を震わせながら、羽を広げて昇って行くのが見えるが、次第に姿がかすみの中に消えていくように、そして綺麗な空に吸い込まれていく。どこに行ったのか朦朧として定かでない。だからと云って、降りてくる様子もない。声ももろともに消えてしまったか、色即是空の世界に昇天していったかのかもしれない。遥かに遠くの空に昇って行って、天女の指にでも止まって、羽を休めているかもしれない。    4月5日


春の野に喜び歌ふさえずりのひばりの上がるあめつちの間に

春の野に囀る声の朗らかにかすみの空に消ゆるひばりよ

天つちの間をゆるがして囀りのひばりの声の果てに消えゆく

空高く昇るひばりのさえずりに我れが心の長閑なりけり

空高く昇るひばりの後を追いわが胸ひらき天に詰め行く

高々と大空高く舞ひあがりさえずる声ののどかなりけり

初なつの大空高くひばり舞ひかすみの中に行くは妙なり

高々と昇るひばりのさえずりを聞きうたかたの夢に在りけり

菜の花の一面に咲く野づらよりひばり飛び立ち雲に消えゆく

さえずりのひばりに訊きぬ汝が声のながながしくも誰が求めん

ひばり鳴く空に小さき影残し光りのうみの波に消えゆく

麦の穂のなびく畑の真なかよりさえずり上がるひばり見上げり

広々とひろごる空の余すなき響くひばりの声いとほしき

菜の花の広き畑を見下ろしてひばりひねもす鳴きて止まざる    4月5日



新紙幣の発行

万札の肖像画に載る渋沢の真の経世の意義高らしむ

        
紙幣が新しく発行されることになった。今までも何度か発行されてきたが、主たる目的は紙幣の偽造を防ぐことである。印刷技術が向上してきてはいるが、偽造をもくろむ犯人の技術も進んできているので、新札発行は時代的要諦である。
今までの一万円札の肖像には、「学問のすすめ」を著わした福沢諭吉翁が載っていた。その前は聖徳太子であった。そして今回、渋沢栄一が決まった。採用された人物については全く異論がない。 日本の近代的な資本主義を、実践的に推進してきた財界人である。歴史上に残る人物として多くの足跡を記してきているが、今の学生諸君にはなじみが薄いかもしれない。しかし元号が令和と正式に決まってから、出典となった万葉集に近づこうとする人たちが爆発的に増えてきたように、一万円に登用された渋沢栄一についても、その人となりを研究しようとするファンが多くなってくるに違いない。金儲け主義の、利益第一主義の経営が喧伝される今の世の中で、道徳と経営の一体化を唱えて体現していった渋沢の人物像について、多くの人たちに一考する機会を与えれば、これに勝るものはない。
かくして新紙幣の発行の話題は、紙幣に載る人物である。肖像画として映りのより文化人が登用され、一万円札に渋沢栄一、五千円札に津田梅子、千円札に北里柴三郎が決まったのである。

   記述のように渋沢栄一については、年齢層にもよるが、日本経済の近代化につとめた最大の功労者として有名である。多くの知識人、経済人にも知れ渡っている。その人格、風貌にも全く遜色のない人選である。功績、人物評については既に多くのフィールドで語り尽くされている。今日迄続く財界の立役者である。未だ彼を凌駕する人物は、残念ながら出てきていない。第一銀行を創立し、日本経済の発展の礎となった。多くの企業群を設立し、日本の経済発展に尽した立志伝中の成功者である。一万円札を懐から出すたびに、渋沢の経済哲学を思い起こしながら、襟を正す経営者が一人でも多く輩出して、民衆の厚生と発展のための、活力ある社会を構築しなければならないと思う。
4月10日


渋沢の企業哲学と道徳を論語に根ざし鮮やかなりき

道徳と経営の一体を警鐘し立身の道決める渋沢

日本の資本主義経済のスキームと基盤を作る傑出の人

開国と日本経済のれい明期ひとり英知の猛夫の立つ

列強の欧米諸国と相対し経済自立に尽くす渋沢

激動の時代をくぐりて経済の自立発展のスキームを組む

今日の日本経済のスキームと基盤を立てる傑出の人

渋沢の道徳経済合一説なるを打ちあげ世を渡りゆく

幸いに時流にのりて渋沢の順風満帆の王道をゆく

いっときは尊王攘夷に加担して高崎城にろう城せんとす

幕末の維新の狭間に激動の時代を生きる若き渋沢

いつの世も正しく生きて心身の健丈なるは人の要諦

変り身の早き渋沢に倒幕より明治政府の要職に付く

一橋大学も渋沢の手になりし学舎にあればさもありぬべし

一橋大も日本女子大も学問をたっとぶ経済人によって建つ良し

道徳と経営の一体化を説きおこす渋沢の商才の根源ならむ

渋沢の血気の燃えし時期に立つ尊王攘夷にからる若き日

新政府樹立と共に大蔵省入省により躍進の身に

万札の自画像に載る渋沢の経済理念活かし行かむや

立派なる人の理念を念頭に経済社会に臨むは如何や

万札の紙幣の肖像に渋沢の令和の新たな世にも臨みて

   燃料棒の取り出しと搬出

   東北大震災から8年が過ぎた。あの時以来、破壊された町や村、社会インフラを始めとする公共施設など、懸命の復興作業が続けられてきたが、最も深刻な原発事故に関連した復興詐作業は今以て難航を極めている。破壊された東電の原子炉もようやく始まったばかりである。東北北関東の災害復興は、従って放射線の除染作業や、被災者の帰還問題を含め、未だに完了したとは云いきれない状況である。
   地震にしろ津波にしろ、はたまた東電の原子炉が徹底的に破壊されたことなども含め天災か、人災かと争われもしてきたが、天災国日本のこと、全てにおいて破壊の恐怖から回避出来るよう準備、工夫しておかなければならないことから、全ては人災だと云うしかない。兎に角、地震、津波の恐怖を改めて体験したこと、それと原発事故の発生で放射能汚染による被害が、広大な地域に広がり拡散している事実は、何としても厄介な代物であり、その恐怖から解決の見通しすら立っていない。

  東京電力は4月15日に、福島第1原発3号機の原子炉脇にある使用済み核燃料プールからの燃料搬出作業を始めた。炉心溶融(メルトダウン)を起こした1-3号機のプールからの搬出は初めてである。当初の目標から4年以上遅れてようやく作業開始となった。3基のプールには大量の使用済み燃料が保管されたままで、廃炉を進める上で大きな障害となっている。月内に未使用燃料7体を構内の別のプールに運び入れることになっている。

 この日は、午前8時50分ごろから作業が始まった。遠隔操作で燃料取扱機を使って、プール内の未使用燃料の1体をつかんだ。そしてラックから引き抜いた後、プール内を移動させ約10メートル離れた輸送容器に約1時間かけて無事終了した。全体的な廃炉に向かて作業は、この先何年かかるか断定できない。しかしともかく原子炉内に在る使用済み核燃料棒を取り出さない限り、廃炉の作業を進めるわけにはいかない。現場の作業は大変な仕事だが、忍耐強く作業を進めていってもらいたい。      4月15日


懸命の復興作業の続くなか明かりの灯る新興住宅にも

山を背に豊かな漁港にエンジンの音響かせて沖に出る船

鮮やかな幟を立てて新造の船の出て行く大湊港

使用済み核燃料の取り出しの危険を冒し始まりし今日

メルトダウン起こせる1号3号機炉内の燃料の取り出し開始す

強烈な放射能被爆を回避して遠隔作業のロボットによる

廃炉まであと四,五十年を要すとも巨大浪費の原発政策

潮流はアンチ原発の世界にて原発加速を唱ふ日本は

摩訶不思議経団連の会長の原発推進加速を唱ふは

老いぼれの利益優先の妄想に時代錯誤の経済感覚

地震国、火山国なる日本の反原発の狼煙を上げん     四月一五日

身内、達彦氏の逝去

   義兄の達彦氏が亡くなった。享年八十一歳であった。もっと長生きすると思っていたし、もっと長生きしていてほしかったと思っている。普通で云う、病気らしき病気もしなかったし、内臓も丈夫だったし、死因となる様なものは、何ひつ思い浮かばなかった。義兄をもっと詳しく云うと、小生の妻の姉の主人である。だからきわめて身近な親戚関係になる。某、大手証券会社に努め、定年まで会社に勤務し、職責を果たした。そして定年を迎え、定石通り退職した。在職中は実力を買われて転勤が多かった。一般に業績不振の支店などに強力な援軍として派遣される人物がいるが、義兄の場合にもそうした意見、見方があてはまるかもしれない。転勤は、ほぼ全国津々浦々に及んだと云っても過言ではない。世界を知り、世の中を知るいいチャンスであり、全国行脚に等しい歳月は、むしろ羨ましいくらいである。サラリーマン生活に疎い小生は、会社の経費でいろいろな場所を探訪できる業務と受け止めて、一面、そうした生活を味わってみたいとすら思うのである。
   処が転勤に伴い、男の場合は色々な地域を巡って興味も湧くし、知識を広げることも出来て都合のいいことかもしれないが、夫の生活を支えて、あとに付いて行く主婦が大変である。家族もそうである。転勤に伴い引っ越しを含め、主婦は夫を支えて家事に翻弄され、子供は学校の通学の問題が絡んできたりする。奥さんは、通常そうした問題をクリアして、夫が会社の業務に支障なく着けるようにしなければならない。大変なことだと思う。義兄の達彦氏は行く先々で手腕を発揮して業績を向上させ、会社に大きな功績を残し、又次の支店に転勤していくと云うのが一生の仕事としてきたように思う。それほどに目まぐるしい地方めぐりが多かったが、会社としては少しでも、有能な人材を地方に派遣して、店の活性化を図る意味合いもあるだろう。
   ある日のこと、私が義兄の職場を訪ねたのは、私の会社に近く、義兄が東京駅前支店に在勤していた時であった。当時、鉄鋼ビルの手前で、東京駅の北の端に国際観光会館があった。その一階に支店が所在していた。ビルの上にはホテル国際観光があった時代である。いわば東京の一等地にある店である。予め電話をしてから訪ねたが、カウンターに出てきた達彦氏は颯爽としており、堂々とした風格で、一見して周辺に光りを放つような爽やかさがあった。信頼感が漂っている感じで、居ながらにして顧客を心底から惹き付ける魅力があった。当然のこと、上司からの信任は言わずもがな、部下からの信頼は厚いものが感じられた。私は達彦氏の人間としての大きさと、人となりを瞬時感じ取ったのであった。東京駅前支店が、その後大きく育っていったことは言うまでもない。

   会社は、当時六十歳が定年である。職責を果たして、来た道に悔いることなく淡々として職場を離れた。悠々とした心境で、初めて過程を顧みた彼は、その後趣味とした外国旅行に惜しみなく金をはたき、奥さん高校にいそしんだのである。埼玉県の加須が実家だったが、大きな屋敷が残っており、周辺に土地を所有していわば資産家でもある。昔のこと、加須に富有柿が沢山なる樹が在って、柿狩りをしに浅草から東武線に乗って行ったことがあった。不作の年で収穫は余り望めなかったが、楽しい遠足気分で家族団らんの時を持ったことが思い出にもある。スポーツマンでもあって、ゴルフの腕前は天下一品、プロゴルファーになっていても引けを取らないスコアであった。それもそのはず、大学時代はゴルフ部のキャプテンを務めていた。達彦氏は、旅とゴルフの人生を送り過ごした愉快でスマートな人生行路であった。
   生前の過ごし方が清廉潔癖であり、物にこだわらないない、鷹揚な性格で、人にも親切でよかったせいか、病気らしき病気もしなかったし、健康な毎日の悠然とした姿で明るく穏やかな性格が頼もしく感じた。人は心の持ちようで、肉体的健康を維持することもできる。若いころは強かった酒も、小生にとっては意気投合する場面でもあった。正月新年の挨拶をしに小島ファミリーの本家を訪ねるが、本宅の席に一同が会することになっている。小島家では酒をたしなむものが居らず、達彦と小生だけが酒を飲み、陽気に騒いでいた始末であった。厳父の周次郎と母堂を囲み、祝い膳にみんなが集まると総勢十七名にもなった。母堂の話だと嫁いできたころは、家族だけでなく店の店員も一堂に会する故、五十名以上に及んだとのことである。それだけの配膳の支度は大変だったろう。女中さんが五人いたそうだ。因みに小島ファミリーは戦前から生糸の仲買商を営み、戦後は証券業務にも進出、横浜経済の中核を担ってきた。当主の周次郎父は、神奈川新聞では私の経歴書と称して一か月間に及び生涯の生き様を連載で執筆した。言うなれば戦後の横浜経済の復興に尽力してきた重鎮である。九十一歳で天命を全うした偉人であった。

   達彦氏が何の煩う病気もなく、悠然と家で過ごしてきたが、今年の二月ごろから次第に力と云うか、活力を失いつつあるかに見えてきた。家内とたまに尋ねることがあると、いつもテレビで大好きな野球観戦を楽しんでいて、にこやかに応対していたので、別段意にも留めなかった。今年の三月に入ってから俄かに食事をしなくなり、何する気力もなく眠ってばかりいるので心配になり横浜中央病院に入院してもらったと云うのである。家内と見舞った時もしっかりしており、心配かけてすまないねと云うと、あとは直ぐに眠りたがると云うのである。食べ物を口から入れないので、その上動くことも億劫になり、そんな始末だからどんどん痩せて行ってしまうのである。医者はどこにも悪いところはないと云うのである。原因がわからないまま、病院にいたりするケースも珍しい。
   
   十一日の木曜日、出勤中の車の中で、家内が達彦さんを見舞ってくると云うので、小生も行こうかと云ったが、会社で忙しいから来なくてもいいと云うのであった。家内には、僕からもよろしくと云っておいてくれと頼んだのである。病院では、何の治療もなく点滴で栄養剤を打っているだけだったと云う。お兄さんに声をかければ、有難うとうなずく様子だったけど、心配な気がすると云っていた。頭ははっきりとしている。
   翌日である。恵子姉から電話があって、未明に達彦さんが亡くなったと云う。実に不思議なことがあるものである。まるで虫が知らせたとでもいうか、家内が急に達彦さんを見まいに行ってくるという出したのは、亡くなる直前の前の日であった。最後の別れになって仕舞ったが、見舞いに行ってもらって良かったなあと、しみじみ思ったのである。敢えて死亡原因は何かと云えば、老衰である。何の音も立てず、眠りの延長の先であった。血圧が下がって良き、そのまま眠るように息を引き取った。言うなれば、老いた巨木が音もなく傾き、大地にゆっくりと倒れていく、荘厳な様である。達彦さんの姿と重ね合わせて、懐かしく、しみじみとした心境になっていた。最後まで周囲の人に迷惑をかけず、本人にとっても何の痛み、苦しみもなく、眠るように静かに天国に旅立っていったのである。

畏敬する達彦兄の黄泉に発つ真の勇夫の故に口惜し 

煩ひもなく楽しみて生涯を己ながらに果たす大兄 

人情に厚き勇夫の大兄に影にも光る人がらを見ん

言ひ残すこと何もなく現世を去り行く人の晴やかなりし

音もなく傾き倒れ地に伏せる達彦兄の神に近きも 

悩みなく苦しみもなく黄泉に発つ人の尊き姿なりけり     4月15日

ノートルダムの大聖堂の炎上す

夕方のテレビニュースでパリの中心地に建つノートルダムの大聖堂が炎上し、消防隊が懸命の消火活動を行っている情報が流された。何たることかと、一瞬唖然としたが、しばらく冷静に受け止めることが出来なかった。パリの風景から無視することが出来ないほどの、世界に人にとって思い出の重なる光景である。大聖堂の中に入って歴史を振り返り、荘厳な佇まいをじっくりと眺めてきた人も無数にいる、世界遺産である。それが焼失すると云うことは、人類にとって何たる悲劇か。余りの非情さが浮き彫りになって、胸が押しつぶされそうである。出来る事なら、被害を最小限にとどめてもらい、大聖堂の再建、復興への足掛かりとしてもらいたいと祈るばかりである。

ノートルダム大聖堂 はゴシック建築を代表する建物で、パリを象徴する歴史的建造物である。けんつくは2世紀半ばに始まりおよそ200年の歳月を要して今のような形で残された。セーヌ川に浮かぶ小さな島に建つ大聖堂は正にパリの街の中心に位置しており、尖塔の十字架はパリの街全域にわたって照らし続けてきた。パリを象徴するシンボルのようなものである。この絢爛たる荘厳な宗教的建造物を見に、世界の観光客がパリを目指してやってくる。1992年に「パリのセーヌ河岸」という名称で、周辺の文化遺産とともにユネスコの世界遺産に登録された。現在もノートルダム大聖堂は、パリ大司教の座聖堂として使用されている。フランス語でノートルダムとは「我らが貴婦人」と意味し、すなわち聖母マリアを指している。

  大聖堂の正面に向かって、左手正面には、聖母マリアが昇天する厳粛な場面の聖母像が描かれている。その下の中段では、聖母マリアが地上に於いて生を終える場面が描かれ、その上段ではキリストから祝福を授けられている聖母マリアが清らかに描かれている。 全体としてキリストを中心にして、天使や聖人たちの動きが手に取るように描かれている感動的絵画である。


哀れなりあゝあはれなり炎上のノートルダムの大聖堂よ

思ひ出のノートルダムの大聖堂火炎の中のあはれその影

荘厳の大聖堂の面影の今し火炎に包まれ居りぬ

崇め見しノートルダムの大聖堂失火炎上し黒きその影 

登り来てモンマルトルの丘に見るノートルダムの遠きその影  

貴重なる建造物の火災こそ文化遺産の抹殺に等し

聖堂の火炎の為せるままに建ち火の手に耐える十字架の塔

聖堂を包む火炎の痛ましくイエスの赤き血潮とも見ん

呆然と見ぬ聖堂の炎上をテレビ放映の痛ましきかな

華麗にて優雅の姿の聖堂の消失するに心痛みぬ

ノートルダム大聖堂の再建に神の祈りに明けしパリかな

今むかしパリ滞在の日々に訪ふノートルダムの聖堂の門 

聖堂を包む猛火に十字架の光りを放ち崩る静けさ

悲しさを打ち消して見ぬ聖堂の火炎にイエスの流る血潮を

十字架のイエスに流る血潮とも大聖堂にあがる火の手に

痛ましき火炎のなかの大聖堂あほぐ十字架に讃美歌の声

荘厳のノートルダムの大聖堂セーヌ河畔に初なつの風

モンマルトル丘より眺む遠景にエッフェル塔に大聖堂の塔

思い出のノートルダムの大聖堂火炎の中に十字架の立つ

炎上す火炎のなかのノートルダム大聖堂のあはれその影

美しきマリアの胸に眠る子の安穏の身に神と共にし

あはれなりあゝ悲しきや大聖堂セーヌ河畔の炎上のなか

国民的世界遺産の炎上にノートルダムの寺院いたまし

聖堂の再建資金の世界より陸続として申し出でたり

聖堂の内部を飾る中世の壁画の覆ふ荘厳の間よ

何気なく無思にて居れば自ずから思惟に煌めくことの生れけり

モンマルトル丘よりはるか眺むればエッフェル塔とノートルダムよ

街なかをしゃなりしゃなりとパリジェンヌほのぼの我もあとに就くなり     4月17日

歴史的遺産を守り人類の英知を次の世にそ継ぐべし

歴史的遺産を失ふ悲しさよ人災だけは避けて行くべき

燦然たる世界遺産のモンマルトル寺院の被災に遭ふは口惜し


    近づく十日間の連休

  ゴールデンウィークが今年は十日間の連休となって、これをいかにして過ごすべきか、実のところ困惑している。若い時ならここぞとばかり海外旅行に踏み出しているところであるが、ある年齢に来ると、自国を離れることに聊か危惧の念を抱き始めて臆病になり、安らかに外国に出向いている精神状態になれないと云うことである。小生の場合に限ったことで、誰もがそうあるとは限らないが、一応の参考にはなると思っている。
  いくつかの理由が考えられるが、まず身体の健康と耐久力に自信が持てないこと。外国で問題を起こすようなことがあってはならない。次に外国での安全が保障されないことで、犯罪に巻き込まれはしないかということ。現在の生活と仕事に就いて、未だ時間を要して成し遂げるべき課題を抱えていること。過去において外国に結構旅行をしており、それなりに十分と納得しており、これ以上、金と時間をつぶしに行く必要性もないこと。そして最後の一つに、メディアを通じた可視化社会に在って、必要とあらば観光地の様子が知識として立体的、現実的に会得出来る事。など屁理屈を云えばきりないことながら様々な理由が挙げられる。しかし煎じつめれば、要は、それだけ関心が薄れてきていると云う簡単な理由でもある。
  確かに好奇心と、勇気の欠如であることは言うまでもない。しかしそれを以て高齢化という理由ではない。高齢だとは自分自身はちっとも思っていないから、負け惜しみではないが、そうした理由は当てはまらない。兎に角、折角の十連休をどうしようかと思っていたら、家内が娘と相談して、結論に至った案が出来た。それは連休の前半を、家内が教会で親しく付き合うご婦人たちを案内してリゾート地のフジ・ビューマンションに出かける事。そこを拠点に富士箱根周辺の観光地を十分に楽しんで来られる。 後半を、兄とその娘が経営する千葉のエバ―グリーン・ホースガーデンに子供たちの家族と二泊三日で行くことにした。牧場だが、馬を三十六頭も飼っており、今迄にも何度か誘われていたが、今回ラッキーな機会を得て遊びに出かけることにした。いずれも大人数を従えての旅行となった。
  かくして外国旅行ではなく、国内の間近かな場所で、安全なところと決めることにした。 落ち着いて考えてみると、矢張りチャレンジ精神と好奇心と勇気の減退かなと思っている。しかしそれを打ち消すように、仕事は相変わらず情熱的に意気盛んであるから、自分でも若い人には負けて居れないと意気込んでいる。若者に伍して、日々の修行と鍛練を怠る事のないように努力研鑽の道に努めたいと云うのが持論である。

初なつの風さわやかに吹きすぎて若葉の道をかけて行かむや

庭畑の土掘りおこしこれからの野菜のタネを蒔き終えし今日

見上ぐれば飛行機雲のすじ白く先にジェット機の飛びて行くなり     四月十九日

統一地方選挙

国民の責務と覚へ一票を投じに選挙に妻と出かけり     4月21日


   

 

社団法人 昭和経済会
理事長 佐々木誠吾


copyright (c) Showa Economic Study Association サイトマップ プライバシーポリシー お問合せ