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社団法人昭和経済会

理事長室より
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理事長室より

Vol.16.07

夏季・講演親睦会  
テロの拡散  英国のEU離脱

   昭和経済会の夏季の講演親睦会を7月4日、月曜日の午後6時から銀座三笠会館で開催した。講師には元NHKワシントン支局長で、外交ジャーナリスト、作家の手嶋龍一氏を招き演題は、現在進行中の時局に鑑み「国際情勢と日本経済」とさせていただいた。手嶋さんはNHK出身の名取材記者として活躍したことは周知のとおりで、多忙の中、同氏にお越しいただいたことをありがたく思っている。的確な取材と情報収集と調査、それをさらに検証し精緻に分析して報道するといった姿勢を貫いてきている。
  私は冒頭の挨拶で,最近の国際情勢の複雑な動向がきわめてリスクに富んだもので、憂慮しがたき事態であることを述べた。そして具体的に、昨日起きたダッカのレストランでのテロ集団の無差別銃撃の状況と、経済的な問題としてイギリスのEUの離脱の二つを取り上げて、いずれも現代の危機を象徴する事件であると申し述べた。そこで今夜は手嶋氏に、国際情勢の分析と判断に卓越した意見を披歴していただきたいとお願いしたのである。手嶋さんは私の挨拶を取り上げて、時局は今理事長が述べられた様に、二つの大きな事件に象徴されるけど、まずテロの問題を取り上げて30分ほど熱弁をふるい、それからEUの問題、別けても英国のEUからの離脱の問題が如何に愚かしいものであり、経済的な混乱を世界にもたらし、英国にとっても大きな損失であるかを説明されていかれたのである。一時間の予定が何と三時間に及ぶと云った雰囲気で、出席者も固唾をのんで質疑応答すると云った熱気であった。加えて最初から最後まで、手嶋さんの穏やかで優しい人柄が十分に窺える会であった。
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6月30日、バングラディッシュのダッカに起きた人質立てこもりのテロ事件では、犯人たちの銃乱射で20名の犠牲者が出てしまった。悲惨である。7名の日本人が含まれていた。同国の経済建設のために情熱的、献身的に従事していた。専らインフラの建設に携わり、ジャイカから派遣された優秀な職員たちである。事件発生の状況は最初から生々しく、現地から報道されて戦りつを禁じ得なかった。レストランに立てこもった犯人たちと、出動した治安部隊との銃撃戦となって目を覆うばかりであったが、最後には装甲車がレストランに突入し犯人たちを射殺、ひとりを拘束した。実行犯は7人であった。いずれも裕福な環境に育った若者たちだと云われている。事件とのかかわりは今のところなぞであるが、ISが犯行をほのめかす発表をしている。ISと関係のない人物が、犯行に及ぶこともある。社会に対して個人的に反感を抱く人物が、ISの狼藉を見て自分を模擬的に錯覚した犯罪人が、犯行に及ぶことも出て来る。バングラは9割以上の人がイスラム教徒だと云われるが、宗派の対立もあったりして互いにけん制し合っているところもある。今回の事件が引き金になって、タガが緩んだりしても困る。比較的治安のよい国とされており、親日的で知られている国だけに、日本に与える影響は無視できない。
   連日のように各地に的を広げて起きるISのテロ事件であるが、国際的な攻撃の包囲網に、窮地に立たされつつあるISの焦りが窺える結果でもある。しかし安閑とした評論的観測をしているどころではない。こうした悲惨な状況を未然に防ぐためにも、各国が英知を絞って強調し合い、有効かつ強力な対策を講じてもらいたいものである。ISの残虐無謀で、妄想的な思想に若者たちが染まっていかない啓蒙運動も必要である。被害に遭った6人の犠牲者に対しては、誠に痛恨、沈痛な思いである。心から哀悼の念を以てご冥福を祈るばかりである。テロの拡散を何としても防止しなければならない。そしてテロの温床を根絶するべく国際社会が、貧困をこの地上から除去していかなければならない。そして難民の発生を食い止めて行くことが必要である。 
                          
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EUが行った愚かな国民投票の結果が出た時、私はすぐさま自分の感想を述べてホームページに載せた。そして書いていく途中次のように述べてあったので、今それを思い起こしながら、それを転載する次第である。  

  ・・・・・・・・英国は昔の大英帝国を夢見ようとする、国民の妄想に陥っている。うぬぼれと妄想である。今回の投票結果についても、真剣に考えて投票した国民は少ないに違いない。EUが英国に義務付けしたり、制約を課したりしている取り決めについて多少の不満を持っている人がいて、政府に多少お灸をすえてやろうという軽い気持ちで離脱派に投票したのが、大きな束となってしまい、結果に出てしまったと云えそうである。加盟各国にはそれぞれの国情があって義務や制約は、イギリスだけでなく加盟各国が等しく負っているものである。当時もキャメロンが、そうした国民の不平不満を解消する努力をせず、二年前に国家を二分するような国民投票と云う劇薬に手を付けて、国民に丸投げした結果であった。しかしその結果は、大きな痛手になってしまうことを恐れるのである。人間の努力には紆余曲折がある。艱難辛苦に耐える根性と忍耐が必要である。国家にしても同じである。共同体の形成過程にも同じことが言える。各国が好き勝手なことを云っていたのでは、皆の主張が統一されない。離脱は、賢明な決断ではない。利己的主張を優先して、国益中心を露骨に押し出したものである。国際的協調主義を破棄するようでは、EUの理想と、世界の潮流に逆らうものとなってしまう。経済の国際的統合をめざし、然るのち政治的統合へと進めるべき壮大な人類のドラマをくじくようなことをしてはならない。残り27カ国が結束してEUの体制を守り、各国が協調して動揺を避け、ドイツ、フランス、イタリアが、EUのみならず世界の秩序の確保のために賢明な指導力を発揮していくべきである。
   英国が離脱を決めて以上、これ以上の混乱は許されない。去る鳥あとを濁さず、ということわざがある。少なくとも離脱の責任を果たすためにも、早く離脱の手続きに着手し、離脱交渉の上でもEUに迷惑をかけないことである・・・・・・・・・・・・・・   


   斯様に、今も私の思いは変わっていないばかりか、現実はもっと速いスピードで各方面に深刻な影響が現れてきている。例えば金融、商業都市のロンドンに拠点を置く日本の企業は沢山ある。そこでEUとの商取引を行っているが、しかしEUとの取引には関税がかかるということになれば、置いておく理由がなくなってしまう。活動の拠点をロンドンから、広く英国から引き上げて撤退していくに違いない。そこから上がる税収を英国は逃してしまう結果になる。金融面でも、既にポンドの急落にもみられる。いたずらに悲観論を以てリスクをあおるわけではないが、更には英国での関連産業の活性化を失っていくことになり、直ちに雇用にも響てくる。そうした悪循環の痛手は大きい。経済的には、英国はEUとは無論のこと、国際社会から孤立無援の道を歩いていくことになる、と云った極論さえ出て来るのである。
  今日の講師の手嶋さんは、私の冒頭の挨拶でわずかに私見を述べたことに就いて、重大かつ深刻な案件だとしてこれを取り上げて話を進められていったのである。いみじくも手嶋さんは、講演の冒頭に、「今日の話の重要性は、理事長さんが今お話しになってしまいました」とユーモラスに前置きし、広く問題を取り上げてわかりやすく話されていったのである。しかも明快に問題意識を提示されて、熱気あふれる意義深い講演となった次第である。手嶋さんの素晴らしい、 爽やかな人柄が強く印象的であった。
   忙中のなか、このホームページを書き終えて庭に出て猛暑襲来の夜空を眺めたが、 一陣の風に一息つく思いであった。 今日の午後、教会の中山女史が見えてしばし庭で寛ぎながら家内と団らんして帰ったそうである。涼しくてきれいな庭で気持ちいいわねえと楽しんでいたそうで、それもそのはず気分転換に私は前日の夜、庭の芝を刈って隅々まできれいにしたつもりでいたからである。7月7日の七夕も直ぐだと思いながら、夏の暑さに茂りだした芝草を刈って、すがすがしい気持ちになりたかったからである。  7月6日

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参議院選挙   自公の圧勝か

    猛暑の日照りを避けて、夕刻6時過ぎに家内と一緒に近くの八雲中学の講堂に設けられた投票場に行った。沢山の人が投票に訪れていた。選挙では、前回に増して政府与党の善戦が目立つ、投票前の予想である。選挙民にはきわどい選択肢を突き付けられた、今回の選挙であった。というのも一般的には、アベノミクスの是非を問うことと、憲法改正の論点が、国を二分する形で意見が鮮明に対峙しているからである。自公の戦術に対し、野党の諸君の挑む論戦に今一歩迫力に欠ける気がしてならない。野党は民進党と共産党まで含めて四党挙党の選挙協力体制を組んだものの、当初から緊張の度合いが欠けて見える気がしていて、その当座しにぎの違和感を衝いて自公の攻撃に晒されていた。思想的なものは随分変化を遂げてきて、それなりの役割を果たしてきているけど、そもそも共産党という名称そのものが暗いという妻は、今の時代に、今のこの日本になじめないものであり旧態然としたものだと、妻が云っていた。志位さんの奮闘も真面目であり説得力があるものの、国民に支持が得られなければ絵に描いた餅になってしまう。はっきりものを言ったにしても成長に限界がある。現実論に傾く国民は、舞台に立つ安倍さんも好男子だし、片や野田さんも男前だし、押し出しは同じレベルながら、選挙民に対する説得力に若干の落差がある気があると思っている。問題は掲げる政策の内容次第である。
   自公は憲法論議をことさらに避けて、経済政策を前面に出した。これに対し野党4党は専ら憲法改正の是非をめぐって、これを阻止しなければならないと論戦を挑んだ。議論がかみ合わばいところがあって、どうも自公があえて焦点をぼかして憲法改正問題を避けて経済政策、景気政策と云う問題に絞って逃げ切ったようである。社会保障、雇用、介護、待機児童、人口問題、少子高齢化などなどどの政策課題を表向きに、前向きに論議しようとする限り経済、景気問題を根本的に論じないで実現することはできない。ましてやただでさえ国際情勢はリスクに富んだものとなってきている。中国の海洋進出、英国のEUからの離脱、ISによるテロの続発、難民の問題と世界情勢の課題も枚挙にいとまなしだ。若者に対する政治思考も不透明さを増している。この点で自公の問題意識を国民に提示する戦略的な技術性は上回っていた。
  若者の有権者が240万人も加わったりして、彼らの考え方が進歩的かと思いきや、意外に保守的な傾向を持っていることが分かってきた。生きている時代的背景もあるし、生活環境の齎しめる結果かもしれない。戦争と貧困の生活体験を過ぎてきた我々と、戦争の時代を経験せず、戦後の成長経済に乗って経済発展の中で比較的恵まれて育ってきた人間とでは、価値観や人生観、世界観が違うことは言うまでもない。情報通信機関の発達した世界で、広がりを見せている社会である。保守的傾向は何も中高齢者ばかりとは限らない。多くの若者たちが、現在の内外の情勢を見ても当然と思われる認識と意見を以て、選挙に臨んだとも言えそうである。このままでいて、日本はいいのだろうかと云う素朴な疑問である。 即日開票の結果が、午後9時から始まり、テレビ各局が総力を挙げて投票結果を報道してくれる。特別にこれと云った個人的な支持者がいるわけではないが、貴重な一票の行使の結果を、与党と野党の勢力分野の動向だけを大いに注目するゆえんである。政権を単労使又、委託する方も、政治的安定こそ重要である。自公合わせて過半数を獲得するかどうかであるが、過半数は間違いない感じである。安倍さんの政治的活躍から見て、現在のところ安定をもトンるには自公連立しかないだろう。野党の諸君は、もう少し勉強をして国民の負託に耐えられるような人物の養成に時間をかける必要がある。押しなべて議員の資質低下が懸念されるところで、余りこうした傾向がひどくなると、無能とは云わないが反って人気タレントが出てきたりして国会議員の質的低下を招いて困る。自公の飛びぬけた優勢は将来の政治にとって危険である。政治勢力のバランスがあまりかけ離れるようだと、むしろ心配な感じがしている。     7月10日

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    即日開票の結果がどんどん入ってきて、自公の優勢は鮮明になってきた。過半数の獲得票は61票である。しばらくデータがストップしていたが、これが同数になり更に一票が加わって過半数制覇が報じられると憲法改正反対派の勢力が崩れるように、自公の票が上乗せされていった。この時安倍さんも満面に笑みを湛えて、自民党の選挙本部事務所に姿を現した。破竹の勢いで進む開票結果は、注目の三分の二を突破するかどうかである。憲法改正の発議権を手中に収めるかどうかの分岐点である。もはや戦後ではないと時間的経過を云々することは自由であるが、悲惨な戦争体験を積んできた人がだんだんと少なくなってきて、今ではその悲惨さを物語る人すらいなくなってきている。戦争の恐ろしさを知らない時代に戦後70年の歴史が事実を物語っている。巷で歌われている「戦争を知らない子供たち」が、現実に沢山増えきている。幸いなことに日本は戦後七十年間に亘って平和を守り続けてきた。銀慈悲の余計な金を使わずして、ひたすら経済発展の道を進んでこられたのは、明らかに戦後に築いた日米同盟のおかげである。これは何人と云えども否定しえない事実である。沖縄基地問題の浮上は、長らく日本の国威論を分ける論議の的になって今日まで来たことも事実である。基地の存廃を巡って大きく意見が対立しているが、先人たちが残していった唯一国益を果してきたことは歪めない。これを国論の分立に帰せず、国の存立の維持確保の糧と認識育成して、然るべき時に適宜冷静に存廃を決めて行くときが必ず来ると思う。北朝鮮や中国の挑発的海洋進出などもあったりして、現地では緊迫した状況が展開されている。弱腰になる必要はなく、そのためにも国際社会との連携がより重要になってくる。状況に柔軟に対応する姿勢が重要である。
   グローバル化の波に乗って、国際化は経済だけでなく各方面に及んでいる。テロの脅威にだって晒されないとも限らない。地政学的には悲惨な局地戦争が各地に起こっていて、大国同士の代理戦争をしながら、ガス抜きを図っている。本当に大国間で戦争などし始めたら、この地球はことごとく、一瞬のうちの閃光で破壊されてしまうことを良く知っているからである。しかし一方でその分、我々は平和を享受し、再び世界戦争が起きないようなスキームに組み立ててきていることも事実である。安倍さんは内心はどうか知らないが、衆参議席の三分の二以上の議席を獲得したからと云って、はしゃいではいない。むしろ緊張して心の中に抑えていて表には出さないようにしている。政治家としてさすがに当代きっての切れ者であり、役者である。選挙結果は、自民党だけで単独過半数を取ることは間違いない勢いである。盤石の基盤を固めたことで、自信のほどは長期政権を視野に入れて、ふんぞり返っているに違いない。しかし名君はここでうぬぼれてはいけない。能ある鷹は爪を隠すほどに、内輪にして懐に隠し持っていた方が安倍さんらしく、大方の見方に反してむしろ人間味がまして評価されるものと思う。現実を直視する国民の判断は、素晴らしい平衡感覚を持っている。ここで安倍さんの冷静な対応を期待している。      7月11日


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学院時代のクラス会  通称ドフロ会

先の6月25、26日と二日続いて休みだったが、25日の土曜日には11時半から某会社の株主総会が霞が関ビルであった後、同霞が関会館で昼食会があった。小職が、同会社の監査役を務めている関係上、その責任を果たさなければならない。総会が終わったのが、3時過ぎになってしまった。開けて今日の日曜日は午後一時から、高等学院時代の同窓会の一つである、ドフロ会が新橋の新橋亭で開かれた。15名程度の諸君が出席した。出席した諸君たちは、むろん達者であったが、中には往時の痕跡を留めぬほどに変貌を遂げて人もいたが、これは貫録の付きすぎである。殆どの友人については懐かしく鮮明に昔のことを思い出すことが出来た。せっかくの休日であったが、この時期はどこでも行事が多いことゆえ、付き合い上致し方ない。久しぶりに酒が入って歓談した席だったので天衣無縫に楽しんだが、詳しくは覚えていない。それほどに楽しい時間だったということである。ということは、学院時代が如何に充実した日々であったかの証左でもある。
   加えて面白い現象だったが、還暦だ、喜寿だ、傘寿だと自分なりに決めつけていることも痛快である。人によっては生涯現役主義でいるので、高齢に従って、年を聞かれるほど嫌なことはないと思っている自信たっぷりの奴もいるが、それはそれで生き方、考え方で納得がいく。 いつまでも若い気持ちでいた方が人生は得をして、徳の積み重ねも可能である。雇用関係に立つ仕事から離れることはあっても、つまり首になるか、定年になるだが、自分でやるべき仕事を必ず持っている筈ある。それは以前から持ち添えてきている趣味であったり、またこれから新たに探し求めて行くものであってもいい。頭を使い体を動かして、目的に向かって進むことである。昔高等学院のドイツ語教師だった逸見先生は、卒業記念アルバムにそつ御製の贈る言葉として「己ながらに生きよう」と簡単にしたためていた文言があった。その時は気にもしていなかったが、近頃になってその意味具合が深々と分かったきたような気がする。人は己ながらに生きようとすれば、直接的な表現として胸に迫ってくるものがある。どんなことがあろうと気にせずに、自分が納得できる生き方に徹することが、波風の絶えぬ人生で最大の武器となるということである。私は従来の生計の糧を、これからも持ち続けるつもりでいる。幸いなことに仕事についていて人様に迷惑をかけるような立場にはいないので、それに意外と若作りな面相と体つきなので、謂うなれば生来の得をしているので感謝して、それを日常の仕事の現場で十二分に生かしている次第である。どこの社会にも定年制度と云うものがある。それはそれでしっかりとした理由があってのことで、時期が来ればやめなければならないことになっている。
   私の場合は自営業なので、定年制がない。自分で作った会社であり仕事だから、辞めたいときは自分の意志で決定することになる。そのためにも年相応は致し方ないが、出来る限り若者を相手にし、若い人たちから新しい知識とエネルギーを頂戴すべく努めている。ところで席上にいた柴田君は千円床屋のパイオニアだが、全国に千件の店を出すと張り切っていた。柴田君も、定年は自分で決めると云っていたが、驚くことに百歳までやるつもりだという。その意気込みは大したものである。それを裏づけるように、大酒のみである。小生は、年齢に制限なく生きている間は、自分を頼りに生きて行くと云って、打ちかえしたのである。人間は夢を失わず、人に迷惑をかけずに、趣味に、仕事に頑張る努力が必要である。酒がたっぷり入ったせいか、山口君と柴田君との丁々発止のやり取りが痛快であった。長寿と現役を目指す日野原聖路加病院長は、現場主義で今も働いている生き字引である。十五年ほど前にナザレン教会で親しく話し合ったことがある。日野原先生は大きな組織の中にありながら、ご自身の信念を持って現場に臨んでおられるから敬服している。 


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それぞれの道に従ひ誠実に生きる人生を褒め歌ふかな
先生の教えに人は己がまま生き行くべしと諭しけるなり
人生の履歴を開き誇らしく人前に述べ見苦しきかな
この年に富も名声もただ虚し次第に価値無きものと思へし
思い出す逸見先生の惜別の色紙に書きし深き教えを
人生は己れながらにゆくべしと堂々の道教え給ふ師
艱難の道のりを来て幾星霜友の容姿の変り果てたり
植田師を主任教師と仰ぐ子ら師を忘れずに未だ集へり
この席に杉村先輩のおわしなば親しみこめて語りつきまじ
写真家の杉村先輩にこの席のさまを写真に撮りまほしきと
いかるがの里のことなど朗らかに杉村兄と語りあかさじ
天平のみ代を治めし聖徳の太子に合はせうたを詠みけり
聖徳の太子の像に我が歌を載せ給ひける杉村先輩
四天王み寺の絵堂の太子像写真に我れがうたを重ねり
森深く道を踏みしめ行く先にほのかに聞きし春の水音
しんかんと続く小道をたどりきて心静かに物おもひけむ
愛妻を失くし給へる杉村兄寂しくその後如何に過ごせむ
人がらをうつす書状を受けて今日はがきに内を書きて送れり
新橋の新橋亭にドフロ会設けて祝ふ今日のめでたし
思いでも深き山口賢弟に遭えて思はず手を交わしけり
良き友とまみえて楽しドフロ会おのおの方の今を語れり
名称に歳の頃合いを祝ふ会古希と称してわれは祝へり
数え年同輩なれどそれぞれに余は還暦を祝ふ席とす
還暦を祝ふと認む吾なれば背筋を伸ばし記念写真に
祝ふ会・傘寿だ古希だ還暦だと云はず一挙に白寿でもよし
この席の恵みあふるる気色にてイエスのおはす心地こそすれ 7月12日


ドフロ会にちなんで高等学院時代の思いでについて面白おかしく文章を書いて、これを確か事務員に打っておくよう頼んでいたつもりでいたが、事務員は頼まれた記憶がないというのである。だとしたらどこかにその急いで書き殴った原稿があるはずである。ふとしたことで気の付く場合があるが、今のところ思い当たるふしがない。散逸してしまったかもしれない。自分で書いた原稿なら、また書けるではないかと思うかもしれないが、そんなたやすいものではない。第一億劫である。書くことが本来的に好きだとしても、二度書するのは、面倒な仕事の部類に入ってくる。そんなことを云っている間に筆の早い自分なのだから、当意即妙に書いていったらいいではないかと思うのだが、こればかりはしばらく時間が立たないと、書く気になれないものである。時間が経過すれば、前に書いた原稿は忘れてしまうので、書くテーマは同じであっても、内容は全く別のものになっているから楽しいのである。同じ事は二度と書けないことになる。書いていくうちに、別の方向に向いてゆく場合が多い。
    早稲田中学から高等学院に受験して、学校を変えたことは結果として私には良かった。校風が全く違っていた。木造建ての蒲鉾校舎であって、野人的なところがあった。自由で大人びた、いい意味でのばんからの風潮がみなぎっていた。それは光り輝く新鮮なものに見えて、それぞれの教科に独自性があって学習が楽しかったのである。そこで私は充分に青春を謳歌した。全国津々浦々から、優秀な志望者の諸君が学院を目指してやってきた。早熟な学生たちだった。戦後に新しくできた新制高校であるが、昔の第一高等学院に似たものがあった。つめり専門学校であって、一般の普通高校とは違ったものがあることに気付いた。出入りする先生からして違っていた。一年の時の担任の先生が川原栄峰と云う名の先生だった。ドイツ語の先生で、哲学を専攻して当時から名前が通っていた若手のスマートな容貌だった。サルトル、カミユといった実存哲学を研究する大学では若くして文学部の助教授であった。早くから感じていたことは学習の刺激が違っていた。普段の学習はもとより、部活動も活発だった。体育部門と、文化部門とに二分されていた。私は生来ぜんそく持ちの虚弱な体質だったため、運動は苦手であった。文化部門に所属してドイツ語研究会に入部した。文芸部にも入りたかったが、胡散臭い感じもしたので敢えて避けたのである。
   一年の時の担任の先生が川原栄峰先生で、同時にドイツ語の教師でもあった。川原先生は勤勉な学習を目指す独特の思想を以て教壇に立った。哲学者であり大学では当時助教授を務めていたが、若手で明晰な頭脳を持って将来を嘱望されていた先生であった。勿論、後に文学博士の称号をもらい名誉教授の道を務めて行った先生である。実存哲学で著名な樫山欽四郎先生の愛弟子である。川原先生はクラス主任として教室に入ってくるなり、教壇に立って黒板にドイツ語で「われ思う故にわれあり」と書かれて、その意味を解かれたのである。さすがにドイツ語の教師であり、哲学者たるゆえんだと思った。その強烈な印象は今でも忘れられない。愛情のこもったそのまなざしが、忘れられないでいる。当時に返って先生と再会したいくらいである。ドイツ語の初歩のABCから入るのではない。いきなりデカルトの学説を解いて、ドイツ語の文章から入っていったのである。Ich dennke、 also bin ich と黒板に滑らかに書かれたのである。ドイツ語の語学に関心を持つきっかけである。マルクスの共産党宣言にしても、思想は兎も角として、あの麗文はドイツ語で書かれている。ゲーテの若きベルテルの悩みにしても原文で読まなければ意味がない。焦るような気持でドイツ語にかぶりついた。中学時代に家庭教師を付けてくれたのは母であった。東大大学院に通う学徒である。小笠原雅人という名の人で青森の六の戸の出身である。実家が瑞龍寺と云うお寺さんであった。いずれお寺を継がなければならないと云っていたが、勿体ない気がした。ドイツ語を得意としていたので、その人のもとでも懸命に学習した。だから上達にスピードが加わったのである。高等学院ではドイツ語で自信をつけて学習に臨んだ。気前の良い成績を付けて、他の科目にも自信が湧いてきた。時間さえあれば、手当たり次第にドイツ語の本を、文学作品を読み漁った。対訳つきの作品も読んだりした。手当たり次第だから、完全に読みきったものはない。因みに教室では高木実教師の指導でシュトルムの小説、インメンゼー・みずうみを購読していた。平易できれいな文章でシュトルムの代表作である。
  東大赤門前に福本書院があった。そこで唯一東ドイツから発行されている週刊の新聞、「恒久平和と国民民主主義」という名の新聞が手には入ったが、高い金を払って購読したりした。ドイツ語で新聞を読む訓練のためである。初めのうちは通学には、浅草聖天町から都電に乗って早稲田まで通っていた。途中、厩橋から早稲田車庫前行きの都電に乗り換えていたが、電車の中で夢中になって読書に励んだ。生意気になって共産党宣言やら、資本論を読むうちに、赤い思想に一時傾倒したが、レーニンやスターリンの原始的な手法を見て独裁政治にありがちな陰湿さが気に入らず、暴力優先、人間性を否定する結果になるのを見て恐怖感を感じ放棄したのである。そのまま突き進んで行って、やたら青春時代を無為に、敢えて無為にと述べたいが、そうした経験を積んでいく者もいた。早熟性がむしろ災いしてか方向感覚を喪失していく過程であった。若いうちはマルクス・レーニンに傾倒する傾向があるが、そのまま飛び跳ねて行く人もあってブレーキが利かなくなってしまう人もいた。暴力革命を是認する理論だから、若者にとっては目的を失ってエネルギーの放出場所としてヘルメットに覆面し、こん棒と云ったいでたちで戦闘的になって現場で暴れ出し、混乱して収拾がつかなくなる。出鱈目な騒動の繰り返しであった。東大安田講堂の紛争をはじめとして、学園紛争がどの大学でも起きた。赤城山荘事件に至っては、反社会的、破壊的犯罪事件であって暴力団と何ら変わらなくなってしまった。こうした過激な行動をとることを良しとし、学生運動を逸脱し、破壊活動に暴走するに至っては、当時の社会は手を焼く始末であった。今日の様にテロに手を染める時代ではなかったから、未だ幸いと思わなければならない。 尾崎士郎の「人生劇場」の青春篇、愛欲編に暴力破壊編を付け足すようなものである。安田講堂に立てこもった学生は東大生ではなく、暴力革命を目指す活動家たちであった。
  学生時代の愛読書の一つに誰もが経験する青春の書物がある。 日本版は阿部次郎の[三太郎の日記]をはじめとして、沢山の名作に恵まれたものである。外国文学では枚挙にいとまがないが、先ずはロマンロランの長編小説[ジャンクリストフ]である。時間の経つことも忘れて愛読した。この時は、ドイツ語と一緒にフランス語も勉強すべきだと、欲張って思ったことであった。ジャンクリストフは青春時代にあこがれた人物の一人であった。 家庭教師をしながら貯めた金を全部はたいて、春秋社発行の「世界大思想全集・全百四巻」を購入した時は、今までの目的を達成したような高揚感があった。神田神保町の古本屋で思い切って買ったものである。ある時、大きな段ボール箱二箱にぎっしり詰まって自宅に届けられてきた。その時、家の者たちはびっくりしていた。その時以来、時々気が付くと書棚から引き出して読んだりしてきた。 その本はいまだに大きな本箱に並べられてあるが、昭和二年発刊だから、すでに一世紀近くもたっている。人間の、否人類の中から選ばれた天才たちの、全思索と思想が詰まっている宝庫である。印刷文字が比較的小さい上に、しかも色あせて今では解読が難しいような状態である。 時々気が付いたように家内が、この本は一体どうするんですかと聞かれることがあるが、そのこと自体、即ち聞かれること自体に、内心満足しているのである。書籍の飾り棚でもいいと思い、小生の青春の所蔵として大事に置いてある。もはや古典的な所蔵品として、目次をめくるだけでも価値を感じるようである。昔、幾何学の時間に、大きな三角定規を黒板に当てた清水先生と云う教師から、錯覚「錯角}は相等しいという説明を受けたが、まさしく錯覚は正覚「正覚」という文字に置き換えて、自らを認識させている。自由奔放に書いているので、高名な小説家の様に書斎なるものは持っていない。臨機応変に、どこにでも身を置いて書くことが出来る。 有名作家の原稿が古物品として競りにかけられたりする光景がある。収集家にとってはもちろん大事な価値ある対象であるが、価値ある作品であればこそ、欲望のために自己支配するのではなく、広く世の人々のために用いてもらいたいものである。本人には全く関係ないことながら、みじめな姿である。自分の身体を利益本意に売買されているもので、中世暗黒時代に横行した奴隷売買と同じである。
   拙劣ながら歌を詠むこと、ものを書くことが趣味の一つであるが、そうした際に決められた場所がなく、家全体が私の書斎だと思っている。 先の世界大思想全集もそうだが、文庫ものに至ってはほとんどの作家の作品が羅列されている。或る教師が云った言葉に、文学作品は、手当たり次第読むべきではなく、一人の作家の全作品を生い立ちから晩年にいたるまでを熟読することが、人生探究には必要であるということを云っていたが、その通りである。人によっては反芻的に著述して終わってしまうものもあるが、一貫性を貫いていると好意的に解釈してやる術もある。しかし一面性にとらわれてしまう可能性もあって、森を見ずして木を見ることにもなりかねない。 真実を探求することのむずかしさ、そして姿勢が問われるゆえんである。日本の教育の場合について癒えることは、大学よりも高校時代の教育が、いかに重要かつ意義があるか体験的に痛感するところである。ましてや、私の高等学院時代の教育については、一種独特の味わいがあって、人間としてあるべき知識と、人格的成長期に意義深く影響するところがあった。
   ドフロ会での模様や、感じたことをもっと意義深く詳細に報告すべきと思惟しながら、尚即席で詠んだ和歌を三首ほどお読みいただくことによって、敬愛する読者の共感はもっと広くご想像頂けるものと思い以下、即席の和歌をお届けする次第である。  続       7月19日


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         事件、犯罪が多すぎる現代社会

世間を、世界を震撼させるような凶悪殺人事件が後を絶たない。多様化する社会と国際関係、連鎖して繋がっている社会と世界関係、同時化が急速に進む社会現象、スマホが人間生活を折檻し、ポケモンがいろいろなところで発生、出没する事案が象徴している現代社会である。自己埋没する中で、多くの矛盾を抱えている複雑な現代社会に今、私たちは、否、世界の人々は置かれている。犯罪者もひそむ危険な渦のなかである。映像社会の情報化された生活様式が、複合的にそれを加速させている。
   謂うところのISテロ集団が、世界各地に爆破事件を仕掛けるたびに、誇らしげに犯行を声明するテロ事件も怪奇そのものだが、こうした事案に刺激されてだろうか、個人的に反感、怨念を以て一般社会に対し挑みをかけ、自己主張に利用し、挙句の果てに無差別に多くの人を殺傷する事件の続発が気になる。犯罪捜査班のような知識や手腕がない小生にとって、こうした事件を論じる資格などないが、こうした凄惨な犯罪が日常的に起きる世の中を、ただ脅威に感じて憂慮していることである。日本でもこうした凶悪事件が起きなければいいがと、常日頃思っている一人なので、今日の未明のこと、相模原市の障害者擁護施設で起きた19人の殺人事件は史上最悪の事件であり、最も憂慮すべき同類の傾向を帯びているので、一層不安に思うのである。深夜熟睡時間に、身動きのできない障害者を刃物を持って次から次えと殺傷していく凄惨なさまは、身の毛の立つ思いで想像することもできない。犯人は元同施設の26歳の職員である。一定の動機らしきものを持ち、ナチスヒトラーの残虐な思想に影響されたところもあるようである。犯行を示唆し、早くから実行をほのめかす奇怪な行動をとっていたことも知られていた。犯行は計画的であり、確信犯であって、障害者を排除しようとする揺るがし難い事件である。平和で治安のよい、教育レベルの高い日本で起きたことに世界が一様に驚愕し、日本人として恥じ入る様な心境で残念である。
   ISのテロとは違った個別的犯行で、動機は独善的なことが特徴である。関わりは一方的な個人的なものである。同じような事件は三日前にドイツのハンブルクで起きた銃乱射事件があったばかりである。9人が死亡した。もともと鬱病的疾患を持って自殺志向の強い人物だったそうで、単独犯であった。無関係の人を巻き込んで、自らを殺めるといった理不尽、無慈悲、無軌道の暴れ方である。犯罪を犯すものは自分を正当化するための理論武装をしたりして、内容は浅薄で一面的であり、偏向的思想を頑なに持つ傾向がある。今回もそうした異常性格の病状に、自分の主張が重なって犯行に及んだものである。こうした現象は、感化されてはやり出すと抑えようがない。一種の連鎖反応を起こし、大なろ小なり、潜在していた動機が表面化する結果である。

   この凶悪性を堂々と演じた事件について当然のことながら、世界が驚異を以て意外に受け止めているのであろう、各国がこの事件を取り上げて論評している。妄想の上に便乗して連鎖的に起きないことを祈るばかりである。事件の報道を見る限り行政も、警察も事前に注意して適切に対応していた事案だけに、起きてしまったことは非常に残念である。犯行を明らかにほのめかし、場所と時間まで周到に指定しているさなかに起きた事件である。当局の、やはり反省すべき点がある。こうした犯罪者の潜在化している現代において、その深層は複雑怪奇であり、いつ暴発するとも限らない性格を帯びているので、社会的にも深刻である。テロ対策も然り、憎悪をむき出しにした冷酷非情な姿勢を排除することに努め、善悪のわきまえを心得て行く教育そのものの重要性を自覚すべきである。格差社会が深刻化する現実の中で、不満を持つ人が沢山いる可能性を否定できない。犯行は色々な形を以て登場してくるだろう。そうした人たちが自己本位の主張を正当化し、衝動的にいつ犯罪者に急変しないとも限らない深層を理解し、お互いが幇助関係に立って社会を構成する一人間として、根本的に、啓蒙的に考えなければならない事案である。今の時代は、自己の存在を過大に評価して、社会がこれを受け入れないと孤立して被害妄想に走り、社会に対する反抗心を自分に煽り、厳しい犯行に出る場合がある。哲学者のサルトルであったら、どうな人間を想像して人物像を描くだろうか。
   喜怒哀楽の激しさは、昔は比較的大らかに表現したものであるが、近年はそれが内向的になって一般的にこもる傾向がある。人間の内的心象を研究している心理学者も、複雑多岐にわたる人間社会の、人間の在り方を真剣に研究していくと、貴重で改善的な解決策が具体的に得られるかもしれない。これからの急速な社会の変遷と共に、一種の社会現象となるのであろうか。スマホの社会が、それをますます加速していく様相である。従っていつの間にか鬱積して、表現を履き違えてある日あるとき、一気に噴出する時が常軌を逸した形になって表れてくる。二律背反的な事象の中に、矛盾を内包した人間が沢山いることである。難しい問題ではあるが、現代社会に内在するこうした人たちの教育指導も顧慮しなければならない。かように難問山積ではあるが国内的には、われわれの日常的安全と平和を守っていくには、お互いの立場を尊重し自制する精神の涵養に努めること、国際的には日本政府の世界に発信する平和と自由の基本精神を広めて、国際協調の尊重に努めてもらうしかない。即ち簡単に言うならば国内的には、暴力の排除と凶悪犯罪の防止であり、国際的には力による他国の侵犯の禁止と、戦争反対の目標を掲げていくしかない。地球に住む我々の身辺に、暴力沙汰の起きない環境作りに努めたいものである。。     7月28日
                        

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都知事選に投票しに その1

   都知事選の候補については公示以来、連日熱戦が繰り広げられて、明日投票が行われ即日開票の結果遅くとも午後10時には大勢が決まるはずである。いよいよ新しい都知事が生まれることになる。二代にわたる都知事の金にまつわる事案で嫌疑をかけられ、醜態の末に辞任に追い込まれた。期待する都民にとっては毎度のことながら、全く傍迷惑なことだと思っている。都民をたぶらかし詐欺同様の選挙戦を行なった。トップ当選で都知事の座を射止めながら、舌の根も乾かないうちにこの始末である。こうした連中は都民を侮辱し、都民をないがしろにした、罪を負うべきで者あり、犯罪行為として徹底的に追求されるべきである。決してうやむやにすべきではない。さもないとまた同じようなことが繰り返される結果になって、都民のため、国民にとって迷惑千万、被害を蒙ること甚だしきものがあるからである。日本の中心である大都市の東京がこの始末だから、地方自治体の容態は一体大丈夫だろうかと、汚染の拡散が懸念されてくるところである。旧式のしがらみから脱却できない体制で、唯々諾々の行政が馴れ合いの内に行われて、住民の生活を侵食しているのではないかと心配されるところである。相当の膿がたまっているかもしれない。
   今回の選挙戦では、都政始まって以来の女性都知事が実現するか、その動向が注目されるが、元気のよい清潔なイメージの小池百合子候補が抜群に強い感じである。大いに期待したい。明日の投票を目指し、立派な都知事の誕生を祈って、是非とも貴重な一票を行使したいと思っている。ここで真剣な判断を以て選挙に臨み、この一票を活かしたいと思っている。
   大年増に厚化粧とは甚だ怪しからん鞘当だが、石原慎太郎はある人に依れば半ば痴呆が進んでたるんだ面相ではないかともいう。自分を顧みず、たびたびの放言とは云いながら無責任によくぞそんな下衆な言葉が吐けるものである。毒舌舌鋒で来た男男子だから、あまり気に解さないことだが、相手に対して言いがかりをつけるにもほどがある。打って返した小池百合子の方が大人である。 街頭演説では、今日は薄化粧できましたと返され、もともと顔に薄いあざがあるので医療的化粧で少しかくしていますとまで云わさせた。人身攻撃は良くないことである。男もここまで落ちると台無しである。あの捨て台詞で自公推薦の増田候補の女性票の大方が小池候補に流れると見ていい。云いたい放題の責任無しで、そのせいか近頃「天才、田中角栄」という本を出して世間を煽り立て、出版元と一緒になって金儲けに転じている。老醜をさらしていとまがない。今更田中角栄でもあるまい。慎太郎個人については大いに評価して決して嫌いではない。歯に衣を着せずに庶民的に話すところに親愛感があるのだが、この角栄を持ち出されて以来、老醜を見るのが嫌になった。饒舌をはいているには破天荒なところがあって、社会的必要性は大いにあると感じているが、不必要な発言が多いのが玉にきずである。その最たるものが、天才・田中角栄であった。無節操は、行き着くところに行き着いてしまった感じである。右顧左眄の挙句に、弱者いじめが多すぎる。そうではなくて、理不尽な世間を跋扈してはばからぬ輩を非難していた方が、あっ晴れな感があって胸元が涼しくなるのであるが、方角を間違えるととんでもない方向にすっ飛んで行ってしまう。どうしようもない男子である。都知事選は、彼の厚化粧の一言で決まってしまった。   老人と云えどもまだ精力的に活躍するだろうから、テレビ番組の笑点のメンバーとして出てもらっていたらどうだろうか。放言は兎も角、番組は当たり障りなくていいのかもしれない。先日、天才・田中角栄の本についてあるテレビ局が特別番組まで組んで報道していたが、政治家としての人生の晩年を悲惨な姿をとらえて締めくくったいた。表題もそのものだが、角栄を天才扱いしているこの本を、お粗末ながら読む気にもならないので、著書については読んではいないが、読書を促すかのように新聞広告がいまだに掲載されているところを見ると、如何にも商業的である。青年諸君がこれを読んでどのような印象を持つのか、認識上聊か危惧するところである。慎太郎の過去の足跡を見る限り、違和感を抱くのである。事は戦後の日本の政治史に汚点を残す、一大汚職事件である。どう見ても良いことはないであろう。言論と表現の自由ではあるが、角栄の歴史をあたかも英雄視するような著書を出版して、意外性を売り物にしている感じで、不快感を抱くのである。
   今になって角栄の賞賛、英雄視するのは若者に対する教育上も、あまりよくない。角栄については個人的には非凡の努力家、天才として評価することも出来るが、努力していく目的が問われるところもある。概して権力志向の政治家として世の批判を浴び、金権政治家の権化として世間から糾弾されて、結果、刑事被告人として有罪判決を得て収監された人物である。世間の人々はその事実関係やことの結果を良く知っていて、今更田中角栄を持ち出さなければならないような世相ではない。むしろ逆である。貧乏からの出生街道は美談であるが、いつまでも金の威力に頼りすぎた。貧乏から立ち上がって努力の末出世街道を驀進し、政界に打って出て人々を啓蒙し指導し、その活動は人々に尽くすそれなりの成果も業績もあった。しかし全体像としては地域誘導型の政治を行って蓄財に努めた結果、目白御殿の大邸宅に居を構えた。あれは元をただせば全て国民の税金であると云っても過言ではない。地元から出てきた貧乏人たちを陳情団として招き入れ、地元に税金を合法的に還流させた。それは選挙に旅に効を奏して帰ってきたし、選挙地盤の確保に役立った。税金を合法的にかすめて巨万の富を築き、それを以て世間と政治の世界に圧力を加えた。庶民型政治家を演出し、下駄ばき着姿で庭に立ち、池の緋鯉に餌をまく角栄の姿は、今太閤のシンボルとしてマスコミにもてはやされた。それはそれで途中までは結構な美談として良いとしても、しかし挙句にはロッキード事件で、巨額の賄賂を懐にして沈没した。ブレーキが利かかなくなってしまったのである。
   今、石原慎太郎をいじめてみても仕方がない。老醜をさらけ出し、毒舌だけを残して醜い演出をして得意満面の爺さんにとやかく言っても始まらないことは、国民がよく知っている。面白おかしく泳がしておけば、餌に当たることもあろう。その時は褒めてやればいいことである。無責任放題の慎太郎だが、都知事時代に猪瀬を副知事として招いたのは慎太郎である。猪瀬は慎太郎の威を借りて彼と共に勝手に、都が経営する銀行を立ち上げて失敗し900億近い損をだした。経営者としては能無しである。金を儲けたければ政治家にならず、商人をめざして、志を果せばいい。ソフトバンクの孫さんは事業家として大成し、企業家の見本みたいである。企業活動を以て現代にふさわしい業績を齎して世界を変えた男でもある。人間である以上、油断大敵、晩年を注意してもらいたいと願っている。魔がさして穴に落ち込まないようにしてもらいたい。大きくなればなる程苦労も増して、心労も増えてくる。強靭な心身の持ち主に違いないが、過信は油断につながるのたとえだからである。日本の経済界から世界に向けた大経済人の風格を以て、真に成功者として世に臨んでもらいたい。古くには松下幸之助や、井深大、本田宗一郎といった面々がすぐに浮かんでくるが、それなりに説得力のある業績を世に残している。金と灰皿はたまれば溜まるほど汚くなる、とは古くからある諺である。篤と肝に銘じたいものである。人として多少は、一部は徳で残したいものである。
   ところで慎太郎は涼しい顔をしているが、今日の都民の税金を使い果たし、都政の混乱と渋滞を招いた元凶を作った人物である。猪瀬は慎太郎のあとをついで都知事になった。いわば猪瀬は慎太郎の子分である。都知事を任命したようなもので、それにしては副知事時代の教育が足りなかったのではないか。彼はもともと金に目がくらむ人物ではなかった。副知事になる前は作家として、その後は改革の風雲児として活躍した人物である。政治の世界に入ったがゆえに、魔がさして金縛りに合って落馬した。それを非難しながらあとに桝添が都知事になった。あの時、もっと情報公開に徹していれば、舛添がどんな性癖で略歴がある人物かを分かったはずだが、それが徹底されなかったがために、長所ばかりが喧伝されて都民がだまされたことになった。   斯様に経過をたどってくると、慎太郎にも責任がある。 その息子の石原伸晃経産大臣が、自民の都連の会長を務めている結果が、今回の選挙の結果となる。自公の推薦する増田は元総務大臣、岩手県知事を3期務めた行政のベテランである。 田舎の都知事をしたからと云って、巨大な東京都知事が務まるはずがない。都民はそれを早くから見抜いているのである。彼ももしかすると取り巻き立ちに囲まれて身動きできずに、同じ墓穴を掘っているかもしれない。都知事なんかには、ならない方が良いのではないかと思っている。素朴な田舎者だから、目ざといと都会人に取り巻かれて、金縛りに合って、動けなくなること必定である。
    そして鳥越俊太郎はジャーナリストとして期待されていいはずだが、有権者を落胆させたのは、余りにも高齢であることが歴然としている。都知事の激務には耐えられないのである。その上に立候補の弁を聞いて、参議院選の結果を見てこれではだめだと思って、藪から棒に、突如として発作的に立候補する決意をしたという。何がダメなのか説明なしの余りの唐突さで、あっけにとられてしまった。我々有権者は軽くあしらわれて舐められた感じである。記者会見でも自分の政策を掲げる準備は未だしていないという始末で、ジャーナリストとしての感覚も疑わしく感じて、最初から失格だと思った。これにたやすく飛びついて背中に乗った野党共闘の連中も迂闊とは云いながら、さすがに思慮分別なしの馬鹿な連中だと思った。こんな体たらくの野党だから、とてもじゃないが今の安倍政権には歯が立たない。情けない話であるが、政権交代など、夢のなかである。
   かくして熱い選挙戦は終わって都民の厳粛な審判が今日の投票日に行われつつあるが、結果の発表はまじかである。 出口調査ですぐに判明するのではないか。都連を敵に回した小池の最初は豹変過ぎたが、次第に腹が据わってきて落ち着いてきた。岩から飛び降りるつもりで決断したからには、そのつもりで戦ってきたはずである。幸いに都民の信任を得た暁には、都民のそうした期待に応えて欲を出さずに頑張ってもらいたい。その暁はまじかと確信するがゆえに、初心貫徹、忘れるべからずの信念堅持で、未来に臨んでもらいたい。巨大な都政は難問山積であり、これをこなしていくには並大抵なものではない。良識ある改革には、都民の強力な支持と協力が必要である。先ずは云うところの情報公開から始めてもらい、透明度の高い行政を行うことである。そうすれば自ずと削減すべき経費も明らかになってくるし、行政改革につながって、国の行革と財政再建の道筋を示して、国の参考にしてやると良いだろう。利権に群がる奴らを一網打尽にして排除し、新風を吹き込んでもらいたい。新しき酒は、新しき皮袋に入れろと云われている。
   先ほど近くの八幡中学のもうけられた場所で投票を済ませてから家内と尾山台の商店街のハッピーロードで行われている盆踊りを見てきた。帰りに行きつけの喫茶店でコーヒーを飲んで7時に帰宅したばかりである。 今日はお昼過ぎにも田園調布まで妻と買い物に出かけて、神戸屋の店に入って昼食を済ませたきた。熱い戦いが終えて、選挙戦を戦い抜いてきた人たちは大変ご苦労様であった。めでたく都知事になったにしても、今日の真夏の天候の様に暑い日差しが照りつけて、時には黒々とした入道雲が覆って土砂降りの大雨となることもあろう。 街なかを行く夏の日盛りは激しく、麦わら帽子をかぶり日照りのなかを歩いた。今日の休日の午後からは、かんかん照りの空のもと、湧きのぼる入道雲を眺めながら、夏の醍醐味を味わってきたのである。                                                          7月31日

2016.07.04都

社団法人 昭和経済会
理事長 佐々木誠吾


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