line

社団法人昭和経済会

理事長室より
LAST UPDATE: 2024年10月06日 RSS ATOM

HOME > 理事長室より

理事長室より

Vol.13.10



疎開先での芳野小学校のクラス会

    10月1日上野駅12時30分発の特急フレッシュ25号に乗って水戸に向かった。目的はこの日の夕方から開かれる芳友会,芳野小学校在学当時のクラス会で、一泊二日の予定で出席するためである。参加者は年々減っては来ているものの、女子が7名、男子が22名の計29名と云うから驚きである。今までにも継続的に開かれてきており、例年男女合わせて40人以上の出席者である。今では何人かの担任の先生は残念だが、既に全て亡くなってしまっている。
    会場となったところは、「いこいの村涸沼ホテル」である。水戸から東南に向かって25キロほど行ったところに涸沼と云う湖沼がある。涸の字を「ひ」と発音する。周囲22キロで沼の面積は9,35平方キロある。水深は浅いところで1,5メートル、深いところで6メートルほどである。地図で見ると胃袋のような形をしていて、全体がのっぺりした感じである。会場となるホテルは涸沼の岸辺に立つホテルである。ホテルの部屋から涸沼が一望できるが、実際に見た感じも間延びして、どんよりとした雲が覆っているせいか何となくメランコリーな感じがした。沼には那珂川水系の川が何本か北側から流れ込んでおり、東に向かって海に流れる川があるため、満潮時には海水が逆流して海水流と淡水流が入り混じっているため、川、海の両方の魚が生息して種類も豊富である。実際に船を出して沢山いそうな場所に糸を垂れてみると、面白いような釣果を経験することができるかもしれない。涸沼の水は、大洗海岸から流れ込む海水で、特有の海産物が取れることで有名だが、近年の乱獲で特産のシジミもそうだが鰻、フナと云ったものまで激減してしまったそうである。この日は台風22号の接近が報じられて2日とも雨風の天気になってしまったが、外に出て遊ぶようなところもない地味な感じだったので、ゆっくり5として旧交を深めるには却ってよかったかもしれない。
     私たちは芳野村々立小学校の昭和23年の卒業生であるが、小生は小学校4年生の春に転校してきた。終戦の翌年の4年生の時である。どこの小学校から転校してきたか判っていない。何度となく転校を繰り返し来たので、その都度新人としてみんなの前で挨拶をしてきたので、人前に出て挨拶をするのは慣れっこになってしまい、話術のコツはいつの間にか上達していった。勉強と云う勉強はほとんどしなかった。毎日が危機迫る戦時中であり、身の安全と食べ物の確保の戦いのなかであって、その日を生きることに切実であり、勉強などする暇がない。字を書くための鉛筆もないし、わら半紙もなかった。ひたすら暗記をして頭の中に知識となるべきものをたたき込んでいくものだった。したがって日記も付けることもない。当時のことを日記をつけていたら大きな宝物であったろうと、それだけは残念に思うことである。放浪生活に近い状態であったうえ、更には学校の問題にしても、転入してきたと思ったら、又すぐに転出すといった身だったので、勉強をする時間などかなかった。実に面白い時代だった。チベットの奥に行ってもこんな体験はできないだろう。狂った時代をしたたかに人間的に生きたことであっって、誰もが体験できたことではない。ただ幸いなことに、空しく死んでいってしまった人たちに比べて、なんと恵まれた境遇だったのだろうといまだに両親に、神に感謝する心境である。その上、グラマンやロッキードの機銃掃射に追い回されたり、艦砲射撃に会ったり、夜間の空襲に襲われたりの連続で、しかも腹ペコの毎日である。浅草の富士小学校を皮切りに、水戸にきたときにも被災するまでに、最初は泉町の五軒小学校に入ったが、そのあと市内の三つも学校を転々として変えているし、勉学する机はごちゃごちゃだった。飯の足しに近郊に買い出しにも行ったし、兄貴たちは学徒勤労奉仕で勉強どころではない。専ら軍事教練の方が主であった。終戦の年の8月1日の深夜から2日未明にかけて、水戸の夜間の焼夷弾空襲に会って命からがら逃げた後は、母と、弟と私はみんなの足かせとなるので、さらに山奥に入ってしまった。袋田の小学校に入ったとおもったら、すぐに大子の小学校に入った。色々な事情で転々と移動を余儀なくされて、小学校の渡り歩きをして前段を戦争とともに生きてきた。
    しかしながら悪童、不良に染まる暇すらなかった。同時に勉強する時間も与えられなかった。すべては戦争と云う時間の犠牲になっていた。それに引き替え、洗脳的教育を以て頭に叩き込まれてきたがゆえに、大人顔負けの滅私奉公の精神は旺盛、かつ頑丈であって、何時でも天皇陛下のために死ぬことはいとわなかったのであり、今の甘ちょろいボランテイア精神どころではない。一億火の玉、本土決戦に備えて竹やりをB29に向け空を突いて見たり、バケツで消化活動をしたり、いざとなったらお国のために玉砕は当たり前の思潮であった。あの徹底した一方的教育はすさまじく、驚異的なものであった。少年少女たちは、特攻精神旺盛にして、筋金入りの報国の情にたぎり立っていたのであり、今考えると、よくもまあ陸軍大将兼、首相の東条英機を初めとする国の指導者たちは、国民をここまで洗脳しきったなあと感服するのみである。ヒトラーも同様だが、アジテーターまがいの政治家に翻弄された20世紀といってもいいだろう。。大本営派発表も国民に対しては出鱈目報道に徹し、隠蔽作戦を以て徹底的に国民を欺いてきた。その過程で残酷、非情にも、何百万と云う犠牲者を作っていったのである。

                 8月15日
    そこで終戦、敗戦となったが、日本は無一文の貧乏人ばかりになってしまった。敗戦の報、即ち天皇陛下の玉音放送は、8月15日の正午、疎開先の袋田の駅頭で聞いた。熱い日盛りに蝉がしきりに鳴くときだった。駅頭に、母と弟と私の三人であった。そしてこの時既に善良な国民、民衆は多くの犠牲を払って、灰燼と化した国土に放り出された。国のよこしまな指導者たちに騙され続け、たっとい命を奪われ、その数三百万余、苦労して築き上げてきた貴重な財産も灰燼、無為に帰してしまった。本土決戦、一億総玉砕のもと、国民を皆殺しするつもりだった。女、子供を含めアメリカの無差別攻撃を受け多くが焼け死んでいき、最後に原爆投下によってとどめを刺され、最後の決断に追い込まれた。無条件降伏に、盲目に突っ走る軍人の抵抗も激しかった。しかし国を分裂することなく一つにまとめ戦争終結、無条件降伏に国を一つにまとめた天皇はえらかった。マッカーサーはこれを知っていたから、天皇を軍事裁判にかけることをしなかった。戦後、神国、皇室崇拝、軍国主義者らは、多くが共産党員に転向して、我こそはとばかりに街頭演説に走っていった。いかさまで、いい加減な連中が実に多かった。こうした中で敗戦処理のどさくさに紛れて大量に物資をかすめた連中がいて、いわば火事場泥棒に等しかったが、右翼の児玉誉士夫とか小佐野賢二みたいな闇の商人で商才を発揮した愚連隊の連中だった。商才と云うべき手法ではなかった。強盗に等しく国の戦利品、軍事物資、退蔵品の横流しに走って濡れ手に粟、巨大な儲けに狂奔したのである。これに加担していた戦前の政治家、軍人も沢山いた。しばらくして小菅刑務所から保釈されて政界入りした大物も平然として仲間に入っていたのである。戦後、無秩序に頻発した汚職事件は、こうししたところに遠因している。

    芳野村小学校の純真な少年少女たちは、そうした物情騒然の社会の中で過ごしていった友人ばかりであった。したがって大人並みに苦労を重ね、心根の優しい思いやりのある連中であって、苦しみの中で子供ながらに助け合いながら苦楽を共にした学友ばかりであった。そうしたキャラクターが今日まで営々としてクラス会を心ひとつに行ってきている所以である。地元の幹事諸君が張り切って企画していつも誘ってくれるので、わたしは万象繰り合わせて参加すべく楽しみにしている。クラス会に出席すること自体が、即ち学業に立ち返り、初心忘るるべからずの意義があった。仲間たちは農業に従事する人、公務員になった人、上京して事業を起こした人、会社員になった人とさまざまであるが、みんなその道を強く踏みしめてそれなりに満足な成果を収めているひとばかりである。こんな年になってまでクラス会に出てくること自体が立派であり、称賛すべきことである。

    敗戦後、私たち一家は、朝鮮に帰国するという人がいて、その人から知人の紹介で六反歩の田畑を譲ってもらった。これで何とか自給の道が開け食いつなぎが出来たわけである。温かい銀めしを食うためには、せめて米だけでも直接自分で作るべきだと思った父が決断した結果であった。父は、戦火の激しくなってきた東京故に、水戸で手広く事業をしていた親戚を信頼してすべての財産を託していたが、運悪くみんな使い込まれていた。その上、3月10日の東京大空襲と、8月1日の水戸の空襲と云う二つの空襲に遭って、すべての家財は灰燼に帰してしまったので、経済的にかなりの痛手を受けていたが、最後の金をはたいて終戦の翌年、この六反歩の田圃と畑、そしてうらぶれた家屋を手に入れたのである。秋だったので収穫する稲の実がごっそりとついていて、銀めしが食べたいと熱望していた私たちは、黄金の穂の波の中に立って、家じゅうで喜んだものである。銀めしにありつけるといっただけで、なんだかいっぺんに金持ちになってしまったように思って。 しかし田圃の中で突っ立て見てもそのまま飯がが食えるわけではない。稲をかり、乾燥させ、脱穀し、といろいろな作業があることを知らないままに百姓の道をえらんだ。右も左もわからない素人が農作業に従事することがいかに難しいか、有頂天になるばかりで、気づかなかったのである。農業の知識もなく、道具の使い方も知らず、ましてやいかに重労働なものかも考えないままに突っ込んでいった生活である。 慌てた毎日であった。結局近隣の農家の手を借りて、1から10までお世話になる結果になった。もとより父母も泥だらけになっての仕事ぶりであって、今ならとてもではないが我慢できなかったろう。藁ぶき屋根の貧しい家の構えでもあった。私は体が弱く生来の喘息もちが昂じて、時々発作が襲って子供ながらに苦しみの生活を経験してきた。何の力の足しにもならなかったが、農業を手伝いながら小学校に通う生活であった。にわとりを飼うようになって、初めて百姓生活の楽しさを実感したのである。
    農業は、もともと原始的なものであり、想像するに、縄文時代に使っていたであろう道具と大して違うものでなかった。すべては人力であり、人力に代わって牛馬を使っているようなところは少なかった。 肥料にしても人糞が主であり、わずかに鶏を飼って鶏糞を加えるようなものであった。だから回虫が湧き、小学校では無論のこと、みんなが虫下しを飲まされていた。この頃、はやりのDDTを体にふり掛けて、シラミ退治は国民的行事であって、どこでも強制的に行われていたことが、当時の社会事情を説明するのに一番適しているかもしれない。貧困にあえぐ北朝鮮の庶民の生活ぶりと少しも変わったころがなかった。今では想像もつかないひどい生活ぶりであった。芭蕉が奥の細道で、封人の家で詠んだ句がある。「のみしらみ馬のばりこく枕もと」。そんな貧しい生活ぶりであったが、それでも鶏を飼って生きた小動物の中にいるという安心感の方が勝っていた。
     転々とする浮草のような生活から、藁ぶき屋根の破れや同様の家ではあったが定住でき、おかげで学校も一応定まって通うことができた。小学校時代の、わけても芳野小学校時代の学舎の思い出は、希望に燃えたものがあって、田舎の田園生活を満喫した石坂洋二郎の書いた小説、青い山脈のような趣きもあって、良い友達に恵まれ、良い勉強生活を過ごしてきて、語れば尽きないことばかりだが、自分の人生観に大きな影響力を持ってきている。 それほどに今では想像もつかないほどに早熟な少年時代であったかもしれないし、多情多感な背景にあって追い込まれていっていた、その頃の心境が熱くしかしほのぼのとうかがえるのである。このころ、父は世の中の動きに出遅れてはいけないと単身東京へ戻り、商売に専念する決心をして芳野村のこのあばら家と家族をあとにして単身東京に帰っていった。                      *
    私と弟が転入し、落ち着いた先の芳野小学校の規模も小さかった。クラスも四十人ぐらいの男子と女子生徒でしかいなかった。そのくらいの人数で四年生が組まれていたくらいだから、他の学年も推して知るべしである。小ぶりな学舎で、しかし他の学年については全く分からない。木造の平屋の校舎が二棟あって、渡り廊下でつながっていた。子供の頃の感覚だから何とも言えないが、広い校庭があって、桜の木に囲まれていた。教室の窓を開けるとすぐ下に花壇があって、きれいな草花が咲いていた。後門のすぐわきには大きな銀杏の木が立っていて、これが学校の目印であった。石の門柱が二本立っていて、そこを通り過ぎていくと将メンバ校長室兼、職員室となっていた。校長室の前には二の宮尊徳先生の像が立っていた。まきを背負った本を開いて、ようは働きながら勉学する姿ある。校舎に入ると板の間の廊下が広く、いつもピカピカに光っていた。お茶の木の実を布にくるんで、廊下を磨いていたせいかもしれない。突き当りを出たところに男女兼用の便所があったが、当たり前な話で汲み取り式であった。教師も四,五人ぐらいだったろうか、不思議と記憶にないのである。ただ女子組を担当する若い女性教師の秋山先生はしっかりと覚えている。優しい人柄で顔にそばかすがあった先生で、その顔立ちが好きだった。私のクラスの生徒の中には疎開してきた都会組の子が三余人いて、心やすかった。田舎の子でありながら、真面目で頭のいい子が沢山いたのを覚えている。何軒と云う小学校をひたすら渡り歩いてきた私にとって、ようやく落ち着いて学習生活が過ごせるような感じを得たのである。教室の棚の下が簡単な図書棚になっていて、僅かな書籍がみすぼらしく置かれてあった。教材はガリ版で刷った薄っぺらで貧疎なわら半紙で、その教科書をめくって、新しい知識をむさぼり読んだ記憶がある。小ぶりな棚には僅かな本しかなかったが、そこに夏目漱石が書いた本が並んでいた。初めて知った、「吾輩は猫である」を崩れた辞書を引きながら楽しく読むんだ思い出がある。そしてまた島崎藤村の「千曲川のスケッチ」を愛読したこともあった。こんな世界があるのだと、感動した少年時代であった。.しかしこの教室は時折物議をかもし何となく話題に絶えないクラスであった。と云うのも頻発する教師と生徒の対立で僕たちの教室が際立っていて、ほかの教室や勉強の様子が目に入らなかったということかもしれない。

                       *
    そうした中である課題に直面して、ちょっとした大きな事件が起きてしまった。小さな事件だが、その後の日本の社会の根底を形つくるものであり、今ではリスクを背負った勇気ある行動だと思って自負している。 敗戦後の教育現場は、はっきりした学習、指導規範と云ったことがまだ確立していなかったせいかもしれない。軍国主義一色の、警察国家の圧迫下にあった日本から解放されて、なお自由解放の叫びに魅せられながらも、そうした社会に戸惑いを禁じ得なかった時代でもあった。習字の時間に書く文字は、いつも「自由と平和」、[新日本の建設」、「民主主義」、「新生日本」、「希望」と書いた大きな文字ばかりであった。感受性の高い子供たちの方が新しい時代に大きな夢と希望を託す生きがいに燃えていて、教師たちの古い教育思想と、暗黙の裡に戦っていたような時代であった。
     この時我々の小学校に赴任して我々のクラスを受け持っていた先生は、復員して間もない軍人で、筋金入りの若い青年将校の熱血漢であった。先生は聞くところによると神社の宮司の御曹司で極めて国粋主義的な思想の持ち主であったらしい。自分の気に障った生徒に対しは厳しい懲罰を持って臨んだのであり、子供、否、少年たちにとっては、その教育的熱意はともかく、軍事教練に似たすさまじいものであって恐怖に近かった。多くの生徒がその懲罰の犠牲になったが、信念に基付いて行動する熱血的な教師の行動を制止する勇気のある人がいなかったのである。勇気ある愛のむちにも見えたかもしれない。しかし、先生が信念とするところは、神国日本の再建であり、それは可能だとするもので、日本はアメリカに無条件降伏したが、万世一系の天皇のもと、神のもと、神国日本の再生を信仰する教師には、敗戦と云う事実が通じなかったのである。国が外国の軍隊に完膚なきまでにたたからたれたと云う冷厳な現実の、悲惨な結末は先生の信念と信条に反するものであった。この怨念を少年諸君たちに植え付けてアメリカに仕返しをはたそうと、少年たちを神国再建の矢面に立たせていかなければならないということを真剣に考えていたのである。だから、自分の教育信条と規範を犯した生徒に対しては、直ちに厳格な体罰を以て精神の立て直しを図ろうとした。そうした現場は幾度となく我々の目に飛び込んできた。反抗した生徒を指名し、自らの前に立たせて、生徒の目をじっと直視して、しばらく後に直立不動の姿勢を取らせたのである。そして気を付けの姿勢を取らせ、歯を食いしばれと命じた。軍隊生活では日常茶飯事のことである。幼い子弟を殴る緊張のあまり、先生の顔色は青ざめて口元がかすかに震えている。右手の指が堅く握り締められた。するといきなり右手のこぶしがふられて、一発必中、生徒の顔面の左ほほに炸裂した。生徒はもんどりうって倒れたが、先生の命令は絶対に従って立つことであり、やられた生徒は懸命に起き上がろうとした。起き上がれないものもいたが、口から血を出して寝ころぶものもいたが、多くの場合、懸命になって立ち上がるのがいじらしく思えた。それを以て先生は、自分の教育的責務を果たしたかのように自信あふれる表情だった。次はだれが鉄拳の犠牲になるかが、みんなの心に重くそしかかってあったに違いない。
    ある日、終日かけて外での教練があった。芳野村から飯田を抜けて大場君が住んでいた広大な旧飛行場あとを横断して通り抜け、坂を下って那珂川に近く、いくつかの集落を見聞、探検していく授業の「行軍」があった。かなり厳しい「行軍」で、生徒たちはみなそのつらさに辟易していた。体力のない小生などは苦し紛れの息を吐きながら懸命になっていた。みんなの苦しい気持ちは同様であった。過度な教練に体を害することははっきりしていた。誰もが不服であった。それを察したA君が、確か先生に不満をぶち上げたのである。A君はみんなを代弁して勇気を出して、正義感から先生に向かって行進中に異論を唱えたのである。親友のA君が先生の逆鱗に触れた。反抗したA君の不満の抗議が、先生の意に添わなかったのである。隊列が乱れて、先生がA君の傍に強い足取りでやってきた。先生の「気を付け」の号令が、軍隊調に聞こえた。A君は比較的背丈の高い少年で、立派な体格をしていた。彼はいつも青いズボンをはいていた。穏健で真面目であり、寡黙なA君は私の模範とする友人の一人であった。その彼が目の前で先生の命令に素直に従っていた。砂利道の道端に立つA君に、気を付けの命令であった。歯を食いしばったA君の顔面の左ほほに素早いこぶしが炸裂した。その瞬間を、どうして止めることが出来なかったのか、私は自責の念に駆られた。地面に膝をついたA君は、ふんばって起き上がった。くちびるが切れたようにも思えた。
    暴力を暴力で以てやり返したらどうなったであろうか。考えただけでも恐ろしい気がした。暴力を是認して我々が集団で先生に立ち向かったらどうゆうことになるだろう。人間の間にはぐくまれた秩序は一遍に破壊され、規律も何も滅茶苦茶になってしまう。混乱と破壊しか残らずもはや絶望的である。これを回避するために教育があり、人間の尊厳を基礎に置いた社会の形成がある。生徒を一方的に懲罰、制裁を加えるということは、教師の地位を利用してやるからできることであり、教師の職権乱用に値する問題でもある。拳骨が空を切ってA君の顔面に飛んだ時、踏ん張ったA君は右によろめいて、確か膝をついたが倒れなかった。先生は、すぐに冷静を保ち先頭に戻って又行軍の教練についた。親友の一人で穏健で信頼するA君が先生にやられた。私は、その晩考え抜いた。このままでは先生の行動がますますエスカレートするばかりだと思ったのである。エスカレートとは適切な言葉であるが、当時にはなかった。段階的にますます拡大していくことで危険である。いくら受け身の態勢で迎え撃つとは言いながら、事と程度次第では、身体的致命傷になりかねない。だとすれば拳骨の代わりにもっと指適すべき有効な手段はないだろうか。沢山あるが、今の先生の場合全て難解である。そうだ、自分たちで団体を以て反対の抗議行動をとろう、それにはみんなが授業ボイコットしの擧に出ることしかない。
     周囲では、この怯えながらの教育現場を看過するようにみつめていた気がする。熱心な教育的情熱が勝っていて、それに共感を覚えているものも、教師の中にはいたのであろう。あるいは見て見ぬふりの教師もいたと思われる、こうした熱血漢を抑え込むことはできないと、半ばあきらめていたかもしれない。しかし当時の心境としては、こうした絶対服従の精神教育は敗戦直後とは言え、やたら軍国主義の復活につながるもので決して認めることはできないと思う気持ちが、心の中にふつふつと湧いてきた。誰も止めることができないなら、我々が立ち上がって自分たちで先生のこうした体罰的懲罰と教育指導をやめてもらうべく、いい知恵を絞らねばならない。強靭な兵士を相手にする軍事教練ならまだしも、未熟な少年を相手に誰が見てもこうした暴力的体罰は、暴力そのものと同じである。満足な食い物も与えられていない子供たちを相手に、精神のたたき直しを図るとはいえ理不尽な理由を以て跋扈されてはかなわない。戦争に負けて、これから再出発しなければならない時に、精神の切り替えができない教育者に翻弄される筋合いはないという、今で云えばそうした理屈になってしまうであろう。誇大妄想もいい加減にしろというのが我々の気持であった。いろいろと相談をしている間にも、こうした体罰が悲しいかな身内で続いていたのである。誰かがやらなければ、こうした状況はこれから先も続いてしまうだろう。それは悲惨な結果をもたらしてしまう。私は授業の終わった後、クラス会議を開いてもらった。決起して皆を促してある計画を示して協議してもらった。その結果はそれしかないし、それは正しい行動であると決論を出してもらった。そして翌日の朝、緻密な計画のもと、授業ボイコットの行動に出て、先生に対し猛省を促したのである。
    我々のすることは限られていたし、一致団結した授業ボイコットであッたにしても、果たして効き目があって教師の横暴を食い止められるだろうか一抹の不安があった。効果があったとすれば、これはもしかすると生徒が教師に対し罷免する行為になるかもしれない。だとしたらそれは成功して、正しい学習の教室に戻ることができる。黒板に「軍国主義反対」「暴力的体罰反対」「守れ民主主義」と書き残して教室を出た。夏のある日、弁当持参の終日かけたボイコットは、田圃の中畦をかけて行き、細い山道を列をなして歩いて行ったはずである。時間をかけてたどり着いたところは、木崎の山奥にある溜め池であった。渇水期に田圃に水を引くために、あらかじめためておく農業用の貯水池である。あとから追尾されたり、攻撃を受けないように、子供ながらに自衛体制で臨んだようにも記憶している。疲れ切ってたどり着いた場所であるが、先導してくれた案内人がいたはずである。間違えなく道のりを教えてくれた友達に感謝しなければならない。みんなの無事を確認して、連帯感を味わった時の喜びを隠し切れない。持参した弁当を広げ、ため池の周辺を遊んだり、中にはため池に飛び込んで泳いだりして、授業ボイコットなどの厳しい状況を忘れて大いに楽しく遊んでいた。夏の盛りである。ため池に飛び込んで上手に泳ぎまくっている友達を見て私も裸になって飛び込んでみたくなった。パンツひとつになって岸からジャンプして体を垂直にして飛び込んだが、人間の体は水の中で浮くものと思っていた。しかし水深く沈んで一向に浮く気配がない。浮かび上がろうとしてもがいてみたが、水面近く行くと又沈みかけていく。懸命になって浮かび上がろうとしたその時、白い腕がすーと目の前によってきた。夢中でそれにしがみついた。それが岸辺にいた大場君の頼もしい腕であった。所詮泳ぐことが出来なかったがゆえに、親友の大場賢十郎君にたすけられた。傍にいた友達も懸命になって助けてくれた。リーダー格が溺れて死にはぐったでは余りにもお粗末である。あの時の大場君の力強い腕が、水の中で目の前に見えた瞬間を今でも忘れることができない。間抜けな珍事も発生して迷惑をかけたが、みんなは濡れたシャツなどを干したりして、夕方に我々はもと来た道をたどり無事に学校にたどり着いた。その長い行程はどうであったか細かい点についてはさっぱり思い出せないでいる。詳細についてしっかりと思い出してみたいと思うのだが、不思議なことに、どうしても思い浮かんでこないのである。いつの日か親友の青山陽一君に詳しく訊ねてみたいと思っている。あの時の自分には、目的と結末しか頭になかったのかもしれない。

    学校について教室に入ってから、一体どうなることやら内心はびくびくであった。僕たちのおなった行為が想像もしない結果を招いて、学校を巻き込み、父兄を巻き込み、村を巻き込んでの大騒ぎなっってしまった。学校から至急、父兄たちに呼び出しがかかっていた。教室に入って皆の無事を確認した後、今日の行動はみんなの責任において、教師の暴力行為の中止を促すものでやったことを確認した。その時教室が一瞬波をうったように静まり返った。暗くなりかけた教室に担当のN教師が無言で入ってきた。教壇にたって「起立!」と云ったきり、先生は終始無言であった。教室は水を打ったような不気味な静けさであった。長い時間が過ぎて行った。此の先、いったいどのような状況の展開になるのか、無言の恐ろしさが教室に漂っていた。机に着いた我々はそれに向きあって立つことになった。長い時間が過ぎて行った。するとひとこと、「首謀者は誰だ」といわれた。後ろの席で「みんなだっぺ・・・・」という小さな声がした。また重苦しい沈黙の長い時間が過ぎた。私は静まり落ち着くのを見て、黙って先生の前に立った。無言のまま向き合っていたが、もしかすると直立不動を命じられ、歯を食いしばるよう命じられるかもしれないと、それに備えていた。ボイコット行為に対し何人分もの鉄拳が自分の顔面に飛び込んでくるかも知らない。あるいは突然の不意打ちを食らうかもしれない。高く振り挙げた右手の拳骨を受けるに違いないと、それを覚悟の上で歯を堅くつくんで、食いしばって立っていたのである。先生は確かと私を睨みつけている様子に見えたが、私はうつむき加減で立っていた。反抗的ににらみかえすことはできなかった。無念さがこみあげて目頭が熱くなってきた。お互いに怒りを抑えた無言の時間の場が過ぎて行った。起立したままの硬直した姿勢で、先生と生徒たちが対峙したまま、無言の時間が過ぎて行った。無念に思いながらも、僕の後ろにはたくさんの同志がいて、正義感に燃えた友人ばかりだと思うと、恐ろしさはいつしか消えて行ったのである。
    呼びつけられた父兄たちが遅くなっても帰らずに、心配そうに教室の外側の窓から中を覗き込んでいる。月の光がぼんやりと教室の中を照らしたいた。直立不動、軍隊で訓練された23歳の気鋭の青年将校だから、何時までもそうした姿勢で立っていられるかもしれないが、授業ボイコットで疲れて帰ってきた生徒たちはたまらない。他の先生が入ってきて何やら言葉を告げて出て行った。このまま起立して動いたはならないと言い残してN教師は教室を出て行った。しばらく時間が過ぎて行った。先生に面会を求めていた父兄の一人が、子どもに代わって非行を謝ったのか、それとも理解を求めたのか、許しを乞うたか知らないが、長い時間の後に戻ってきたN先生は、みんなに対し、帰ってよいと確かな口調で命じてくれた。はっきりとした記憶はないが、この間2時間以上は経っていたに違いない。辺りは夏だというのに深い夜の気配で時間の遅いことが分かった。この夜は月は出ていたが、いつものように暗い夜道を大場君と一緒に帰っていったと思っている。
    あの時から長い年月が過ぎた。みんなは不思議と、あの頃のことについては口を割らないし、胸襟を開いて話すことはない。ただ、事件があってからしばらくして、ある日のこと、母が一言私に云ったことがある。「先生は日本が戦争に負けて時代の変わったことに心底から信じることができなかったのよ、気が付かなかっただけなのよ」と。きっとあのとき先生は、一人の聡明な母と、そうした会話を交わしていたのかもしれないと、そして先生が行っていることは無益なことであって、まかり間違えば、不名誉なことになりかねないと、先生はそうした意見と忠告を一時的にも受け入れたのかも知れないと、僕は確信している。血走った先生の激情を多少なりとも鎮めてくれたのではないかと、思い出を手繰るような時には、ふと仏壇の母に手を合わせることがある。学校から呼び出された母が、事の次第を知って、生徒たちの行動とその動機を知って、そのまま帰るはずがない。戦場から帰ってきたばかりの若い先生を前に静かに話し合って、二人が冷静かつ、落ち着いた結論を得たことは十分に理解できる。だとしても、若干二十五歳の血気盛んで信念に燃えている青年教師を前にしているとは言いながら、戦火の下を潜り抜けて、四人の子供を育ててきている強い母が、簡単に引きさがるはずがない。ある時はあたかも子供を前にして、ある時は生真面目で未熟な青年を前にして、教師として、人間としてあるべき姿を問う場面もあったに違いない。それは何よりも侵しがたい強い母としての崇高な姿勢と、母としての威厳と云うべきものかもしれない。
    暗闇からいつ教師の鉄拳が飛んでくるかもしれなかったが、そうならずに済んだのは、その後の人生に傷を残さずに大きな影響をもたらしている。それからの授業は落ち着いた時間が流れて何の波風もたたずに済んでいったことは幸運であった。しかし母の言葉を以て学校を去ることになった私は、約一か月後にその忠言にしたがって転校を申し入れ、みんなと別れ、何も悔むことなく懐かしい校舎を後にしたのである。その日、私は母の作ってくれた握り飯を三つ持って単身、上野駅に向かって発つことになった。母はあらかじめ東京の父に電報を打って、私がどうしても芳野小学校を止めて東京に行くことになったということだけを打電したのである。汽車のけむりのばい煙を浴びて、そして一足先に東京に戻って生活している父のもとに、帰っていったのである。東京へ向かって驀進していく機関車は力強く、新天地に向かっていくような気迫に満ちていた。小さな胸に大きな夢と希望が、険しい山を駆け上って真っ青な空に向かって黙々と登っていく大きな太い入道雲のように思えた。上野駅に立つと、浅草一帯は空襲の跡が生々しくまだ一面の焼けの原であった。学校の騒動については、外に漏れたりしないように、教師たちは事の重大性に気づいて火消し役に勤めていたことは知るよしもない。
   木崎のため池でおぼれる僕を助けてくれた大場君に触れてみたい。芳野村を離れて長いこと、音信不通で会えなかったが、その大場君は十年ほど前に亡くなってしまった。身体の大きな大場君は、気がやさしく力持ちの少年であった。私の家から更に遠く、別名、飛行場跡の開拓地の痩せた農地に入植してきた一家で、長男として切り盛りしていたのである。北風が吹くと砂埃が立って先が見通せないくらいに厄介な痩せた農地であった。学校に行く道のり、帰る道のりが同じだったのでいつも一緒に帰ったことであった。水戸の中学か高校を出てから一時上京し、修行を積んだ後、向島の押上の駅近くの路地を入ったところで小さな小料理屋をひらいたことがあって、上京した仲間たちと激励を込めて飲み食いに行ったことがある。その後どこかのホテルに勤め腕をあげて、芳野村の郷に帰り、その後、袋田の温泉ホテルの料理長になったという知らせがあって、同期生の親友、青山陽一君の案内を受けて訪ねて行ったことがある。互いに何十年ぶり下の再会を喜んだものである。その時改めて、ため池でおぼれる僕を助けてくれたことを心から感謝して礼を言ったが、大場君はすっかり忘れていて、そんなことがあったかねえと返事していた。体の大きな大場君は料理長の貫録があって、充分な歓待の受け、何かにと腕を奮って贅沢な料理を出してくれて、一緒の席にもついてもてなしてくれた。翌日は、車に乗って地元めぐりの案内を受けて、優しく親切な心意気に男ぼれする気持ちでいた。そのあと2年ぐらいして残念ながら、冥途に立ってしまった大場君だが、世話になった彼に対し心からご冥福を祈っている。

    その後頻発する学生運動は、日本社会を大きく揺るがして、時に社会を啓発し改革し、時に激しい政治闘争にもなったりして、形を変えて成長していったが、東大の安田講堂の占拠事件を見ても、浅間山荘の事件を見ても、そのころ高校生の私は、学生の本分をはき違えた軽薄な行動だし、目的もあいまいであり、あさましい派閥争いの典型過した愚行としか見えなかった。ただ社会を騒がすのみでそこから得るものはなにもなかった。暴力事件と何ら変わりないと思っていた。それに比べて思うに、純粋にして学習の改革を求めた戦後の学生運動の発端は、この芳野村の芳野小学校の我々からだと自負している。学校のうちに立つ二宮尊徳の姿ではないが、貧乏な生活での学習であり、風呂敷みに貧しい弁当を包み、草鞋で通学する時代での小さな学生運動であった。その後時は大きく過ぎて、拡大する学生運動は、後の時代にも広がっていったが、純粋に学問の自由と真理を求めて学校側に要求し、時の時勢にあって軍国主義、暴力主義的教育に敢然と反旗を翻して戦った少年たちは、いわば長い戦争の歴史を経て、自由と平和を標榜するわれわれの小さな戦士であったと云っても過言ではない。。
    当時の旧態依然の学習と、教育指導を強行しようとすることに反対して、授業放棄の決行を一同が決議して立ち上がり、先生の教育思想と、教育指導に反対した行動であった。この小さな村から、この小さな小学校の学舎から、40名ほどの小さなクラスメイトから自主的に燃え上がった小さな松明であった。その時のみんなの笑顔も頼もしく、陰湿なところは全くなかった。かえすがえす思うことであるが、朝早くクラス全員が集まり議論し決議に基いて、全員が学習道具を持参して、裏門から出て、裏山の道をたどって木崎の方角に逃げてその日の授業をボイコットしたのである。先導をしてくれたのは地の利を心得た友人である。行く道に一人の落伍者も出してはならないし、況や誰ひとり事故を起こしてはならない。勿論,暴力否定で立ち上がったがゆえに無抵抗の抵抗であり、難しく生意気に言えば、言論の自由と権利の主張と、改革を目指した行動であった。戦後の大混乱期の中にあって、若干十歳そこそこの少年たちの思いは真剣であり、責任と自覚に基いたものであった。そうした行程の中でも、ため池で泳ぎまくったり、弁当を広げて食べたりして愉快に過ごす余裕もあったのである。
    今日のクラス会で集まった連中は、女子を除いては皆、その時の主役をそれぞれに演じた人たちであり、敗戦直後の荒廃した社会にあって真の学習者であり教師、父兄、生徒が一体となって困難に立ち向かい解決の道を進んでいったもので、誇りを以て任じた真の教育立国者であり、民主主義的・愛国者であった。そして国粋主義的、軍国主義的思想を以て、神国日本の再来を信念として教壇に立った先生も、戦火に追われ、貧困に育って勉学していった生徒も、ともに誤った時代の犠牲者であることに変わりがない。この体験をいしずえに、それぞれが自分の一生を悔いなく過ごし、幸福に生きて後世に平和と非暴力の社会が、いかに大切なことかを、教訓と残していくことができれば幸いなことである。 

    この思い出をもととして、たん略ながら小さな学校騒動を記す気になったのは、涸沼ホテルでの今回の芳友会クラス会の宴会場の席での光景がきっかけであった。 焼酎のお湯割りを飲みながら、桧山仁一君の元気のある大声の唄を聞きながら目を閉じていると、左隣りに当時のA君が座って同じく焼酎を薄めて飲んでいた。A君が歌う「いよまんての夜」は何度聞いても心に響くものがあるが、今回も又その歌を聞かせてくれたのである。A君の先となりに平松俊夫君がいた。A君がいたし、小生がいたからだろうか、「思い出すのも嫌だが、あの時のことはよくやったね、忘れないなあ」とつぶやくように言ったのである。平松君は那珂市の教育長を勤めた役人である。このクラスには立派な人間が世に輩出して活躍していったことも記憶に新しい。もちろん緊張して張りつめた事ばかりの学校でないことは当然である。充実した勉学の時、楽しかった授業も枚挙にいとまがなく脳裏をかすめていく。オールバックの髪の毛をしたダンデイーな宮本先生と、美人教師の石崎先生の若者同士の恋愛風景は明るく、うらやましいほどにきれいに映ったものである。宮本先生は糞くらえだが、石崎先生は久我美子に似た美人だった。又、女性クラスを担任した秋山先生は綺麗な顔立ちにそばかすがあった。慎ましく静かな人柄の人で、出会うといつも優しく言葉をかけてくれた。そうした些細な事柄が、貧しい学舎でも、自分の小さな胸にほのかな夢を与えてくれるようにも思えた。秋に催した学芸会があった。小さな劇の中で私は「砂山」を唄った記憶がある。北原白秋が作り、中山晋平が作曲した名曲である。「海は荒海、向こうは佐渡よ、雀鳴け鳴け、もう日は暮れた、みんな散りぢり、お星さま出たぞ」。私は時々その名曲を思い出して口づさむ時がある。女の子も一緒に歌った曲だった。未だに懐旧の情あつく、哀愁の調べを帯びて、その時の校舎の様子が浮かんでくる。あの時、内心、心を寄せていた女の子がいた。筧さんと云う名の子と、鈴木智恵子さんと云う子だった。二人ともきれいな顔をして利発で可愛い子だった。言葉を交わしたこともなく遠くから見るだけだった。一歩でも近づければ、それだけでうれしかった。今でもきんもくせいの匂いがしてくると、遠い幻影となった恋人と、通学路の雑木林の細い道のりを生き生きと思い出すのである。筧道子さんのお父さんは茨城中学の先生をしていたという。彼女は、戦後の昭和天皇の水戸の行幸のあった時の作文が上手に書かれて、県大会で優勝したが、その後の音信がなく行方が不明である。高峰三枝子を小さくした顔の、今でも謎めいている。元気でいれば会ってみたい人である。あの時の作文がどんな内容に書かれていたかは知らないが、感情がこもっていて、とても小学生が書けるようなものでない、優れた内容のように記憶している。鈴木さんは上京してらい病患者の救済事業の道に進み、ある日500CCのオートバイを運転中に電柱に激突、若くしてそのまま帰らぬ人となってしまったという。おとなしくて、とてもそんな情熱的な気性の激しい子とは考えられなかった。哀しく非情な便りもなくはない。しかし思い出の通学の道は、四季折々の香りが漂うものであり、特に秋の盛りの時が懐かしく思い出されるのである。しめった林を通りぬけていく細い道だが、飴色をした大きな栗が沢山落ちていた。栗を栽培する農家のものだが、人目を盗んで拾っては風呂敷き包みに大事に忍ばせていた。茹で卵と握り飯を抱えて汽車に乗っての、袋田の滝まで楽しい遠足であったが、滝の水しぶきにかかりながら岩松を取ったりして、誇らしげに持ち帰ったものである。勇敢に岩松をつかんだときの、みんなの歓声が今も耳元につたわってくるようだ。体操の時間や、運動会には、100メートル競走を風を切って走る吽野君の勇ましい姿に驚きあこがれていていたこともあった。野崎参りのはやり歌を唄った綿引君が先生に叱られて、廊下に立たされたこともあった。私は良い歌だなあと思って拍手してやりたいと思っていたくらいだ。黒沢君が野崎参りの歌を唄ったからと云って、何故廊下に立たされなければならないのか理解できなかった。歌をすぐに覚えてしまって、謳いながら田圃のタニシを取ったり、どじょうをすくったりして遊んだものである。先だってまでの戦時中に習わせられた軍歌よりは、よっぽど情緒に溢れていて、子供心に感興に浸れたものである。恋愛中の若い先生もいた。オールバックをした今でいうイケメンの宮本先生と、映画女優のような美人の石崎先生である。二人は、何しに学校に来ているのかわからなかった。うらやましくも嫉妬に感じたこともあった。
    落ち着いた平松君の話を耳にしながら、又しばらく酒に酔いながら、心底うなずく思いで僅かにあの時の思い出を話す言葉となって出た。その時、私は思った。あの時の学校騒動は、決して嫌な思い出ではない。誇りを以て自分の生涯の歴史に刻みこめているべき教訓だと思った。誰の勝ち負けではない。誰の良し悪しの問題ではない。我々事件にかかわったすべての者が、ささやかであっても困難に立ち向かって時代的課題に挑戦し、新しい時代に向かって、民主主義の台頭の波に向かって爽快に、先ず勝利の第一歩を勝ち取った小さな戦いであり、大きな意義ある成果を勝ち取ったものであって、決して忌み隠すべきものでなく大いに喜ぶべきものであったということである。同時に苦しい中にあっても希望に満ちた歴史に、燦然と輝く小さな且つ、大きな時代的勝利の記録として誇るべき事柄であったと。 そして明治以降、富国強兵のもと国策と称して拡大していった日本の軍国主義がもたらした国家的損害は大きく、国民の犠牲も大きく、何百万と云う犠牲者をもたらした結果の今日である。日本の歴史的的認識はまず自らの襟を正して足元から自らのものとして考えるべきであり、二度と繰り返さぬよう後世にともしびとして残していくべきと思っている。戦争そのものはもとより、日本が惨敗した戦後も、何ら反省することなく、神国を以て、軍神を以て進めた戦争が、自国の荒廃ばかりでなく、多くの周辺諸国も傷み付けた。戦後はさらには性懲りもなく逆にあくどい輩が跋扈して、戦利品で巨万の富を稼ぐ悪徳商人を生み出し、全体として何の利益にもならなかった、まったく無益なものでだらしのないものであったことが、歴史家の時代的考察である。


上野発フレッシュひたちに乗り継ぎて芳野の友に会ひにゆかめや

      久々に訪ねしくければひろびろとにぎはひおりし上野駅かな
    
      古びたる駅の面影わがむねに在りせばなほも恋しかるべき

      食ひものの足りなき頃の上野駅いま店あまた余りのこれり

      米軍の攻撃を受く疎開さき水戸にたづねし今むとせのち

      焼夷弾あられのごとく舞ひ落ちてそれが真紅の粉に見えしに

      母の手を確と掴みて火の風のなかを逃げ行く神のご加護に

      空襲の終わりしあとの街なかにしかばね山と黒くいぶれり

      そこここに黒き屍くすぶりて焼け跡にひざまづきしままあり

      うち伏して祈る気配のしかばねに重ねてかばふ影もありけり

      てて母と二人の兄と弟と敵の空襲に逃げまどひ行く

      田返しに父と母とに昼どきの飯とやかんを持ちて畦ゆく

      麗はしき香りのいづくより立ちて林の細き道を行くなり

      女生徒の恋しく思ひ学び舎のみち往き帰り時をうれしむ

      戦ひに敗れしのちの学び舎の共に学びし友に会ひゆく

      泥の田につかりてしかと捕まえしどぜうを五匹持ち帰りてく

      のんびりと走る昔の汽車の日をなほいとほしくかえりみるかな

      初めての涸沼の岸の宿にきて昔の友と語り偲ぶ夜

      野分きて丹波の栗を拾ひつつ学び舎のみち通ふ朝かな

      麦を踏むあしたに友の迎へきぬ芳野のさとの学び舎の道

ててははの背中をみつつ習ひける教えたっとき少年の日よ

      にぎやかに涸沼の岸の宿にきて久しく友と語る秋の夜

      酒を飲み次第に騒ぎ出す友のおさなきころの癖のいでけり

      おもしろきはなしのいでてさまざまにかたりあかずによのふけにけり

      情熱にはやる自身の教育に信念を持ち立てる先生

      暴力と軍国主義の教育に授業放棄の反旗ひるがす       10月2日

        
           
 既定路線の消費税値上げ

     経済指標を見極めたうえで消費税の値上げを自ら決めたいと慎重な態度を崩さなかった安倍さんが、一昨日、消費税を来年4月から3パーセント値上げをして、8パーセントに値上げすると正式に表明した。私は数か月前から消費税の3パーセント値上げはやむを得ないと、ここでも書いていたが、それが決定されたことで経済の落ち着きが却って作り出されたと思っている。世間はこの決定を受けてさほど動揺することがなかったし、経済界はそれを織り込んで安倍さんの表明を遅しと思っていたに違いない。いざ決まったとしたら、喧々諤々の消費税値上げ反対の騒動は静まり、街なかは落ち着きを取り戻し、連日の街頭の反対デモも嘘のように止んでしまった。好調な経済回復の指標を以て、値上げは必至を裏づける結果になって、財政再建を掲げる安倍政権にとって一つの難関を突破したことになる。問題は、消費税の値上げによって低所得者層の、弱者に対する配慮をいかに行っていくか、それが政治の果たす役目である。弱者の消費者に対する負担の軽減を考慮した政策が必要である
それに伴って断行してもらいたいのは行財政の改革である。今まで何回となく言われてきておりながら、少しも進展する気配がなかった。安定した政権下でしかできないことゆえ、これからの日本の進む道筋をつけるためにも、安倍さんには強力な布陣を以て取り組んでいきたいものである。巨大化し、肥大化した行政組織は、財政の圧迫要因にもなるし、硬直化した官僚組織は行政の効率化を遅滞せしめることにもなる。国民の経済的負担軽減になって、経済生活に対する国家と政府の役割を軽減して、政府の役割は最低限の分野にとどめて、民間の正常な機能を喚起せしめるような健全なスキームに立ち上げていくべきである。得てして忘れがちなこの問題であるが、安倍政権下で、長期的な視点に立って受け入れやすい展望を国民に示して是非取り組んでもらいたいものである。
    一方、企業減税のタイミングをはかって、より効果的に実施して貰いたい。消費税率を挙げることによって生じる企業の生産活動と売上の減速をカバーし、更なる一段の競争力を高めていくする必要がある。企業業績は懸命の努力が報われて、好調な決算に結びついてきているし、これが勤労者の賃金向上に結び付いていくような環境に持っていかなければならない。消費の盛り上がりが、在庫調整を促し、さらに企業の設備投資を促進していくようだと、景気回復の、好循環に入っていく気配である。
    聞くところによると、8月の機械受注額は5パーセント台に似った模様で今後の民間企業の設備投資が本格化する可能性が高まってきて、ここは好調なアベノミクスを押し上げるための正念場でもある。見方を変えれば、消費税引き上げが、かえって景気回復に追い風となるような、想定外の良い結果をもたらし一層の弾みをつけてくるかもしれない。人気のプラスアルファが、この先恐ろしい力に化けてくれば幸いである。難しい舵取りの場面がこの先まだ続いて行くとしても、強力な安倍政権の実力を以て、政治の賢明且つ大胆な発想と実行力が尚試されるところであり、この点を大いに期待している。   次にTPP交渉について述べたい。      10月7日


         TPP国際会議

バリ島で開かれているTPP国際会議の模様が、 連日のように新聞紙上に報道されているが、旗振り役であり、指導役のオバマ大統領が緊迫した議会の状況で欠席しているので、進捗状況がはかばかしくない。原則100%関税撤廃の中、各国の国内事情を反映して関税交渉も議論も試行錯誤して難航を極めている。大詰めにきて尚、一部品目で一致点を見いだせないでいる。年内妥結を目指して懸命の状況だが、ここにも主役を務めるオバマの不在が影響して強力な政治判断を得られないでいる。債務上限の引き上げなど、対議会対策に振り回されているが、賢明なアメリカ議会のこと、大局的見地に立って妥協の線が得られることだろう。オバマの欠席は会議に協力してきた関係国に、失望とマイナスの影響を与えないわけにはいかない。この広い地域に中国が、勢力拡大をもくろんでいる。オバマはこの国際会議に万難を排して出席するべきであった。並行するように開かれた アイペックも然り、海洋進出をもくろむ中国の出席は漁夫の利を得て活発な展開を行っており、オバマの外交上の失政は明白である。しかしかかる上は、オバマ欠席の穴埋めに日本の果たす役割こそ、重要な場面となってきた。
    ところで、日本でもコメ、麦を初めとして聖域とされていた農産物五品目についても、完全な関税撤廃を前にしては、頑固な姿勢をとることは難しく、切り込んだ決断は不可避の状態である。各国とも利害が交錯して、完璧な条件を持ち帰ることはできないし、どこかで妥協点を見て会議としての結論を何とかして出さねばなるまい。お互いに多少の犠牲を払って推進していくしかない。各国の協力のもと、平和的な国際関係を維持発展していくために、協定は是非とも必要なことで、その一点に向かって日本の安倍さん初め関係者の賢明な努力の様子がうかがえる。この際、オバマに代わって安倍さんの獅子奮迅の活躍を世界に示す絶好の時でもある。

     日本国憲法の前文には、次のように記してある。
「日本国と国民は、恒久の平和を念願し、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼し、私たちの安全と生存を維持しようと決意したのである。そしていずれの国家も自国のことのみに専念して、他国を無視してはならないと確信した」 と高らかに宣言している。
     此の政治道徳の普遍的理念を、自らTPPの国際会議で発揮して、日本の公正な普遍的な考え方と立場を強調して他国と連携し、安倍さんはオバマに代わって会議を大局的に指導していってもいいのではないだろうか。そうすれば、日本国憲法の精神と理念が、これからの国際社会に大いに発揮されて、平和と、安全と、生存を確保される国際社会の構築に、大いに寄与されていくに違いない。                                              10月8日


      FRB議長にイエレン女史

    世界的に注目をあびて金融政策の舵取りをとるFRB米連邦準備制度理事会のバーナンキ議長の後任に、オバマ大統領は、女性で現在副議長を務めるジャネット・イエレン女史を指名した。思い切った素早い適切な人事の発表に、世界が安堵したのではないだろうか。思い切った人事と云うのは、既成概念にとらわれない指名だからである。100年の歴史を持つFRBの人事で、女性の登用は初めてである。
    バーナンキ議長のもとで副議長を務める女子は、その活躍ぶりに定評があり、的確な経済分析と判断は衆目の一致するところだそうである。政府の多くの金融財政策の立案にも加わってきており、現在の課題山積の金融政策についても的確に手腕を発揮して、回復基調にある米経済のさらなる発展に結びつけて、成長戦略の後押しをすることに、大きく期待して、株式市場も堅調な反応を示していることは結構なことであり、我々も大いに歓迎している。
    アメリカの金融大緩和政策で世界に膨大な資金がまかれて、新興国の経済発展を大いに促しているところであるが、先日も緩和を縮小することをほのめかしたバーナンキ議長の発言で、世界の株式市場が急落して動揺して不安を掻き立てたことがある。その後この量的緩和の縮小策を先送りしたことで、市場は落ち着きを取り戻してきているが、いずれは縮小政策をとらざるを得ない。徐々に資金を引き揚げる、いわゆる出口戦略を上手に誘導できるかどうか、イエレン女史の腕の見せ所であろう。世界経済に波風が立つのは仕方がないが、緩急を心得たスマートなかじ取りを以て、米国はじめ、世界の金融市場の安定的発展に尽力してもらいたいと切望している。    10月10日

アメリカ国債の債務不履行が・・・・・・・

     オバマ大統領が米国議会に対して、アメリカの国債発行の上限引き上げに協力するよう、10月17日の期限を目前にして、執拗かつ懸命な議会への説得工作を進めています。既に国内では、賃金の未払いで、一部政府系行政機能が停止するという事態に内外の経済に動揺が走っていて緊迫しています。万が一にのアメリカ国債のデフォルトするような事態になれば、アメリカ国債の格付けが下がり、世界金融市場に与える影響は計り知れません。目を離せない緊迫した状況が続いています。 
    私もその後の状況を固唾をのんで見守っていますが、今日の日経夕刊のワールド・マーケットのランを見ると一昨日のアメリカニューヨーク市場のダウ平均はの323ドル高に続いて今日のダウはなお続伸して111ドル高の1万5237ドルで、この日の取引を終えていました。2日間で何と414ドルも続伸して終わっています。アメリカ経済の、オバマ政権の、そしてアメリカ議会の一挙手一投足が世界に及ぼすこと顕著な例ですが、マイナスの面がでたりすると、世界を飲み込んで震撼させないとも限りません。そのことを常に自覚しておかねばなりません。
   ここ2日間の株価の動きは、議会工作が円滑に動き出した所以ですが、期待を込めた動きかもしれず、油断なりません。しかしもしすうると、 これはオバマの議会工作が曲がりなりにも成功して、オバマに少しでも有利に展開してきている証拠であります。と期待を以て信じたいのですが、事はそう簡単にいくものでもありません。未だ予断を許しませんが、兎に角デフォルトだけは何としても回避して、事が世界経済に及ぼすところが甚大であるがゆえに事態の好転を望むところですが、依然として緊張感が漂っています。
    こうした中で、ワシントンで開かれている日・米・欧と新興国によるG20財務相、並びに中央銀行総裁会議は共同声明を発表して閉幕しましたが、声明には、「米国は緊急の行動をとる必要がある」 と云う文言を以て明記したことは絶妙であります。 会議でも、アメリカの財政問題に触れて米国国債の債務振不履行の懸念を解消し、世界経済の悪影響を回避するためにとられたもので、この早期解決は世界の希望であることをアメリカ議会に要請したことであもあります。この共同声明は、苦渋のオバマ政権にとって追い風となって、懸案の債務上限の引き上げを可能ならしめるという期待が、ニューヨーク・マーケットに大きく影響して動いた結果であります。アメリカは大局的見地に立って、この目先の緊急性を英知を以て克服して、次の政策と行動にダイナミックに舵取りを行って行くべきであります。
    日本は今日から三連休が続きますが、幸い転向に恵まれ秋の行楽シーズンに多くの人が大挙して出かけていく気配です。と云うのも本格的に景気回復を示す各種のでたーが発表されて堅調な家計と、企業の状況が生まれて来つつあります。企業の業績向上を見た経団連の米倉爺も重い腰を上げて、これからは極力賃金を挙げるよう先ず大企業から呼びかけることにしたようです。日本の経済界が明けるさを取り戻し、経営拡大にも自信を取り戻してきた結果であります。私の周囲でも企業業績の向上を明かす人たちが実際に増えてきております。

        秋晴れ、日本晴れ・・・・・の三連休

    今日から始まった三連休を利用して、楽しい行楽に出ていく人が増えてきておりますが、私は明日は終日働きに出かけます。第一部上場企業のD社と業務を提携し、出資して共同事業を行う発会式に臨むためです。東京駅発新幹線の「やまびこ」で、上野を11時32分に乗って那須塩原市に出立します。行事を終了して時間があれば、紅葉で今が盛りの那須岳の連峰の様子を眺めて来たいと思っています。「そのまま塩原温泉か、那須温泉に泊まって、たまにはゆっくりして来たらどうですか」と云う、ありがたいお神(上)の声がしました。さすれば連日働きずくめの私にも、アベノミクスのありがたい恩恵にあやかれることになります。今や、安倍さんと上さんを、粗末にできません。ああ、ありがたや、ありがたや・・・・のはやり歌が賑やかに聞こえてきて、「いい湯だな、いい湯だな…」と歌いっぱなしの野天湯につかって、金を懐に今夜の座敷ははさしずめ陽気になって過ごせるかなと思いきや、これでは上さんのご託宣に背くことになり、身体の休養にはなりません。あらぬ期待は身の毒と、健康志向で行動することにしました。   
    それにしても、この連休の間、まだ気がかりなアメリカの債務上限の引き上げ問題です。G20財務相・中央銀行総裁会議でも事態の深刻のあまり、成り行きに悲痛な叫びをオバマ政権に突き付けて何とかしてくれと云っています。我が国の財務大臣の麻生さんも、これはアメリカだけの問題ではなく、世界的課題だと、久しぶりに麻生節を聞かせて、存在感を示していて頼もしい限りでです。憲法改正は触れないほうがよさそうです。過激で保守的な発言をすると、この方は間違いを起こしやすいので、平和主義に徹したものの発言をした方が無難であり、自然な感じがします。しかし世界経済の影響するところは大きいかもしれませんが、経済人はこうした動きに矢鱈に翻弄されてはなりません。「明日は我が道を行く」で、日本晴れの快晴日和で大安吉日、私は自分の事業の将来を期待して、勇躍して出張の目的を無事果たしてくる所存です。 それでもやはりオバマさんが議会対策に成功して、憑きが回ってくることを祈っています。大言壮語するわけではありませんが、オバマさんの政策次第は私の事業にも大きく影響してきます。ひいては世界経済の持続的発展を期するためにも。 そして回復基調が鮮明になってきた日本経済が、さらに躍進して、云うところの経済成長を達成させていくためにも、それがひいてはくだらない領土問題より経済を発展させて、民生の安定に繋げることが平和を維持していくことになる、そのことを立憲、技術、そして再び経済大国にならんとする若き日本が、特にアジアにおいて中国や韓国に認識させることが大事ではないでしょうか。 国際政治の王道を貫く積極的平和外交の真価を発揮して、日本国憲法の前文を改めて想起し、そこに明記された人類の普遍的原則にのっとり、これからの国際政治と経済外交を展開していってもらいたいと念願して、安倍さんに何度もエールを送りたいのです。  10月12日


            秋の那須高原を早足で    

       燃えさかる山はだ紅の色あひに移ろひゆきし那須のたかはら 

       晴れわたる那須たかはらの秋さかる山連み高くあほぎみるかな 

       ひさかたの那須たかはらにひとり来てくれないもゆる秋のゆうぐれ

       片ひらの雲すらなくて那須岳の夕陽に赤くそめて暮れゆく

       那須岳をはるかに望むすそのにもホテルのちさく並びたつなり

       夕映えに那須の山なみむらさきに我はもろ手を広げいだけり

       たかはらに茶臼が岳の荒山に噴煙なびくくれないの山

       野天湯につかりて宿と思いしも明日の仕事に帰郷するなり

       小学校四年の時の思い出をわびしくつづることの多きに

       近く住む親しき筧先生の娘に淡き恋をよせしに

       いつの間に姿を消して余の前ゆいづくに嫁ぎゆきしさだめに

       ひとことの交わす言葉もなく消えし妹はいづくに生きてをりしや

       若き日の苦楽をしのぶ那須の地を知らずに買ひし時をしのべり

       ててははの背中を見つつ習ひゆく教えたっとき少年の日々

       田園のしらべに深く身を魅かれ那須たかはらに過ごす若き日

       秋風の吹くたかはらを訪ねきて若き血潮のわきたちにけり

       秋空にひとひらの雲浮かびおり我に語りていとほしきかな

       亡き母と那須たかららに宿をとり楽しみあへる日のなつかしき

       賃貸用住居を建てて事業化す地鎮の祓いに出でし我かな

黒磯の神社の宮司が厳かに祓い清めて先を祝へり

       建設にかかわる人らあまた出で清め祓ひて事に就くなり

       若草の名にふさわしきこの街の山なみ眺むところ豊けき

       地の神の縁に授かり豊かなる恵みに浴し先を望めり

       せせらぎの流るる音の聞こえきて風のそよぎに秋のさやけき

       提携す一部上場の大東と那須若草に図る計画

       清住はアイダ設計に売却す土地の広さに驚きにけり

       清住の土地に住宅建設の跡しみじみと見てうなずきぬ 
  
       積年の願いを果たし安堵しぬアイダ設計にこれを託して

さまざまに卑しきことも浮かび来て清住の土地手放しにけり

       地面師の話に乗りて詐欺にあひあとの始末に浪費するとは

       余をだます人さまざまに世をさりて幾とせすぎて空し跡かな

       詐欺に遭ふ土地も祓ひつ改めておのれながらに責を果たせり

       新幹線車窓にはゆる半月の白く冴えたる光はなてり

       青き夜の甘きひかりのしづもりて音なくわたる秋の月かな  

アメリカ国債の債務不履行・・・・?

    経済的にも、科学技術的にも、あの馬鹿でかい規模の超大国のアメリカの国債が、デフォルトに、つまり債務不履行になるという話・・・・これって現実の話なんですかと訝しく思う人たちが世界で多いのではないでしょうか。ギリシャやポーランドみたいな糞みたいな国なら考えられれますが、広大な国土と資源を以て、金融超大国を任じて世界に君臨する国です。その国が借金をして、もろもろの経済活動を行って、自国だけでなく、広く海外に展開している地球規模と云ってもいいくらいの国・アメリカです。そこに集まる国々や、人々にあらゆる生活と活動の場を提供している国が、借金の返済が出来なくなってしまって、国としての活動が停止してしまったら、われわれホモサピエンスの生活自体に支障をきたして、ほとんど致命的打撃を受けてしまうことになります。アメリカが借金して、そのかたにとった証文が、紙くづ同様になるなんて考えられることでしょうか。そのアメリカ経済は今、地球の隅々までに力が行き渡っているので、アメリカ経済の機能停止は全世界に、もろに直撃して大混乱に陥ってしまいます。この話は架空のものでなく現実の話として、ここ一か月ほど前から問題視されてきました。そしてこの問題が、経済的に世界に対して大混乱をもたらすのではないかと、人々はそれが現実的になった場合について深刻にうろたえる状況となってきていました。アメリカの政府機関の業務停止に入ってから、二週間が経過して、消費経済や生産活動に及ぼす影響が深刻に案じられてきました。
    政府機関が全面的に閉鎖されて活動停止に追い込まれる事態は、既に現実になっています。財務省のお金が底をついているのです。そのための資金が必要なのですが、一時的借金の枠が尽きてし閉鎖されてしまって、職員たちに払う金が底をついてしまっている状態です。ニューヨークの自由の女神の観光も、スミソニアン美術館の観光もそうですが、入り口の門を固く閉じてしまって当て込んできた観光客が途方に暮れています。これがさらに広がっていけば、アメリカの空港の管制塔の指令もなくなって飛行機も飛べないし、ひょっとするとアメリカ連邦準備制度理事会も開かれず、金融政策の旗振りがいなくなって、民間銀行が開店していられるでしょうか。マンガみたいな世界を想像するのがやっとです。およそ凡人の知恵を以てしては、測り知れない世界であります。
    そもそも借り入れる金額に限度を決めて、それをかたくなに守っているからこうした事態に遭遇してしまうのです。それが正しいか、結果的に間違っているかの判断ではないでしょうか。節操を欠いたことになりますが、事の性格、事態によりよりきりであっって、金なんて言うのは余りけちけちしないで出せるだけ出したらいいのです。借金の限度額など決めないで、必要に応じて出せるだけ出せばいいのです。それは生きたお金として役立つのです。そうすれば事態の打開につながって好転し、借金を返済していく力を蓄える結果にもなります。人間もそうですが、自ずと自制心が働いて、ある限度まで来ると借金などしなくなるものです。ましてや国となればなおさらでしょう。こんなに騒いで周囲の人たちに迷惑をかけるものとなるのでしたら、考えを改めるべきでしょう。それが知恵と云うものです。
     借金の限度を決めて、それを頑なに守ろうとする国で起きている事件ですが、オバマと政府与党の民主党、そして野党の共和党のこの問題に対する対応に大きな差があって解決の道が閉ざされたままでしたが、このほどようやく話し合いがついて、問題が先送りされた形で落着しました。米議会の上下両院が国債発行を容認する法案を可決したからです。つまり限度の引き上げを一時棚上げしてどうしても必要な借金を容認し、4か月後にその問題を論じようとすることになりました。つまり政府が国債を発行できるのは、向こう4か月間に限られています。その後は又同じような問題で混乱が繰り返される可能性がありますが、それまでに何とかこの財政問題について解決の道が開かれることを祈って止みません。並行して限度額を取り払ってしまうことも真剣に論議して、撤廃に持っていくことでしょう。片や小さな政府の実現に向けた真摯な努力を続けていくのがいいのでなないでしょうか。
     この問題を中心に、アメリカの議会対策でオバマも翻弄さていくつかの重要な国際会議にも出席できず、国内を混乱させ、対外信用を落し、尚、米国国債の信認を気づ付ける結果となり損害は計り知れません。債務上限の引き上げは来年1月15日にまたぞろ浮上して物議を醸すことになりますが、しかしそれまでに何とか道筋をつけて抜本的な解決策を作っておくべきではないでしょうか。下院で勢力を持つ共和党の中でも、ティーパーティーのように最近勢力を拡大してきていますが、特に極端な保守主義を標榜するグループがあってオバマの政策に強く反対しています。
    14年1月からは全ての米国人に保険加入が義務付けられます。アメリカの医療費がずば抜けて高いことは承知されていますが、そのために治療を受けられない低所得者層がアメリカの市民生活の不安定要素でもあります。全ての人が等しく、健康的な治療を受けられる社会の実現は、国民の正当な権利であり、政権の果たさねばならない義務であります。しかしながらアメリカ社会にとっても必須なこの種の財政支出に反対する市民も多く、共和党が再び反対の攻勢をかけてくる可能性があります。
    積年の課題である 「大きな政府か、小さな政府か」は、政治的哲学につながる問題として、新たな論議を呼ぶことになります。財政再建が、一つに歳出削減の問題であり、政府支出の削減を図り、行政機能の簡素化をめざし、市民サービスに寄与することが眼目であります。これは日本の場合とも共通するところです。債務引き上げの上限が再び論じられるまでに、混乱の起きないような抜本的な解決策をまとめておくべきでしょう。
    まずは今回政府・与党民主党と、野党共和党との間で期限ぎりぎりになって「国債発行の猶予期間が設定される」旨の合意がなされ、債務不履行を回避することができ、そしてまた政府機関の機能が2週間ぶりに回復したことは幸いでした。  世界の金融市場の大混乱は、多くの人の犠牲をもたらし、世界中で政情不安をかきたてる原因にしかなりません。オバマは我慢強く、土壇場で危機回避に成功しました。このところの内外の政治経済の活動についてもオバマのちょっとしたミスが、オバマ自身の求心力が取り沙汰されるように、政治日程が分刻みのスケジュールには違いありませんが、ギリギリの瀬戸際外交や手法が、あたかも窮地に追い込まれた印象ては、得策ではありません。この教訓をもとに、余力を絶やさず、これからの政局運営に生かしてもらいたいものです。    
     思うに、今の状況になって、債務上限など設けていること自体無意味であって、いっそのことこれを撤廃することに全力を挙げてみたらどうでしょうか。何度も同じことを繰り返して世界をおののかせていたのでは時間の無駄であって、いつまでたっても埒があきません。無駄にしてしまう時間をもっと建設的な論議に費やしたらどうでしょうか。たとえば、無駄を省いた行財政改革に一歩でも二歩でも踏み出して、歳出削減に乗り出してみることです。小さな政府、小回りの効く政府こそ、これからの政治課題であります。土壇場まで解決を見ずに大混乱した債務上限の引き上げの問題は、アメリカの政治の弱点をさらけ出したもので得策ではありません。そのことによってアメリカが被った損失こそ甚大であって、国内はもとより対外的信用の失墜など、はかりにかけたら馬鹿馬鹿しいことに気が付くはずでしょう。      10月18日


          今日から始まった国会論戦


     自宅に見えて所要を済ます客人がいたので、たまたま先ほどの九時から始まった衆議院予算委員会の質疑応答をテレビで見ておりました。質問に立ったのは自民党幹事長の石破氏であります。答弁に立つのはもとより安倍首相です。今や両巨頭ともいうべき人の存在感を示すだけに、その内容については明快,的確を得て、圧巻でした。この論議を踏まえて、これからの政権運営に邁進してもらいたいと願っております。二人とも健康には聊かの不安も感じないところは政治家としての自信にもつながるところですが、激務こそ身に応えることになる故、周りの人が気を配るといった配慮が必要であります。
     集中審議に似て、気力充実、白熱する議論にかんがみエネルギーの消耗、心身の疲労もあって当然のこと、健康管理にも気を置き、ストレス解消が目的ならいいのですが、不必要な飲食の会合は極力避けて、疲労はその日に抜き取るよう十分な睡眠をとることが肝要であります。ストレス解消のための飲み食い、歓談の席もありますが、さはさりながら、健康維持のために過労にブレーキをかけるを良しとして、私の拙い経験から敢えて進言するところであります。一般的にも貝原益軒が云うまでもなく、働き盛りの人にとっても充分な睡眠をとることは、簡単、安価で、一番の大切な健康法であります。
午後からは野党民主党を初め各政党の議員の質問が行われますが、安定した数もまた然り、重量感を以て現実的に対応する政府与党にとって逆説的に説得、主張しえる材料を得て、より強力な政策遂行にまたとないチャンスでもあります。国民にとって実効的な政策遂行に少しでも有益な結果をもたらすものであってほしいと、逆に又、野党諸君の批判のための批判ではなく、より建設的な議論となって、政府諸君の奮起を促す結果をもたらすものとなることを願っています。いずれにしても現在のところ岩にコップをぶつけるとまでは云いませんが、デフレ脱却に成功して三つの矢を放った安倍政権に世評は大きな評価を与えていることは確かであります。
    これからさき、経済の上向きは徐々に波及効果を発揮して既に企業業績に反映されてきており、賃金の上昇におよぶことも射程距離に入ってきているといってもいいのではないでしょうか。この現実をとやかく言う人もいないでしょう。 予算委員会の様子を見ていても、安倍さんに従って並んでいる大臣諸侯も、安倍さんの専らの孤軍奮闘のひとり舞台で、あなた任せの大臣席で実にのんびりしたもので、明るくなってきた世の中で天下泰平をむさぼっている感じの、まあめでたしめでたしと云ったところではないでしょうか。久しぶりに見た天気晴朗、波静かの日本の予算委員会であります。 10月21日

     自分のことでなく、人様のことを煩って心中穏やかならざる心境が立て続けのせいでしょうか、
このところ就眠中に胸の圧迫感を覚えており、夢を見ることが多く、睡眠不足で聊か体の変調をきたしております。加えて仕事も重なったせいでしょうか、一カ月前ごろからの気候の変動もあってくしゃみ、せきなどが止まらず、結果のどを痛め普段起きたこともない痰などが出てやまず、近所の耳鼻咽喉科に行ったりしていましたが、思わしくありません。長年お世話になっている慶応医大の菊池先生のところに行ったついでに症状を伝えて呼吸器内科の先生を紹介してもらいました。二カ月前に、造影剤を使ってMRIをとってほぼ全身を検査しているので異常がないことははっきりしていたのですが、念のため呼吸内科を通して、胸部検査をしてもらうことになりました。午前中からの診察で、心電図をとりさらに聴診器を当ててもらった結果、喘息気味の傾向が分かって午後の診察に続けて見てもらうことになりました。午後からの診察の循環器内科では胸部レントゲン写真を撮り、やはり聴診器を胸に当てて診察を受けました。胸に聴診器を当てて受けたのは久しぶりであります。幸いレントゲン検査の結果は胸の異常はありませんでした。医者からの処方箋による投薬をもらって、夕方に病院を出ました。
     私は小さいころから小児ぜんそくを煩い、これが大学を卒業するまで続いていたので、長じてから私独特の鍛錬もあって幸いに完治して、日常、健常な体を自慢するほどになったので、もし喘息が繰り返し出て来たとしたら大変なことだと思っていました。成人からの喘息は極めて厄介であり、体力を消耗すること甚だしきものです。そこで軽いうちにこれを消してしまいたいと思って、この二か月間ほど苦慮していたのです。たまたま那須塩原に出張した折にも、仕事でやってきた皆と別れて勝手に別行動をとり、林の中を出来るだけかけずり回っておりました。私はこの時、若い頃にとってきた自分の行動は間違っていなかったと思ったのです。地鎮祭に臨んでお祓いをしてくださった黒磯神社の宮司がいみじく申されていたことですが、これだけのいい場所に、これだけの広い土地を持っていること自体立派なことですと太鼓判を押してくださったのです。此の先の土地もずーっと向こうの疎水までの山林が続いてありますと云いました。綺麗な雑木林を見通して気持ちがおおらかになりました。畏れ多くもかしこくも、宮司殿を温泉に誘って大地の神々らしい話を聞きながら、他の土地についてもお祓いをして清めていただこうかなと、ついおこがましいことなども浮かんできました。近ごろは那須温泉に限らず、座敷にきれいどころを呼んでしっとりと酒を飲むような酔客が少なくなったようです。そもそもきれいどころがいなくなってしまったとのことであります。客人の質も大いに問われるところがあります。茶のたて方も、酒の飲み方も心得ず、ただ騒ぐばかりで、体が欲望をさらけ出すのみにて醜態であります。極めつけは一気飲みとか、カラオケ直通となって愚劣な終末に終わってしまうのです。
    その道の達人の言をもってすれば、落ち着いてみると小唄、端唄、都都逸、新内と云った喉ためし、つつみ、三味線増え、太鼓と云った小道具を使った粋な遊び方があって、これが洗練されていくと、こられまた世界に誇る日本の文化であってみると、最近は、昔からの伝統的な所作、作法を引き継いでいくような世の中ではなくなってしまったことが又さびしい限りであります。地方に僅かに残る郷土芸能にしても、祭りにしても、これを継承していく若者と、教育と云ったものが失われていく感じがします。機械化されて合理化された社会になると一層のこと、社会の発展に追いつくことばかり考えてしまい、ゆっくりとした乙な遊びごころが奪われていくような感じのする生活にならされて息が詰まるような毎日になってしまうようです。マスゲーム化された社会がはびこって、チャップリンの殺人狂時代の再来に身をガードしながら風の中を行く心境です。
     社会の進歩の中にあって医学的にも進歩の先端を突き進んでいく治療方法が多くの人を病から救済して、人間は多くの恩恵の中にあることをまず感謝しなければなりません。そうしたうえで現代科学の進歩から取り残されて、遠くから見がちな自然環境も又大切な要件であり、いかにホモサピエンスがそのたぐいまれなる恩恵の中に育まれてきているかを忘れずにいることが大切であります。例えば一例ですが喘息には昔から転地療法があって、これはかなり効果的です。そんな意識があるので、転地先での新鮮な空気を胸いっぱいに吸い込んで、その効果を最大限に活用しようと思ってのことです。最近とみに仕事が激しく重なっていたこともあり、又心身の労費が重なっていたことも事実であります。身体の検査と診察と治療を目的に、今日はそうした医者の各部門を渡り歩いて、一日が終わってしまい、オフィスに出ても時間の締め切りの状況とわかったので、信濃町からJR経由で自由が丘に電車を乗り継いで帰ってきました。会社や、オフィスに行かなかっのはこれが初めてです。どんな形にせよ一度はオフィスに顔を出さないと自分の責任を果たしたことにならないので、今日は今までのうちでも特別の日に当たります。
    そこで今日は午後の循環器内科の処方は、先ず4時から24時間継続の心電器を胸に装着して、自分の体がまるで機械人間のようでもあり、ロボットのような感覚で動いております。心電図を正確に計測するには、一日の生活、活動を通して記録することが、より確実であることに間違いありません。大事をとって事前に予防できることであればよいことであって、タイミングよく体の状態を検査、調査することが出来ました。血圧、血管、肺、心臓と云った臓器は、成人病を早くから食い止める大切な機能であります。心臓を緩急を以て活動させ、その結果の心拍数や血圧等を計測して、以後の治療の判断に供するものですが、このトレッキングはかなり過激な内容なので、もちろん医師の万全の注意を払うことは当然ですが、検査中に異常な事態の発生が無きにしもあらずなので、事前に本人の厳しい承諾書を取られることになっています。その検査中に起きる死亡の確率は千分の一と云われています。千分の一にあたってしまった人は気の毒と云うか、むしろ間抜けと云うしかありません。隕石に当たって死んだも同然です。
   そこで 横着せずに、こうしたチャンスを生かして事前に疾患を発見して早めに治療しておくことは健康維持と、日々の楽しい勤労のためにも肝要なことと思っています。 明日又24時間計測の心電器を取り外しに、病院に出向くことになっています。そのついでに今度はトレッドミル運動負荷の心電図検査と云う検査を受けることになっています。これは計測器具を体に取り付けてベルトの上をトレッキングしながら心電図をとる方法です。心臓を緩急を得て活動させ、その間の心拍数、血圧などの諸症状を観察して疾患を早期に発見したりして、尚データ化するものです。先生方の迅速な配慮で、徹底的に検査をして疾患があれば直ちに治療を施すということで、これを済まして異常を確かめておけばこれから先少なくとも誤った判断をしたりすることがないわけで,不安一掃の心境にて精神衛生上にも大いにプラスであり、自信を以て日常の勤務に臨むことができるわけで益することまことに大であります。 明日の検査を無事に終え、気分一新、たまたま誘いの手紙をもらっているので自分の一日の仕事の責任を果たしたあとに、銀座の店に立ち寄ってダンサーのパールちゃんに会うために一杯飲みに行こうと思っています。。
  10月23日

シリアの化学兵器

    アメリカの諜報機関によって早くから握られていたシリアの化学兵器の所在は、シリアの執拗な
隠ぺい工作が続かず不発に終わって、アサドに対しプーチンが、米軍の奇襲攻撃をを回避するためにも、世論に従うべきだと説得した結果にもよるが、国連の査察を受け入れざるを得なくなった。この点においてプーチンは極道もののアサドを化学兵器の所在を明かすべく説得したことは立派であった。願わくばもう一歩踏み込んでアサド退陣への花道をつけてやればもっと良かったであろう。別段欲をかいて云うわけではないが、アサドを話し合いによって説得しうる人物はプーチンしかいないことが分かった。シリアに軍地基地の提供を受けているロシアであるがゆえに、政治的圧力をかけられるのは目下のところプーチンしかいない。オバマ大統領も又、シリアのアサドが早くから化学兵器を保有し使っていたとして軍事行動を起こそうとしたが、戦争を嫌う世論の圧力にあって思いとどまった。このこと自体は正しかった。しかしアサドの凶暴さは白日の下にさらけ出された。
    イラクのフセインが少数民族クルド人に大量の化学兵器使って多くの虐殺を行なったのと同様、シリアのアサドも反政府側に対して化学兵器を使って女、子供を容赦なく虐殺していたことが明るみになった。この蛮行を許すことはできない。これをしきりに擁護してきたのがロシアのプーチンであり、中国の習近平であった。大国の威厳はおろか、指導者の人品にかかわる由々しき問題として、世界の歴史に汚点を残したことになる。政治家としての識見と品格の欠如にかかわる問題でもある。そもそも政治家に識見と品格などあるはずがないと云ってしまえばそれまでだが、権力の行使を委譲している我々としては、国民にとっては、それでは困るのである。しかしよくよく考えてみれば、中国は然りロシアにしても半ば共産国であり、通常我々が当然と思っている民主主義国家でなく、一党独裁政治が敷かれている国に過ぎない。民衆の意見は遮断されているも同然だからである。言論の自由を以て民意をくみ上げることができない国家である。民意が分厚い官僚主義によって遮断されてしまうので、暴動などが実際に起きてみないと指導者に通じない国家である
    安保理で,シリアのアサドの反人道的な行動を糾弾しようとする行動が妨害されてきた、そうした困難な状況にもかかわらず、化学兵器禁止機関と、国連の合同派遣団の調査の結果が、国連の安保理に提出された。それによると化学兵器の関連施設が23か所であり、化学兵器はサリンなど推定1300トンにおよんだ。いま、シリアは内戦状態なので廃棄に向けた作業は、扱い方によっては危険をはらむもので、万一の有毒な化学物質の拡散の危険もあるので迂闊に手を出せない状態である。イラクのフセインもそうであったが、シリアのアサドも冷血非情な性格だから、こうした人物を一国の政治の舞台に残しておくわけにいかない。内戦終結に向けて、政府側の軍需施設や物資の輸送ルートの壊滅をはかり、アサドの戦闘能力を喪失せしめないと、民衆の犠牲は更なる拡大につながり、悲惨である。反政府勢力の戦闘能力には限度がある。こうしたさなかでも戦闘状態は続けられたまま、多くの犠牲者を出しているのである。
    国連の活躍舞台をさらに強固なものとして、内乱に巻き込まれている民衆を困難、悲惨な状況から一刻も早く救い出さねばならない。そのためにも米欧の強力な軍事支援と攻撃を以てアサドの首を政権から外さなければならない。極悪非道の独裁者がいる限り、多くの民衆が毎日その吸血鬼の犠牲になっていくのである。捕捉するか、退陣させるかであるが、アサドの断末魔の姿は目前である。早くしないと更に何の罪もない多くの民衆を困窮の底に叩きつけ、沢山の死者を荒野の砂漠に投げ出す結果になってしまうのである。国際社会がシリアのアサドに対してこれ以上に何の打つ手もないとしたら、正義の味方、アンパンマンが大空たかく飛んで行って、アサド攻略に行ってもらうしかないだろう。         10月30日

2013.10.02

社団法人 昭和経済会
理事長 佐々木誠吾


copyright (c) Showa Economic Study Association サイトマップ プライバシーポリシー お問合せ