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社団法人昭和経済会

理事長室より
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理事長室より

Vol.15.06

    


      初夏の盛りに 熱い国会論戦

麦の穂の黄金になびきひろらかに空にひばりのさえずり高き

今年も早や六月に入った。生まれ故郷の浅草に夏を告げる三社祭が一週間前に終わって、祭りのあとの寂しさをそこはかとなく感じていたが、月が替わってしまうと、そうした感傷的な気持ちも薄らいで、これから迎える猛暑の躍動感があふれ出てくる感じである。見上げた空にはもくもくと沸き立つ白い雲が、勇壮な夏の訪れを告げている。今年の暑さは異常気象の仕業と云われるほどに、五月だというのに30度を超す真夏日が一週間以上も続いて、記録的な暑さがすでに始まっている。こうした折にも南は鹿児島県の屋久島町、口永良部島の新岳の火山が、猛爆発した。噴煙は上空九千メートルに達した。繰り返す噴火で噴煙が上空高く上り、吹き出る真っ赤なマグマが湯釜に見られるように、生きた地球の活動期が、とりわけ日本列島の随所にみられる。生きている火山が、この狭い列島に五十か所以上もあるという。これでは日本の地表が熱いわけである。いち早く危険を避けて、大方の島民が用意されたフェリーで屋久島や鹿児島県に避難し、ひとりの犠牲者もなく済んだことは幸いであった。日ごろの訓練の成果であると高い評価を得て、いざと云う時の模範的な事例である。マグマが直接噴き出す火山性噴火と云われているが、火山性水蒸気爆発と云う見方もある。大量のマグマが四方に流れ出して、海岸にまで達している兆候である。爆発がいつ終息するかわからず、長期の避難生活を余儀なくされる見方もある。
  先週の土曜日の午後8時42分には、東京をはじめ関東地方に震度5の地震が起きて、日本中がゆらりゆらりと揺さぶられた。振動周期が結構長く感じられたが、震源地が深かったために広範囲にわたってのんびりとした揺れが広がったらしい。震源地の深さも最初は470キロと発表されていたが後に509キロ、さらに618キロと訂正されるほどに、漠然とした数字であった。地震の規模を示すマグニチュード8・5は、プレート内部で発生した文字通り巨大地震である。巨大地震の揺れに乗って、この時私は何だかハンモックに寝そべって緑陰を楽しんでいる時のように悠長に感じていた。それと云うのも、日中、夏野菜の手入れと土起こし、それに庭の手入れと掃除に終日働きずくめだったので、夕方風呂に入り、綺麗になった庭と、庭畑を眺めて椅子に腰かけて夕涼みをたのしんでいたが、いつの間にか寝こんでしまっていた。日中の日照りと暑さは、灼熱の度を増して、肉体労働に汗を流していた後なので、快い解放感に陶酔の境地で居眠りを満喫していたのである。その後の夕食にビールを飲み干して居間に寝転んで、のびのびとしていた時の地震だったので、まるで揺りかごに居るような感じでいたのである。テレビの速報を見ながら、地震に弱い日本の交通機関であるが、新幹線をはじめとして一般の交通機関も一斉に止まってしまい、いつもながら復旧には時間がかかってしまい、現場では多くの混乱を生じる結果となった。足止めを食らった乗降客たちは閉口気味であった。
世の中が騒がしく感じるのは、何も天変地異のことだけではない。国会で論議されている重要な安保関連法案の集中審議に見られるように、与野党の論戦が白熱している。世の中が、世界が激しく動いているだけに、安閑としていられないのは事実で、それに対応した政策立案と、準備と、実行が必要になってくる。問題は実行する段階で、日本国と日本人にとって何が利益し、何がリスクとなって負いかぶさってくるか、その法案の審議をするなかで明確かつ正確に議論し、過ちの無きことを期さねばならないのである。まやかしや、一時逃れの論議であってはならない。今、中国が出鱈目な海洋進出を図って船だけでなく、サンゴが生育する岩礁を破壊し、浅瀬を埋め立てて、軍事目的の島の造成に血眼になっている。力による現状の変更や、周辺地域の秩序破壊で、動向を懸念し、警戒を強める米国をはじめ、周辺諸国に緊張をもたらしている。一方で中国は、アジア投資銀行なるものを作って世界に資本参加を呼び掛けて国際協調の姿勢を示している。この二面性がどうも解しがたい。何しろ13億からの人民を統制しなければならないから、中央と地方との連携や、政策の伝達が円滑にいっていない、国家体制の未熟さがあるかもしれない。中国も北朝鮮も、軍事優先で、一党支配の独裁政治であることは共通しているので、良し悪しに係わらず、暴発されることが怖いところである。民主主義国家との根本的な相違である。  
   民主主義の徹底した我が国の政治についても、油断は禁物である。権力の座にあるものは、鶏も自分の糞の上では王様であるとの故事名言ではないが、つまらぬ人間は自分が一番偉いと思っているのが大方である。ましてや、権力の座にあるものはなおさらである。それと一緒であって、いつ豹変しないとも限らない。安倍さんの座っているところがくそだとは言わないが、座る人物が鶏だと名言が的中してしまうことになる。鶏は三歩歩くと忘れてしまうということもある。すべてのことについて答えなければならない安倍さんも大変だが、何しろ1億2000万人の国民の生活が懸かっているから仕方がない。鶏群の一鶴、安倍さんの基本的姿勢である平和的政治の手腕、積極的平和主義の貫徹を願っている。

   国民のためにある国会、その国会のテレビ中継をつぶさに見、聞いておくべきであるが、自分の仕事の関係もあって、なかなかそうした時間が取れないでいるのがもどかしい気がする。自分がやれない代わりに、君たち国会議員を信任し議論を以て託しているのであり、そのために税金を払っているといっても過言ではないのだから、さぼっていたり、手抜きをされたりしていては困るのである。目先の事象にとらわれて、明らかに法律の根幹を犯すようなことになってもいけない。だからしっかりと監視の目も怠らず、新聞やテレビニュースからニュースソースを求めて自分なりにはっきりした見解を持つように努めている。
   いやしくも与党の答弁を聞いていてもおかしいし、矛盾をさらけ出して答弁になっていないし、安倍さんが質問者に対し仮に、早く質問しろよといった、的屋がまいのヤジを首相席から飛ばしたからと云って、野党の諸君が国会軽視と叫んで質問をボイコットして議場を退場していったら、それこそ政府与党側の思う壺であって、法案審議は単独で進められていってしまうことになる。それは知る権利を持つ国民にとって、置いてきぼりを強制するものであって、国益に反することである。今の野党の諸君には、そんな旧態然とした国会戦術を取ってもらっては困るのである。徹底的に論議を尽くし、国民の利益優先で国会の審議を進めて行ってもらいたい。多忙から出た焦燥の念で、品の無い野次で応戦した首相と、冷静に質問をする野党諸君を見比べたら、おのずと明らかである。野党の諸君の質問によって、政府が考えていることはどうもおかしいのではないかと云った点をあぶりだすことによって、間違いを正す結果にもなるし、政府の諸君は、難しい回答をしながら場合によっては、自分のしていることがどうも狂い始めているということにも気づいてくるかもしれない。要は子供だってわかる問題である。わかる問題をことさら難しく組み立てて、判らなくさせているとしか思えないことも沢山ある。否、全てそんな感じである。
   どちらかと云うと,今回の安保関連の法案と、集団的自衛権の行使に関する法案は、他人の喧嘩にわざわざ入り込んで、自分が当事者になって殴られたり蹴られたりして満身創痍になっていくような面もあるので、国民としては心配である。なるべくだったら危険を冒す行為は避けたいというのが人情である。利己主義に走るわけではないが、できるだけ自分の精力を消耗しないように上手に、利口に振る舞うべきなのに、頼まれもしないのに好き好んで他国の紛争の仲間入りをしたがっているようにも感じる。他人の喧嘩に割って入り、大きな傷を負ってきても何のとくにもならないし、馬鹿じゃないかと云われても仕方がない。その前によく考えて知恵を出し合ってみたらどうだと、助言してやる手立てもある。抑止力も効果もそうだが、その前にある話し合い、それが外交と云うものだ。国際社会でもそうだし、我々の社会生活でもそうであるように、決して自国のみで生存が確保されているわけではないし、自分だけで生活が成り立っているわけでもない。お互いに依存し助け合っていく関係にあることも十分わかっていることである。それでもなおかつ、余計なことに口出ししたり、手出しをしたりして毛嫌いされたり、あらぬ傷を負ったりすることもある。国会でいろいろと論議されている問題に、そう言った矛盾をはらんだりしていることはないだろうか。甚だ疑問である。
   他人の喧嘩を傍観するわけではないが、わざわざ他人の喧嘩を買って出ていくこともなかろうに、わざわざ無理やり理由づけて、言いがかりをつけて喧嘩の仲間入りに割り込んでいくのと同じで、所詮、全く意味がない話になっていってしまう。 集団的自衛権の行使にしても、後方支援にしても、どこまでが範囲であって、どこまで及ぶのか、つまり誰が敵であって、どこまで攻撃するのか、自衛隊の判断が、戦場の戦闘員が、リスクを負っていかなければならないのである。隊員に生命のリスクがないとは言えない。戦場は所詮、敵味方に分かれて相手が打ちのめされるか、白旗を上げるま撃ち合いになる。さもなければ自分がやられてしまう。ましてや、集団的自衛権なる法律は、同盟国が襲われているのを助けなければならないし、自国の存立が脅かされると判断した時には敵国に攻撃を仕掛けると云っているのだから、これは戦争である。正しく判断するのは政府であり、軍隊では上官の命令である。当然犠牲者だって出てくるだろう。総合的に見て、これはもはや憲法第九条に抵触する。

いついづこにもしれもののばっこしてうちあひのあといのちおとせり
たたかひのすきなやからがあまたゐてすえはならくへみなおちにけり
さっしょうをみるはよしともかかはりをきらふかたぎはふつふなりけり
なにかにといひあふうちにけんぽうのいはんにきづきあはてふためく
おろかなるしぐさにあけてくりかへしひとをあやめてうちはてるひと
せんだつのけんぽうせいしんにそむきつつわがくにたみをだますなかれと
へいわしゅぎみんしゅせいじをりねんとすわがくにけんぽうをまもりゆかんや
とっこうにひとりむすこをおくりだしそのごのはははいきてさりしも
ひめゆりのたうをたづねておとめらのれいをなぐさむすめらぎのたび
たたかひにわかきいのちをおとしめしあまたのたまをいまにわすれじ
おのがためあまたのたみのいのちをばうせしむせいじをくひてやまざる
げんばくのひがいにあひしとものゐてわかくゆきしはくちほしきかな
ひろしまのひばくにあひてそののちのやまひをいまもかたるともあり
はるさめのおとにめざめてさよなかのゆめにげんばくのせんこうをみん
ひのなかをくぐりにげゆくしょうねんのやかんくうしゅうのみとのまちなか
ヒットラーととうじょうひできとくるひものいでしじせいのおぞましきかな
イスラムてふわけのわからぬむれがいでひとをあやめてよをみだしおる
さはあらむぶつよく、せいよく、きんよくと、しはいひよくよりせんそうへゆく
あさのひにかがやきそむるふじやまのけだかきみねのひかりはなてり
わらべらののはらにあそぶたのしさにいきるまことのみちをまなべり

   集団的自衛権の解釈でも、拡大解釈が行なわれて、いざ緊急事態と云う時の、迅速な攻撃が必要な時に、はずみで行く可能性があることが、即リスクにつながっていくものである。米軍の友好国Bが、敵Aの攻撃を受けている時に、米軍がこれに応戦している。米軍の対応が不足し始めているとしたら日本が援軍を送ることになる。そんな時戦況の変化で米軍が作戦上すり抜けたときに、即ち撤退した時に、日本が取り残されてBを守るるために一時Aとを敵国と想定して戦闘状態になる可能性がある。敵国Aはもともと日本とは敵対関係になかった。なのに相対する戦場となった。また別の考え方からすると、自衛のためと称して、実はそうでない場合が生じてくる。他人のしでかした戦争に、地球の裏側に入ってまで参加することになる。他国が互いに戦争しあっている中に無理やり入って、自分も加担していくことだってある。自国の、国民の生命が脅かされる動きがある場合に、専守防衛と称して、相手方に攻撃を仕掛けることも出来る。相手側が日本に対しては攻撃する意思がなくとも、同盟国が攻撃に晒されていれば、自分の国に攻撃を仕掛けたとして、その国に対して日本が攻撃することだって可能になる。 戦争だからはずみで、実際にはどこまで拡大されていくかわからない。法案的には重要影響事態と称するもので、どこまでを重要影響事態と認識するか、どこの地域まで拡大されるか、これが問題である。とにかくわからない言葉が多すぎる。真面目に論議しているようだが、これを以てまやかしであり、これを以て屁理屈と云うのである。戦争の好きなやつは、どんな危険を冒してもやりたがるし、常軌を逸して行きたがる。これは人間の半ば避けがたい戦闘本能である。好きなやつには好きなようにさせておけばいいのだが、国同士となるとそうもいかない。そのために前以て準備をしておくこと、抑止力を期待することが出てくる。自国の安全と存立のためとは言いながら、そのための戦争行為を、時期と、地域と、規模において、どこかで歯止めをかけておく必要がある。今国会で論議されていることは、簡単に言えばそうしたことなのである。 仕掛けられても、仕掛けても困ることゆえ、兎に角、戦争の惨禍をこの国にもたらしてはならない。屁理屈なしで、額面通り受け止めて、日本国は安倍さんが世界に提唱する積極的平和主義で臨みたい。これこそ政治家の崇高な理念として、おのおのがたが、肝に銘じ、胸に刻んで努力願いたい。

書にてがく学童疎開の天皇の平和国家建設とあり
雄渾の書体をてがく天皇の気概を示す少年のころも
戦争の惨禍のあとの七十年平和国家を目指す我が国
心境の書に少年天皇の平和国家建設とあり
人の世の政治に悪制を敷くものの地のそこここにありておぞまし
軍国の優先政治に北専の民は貧しき日々にあへぎぬ
日本の平和憲法の精神を広め母国を崇め見るわれ
大観し戦争の無き世の発展を期す我が憲法を守りゆかまし
天皇の続く慰霊の旅のそら即平和国家建設の道
尚つづく飲まず食わずの戦場に命を落とすこの矛盾とは
明らかに憲法九条に抵触す安保関連法案の議
原爆の唯一被ばくの日本の核廃絶は悲願なりけり
安倍さんの云ふ積極的平和主義そのまま強く歩むこの国
さまざまな誘惑に克ち戦争のなき日本を築きゆかまし
集団も個別も敷かず戦争を断ち平和への道を拓かん
顧みて武器よさらばの上映に少年時代の思ひいまだに
                              6月2日                続



         憲法学者の意見

  安保法制審議会で 与野党が それぞれ憲法学者を呼んで意見を聞いた。自民党推薦の学者、民主党推薦、維新の党推薦の学者三人である。現在審議中の安保関連法案について、三人の学者が全て憲法違反だと云い切った。びっくりしたのは、この法案の推進を図っている自民党である。
   憲法学者を呼んで聞くまでもないことだが、大方の国民は、憲法第九条違反だと承知している。小生も6月2日にいささか恥らいながら、一国民として安保関連法案について拙見を始めて述べてみたところであるが、たまたま6月4日の公聴会でかかる論議がなされてわれながら驚いた始末である。それにしても波紋が大きく広がって、さらに国民の意識を高めている。子供でも判ることとも述べたが、明らかに憲法第九条に違反していることを、国会ではそうでないとする自民党と、そうだとする野党の間で、喧々諤々の議論を交わしているので、どうしようもないことだと考えていたところであった。内外情勢にお変化もそうだが、緊迫性をあおりながらの論議は、余りにも胆略過ぎるので、ここは慎重に考えるべきである。黒を白と言わざるを得ないような、窮鼠猫をかむような左様に事態は深刻化していることも、一方で感じ取ることが出来るのである。何とかしてつじつまを合わせようとする自民党の言い分であるが、そもそもできない話を無理やり押し込もうとする、ごり押しとも受け取れる考えだから、議論の上では既に敗北していることなのである。中に立った感じの与党の公明党も、苦し紛れの対応で切り抜けようとしているのがありありである。 憲法違反であるという認識にたって、それではどうしたらいいかと云う議論に転換を図っていった方が現実的ではないかと思う。憲法のハードルが高ければ、その解釈をクリアする方策を考えるべきである。政府の出過ぎた行為を戒めて、禁じるために憲法があるのであって、それをないがしろにすることは立憲主義に立つ国家としてはできない相談である。集団的自衛権の必要性は高まってきていることも事実である。それを否定するつもりはないが、だとしたら先に憲法改正の論議を尽くして、国民に信を問うべきである。順序のあとさきを間違えている。憲法解釈を恣意的にする風潮こそ、問題視されていることなのである。
   経済が順調に回復し、安倍さんの信任が厚くなっているので、うかつな行動に出て人気が剥げてきても困るような気がする。国際政治のかじ取りが難しい段階であるが、一方で中国指導のアジアインフラ投資銀行の設立もあって、国際間の経済的連携が進んでいくことになれば、政治的解決が優先して、軍事的対立とか、衝突がいかに無駄なことが分かってくるはずである。国際的友好関係の先に、例えば問題となっている中国の一方的な海洋進出に対する警戒感が薄れてきて、話し合いの場を広げる契機を作る更なる努力が必要になってくる。たかが中国の海洋における浅瀬埋立てが進んでいるからと云って、日本国に莫大な経済的負担と、万が一にも自衛隊の海外派兵につながるようなことになれば、事は平和主義、戦争放棄の大転換になって穏やかでない。負担を強いる安保法制の成立を薦めようとすることも無益に見えるし、日本は第二次大戦の敗北で貴重な教訓を得た。そして戦後70年を経て、憲法九条の戦争放棄の条文を堅持して、経済復興と発展に努め今日の平和福祉国家を築き、内外に宣言してきたのである。そうした貴重な功績は、これを崩すことなくこれからも堅持、死守していくことが将来の世界情勢を分析推進するために重要な手立てになってくる。

ゆるぎなき日米同盟の堅持にて戦後70年の経済の立つ
経済の政策運営に抜群の安倍政権の意義これにあり
経済の好循環に乗りし今打ち出せ所得倍増の道
国会が呼ぶ参考人の学者より安保法制の違憲との弁
戦場に立つ状況は殺傷と向き合ふ没価値、没人間性にて
       6月6日


梅雨入り

あづさいの咲くしもたやを探し行く小雨降る日の墨東の町


お天気の予報官によると、関東地方の梅雨入りは今日から始まった由である。解説はされていないが朝日新聞の夕刊を見ると、一面の右下端に6月8日9時現在の天気図が載っている。それを見ると、梅雨前線が東西長く延びて九州地方にかかっており、このため九州から四国にかけて既に梅雨入りしている。前線がこのままゆっくりと北上してくるので、関東地方でも夕方から雨が降り出して、今夜半から明日にかけて一時激しい雨となるらしい。これから約一か月間ほど毎日のようにお天気が崩れて、うっとおしい雨模様となって、通勤の足元を煩わすことにもなろう。このところ日本には外人観光客が沢山訪れているので、なるべくだったら雨は夜なかに降ってもらい、昼間には陽が差して、遠くから来たお客さんたちを楽しませてもらいたいと願っている。
   拙宅の近所には、大きく花の房を付けた紫陽花の花が沢山咲いているのを見かけているが、梅雨入りに咲いている紫陽花の花には、ひとしおの風情が味わえて楽しみである。紫陽花の花は、梅雨の時期を告げる花である。咲いている間に花の色が七つ変わりするというほどに、移ろいゆく色の味わいには、限られた花の生涯を通じてそこはかない感じがしてくる。鎌倉の明月院に行くまでもなく、近くの九品仏境内に咲く紫陽花の花には、しっとりとした風情が沁みていて、雨つゆに濡れたむらさきの花が見る目にも鮮やかである。どこにでも見られる花だが、鎌倉の明月院に紫陽花を見に行ってきたと云うことを聞くと、どことなくしっとりとした情緒が窺えられるから不思議である。箱根のフジビューマンションに行くときには、東海道を小田原から箱根湯本に出て、登山電車に乗っていくコースもあるが、今の時期、登山電車は紫陽花の花のなかをゆっくりと通過していくことになる。線路の両側の長い堤が隠れるくらいに続いて咲いている紫陽花に触れながら、登山電車に揺れていいくのも又、何とも言えず、優雅な風情である。やかましい巷の騒音を避けて、しばらくの間、紫陽花と一緒に静かな梅雨の間を楽しむこともあってもいいのではないかと思う。今年は箱根大涌谷で火山性噴火の兆候があって、箱根全体がいかにも危ないかのように思われがちだが、決してそうではない。火山活動を鑑識する専門家によると、危険区域の指定も大涌谷の噴煙地の半径300メートルの立ち入り禁止となっているくらいである。登山電車の花見客も減ってしまっているようだが、電車から見る紫陽花の楽しみは大平台駅辺りまでだから、心配無用である。箱根温泉街は緑豊かな自然の宝庫に囲まれて、日本有数の景勝地であり行楽地である。フジビューマンションの建つ長尾峠に立って当方の景色を眺めると、古代に大噴火した後のカルデラの原形をとどめて、眼下に箱根全体を展望することが出来る。文字通り、箱根の全容が広々とが眼下に広がっている。その一部、箱根の又ほんのわずかな一部の赤茶けた山肌が、大涌谷の源泉地であったりする。 片や、長尾峠のトンネルを抜けると眺める先は荒漠たる大地に聳え立つ富士の霊峰である。これからは蕭々として煙るような霧雨の中で、あたりの景色はむしろ音のない沈黙の世界に寝静まっているに違いない。静かに降りしきる梅雨の雨に、今、紫紺に染まった紫陽花の花が趣きを添えて感傷をそそるのである。  続


あじさいの鑑賞

あじさいの味はひ深く色増して小夜の小雨に迎ふ朝かな
降りしきる雨の三日の過ぎしのち艶めき染むるあじさいの花
あじさいの薄桃色に咲きしのち濃きむらさきに移る今朝かな
きりさめに紫陽花の濃く色そめてともる夕べとなりにかるかな
きりさめのそぼ降るあした紫陽花の咲く尼寺にひとり訪ね来
鎌倉の明月院に行かむとや妻が誘ひぬ小雨降る朝
あじさいの花咲くみちをゆく女のさりげなくさす傘のゆかしき
降りしきる雨の三日の過ぎしのち艶めき染むる紫陽花の花
あづさゐの咲くころあひに思ひけむ別れしひとの姿にもにて
あづさいの移ろひやすき花のいろ別に七変化と人の申して
ひとめさけ咲く紫陽花の花の色今朝べにいろに納屋の裏かな
ひそやかに雨に染まるるあづさゐの夕べの色の濃むらさきかな
あづさゐの咲くしもた屋と教へらるおとなふ人の住まい聞きしに
あれ草の屋敷にあはれ紫陽花のあるじの今は去りしあとにて
尼ひとり小雨の庭に立ちてゐる未練のひとの影を慕ひて
いろあひのさまざまに映ふあづさゐの濃き紫の時に降る雨
金持ちの宅にも貧乏の長屋にもひとしく咲きぬ紫陽花の花
あじさいに降りしく雨のつややかに紅むらさきに染め替えへにけり
あづさゐを切りて素焼きの壺に活け置く床の間のゆかしかりけり
人知れず咲く紫陽花の花の色夕べの雨にうなだれて咲く
あづさゐの競りにかけたる一鉢を芸者が落とし買ふていくなり
うなだれて咲くあづさゐのひと房に語りかけたるヴィオロンの歌
しもた屋の庭先に咲く紫陽花の雨に打たれて土に汚れり
あじさいのいろの日ごとに移りゆく女の心もあはれなるかな
あづさゐの手まりの丸く咲きたるを手折りて家に持ちて帰りぬ
あじさいの鉢をいくつも置くきて売る浅草植木市の梅ゆどき
いずこにも咲くあじさいのそれぞれに趣きありてみるもゆかしき
あづさゐの趣あはせそれぞれに持ちまへ生かしかなげなるかな
あづさゐの紫紺の色に我が全て引き込まれゆく時の不思議さ
紫の花をあしらふ浴衣着て湯上りらしき乙女色めく
花びらをまろく丸めて愛々しあじさいの咲く尼寺の庭
あじさゐを一輪挿しにさしておく宿のおかみのけしきおぼゆる
緑陰の隅に植えたるあづさゐの昔妾宅の庭に咲きたる
ふるさとの浅草にきて紫陽花の花置く茶屋に入りし宵かな
花街の通りをいろふあじさいの鉢にすずしき打ち水のあと
小雨降る夕べに妻と傘さして咲く紫陽花を見にもゆかむや
                                          6月8日

中国指導のアジアインフラ投資銀行の設立


  日本、アメリカ、カナダを除く世界の57カ国が参加することになった中国指導のアジアインフラ投資銀行の設立が世界の注目を浴びている折、設立協定の内容が明らかになった。それによると、資本金は1000億ドル、日本円で12兆3000億である。そのうち75%アジアや中東地域内の国々が出資し、25パーセントを欧州などの地域外の国々が拠出することになった。中国は25パーセント超の最大出資国となって最大の議決権を得、重要事項を決める際の拒否権を持つことになった。
  出資額は各国の国内総生産・GDPなど経済力を基に算出されている。結果、中国は297億ドル、約3割弱で最大である。中国の世界経済に力を誇示する姿が如実である。例えば国際金融機関・IMFのアメリカの出資額は17・7パーセントであり、アジア開発銀行の日本が15・7パーセントと比較すると今回の中国の大きさはダントツである。更に総裁には中国財務省のOBが就任する予定である。中国色を深める今後の運営が焦眉の点である。
  運営については透明性が重視されるが、ほかにも懸念すべき点がいくつも挙げられている。各国は今後策定されるプロジェクトや融資基準など専門的な問題点をあぶりだして、公明性を重視したいところだが、既存のアジア開発銀行や、世界銀行などの水準をいかに保てるかが注目されるところである。設立の趣旨は明白であり、アジアの貧困の解消と経済力の向上を促し、且つ経済社会の後進性の是正を図って生産力の近代化と力を高め、交易拡大に寄与することであり、その時代的意義と力は大きなものがある。既に上位出資国の中国を出頭にインドやロシアが運営の中心となる理事の選出を果しており、12人の理事の配分の状況も大いに関心のあるところである。経済力を世界に拡大する中国の布石であり、これからの世界経済は中国の動きについて、基礎と体制がはっきりと構築されるまで目を離せない状況が続くかもしれない。
   一方で、大規模に浅瀬を埋め立てて海洋進出を図り、現状秩序を力を以て一方的に変更しようとする行動を戒め、専ら軍事大国に傾斜しない民主化への努力をしてもらいたいものである。このAIIBには、出来るだけ早い時期に日本、アメリカ、カナダなどが参加して、運営の近代化、民主化に協力、寄与すべく、適切な時期を選択する必要がある。中国の独断的運営を注意するためにも、又、世界が経済的結びつきを強化することによって、紛争解決のための大きな手法を選択する道筋を作っていくことになるからである。
 
共産主義的社会主義の金科玉条とするマルクス主義の学説の神髄を為すものは、かの有名な階級闘争による社会的構造論である。経済的、生産的諸関係の下部構造の発展が、政治的、、思想的、文化的なあらゆる精神的産物としての上部構造を変容構築していくという発展過程である。即ち、人間社会のあらゆる要素は、この経済的生産的システムによって決定されるという理論である。だとすると、国際的な連携のもとに構築された経済的、生産的諸関係は、国際的な政治的、思想的、文化的な上部構造を一様性をつくりながら構築していくことになるだろう。その結果、今回のような国際的な連携によって打ち立てられた経済的生産的諸関係、即ちその原動力たるAIIBこそは、一様にして国家間の差異を解消していくだろうし、国際的なスキームを漸進的に構築して、対立、抗争の無い社会に育て上げていくことが出来るはずである。一定の下部構造に立てば、それに対応した一定の上部構造を作り上げることが出来る。逆手に取るわけではないが、大きい観点からものを見て判断する必要がある。それは政治家の判断である。 ふと思いだしたことだが、大学時代の青臭い書生気質で読みかじっていたマルクスの本の中に、唯物史観の合法性の一端を見抜いたものである。それまでの意識が存在を決定するのではなく、存在がが意識を決定すると逆転的発想をしたマルクスに熱を上げる青二才が沢山いた。そして矢鱈赤旗を振った東大や早稲田の諸君が仲間にいたものである。マルクスは老年の思想も変えて、今AIIBを通じて唯物史観を駆使して、逆転の発想を大胆に発揮すべきことを、安倍ちゃんと、オバマちゃんに諭しているのである。この好機をつかまない手はない。逆的発想で、思想を変えるには、生産的諸関係を変える以外にないというわけか。だとすればこのアジアインフラ投資銀行に参加して、欧米型民主主義の精度と手法を適応して、下部構造の生産的諸関係の基礎を確立し、上部構造である政治、思想、制度、文化、芸術と云った社会生活のスキームを規定しつつ社会を変えていくことが出来るわけである。そのためにも緊密な経済諸関係の機構に参入して質的変化をもたらす努力をしなければならない。
   終結的には戦争を回避し、国家間や民族間、そして広くは宗教間に於いても一つに収斂していきながら、巨大にして一様性を成就して、抗争、対立の無い社会を理想として掲げていくことにもなる。そうした意味合いからも、経済大国としてのし上がってきている中国の思惑に対して、聡明な判断をして、大局的な見地から日本も、アメリカもこれに参加してスキームに確たる地盤を作り上げることが必要である。喧々諤々の集団的自衛権の、行使を容認しない社会の構築も実現できるかもしれない。発想の転換こそ、時代の盟主たる状況を作っていくことになろう。      6月17日

日韓友好関係修復の好機

  戦後、日本と韓国が国交を正常化して50年を迎えた。しかし、今日に至るも相互理解が得られないままにぎくしゃくした半世紀が過ぎたのである。しかし、ここにきて両国の首脳の間に冷静な、且つ聡明な判断が俄かに作られつつあることは画期的決断の現れと評価したい。歴史的な節目となる両国の国交樹立以来の、この時をとらえ、両国間の悪化を食い止めないことには、これから先両国の友好関係の構築をけないばかりか、悪化の一途をたどるに違いと云う心配が、日韓両国民はもとより、政府高官の間にも真剣にとらえるようになり、落ち着いた良識が広がったきた様である。めでたいことである。そうしたこともあってか、今日の日経平均が大幅高となったことは、記憶にとどめててもいいのではないだろうか。
  歴史問題を含め、余りにもこだわりすぎた解釈の披歴が、両国にもあったようである。振り上げたこぶしを勝手におろすことも出来ずに体面を気にしすぎて、お互いが意地を張りあってきた幼稚な子供のようにも思える。胸襟を開いて話し合えば簡単に済むことである。一刻、国民の信託を得た指導者がそんな他愛ないことで騒ぎ立てて、しまいには国家間の紛争までに発展して、手が付けられないほどに傷口を広げてしまうことだってある。一番近い隣国同士である。狭隘な気分を捨て去り、大乗的な見地に立って状況を判断しないと、時間を無駄にして長きに亘り無益な対立に巻き込まれて、挙句に大きな犠牲をもたらすことにもなる。そうしたことはこれまでの幾多の歴史が教えるところである。そうしたあとの犠牲を蒙るのは、何の関係もない善良な国民なのである。指導者はしっかりした判断と勇気を以て、国民のための政治を行って行ってもらいたいものである。歴史認識についても、日本は過去に於いて謝罪を繰り返し述べている。それもあまり執拗に迫られたりしていると、感情的になりがちになってお互いによくない結果になる。それよりも未来に向かって新しき世代を展望しつつ発展的関係を構築していった方が良い。国の事情もあるかもしれないが、国のトップに立つ者同士がいつまでもいがみ合っていては、良好な結果をもたらすことはできない。そうでなくよも、韓国は祖国を南北に分断されて、それとの対立が先鋭化して、常に軍事衝突の危機をいまだに続けてきている。そうした現実的な見方をしても、近隣諸国との友好関係を築いていくことは喫急の課題である。
   そうしたことを踏まえて、この度の日韓国交50周年記念祝賀会が、両国において期せずしてそれぞれ行われ、日韓首脳がそれぞれに出席して、祝辞を述べあうことが出来たことは、両国民の冷静、的確な判断と良識が勝って得た勝利の結果である。今までのような相手を非難することばかりやっていたのでは、いつまでたっても埒が明かない。慰安婦問題がいつまでも尾を引いているが、臭いものにふたではないが、何度も蒸し返されていると気分が悪くなるようなことは、お互いにとって決して利益にならない。広く考えてみても、国民としての品位を落とすことにもつながってくる。一方は戦後処理は済んだというし、他方はまだだというし、云いあっている両方に面子もあることだ。こうした時はお互いが勝ち負けを決めるのではなく、歩み寄って常識的に考えて手を打つことが肝心である。とにかく接して話し合うことだし、話し出して気分を悪くするようなことは、そろそろ止揚することが大切である。       6月22日

2015.06.01

社団法人 昭和経済会
理事長 佐々木誠吾


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