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社団法人昭和経済会

理事長室より
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理事長室より

Vol.15.04

桜前線、只今定着中

どこもかしこも花の便りである。関東地方でも、特に身近な東京は昨日、今日と花が満開である。オフィスまでの往路、復路は随所で花見が楽しめて、この時期は気持ちが自然と浮き足立ってくる。自宅から東横線、地下鉄日比谷線を使って通勤しているが、特に中目黒駅でたくさんの花見客が乗降し、夕方のホームは花見を楽しむ人たちで身動きが取れないありさまである。有名な目黒川の川べりに咲く800本の桜の木で、約四キロにわたって花のトンネルが作られている。豪華絢爛の花舞台である。
   地下鉄に潜って銀座駅で降りて地上に出ると、数寄屋橋交差点にも桜が咲いている。5,6本の木だが、簡素な趣きでそれなりに風情があって楽しめるのが、またなんとも床しい気がしてくる。プランタンを過ぎてオフィスの方に向かってゆくと、行く手の先にも桜が咲いている。こんなところにも桜の木があったかと思うくらいだが、何となく質素な趣きである。桜の花は、時と所によって、それなりに味わいがあって楽しめるのが良い。今のところ花弁は一枚も散ってこないところが、落ちつた気分になって頼もしく華やいだ花を満喫することが出来る。この先の千鳥ヶ淵の桜ももごとだし、その先に行って上野や、谷中の桜もいいし、下町は隅田川の堤に咲く桜も見事だし、墨東の地に向かっていくのも興味は尽きない。花の盛りは短く、ここ一両日が満開の花見時、それからは花吹雪となって散って行く。
  拙宅にも樹齢50年ほどの桜が咲いている。直径約30センチ余、幹回り1メートルほどの樹で品種は優雅な染井吉野である。昔から、さくら伐る馬鹿、うめ伐らぬばかと云うが、無頓着で毎年のこと、植木屋を入れるときに、普段は日陰にならないように大胆に枝を払っているが、幸いなことに、とても元気がいい。幹の太い割には枝ぶりは短いが、その分花に養分が行って色合いと云い、花びらと云い鮮明でふっくらとして、名状しがたいほどに典雅な趣きである。そのせいか花がぼんぼりのようにのように丸く固まって咲いているようにも思える。実に綺麗である。昨日今日と月の節をまたいで満開である。妻が二階のベランダから呼ぶ声がした。行ってみると、ベランダから見る花の広がりが同じ目線にあるので、まるで花の小舟に乗って揺らいでいるような感じである。見る場所によって味わい方も随分と違ってくるので、いろいろな楽しみがある。庭に突き出た濡れ縁から見上げた時は、花の枝の合間に見た月が、ほんのりとかすんでいるように見えて、情緒満点、春霞におぼろ月を眺めることが出来る。真下から見上げると、花に積もった番傘をさしているようだ。ほかに深紅で大輪の椿も咲いているし、黄色い山吹もこの時期になると咲いている。花かいどうも細かな薄桃色の提灯をぶる下げて桜に先駆けて満開となっている。あでやかである。紫に花弁を広げる木蓮も咲きだすころである。白木蓮はもうすでに咲いているらしい。もうしばらくすると濃紫のあやめが咲くはずである。すきっと伸びた茎の先に、固く紫がかったつぼみをつけてきているからだ。
庭畑には菜の花が一面に咲き始めて、甘酸っぱい香りを一面にはなっているのが何となく人恋しくなる。菜の花畑に入り日うすれ・・・・と子供の声が聞こえてくる。小学生時代によく歌った歌である。今の小さい子供たちも、素直に歌っている光景でもあるから、望郷の念が湧いてとても懐かしく聞く名曲である。蕪村の一句を思い出した。「 菜の花や月は東に日は西に」。そのとおりの光景がこのころに現実として鑑賞できるから不思議である。復活祭の礼拝の時には、菜の花を献花しようかな。「 十字架に置く菜の花や復活祭」。 季語が重なっていて勿体ない気がするが、しかしこれでもいいだろう。復活祭は俳句の季語になっている。復活祭が4月の何日かと云うことは、定まっていない。新聞のコラムで知ったが、立春のあとの満月の次の最初の日曜日が、復活祭に当たるということである。
   花屋さんの店頭には季節を忘れてれてしまうよに、沢山のきれいな花々が一年を通じていつも置かれている。しかしこの時期、季節にあって咲く花は、神様の摂理に従っておのずと限られて花を咲かせていて、精いっぱいに自分を着飾っているところが素敵である。拙宅の庭で数え上げられる花の数々だが、それぞれに誇らしく、美しさを競い合っているようで、樹や草花の大小に限らず初々しさ、可愛らしがみんなに感じられる。 
  庭畑では3月半ばを過ぎたころから、のどかな日が俄かにやってきて、庭畑の野菜類がみずみずしい青さにかがやき、すくすくと伸びてきた。そこで私と妻はこのところ、毎朝青菜の収穫に追われている。小松菜、大根、ホウレンソウ、春菊と云った青菜が一斉に育ち始め、食べきれないでいる。蕗も、薹の収穫の後に、やわらかい葉を広げて芽吹き始めてた。時間があると、こうした葉っぱを摘んでは近所の家に配って差し上げている。早朝のすがすがしい時間帯には、隣り近所の奥方が旦那さんを出勤送った後に、楽しく立ち話をしたりしている。そうした時を見計らって、摘んだばかりの新鮮な菜っ葉を提供しているのである。取り立ての野菜のおいしさを味わってもらっているが、みんなもろ手を上げて喜んでいる。見上げると染井吉野の桜がきれいに咲いている。桜の下で、勢いを増して大きくなった青菜を摘むのもなんと楽しいことだろうか。春の盛りを満喫して、このところ収穫に励んでいる。
   昨年の暮れに種をまいて覆いをかけて育ててくれたホウレンソウは、園芸の師匠たる三井さんの手になるもので、その手法は完璧である。種をまく前に石灰をまいて土と混ぜ、十日間ほどねかせておいた。温かくなってきたので、最近になって覆いを取り払った。一センチほどの大きさから一向に大きくならなかったが、ここにきてみるみると育って大きくなり、見るからに美味しそうな葉っぱに成長してきている。穏やかに続いてきた、ここ数日間の陽気の変化のためである。自然の生き物は全て、陽気に対して敏感である。        4月1日 


若い時に横浜に家を建てようと思って取得した土地が山手にある。横浜の丘陵地帯のたたずまいの景色を存分に楽しむことが出来る、風光明媚の地である。港の見える丘公園と、広大な横浜森林公園のちょうど中間に位置するところである。近くに柏葉公園があって桜の時期は絵のようにきれいな地域である。普請しようと思っていた土地だが、東京通勤にはあまりにも遠く、時間がかかりすぎると思ったので設計図まで作っていながら断念した。その頃ちょうど世田谷の等々力に恰好な住まいが見つかったので、そこに変更した。俳句の師匠が住んでいただけあって、広く閑静な土地に、落ち着いた趣きの平屋だが、土地が150坪ほどあって、小さな子供たちを育てる環境は抜群であった。田園生活に近い住み心地満点の気分を堪能することが出来たが、俳人が好んで手入れしていた風雅な庭は、その後に飼った三十羽ほどの鶏が、放し飼いにしていたら、沢山植わっていたきれいな草花をみんな食い荒らしてしまった。その後は仙人みたいな生活を自由奔放に楽しんだのである。おふくろが浅草からやってくると、まるで軽井沢にきているようだと、樹木に囲まれて澄んだ空気までが美味しいと喜んでくれたものである。
   そんなわけで、横浜に買った土地は使わずじまいとなって、その後は駐車場にして収益を上げてきている。約四十八台の車が駐車している。横浜技研の窪田社長にはその時以来世話になってきて、駐車場の造成にも大変世話になってきているが、以来年月の経過もあって端の隅々に雑草が生えるようになってきた。人工を頼んで清掃するまでもないので、時期が来ると運動を兼ねて雑草を採りに行ってあとをきれいにしてきている。いつも近所の三井さんの手を煩わせて行ったりして、帰りには森林公園のレストラン・ドルフィンに寄ったり、元町を通って中華街に寄ったりして食事をするのも楽しみに仕事をしている。

   今日は復活祭である。キリストは十字架にかけられて、死にて葬られたが、三日目にして甦り、人の罪をあがなうために再び生きてこられたことを喜び合う日である。教会に行って十時半からの礼拝に臨み、キリストの復活を感謝して祈りをささげてきた。ヨハネの福音書から紐解いて、キリストの劇的な復活の様子を説いていく場面だが、真に迫る課題にふさわしく、静かに聞いていた。教会活動も今日から新年度に入り、福音宣教に臨んで貧しい人々、恵まれない人々、虐げられた人々、病いに苦しむ人々を救済するべく、地道で継続的活動をしていかなければならない。玉川神の教会でもこの日からバートン牧師に代わって、藤原智子牧師が説教を行った。以前から福牧師として説教を行ってきているので親しまれてきているが、新年度を迎えてだから、心機一転の心構えを以て臨んでいたのである。復活祭にふさわしい、いうなれば新人事での発足と云うことがいえる。 礼拝が終わった後はいつものように親しい信徒たちが集まって、お菓子を添えてお茶席が始まった。自由な会話を通じて、癒しと親睦を深める時間である。
  親睦団欒の席が終わってから、ご婦人たちは聖書研究の時間で3時過ぎまでの予定が入っているので、殿方は御免蒙ることにして、私も12時過ぎに帰宅した。殿方と云ってもこの日は内科医の大武先生と私だけであった。あと十人ばかりのご婦人の仲間入りをして、一緒に談笑して楽しんでいたのである。帰宅後は、やおらスーツを着替えて、横浜の駐車場に車を飛ばしていくことにした。若干の身支度を整え、除草剤だけでも持って一路横浜に向かった。第三京浜を快調に飛ばしに二十分足らずで横浜市街についた。山手の住宅地までは十分足らずである。途中桜の見ごろを迎えたところが道行きの随所に見られて、気楽なドライブ気分である。現地に着いたら工事屋に依頼しておいた車の区分のラインが、まっ白に引かれてきれいに整備されていた。検証に行ったが何ら手を下す必要もなく、ちょっとした草むしりや除草剤の散布などに労働時間を費やしたあと、昼食をとりに近くのレストラン・ドルフィンに行った。時計を見たら二時半であった。
   ドルフィンのルーム一杯に張った大ガラスから見た周辺の景色は、エキゾチックで甘い雰囲気である。東京とは違った異国情緒みたいな味わいが漂っていて、横浜まで来たかいがあったといつも思うのである。年齢的時間が充分にあれば、横浜に住んでみるのも一考にあたえすると思ったのである。横浜に住んでみると云っても広いから、指定する場所はやはり元町に近い港の見える丘公園か、或いは鷺山、柏葉あたりの昔からの高級住宅地かもしれない。文明開化の音がするではないが、洋館生活になじんだ場所である。江戸の浅草猿若町で生まれ育った三男坊が、そんなスマートな考えを持つのは、女房の実家が横浜であり、山手界隈で生まれ育った因縁かもしれない。それで近代都市の横浜を知るようになった。時代を通じて横浜を題材にして歌になった名曲が沢山あって、情緒的な哀愁を帯びた曲が、思い出と重なってくることは、多くの人が経験するところである。ひょいとしたことから、今日のイースターは、教会の礼拝から横浜までの小旅行に切り替えて、夕方帰路についた。そして教会で婦人たちの聖書研究の時間を催して終えた女房を迎えに教会まで直行し、帰宅したのである。時に夕方の四時であった。余力のあった私は、それからまた尾山台ハッピーロードに散策に出かけたのである。途中、散り始めた桜を惜しむ目的もあったから。

横浜の土地検証にひとり来てのちドルフィンにてステーキを食ぶ

       横浜の異国情緒に富む地にてここに住むのも面白かりき

       ドルフィンの窓に眺むる横浜の港の淡き霧にかかれる

余力と云えば、最近の執筆では経済、政治と云った題目から少し距離を置いて事態を静観しているが、それだけに論じることが国内外を含めて沢山あって、深刻の度合いを薄々感じてきているので、うかつに取り上げて云々することをはばかっているきらいは否定しえない。距離を置いて事態を冷静に見るきっかけにもなって、決して怠けているわけでもなく、静観がむしろ勉強になってくる気がしている。 たとえば好景気に沸く上場企業の実態とか、日銀の異次元金融緩和政策とか、三年目に入ったアベノミクスの展望とか、辺野古基地への移設問題、中国主導のアジアインフラ投資銀行の問題とか、イランの核問題、イスラム国とシリア、ロシアの国内経済の動向・・・、といった問題山積である。ちょっと考えただけでも枚挙にいとまがないが、いずれも最近に起きているものであり、重要な問題を内包していることが分かる。そうした問題は複雑であればこそ、そこから距離を置いてみるのも勉強だと思っている。
   静観の結果、作られた時間を例えば文学の分野に目を転じて、主宰している短歌同人誌・淵の編集、発行について構想を練ったりしていると、春夏秋冬、花鳥風月に目を転じて、限りない情念を燃やすことが出来るというものである。これぞ人間性の回復を呼び掛けるものであり、おのずから人間賛歌を表わし、無知残虐なる人間どもの覚醒をうながすものである。淵も短歌同人誌としては名門であり、決しておろそかにできない。ただ明鏡止水に心を浄化させ、又ペンを執って、思うが儘に和歌を詠み綴っていきたいと思うのである。今日、日本印刷から遅れてしまったが、淵・209号が完成して届けられたが、同人並びに関係者には一両日中に届く予定である。編集と発行の責任を果せたが、又次の準備に取り掛かることになって、慌ただしさからは抜け出せない。しかし、仕事を成し遂げた喜びは、忙中の閑、一服の清涼剤である。 4月6日

     さくら咲く華やぐ日にそ喜びの復活祭の歌をうたひぬ

     降りしきる春の小雨に濡れそぼる花の咲く日の復活祭なり

     復活の意義を示して礼拝の主のあがなひのいともかしこし

     もろびとのこぞりて祝うふキリストの復活に寄せよろこびあへり

     痛ましき受難の日こそめぐりきて十字架の主にあがなひのあれ

     万物によみがえる日の訪れて光あふれし天つちの間に

     春立ちて満月の後の日曜に復活祭をいわひけるかな

     キリストの復活により我らみな愛とひかりの道をゆくかな

     思へかし戦後七十年の来し方を花とあらしの世をわたりきて

     この国の栄えは平和と民主主義そのいしずえの元あればこそ

降り注ぐ焼夷弾のあめあられB29から落とし行くもの

     無差別に人を殺めて顧みず今なほ続く人のあさまし

 千万のしかばねの魂さまよひて焦土の原に迷ひあがけり

     黒焦げの遺体のあまた転がりて燻ぶり居りし焦土のはてに

     馬鹿ヤロー相手定めず叫びつつ弾に当たりて死ぬる兵士よ

     飢餓の死を前に兵士は敵陣へ武器を持たずに突っ込みてゆく

     丸腰の兵士はひとり意を決しおのれを武器に敵陣に撃つ

洞窟の穴より出でて木刀をかざす兵士にまどうふ米兵

雨あられうち来る敵の銃弾に身は粉々に見る影もなし

     万歳と意味なく叫びむなしくも聞こえし兵のあはれ果てしも

     激戦にふんどし一丁の勇気ある日本兵の白旗を振る

     塹壕に潜む兵士に敵方の火炎放射の果ての玉砕

戦争の惨禍をのちに知らしめて二度と愚行を世にゆるすまじ

     忘れまじ戦火の下を駆け抜けて命からがら逃げゆきし夜を

     ててははとはらからの手を取り合ひてたたかひの火をくぐりにげしを 4月6日

    紫に花弁を広げる木蓮も咲きだすころである。白木蓮はもうすでに咲いているらしい。あでやかである。もうしばらくすると濃紫のあやめが咲くはずである。すきっと伸びた茎の先に、固く紫がかったつぼみをつけてきている。庭畑には菜の花が一面に咲き始めている。花屋さんの店頭には季節を忘れてれてしまうよに、いつもきれいな花々が置かれている。しかしこの時期、季節にあって咲く花は、神様の摂理に従っておのずと限られて花を咲かせていて、精いっぱいに自分を着飾っているところが素敵である。拙宅の庭で数え上げられる花の数々だが、それぞれに誇らしく、美しさを競い合っているようでもある。 
  庭畑では3月半ばを過ぎたころから、のどかな日が俄かにやってきて、庭畑の野菜類がみずみずしい青さにかがやき、すくすくと伸びてきた。そこで私と妻は、毎朝青菜の収穫に追われている。小松菜、大根、ホウレンソウ、春菊と云った青菜が一斉に育ち始め、食べきれないでいる。蕗もやわらかい葉を広げて芽吹き始めてた。時間があると、こうした葉っぱを摘んでは近所の家に配って差し上げている。早朝のすがすがしい時間帯には、隣り近所の奥方が楽しく立ち話をしたりして、そうした時を見計らって摘んだばかりの新鮮な菜っ葉を提供しているのである。取り立ての野菜のおいしさを味わってもらっているが、みんなもろ手を上げて喜んでいる。見上げると染井吉野紫に花弁を広げる木蓮も咲きだすころである。白木蓮はもうすでに咲いているらしい。あでやかである。もうしばらくすると濃紫のあやめが咲くはずである。すきっと伸びた茎の先に、固く紫がかったつぼみをつけてきている。庭畑には菜の花が一面に咲き始めている。花屋さんの店頭には季節を忘れてれてしまうよに、いつもきれいな花々が置かれている。しかしこの時期、季節にあって咲く花は、神様の摂理に従っておのずと限られて花を咲かせていて、精いっぱいに自分を着飾っているところが素敵である。拙宅の庭で数え上げられる花の数々だが、それぞれに誇らしく、美しさを競い合っているようでもある。 
  庭畑では3月半ばを過ぎたころから、のどかな日が俄かにやってきて、庭畑の野菜類がみずみずしい青さにかがやき、すくすくと伸びてきた。そこで私と妻は、毎朝青菜の収穫に追われている。小松菜、大根、ホウレンソウ、春菊と云った青菜が一斉に育ち始め、食べきれないでいる。蕗もやわらかい葉を広げて芽吹き始めてた。時間があると、こうした葉っぱを摘んでは近所の家に配って差し上げている。早朝のすがすがしい時間帯には、隣り近所の奥方が楽しく立ち話をしたりして、そうした時を見計らって摘んだばかりの新鮮な菜っ葉を提供しているのである。取り立ての野菜のおいしさを味わってもらっているが、みんなもろ手を上げて喜んでいる。見上げると染井吉野の桜がきれいに咲いている。桜の下で、勢いを増して大きくなった青菜を摘むのもなんと楽しいことだろうか。春の盛りを満喫して、このところ収穫に励んでいる。         4月1日の桜がきれいに咲いている。桜の下で、勢いを増して大きくなった青菜を摘むのもなんと楽しいことだろうか。春の盛りを満喫して、このところ収穫に励んでいる。         4月7日

天皇皇后 殉職兵士の追悼の旅


    戦争の悲劇と惨状を目の当たりにし、その悲惨さを経験された天皇陛下は、戦争のない平和国家の建設を一貫して求めてこられた。同時に今年は、敗戦後七十年を過ぎた。戦争の歴史を忘れてはならないとして、戦争で犠牲になったみ霊の慰霊に全国各地を遍歴されてきた。今回、八十一歳の高齢をいとわず、太平洋戦争の激戦地となった西太平洋に浮かぶパラオに皇后とご一緒に赴かれた。八日午後に開かれて現地での関兵晩餐会で陛下は「パラオの地において、先の戦争で亡くなったすべての人々を追悼し、遺族の歩んできた苦難の道を偲びたい」といわれ、さらに「貴国民に空襲や食糧難、疫病による犠牲者が生じたのは痛ましいことでした」と述べられたのである。
私は、陛下の、一貫して平和を求めるゆるぎない姿勢と考えに深く感銘を覚え、これは我々国民の総意であって、これから先の日本と日本人が世界に希求してやまない意味であり、不屈の信念であると、そのために果敢に努力していく姿勢を強く打ち出したものでなければならないと思ったのである。今の天皇が戦中戦後、奥日光のの湯元に疎開していた時に墨で描いた大きな書がある。なかなか立派な字で、美しい墨の跡である。書かれている字は力強く、純粋に少年の気概を示して、「平和国家建設」とあった。戦後七十年を迎える日本は、平和憲法のもと、戦場で一人も人を殺さないでやってこられた。誘惑に負けず、厳しい忍耐を求められながら、ひたすら経済発展と民生の安定に傾注してこられたのも、世界に冠たる最高法規の、この平和憲法のおかげである。天皇はそれをよく凝視されて、常に平和憲法の精神と存在について熱く述べられている。我々は、この崇高な思いを忘れてはならない。

戦ひに敗れ玉砕の兵士らを弔ふ旅の天皇皇后

打ちよする白波清きパラオ島いまだ兵士の眠るしかばね

天皇の慰霊の旅の敵味方犠牲となりし兵士すべてに

敗戦の被害甚大に立ち上がる平和日本を願う天皇

戦ひの惨状を見て南海の島に埋もれるしかばねのあと

塹壕の中より兵士ふらふらと出でて白旗ふりつ撃たれり

乙女らの悲しき涙とも思ゆ今ひめゆりの塔にふる雨

兵士らの飲まず食わずの洞くつに居れば火炎の容赦なく攻む

苦しみも痛みも口に云わねども欲しがりません勝つまではの句

畑には芋があるのにつるのみで食いつなぐ日の苦しかりけり

号令をかけられて立つ少年ら皆痩せほけて痛ましきなり

農家には田んぼがあって米があるなのにその米が食えぬ矛盾は

バケツ持ち槍振りかざし米軍の物量作戦の前に敗れり

空高くB29の飛来して弾も軍機もとどかざりけり

編隊を組み悠然と空をゆくB29の銀にきらめく

雲間より敵グラマンの飛来して機銃掃射す学童の列

国民の本土決戦に意気あがり箒、はたきも武器の一つに

銀翼のB29の上空をめざし竹やりを突く老人

無残なり戦ひのあとしかばねの山と積まれて燻ぶるるあと

戦争を仕掛け導く軍人の上に安閑と胡坐かきおり

意味不明戦時体制に突き進む今の日本のふらつきあやし

緑濃きパラオの島の両陛下亡き兵卒に深く悔め里り

弾丸の雨とあられと飛び散りて小さき島も火の土地と化す

敗戦の時の墨書に天皇の平和国家建設とあり

    続  4月9日

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    短歌同人誌・淵でお互いに意志の交信を交わしている名古屋在住の敬愛する杉村さんから、昨日の夜に電話をいただいた。この日には仕事を早めに切り上げて帰宅したので、幸い杉村さんと話を交わすことが出来た。
杉村大兄は先週の日曜日の朝早く名古屋を発って、東名高速を高速バスに乗って御殿場に降りてから、私が利用している富士ビューマンションに行かれて、そこから快晴に恵まれた絶景の富士山をご覧になったそうである。たまたま私がそのフジビューマンションの管理組合の理事長を務めて、早や15年以上になる。そんなことから滞在したりしたときの様子を書いては昭和経済に掲載することが多いので、杉村さんはそうしたエッセイを読んでくださっている。それにしても、地理に詳しく冒険心に富む杉村さんにしてできることに違いないと思った。普段でも急に言われたりすると、とてもではないが地理に疎いひとにはフジビューマンションにたどり着くことは難しいことと思うし、億劫なことに違いない。それを難なくやり遂げてしまう杉村さんに脱帽である。お話を聞くと、さらにその足で東京に向かい、高速バスでは用賀料金所で下車された。そこからタクシーに乗って拙宅付近の等々力に来られたそうである。私は常日頃自分の住まいのことや生活について触れて書くことが多いので、実証主義の先輩にしてみれば、どんな環境に住んでいるのかを見聞する興味がわいてきたに違いない。驚くべき好奇心と行動的な様子に、私は血気盛んな青年の意気と情熱に似たものを感じて、その旺盛な貴い姿勢に敬服してしまった。 私が時折自宅周辺のことについていろいろと、こまごまと書いているので、杉山さんの脳裏にはそうしたことが確と刻まれていると見え、その豊かな感性と、観察力は美妙に加味されて、私に有利に反映されてきている。小生にとっても初夏をまじかに控えた今の季節が、とてもまぶしく麗しく見えてくるのでありがたく思っている。  
日曜日には午前10時半から、近くの玉川神の教会の日曜礼拝に出ていて、終わるのは12時少し前だが、そのあと知り合いの人たちと歓談したり、、近くの自由が丘に出て昼食をとったりすると、通常は2時ごろには帰宅することになっている。一週間の間で、気分的に休暇をとれて精神的にも清涼感を味わえる時間帯である。杉村さんがせっかく名古屋から見えていらっしていることが分かれば、万象繰り上げてお待ちするところであった。是非とも、お目にかかりたかった。庭に桜の木のあることも、今紫の木蓮の花が咲いていることも目にとめて行かれたそうである。庭に入ってもらえれば、ホウレンソウがこんもりと、みずみずしく育っているのが分かるし、お土産にホウレンソウを沢山抜いて持っていただきたかった。今家でも毎朝ホウレンソウを抜いてゆでて食べているが、柔らかく、素晴らしい食感であり、味付けに鰹節をのせてまことに美味である。聖護院大根も昨年の暮れに撒いたのが冬を越して、弱々しかった葉っぱが青々と育ってきている。聖護院の大根より、専ら葉っぱを刻んで味付けに炒めておいしく食べている。普通の大根の葉っぱだとこうはいかないし、これもまた違った絶妙な味と触感である。裏に植えたさやいんげんも万作である。朝から日当たりが良いので鈴なりになってきた。
  拙宅でとれた菜っぱをお土産に差し上げるのも野暮ったい感じだが、虎屋の羊かんやヨッコモクよりはましかもしれない。そんなことを勝手に解釈していて、実現したら杉山さんもさぞかし迷惑なことだろうと思ったりしていた。蕗の葉っぱもいっぱい生えている。若いうちなので柔らかく、そのまま茹でてから細かく刻んで味をつけて食している。こうしたものはどこにも平凡にあるものだが、農薬を使わず、新鮮なことが第一の長所である。しかも自分で時間をかけて育てたものなので、はばかりながら自信を以てお勧めすることが出来る。杉山さんに差し上げもしないで、こんなことを自慢して話すのもどうかと思うが、その機会を逸して残念な気がしている。
  それはそれとして、折角上京されたのだから、家におあがりいただいて、お茶の一服でも上がっていただきゆっくりしてもらいたいと心から願ったのである。もし間に合えば、以前紹介くださった近くに住む竹村さん親子も呼んでみたいと思って。竹村さん親子は同じ等々力に住んでいるが、目黒通りを渡った玉川神社の裏手にあたる閑静なところに住んでいる。母と娘の二人暮らしで、先だって拙宅にあいさつに見えた。明るい人柄の奥さんである。 奥さんの旦那さんが杉村さんと知り合っていたそうである。旦那さんは昨年なくられたとのこと。実家が奈良なので、帰った時には奈良のお寺と仏像めぐりを楽しんでくるそうである。そう言いながらぜひ召し上がってほしいと、大粒の奈良のいちごを持ってきて下さった。 今回は逸してしまったが、杉村大兄がお見えになった時は、竹村さんにも来ていただいてゆっくりと歓談したいものである。杉村大先輩の造形深い、会津八一の和歌と、奈良のお寺や、仏像や、風景を交えた写真の数々の話を中心に、きっと話は尽きない思いだが、心の内をお互いに話し合うのも楽しいことである。まだ一度もお目にかかっていないのに、何だか旧知の間柄のように付き合っているもの、摩訶不思議な気がして、これこそ見えない糸に括り寄せられたもので、神様から与えられたご縁だと思っている。いつの日かお互いに会って、人となりを確認して、と云うよりはお客様と改めて挨拶を交わし、手前の人相なども認めていただいて、満ち足りた時間に過ぎて素晴らしい人生の一こまを演じてみたいものだと願っている。 それにしても今年の気候は気まぐれなところがあって惑わされてきたが、先日、杉村先輩が上京された日が、幸いにも快晴に恵まれていた日でよかったと、胸をなでおろしているところである。昨夜電話をいただいたことで、豊かな感受性を持ち、好奇心、冒険心旺盛な杉山少年が無事帰宅されたことの証明になり、遅ればせながら安堵したのである。4月17日      続

私のパソコンが時折調子が悪くなって、折角打ち込んだ私のリポートがそのまま載らずにいつの間にか消去されてしまう事態が起きて、いささか困惑気味に過ぎた数日だった。その都度機械を設置してくれた業者に問い合わせて直してもらったりしているが、機械の精度を信頼して頼りすぎても如何なものかなと思う。慣れとは恐ろしいもので、利便性がひとたび身についてしまうと、それを切り離すことが出来なくなってしまい、当たり前に思ってしまうことである。薬物につかりきって、抜け出せないのと同じである。次第に投薬する薬物がきかなくなって、ますます強い薬を求めて行くようになる。やがて薬害に侵されて半身不随となっていく過程は、麻薬と同じである。科学の便利性に依存した生活、進歩した現代社会の重大な欠点である。
  文章について私は、ひらめきで書くことをもっぱら信条としているので、繰り返すことが出来ないのである。ひらめきで書くというよりも、最近はひらめきで打つ、と云う習慣がついてきてしまって反省しているが、決して手抜きをしているわけではない。書くと打つの違いである。急いでいる時などは、パソコンの便利性が優先してしまって、つい打ち込む手法をとってしまうのである。原稿を執記してから打ち込めばいいのだが、それを省略していきなり打ち込む結果が招く事態なのである。急がばまわれという戒めがあるが、しまったと思うときいつもその言葉が浮かんでくる。別の欄に打ち込んでから、それを移し替えるという手法を教わったが、なかなか覚えきれないでいる。ただし同人短歌誌の淵に乗せる和歌については、専ら筆記したのちに打つ癖があって、無難に古典的な手法を選んでいる。
   このホームページの作成にちなみ、最近大きな関心を以て見ている社会事情、世界情勢があって、先日それを懸命になって考えながら打ち込んでいた。そして従来通りそれを保存して構築のクリックを押し、これで完了と思っていたが、それだけではだめなことが分かった。新たに更新のクリックをする必要があった。その前に機会の調子が悪かったので、調子が悪かったので調べてもらったら故障していたのが分かって、部品を交換してもらった。完了するまでに10日ほど要してしまった。万全を期して綴ったリポートなので、簡単な操作ミスで消去されてしまったことに気づいて、がっかりしたのである。
  
   そこで気になっていた社会事情、世界情勢とは三つあった。 
一つは、中国が主導するアジアインフラ投資銀行である。   
二つは、米国とキューバの歴史的国交回復である。 
三つは、高浜原発再稼働差し止めの、福井地裁の仮処分の決定である。
いずれも内外に時代を揺るがす内容のものである。     4月19日


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高浜原発の再稼働を認めないという仮処分の決定が福井地裁でなされた。原子力規制委員会が行った規制基準が「不合理」であり、従ってその基準に従って承認を得た再稼働通知は間違っているという見解である。再稼働を含めて、原発の運転を差し止める仮処分の決定は初めてであり画期的と云うべきかもしれない。原発推進派と、原発推進反対を訴える二つの意見が、日本では真っ二つに分かれている。いずれもそれなりに十分な理由を持っているが、最近の傾向として再生可能なエネルギーの開発で、日本のエネルギー事情は過渡期ながらかなり改善されてきており、原発に依らなくとも十分な供給が確保されているという客観的な理由が裏付けになっている。
   東京電力福島第一原発事故以来、日本では放射能汚染による地域周辺一帯に、悲劇的な打撃を受けている。広範囲にわたって除染作業が進められてきているが、それの住宅地とそれに近い田畑であって、小地域に限定されている。何十倍もの山林原野はそのままの状態であって、自然消去は半減期を単位とする計算になる。現状においても、汚染を除去うした後の土の廃棄をどこにするか、決まらずに、周辺に個別的に袋詰めにして山積みされている現状である。 原発事故周辺でも、いまだに汚染水の処理に困っている。原発敷地内からはお泉水の流出が絶えず、敷地は後から後から増えるお泉水の保管で満杯である。レベルを低めて海に放出せざるを得ない状況で、なすべきことは全て苦肉の策である。更には原子炉内部に溶解した燃料棒をいかに取り出すか、取り出したものをどこに保管するか、年月をかけた長い難問に取り組まなければならない。いったん事が起きると、生命財産に致命的な損害をもたらし、原発の被害は無尽蔵である。その解決はトンネルの世に長くかつ悪魔の巣窟である。
   国連難民高等弁務官として活躍してきた緒方貞子さんは、日本は原発は不適地であると昭和経済に論文を発表している。 経済産業的に見れば、仮にエネルギー源としての原発の効率を考えたときに優位に立つとしても、ひとたび事故が起きて稼働し得なくなった原発ほど、人間の英知と技術を以てしても全く制御不能となり、巨大な悪の残骸となって、後世に多くの悪影響をもたらすものであるといっている。とりわけ地震国、火山国の日本にとって、原発基地を建設することは最大のリスクを覚悟しなければならないと、その安全は全く担保出来ないといっている。危険は忘れたころにやってくる。既に東電の福島第一原発事故の恐ろしさは、未解決のまま風化されようとしている。日本人の悪い癖で、のど元過ぎれば熱さ忘れるで、たった四年前の東北大震災の恐怖と、それで惹起された原発事故の恐怖を既に忘れかけてきている。ましてや、70年前の戦前戦後の被害と惨状を知る人がだんだんと少なくなってきた。経験的に警鐘を鳴らし、未来の展望を期待して語る人が減ってきている。原発の問題にしても同じである。
   事故が発生した時はもとよりだが、正常な運転を行っている時にも、使用済み核燃料の捨て場所は探し当たらない。あの危険極まる、高濃縮度の放射性廃棄物の処理は一体どうするのだろう。地下深く埋めていく方策も考えられているが、地下の複雑な構造を克服して、絶対安全な処理方法を可能にする技術は見つかっていない。大規模にわたる工事であり、しかも地下水の問題を含め、仮に地価の岩盤が崩壊した時に、出されてしまう強烈な放射能からくる影響は全く未知数である。安全対策は担保されていない。核分裂反応を応用した発電手法の将来は危険度満載で、確たる指針と展望は開けてこないままである。東電の原発事故の影響を経験した日本が、その壊滅的な恐ろしさを知った。しかもその原発施設は今日本に53基もあるというから、大災害の発生で日本の各地に原発事故が立て続けに発生したら、この小さな国土と住民は一体どのような危機に直面するだろうか、状況を予想することも出来ない。そうしたことはないという保証が皆無だから心配なのである。日本の目覚ましい経済発展の一部が、安価なコストの原発に依存してきたことは紛れもない。半ば安全神話とされてきた原発に依った、エネルギー政策の恩恵にあずかってきたことは事実である。しかし東電の原発事故の教訓は、ひとたびことが起きた時には、時間をかけて営々として積み上げてきた目覚ましい経済発展の痕跡は、一瞬にしてぶち壊され、国民は路頭に迷う結果だって無きにしも非ずである。そんな心配を常に続けながら、これから先、想像もできない長い年月の間、人間生活と、社会活動を続けていくことほど馬鹿馬鹿しいことはない。科学的見地から原子力規制委員会の策定した基準の合理性について、司法の場でその是非をめぐって審議されて福井地裁の判決が出たところである。しかし川内原発についても同じように審議されて近いうちに判決が出ることになっている。難問山積を乗り越えて、お互いに英知を発揮して未来のエネルギー政策も国民的な合意を得て推進していかなければならない。むろん経産省の国策にかなった英知を発揮して油断なきようお願いしたい。
   こうした時期に差し掛かって、福井地裁の出した原発再稼働差し止めの仮処分の決定は、事の重大性を国民に改めて知らしめ、冷静に認識させる結果となっている。             続

秀作・春の霊峰、富士山の写真が出来た物語

   4月17日早朝4時、名古屋の自宅を出て一路東京に向けて発った写真家の杉村浩さんのことについて、先に綴った文章で述べて続報を書くつもりでいたところ、三日前の22日に杉村さんからレターパックライトがオフィスに届いた。さっそく開けてみると、和紙に流すように書かれた書状があった。毛筆の墨跡が美しかった。拝読した後中身を見ると、当日、撮った富士山の一枚の写真に、一瞬目がくらむほどの衝撃を受けた。そしてようやく載せられている私の歌に目を移したのである。題字に、バーナード・バートン牧師を送る歌と書かれてあった。教会で私が詠んだ約八十首ばかりの中から杉村さんが選んで、御自分が取ったこの日の富士山の写真に重ねて載せて下さったのである。
   作者の会心の一作を届けていただいたわけで、心から感謝と感動を覚えずにはいられなかった。この日はちょうど復活祭が先週済まさればかりで、日曜礼拝に出席している日でもあった。目も覚めるような快晴の日であったので、温かさに全ての春の草花も一斉に花を咲かせて素晴らしく、記憶にとどめられている。杉本先輩は、神が用意した快晴の日を一路東京に走った後、途中御殿場インターを下り、箱根に向かって乙女峠を、途中から長尾峠に向かう伊豆スカイラインを走って、私が持っている富士ビューマンションについた。そこで秀麗、春の空にかがやく富士山を撮影されたのである。その一枚が、送って下さって今私が見ている写真である。杉村さんは少年のようにはやる心を抑えつつ、この秀作を私に送って下さったのである。なんとお礼を申し上げていいかわからないでいる。
   それにしても春の天気の変わりやすい時期に、かくも晴れ渡った紺碧の空は、今までも見ることはできなかったが、たまたま思い立って出かけた杉山さんは、何と幸運に恵まらた方だろうと思っている。富士山を撮る作者に、神は最高の条件を用意してくださり、作者はそれを感謝し、感動を込めてとった写真である。そのような富士の澄み切った容姿を今まであまり経験したことがないので、名状しがたい感興に慕っているのである。作者としても傑作の中の一枚として、完璧なものであり、以て記念すべきものに違いない。神々しく輝く富士やまの、その瞬間をとらえた作品は、すべては神の恵みとしか云いようがない。神のみ手が、作者に乗り移って撮ったようなものである。そこから又東名高速に入って東京に向かった先輩は、用賀インターで降りて、拙宅の等々力付近を廻って、おそらく近くの友人の竹村さんの家の辺りを確かめて行かれたであろう。別に拙宅を写した写真と、尾山台駅打近の写真も添えてあって、まるで杉村先輩が思い出の地を訪ねていくような気持でいることがうかがえたのである。温かく、細やかな心情をありがたく思っている。親愛を込めて綴られた書状を手にして、杉村少年が、この日の富士山を撮影した名作を手にして、無事名古屋に着かれていることを安堵して、つつがなく帰宅されたことを神に感謝したのである。

春の富士山  


富士やまを撮る仁兄の秀作に神の恵みに在りし日の空

春の日に知己の車のあないにて尾張ゆ駿河の国に走り来

富士やまを撮る会心の写真なり不二の威厳の真に迫り来

春の日の澄む青空に富士山の真白き雪の光る朝かな

感興のおもむくままに眺めしもこの写真こそ類ひなきなり

富士山を撮る一枚の写真にて快心作とうなづきにけり

春の日の真白き富士の嶺高くあたりに光放つまほろば

幾そたび訪ねて眺む箱根路の富士の姿の四季おりおりに

山並にひときは高くきはだちて遥かに望む富士の山かげ

おおいなる富士山をとる写真家の今亡き妻を慕ふ思ひに

富士山を撮る写真家の意気燃えて思ひを示し類ひなきなり

朝まだき尾張を発ちて東名を走る八十路の猛き雄のこら

素晴らしき春の日和の空に立つ高嶺に光る富士の白ゆき

うららかな春の日和の青空に雪をいただき光る不二山 

晴れ渡る春の駿河の峠より撮る富士やまの雪の嶺かな

仁兄の傑作なりし富士やまの春にかがやく白妙の雪

大兄が尾張よりたち快晴の日に妙にとる春の富士かな

あたたかき想いと人となりしかな杉村兄の春のたよりに

妻とみる杉村兄が春に撮るかがやく富士の永久に写りて

富士やまの濃あゐの空に紺青のすそ野の妙に仰ぐ白雪

畏敬する杉村氏の撮る秀作に見とれて触れし富士の麗峰

完璧にとらへし富士の一瞬の美と存在の神髄にせまる

紺碧の空に一点の曇りなく誇りてそびゆ富士の秀峰

神さぶる富士の高嶺の白雪を真なかに仰ぐ杉村先輩

おおいなりいまだまみえぬ仁兄の富士の姿にかさねあはせり

あほやかな濃藍もすがし富士やまの高嶺に光る雪をいだきて

富士山の眺めもけだし天下一その前に立つたけき男のこよ

生涯の思いも深き秀作となる大兄の富士に立つ影

少年の如き気概を見習いて新しき道拓き進まん

亡き妻の姿を胸にあらためて峠に富士をあほぐ春の日

もしや亡き汝が愛妻も春の富士ともに喜び眺めゐるかも

白妙の雪をいただき富士やまのそびへて春の栄ゆまほろま

よき妻と富士を眺むる峠より熱き思ひに在りし日を思ふ

在りし日の妻と出で立ち共に見し妙なる富士の今しあほぎて

汝が妹と富士を背に撮る仁兄の熱きおもひに浸りけるかなり  

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    富士やま賛歌

わが友が撮りし写真の一枚に諸々に湧く富士のほめうた

富士山の四季折々に風致得て刻一刻に容姿変え行く

富士山の濃あいの色に輝きて高嶺の雪のひかり放てり

比類なき富士の姿のおごそかに吾の心を清め尽くせり

大兄の写真に触れて富士やまをたたへる歌をあまた作れり

春盛る駿河の国の豊かさの水を抱きて聳ゆ富士やま

壮麗な富士の写真の一枚に作者のたぎる思ひ如何にも

富士やまの瞬時をとらふ一枚の写真に審美の極意示せり

富士やまの裾のじねんの恵み得て実り豊けき大地つづけり

トンネルを抜けて峠の茶屋に立ち眼下一帯の箱根収めん

山なみの茶屋の高みにひとり立ち天地の間にそさまよひにけり

箱根路をのぼり峠ゆ思ひきり飛びて天地の間をさまよはん

限りなく力いっぱい声を出し富士に向かひて叫ぶわれなり

富士山の雲と遊べる和やかに時に雄々しく雲とあらそふ

澄みわたる富士の高嶺をめざしゆく鳥の濃あゐの色に消えゆく

藍色の濃き色合ひの富士の空それを濃藍と云ひていみじき

母ときて長尾峠に立ちてみる夏の青ぎる山なみの果て

母のため求めし富士のやかたにて仰ぐ麗峰の目にもまばゆき
 
湧く雲のそれぞれに佳し富士山の姿に合ひて心ありけり

湧く雲の形すぐれて趣きの山に合い添い別れ去るなり

あなかしこ沸き立つ雲の富士やまに自在に舞ひて楽しかりけり

富士山にちなみあまたの物がたり思ひ出ふかく我にありしも

明け初めに輝く富士をあほぎみて若やぐ大志の我に湧きいづ

富士山の貴きすがたの厳かに触れて再び大志みなぎる

ただひとり長尾峠の茶屋にたち天下の箱根を一望に見ん

趣きのゆるく素早く変わるさま親しくながめ富士と暮らす日

思ひ立ち箱根マンションい妻ときて真なかに富士をあほぎ見るかな

芦ノ湖に舟を浮かべいて富士やまの茜の空にほむら立つ身ゆ

芦ノ湖にあやかに映る富士の嶺の音なく暮るる夕べなりけり

おごそかにとはに聳ゆる富士やまのこのまほろばのしるしなりけり

菜の花のゆるる畑に聳え立つ富士の裾野に夕日おちゆく

登らぬも、二度登るのも何とやらされば遠きゆ眺む富士やま

思いひたち箱根マンションに妻ときて真なかに富士をあほぎみるかな

芦ノ湖にあやなし映る不二の嶺のしじまに暮るる夕焼けあとかな

うみの面にさざなむ不二の夕焼雲夕べのどかに暮るる頃かな

明け初めの富士を仰ぎて夕焼けのとばりに暮るるまでを過ごさん 

うぐひすの鳴きつるあした明け初めの富士のすそのに霧わたりゆく

霧さめの降る奥山の道行きに繰り返し聞く郭公の声

真・善。美 極地をしめし比類なき今富士山を前にして立つ

郭公の鳴きつる森の深みより水のながるる音の聞こへ来

せせらぎのあそけき音の聞こへきて富士のすそのに眠る山里

みづうみを五ついだきて富士やまの裾野に多く水の湧きいづ

秀でたる富士の姿を眺めいてこの真実の永久にあらまし

富士やまの上にたなびく夕焼け雲たそがれゆくも悲しかりけり

夕映えの輝きそむる頃あひのほむらとなりて暮るる里かな

夕立の止みて雲間に入り日さし茜のそらに移りゆく間よ

あほやかな濃あゐの色の富士やまの高嶺の雪もあほく光れり

山裾の林にかかる狭霧消へまさおの空に仰ぐ富士かな

何気なく闇夜にうかぶ富士らしき姿のそらにあればなほ佳し

青き夜の空を照らして名月のほのかに浮かぶ富士の影かな

                                                4月25日


 

2015.04.01

社団法人 昭和経済会
理事長 佐々木誠吾


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