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社団法人昭和経済会

理事長室より
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理事長室より

Vol.12-10 天命に沿った業績

 

   天命の年齢の意に沿った業績
   山中教授のノーベル賞受賞


 10月8日、世界中が人類史に輝かしい記録をとどめた日として、我々の記憶にしるされることでしょう。
 京都大学の山中教授のノーベル生理学・医学賞授賞は、日本の医学界が久々に打ち放った快打の響きでありました。若干五十才、天命の歳、くもりなき端正な面ざしに、満面の自信と、喜びと、感謝と、使命感が同居して、今や困惑気味で意気消沈の日本と、我々日本人を奮い立たせてくれました。人類に貢献する日本の学術レベルの高さを示して、学術立国の面目を示して躍如としています。思えば最近の日本と、日本人の多くが四面楚歌の情況で、閉塞感にさいなまれ、ひたすら苦吟、模索中の日々でありますが、突如として打ちあげられた大輪の豪華絢爛の花火に気づいて、目が眩むように覚え感動に浸っております。山中教授のノーベル賞受賞は日本人の閉塞を打破して、誉れ高き快挙の一語に尽きます。長年の間、地道な基礎研究に没頭し、幾多の挫折を克服して忍耐の末にかちえた快挙であります。闊達に過ぎた若き時代にはラクピー、柔道、マラソンとスポーツ万能選手に通じるものがあります。人生における勤労の道を、学究生活と基礎研究に求めました。幾多の失敗と苦労を重ねて到達したところは、iPS細胞と云う万能機能を成長する細胞の作成に成功したことでした。
 教授の研究の成果は、生理学・病理学の究極の世界に挑むものであります。これが多くの難病治療に役立っていくとすれば、人類に光明を与える画期的な功績と評価できるものです。山中教授の述懐と思いですが、取り組んだ研究はまだ道半ばとは申せ、以てノーベル賞に値することは万人が賞賛を以て認め、全く異論のないものであります。
 教授の展開した理論は、破壊された細胞の再生に大きく道を拓くもので、全ての疾患の治療に役立つものであります。正に生命の万能機能を有する源をつきとめたことになり、そこからの幾多の実験の過程を踏んで粘り強く到達したものです。ちなみに期待される疾患の治療は、認知症、心臓病、外皮治療、血管障害といったものが対象に挙げられているようですが、およそすべての治療、再生に役立っていくのではないでしょうか。近くには、パーキンソン病の臨床実験が行われるとのことです。老いに従って、高齢化に従って発症していく疾病に驚異的な効果を発揮していくことでしょう。しかし応用の範囲は広く根本的なもである故、なお研究する余地があり、課題は多くあるに違いありません。生物体の細部の、核と細胞の再生を目指して、スタートラインに立ったものと認識すべきでしょう。この世から病いの克服の道を開き、神の手を経て正しく授かったものであります。広く応用の世界に実施されて、一日も早く医療の現場に活用され、多くの悩む患者が苦しみから救済されることを祈って止みません。
 新しい細胞の生成と再生を起こして治療の最先端で適応し、人間をあらゆる病魔から救い出して行く先に、更に進んで、老いと死の恐怖から人間を開放することができるとすれば、その先はどの様な展開になるのか、疎い私には素朴な疑問が残るのであります。それは遠い未知の世界なのでしょうか。人間が手を出してはいけない領域なのでしょうか、大きな期待と同時に一抹の不安を禁じ得ないのであります。
 あらゆる現象の中で、退化と消滅が否定され、進化と発展のみが肯定される世界とは一体どんなものなのでしょうか。気の遠くなるような設問であります。万物の生成消滅の流転の掟は、生物にとって存在と限界を暗示する歴史的事実であります。人間には老いがなく、死もないとしたら、備わった寿命の概念はこの世界から消すことができるのでしょうか。悩ましい事柄であります。神の世界に手を触れる、禁断の実に触れることになりはしないでしょうか。
 深夜、静寂の時に透徹に研ぎ澄まされた思索にあって、ふと不安が頭をよぎって考えたことであります。思索すべきは、人間が神の聖域に踏み込んだ時に、果たしてそれが大罪を犯す結果にもなるものかどうか、熟慮すべき点であり、課題かもしれません。万人が神にそむく日が、神に対して人間の実存を主張することが、単なる想像、妄想ではなく身近な理論として現実味を帯びてきました。それを迎える人間社会と、この生存地域を、いかに秩序あるものとして手にするか、絶対的、全知全能の神は、もろもろ
の人間に罪を負わして、自覚と自制を促しています。限りない慾望を絶ちきれない宿命を、本当の神は許すでしょうか。肉体的完璧を、永遠の肉体をもつ人間がうごめいて、慾望を制御できない人類がはたして生存しうるでしょうか。不安と謎は深まるばかりであります。
 ノーベル賞は、かつてニトログリセリンを混合してダイナマイトを作ることに成功したアルフレッド・ノーベルが、ダイナマイト製造で巨額の富を築いて事業家として成功した人でした。刀や槍で攻撃、殺し合っていた争いは、ダイナマイトが作られるようになってから、大規模に相手に殺傷を負わせることに成功しました。もとより爆発力を使って人類社会に貢献することも大でありましたが、人間はそれを悪用することも忘れませんでした。争いが拡大し、戦争が大規模となって大量殺人を犯すことが可能となり、それに手を染めていったのです。火薬製造で莫大な資産を残したノーベルは、この世で事業家として大成功を遂げたにもかかわらず、一人の人間として悔悟と反省に悩まさ
れることとなりました。ダイナマイトの真価を悪用されたノーベルは、自賛に駆られ私財を放げ打って償おうと、人類に役立つための基金を設けたのがノーベル財団であります。そのことによってそれからの人類社会は大きな変化を遂げて、大革命を繰り返しながら科学の発展を促し、多くの矛盾をはらみながらも、今日の進歩した人間生活と人間社会を築くまでに至りました。
 iPS細胞を作製して再生医療に大きく役立ち、多くの疾病者を救い、苦しみから脱け出
せた人間は、再に新たな分野を求めて研究の道を進んでいくことでしょう。人間社会に対して、神が武器に使っていた死の恐怖から、人間自身が解放されて、神の権威から逃れたとして、即ち、老いと死の壁を打ち破っていった先に、一体どんな世界が待っているのか、怪奇な世界に、賢者の狂言が聞えてくるような気がします。このまま、賢者の出現を待望するのでしょうか。燈々と光を放ち、秋の夜空をわたる月を見ながら、自らに問い詰めたことであります。
                                  10月9日

  試練のEUにノーベル平和賞
 ノーベル賞委員会は欧州連合(EU) にノーベル平和賞を贈ると発表しました。EUの前身時代も含めて、六十年以上にわたって、欧州の平和と和解、民主主義と人権の向上に大なる貢献をしたというのが授賞の理由であります。 周知の通り、欧州の過去の歴史を見ると、物語的には華やかな勝利と栄光の舞台ですが、その裏に死臭ぶんぶんの戦慄を覚えずにはおられません。戦争による血の雨は大地に注ぎ、地底の深くから今以って死人の残虐を負った呻きが聞こえるようです。近年の歴史ではそれが顕著でありました。第二次大戦後、対立の歴史に生きてきたドイツとフランスが和解し、手を取り合って平和と連携に踏み出しました。領有権を巡ってフランスとドイツはここ70年間の間で3度の戦火を交え、犬猿の仲でした。その両国が、特に冷戦時代の東西分裂状態の世界に終正符を打って、和解と共存に踏み切った決断は、歴史に記して余りある勇気と英断の結果であります。欧州全域が、戦争の大陸から、平和の大陸に目指して、大きな大木に育っていく基礎を打ち立てました。それほどに国家間、民族間の争いが絶えず、多くの市民が抵抗もなく殺されていった歴史があります。 EUの歴史を検証するまでもなくEUは初め、1952年に発足した欧州石炭鉄鋼共同体を源流とします。第二次大戦の悲惨な歴史を二度と繰り返さないために設立されたものです。その後の前身となるものは欧州共同体、ECです。戦争のない大陸をめざし、平和と連携を理念としてできたものです。運営には幾多の国難をはらみながら、賢明、沈着な努力によって波を乗り越えてきました。平和と連携の大義を掲げて、諸問題を解決しながら、それが今大きく実を結びつつあります。
 EUの共同体は加盟国が27か国にまでふえました。市場の一体化を図り共通通貨であるユーロによって経済的結合を量っています。ユーロに加盟する国は現在17か国です。人口5億人を数える大経済連携共同体です。世界経済の2割強を占め経済規模ではアメリカを上回っています。複雑に対立していた国々が今や単一通貨のユーロに統合され、通貨、物流の拡大、発展に尽くされています。一方ギリシャから起きたEUの通貨危機は今近隣諸国に飛び火して、スペインにまで混乱の波が打ち寄せています。EU経済の混乱は、そのまま世界経済に影響をもたらし、直接、間接に日本の景気に甚大な影響を与えつつあります。欧州危機の克服が世界経済の回復基調に大きく貢献する図式を見て、今こそ平和と連携の必要性を痛感するときはありません。経済のグローバルの波に乗って、いまさら他国を無視し自国のみに舵をきって、引き潮に乗って逆戻りするわけにはいきません。解決すべきEUの矛盾は明らかです。それは経済政策、財政政策が各国それぞれに独立して行われていることにあります。そうした政策、制度を早い時期に改善されることではないでしょうか。通貨と財政の一体化が叫ばれます。為政者の英知の発揮と、勇気ある決断を期待するところであります。
 考えてみればEUに限らず、大なり小なりこの地球上では、今以てはげしい対立、争いから国と民族が抜け出せないでいます。一部の権力者の横暴、無策によって、経済的対立が、政治的、軍事的対立に到り、あるいは無益な国家間の惹起をもたらし、あるいは悲惨な内戦になって多くの市民が理由もなく命を落し、多くの家族が貧困のうちに離散する悲劇が起きています。これこそ由々しき人権問題であります。悲劇的な多くの事例がありますが、そうした無益で悲惨な状況をなくすためにも、今回のEUへのノーベル平和賞は異例とされるほどに、現代的意義を内包しているものであり、すべての人が称賛しつつその意味するところを心に留め置くべきことと痛感してやみません。
 ところで欧州の経済危機が災いして、ノーベル賞の賞金も一律二割乃至三割カットという影響も出ていることは皮肉でありますが、多くの受賞者は概ね社会に有意義に還元していることも、その思いを肝に銘じて我々の日常活動も実社会に反映して、教訓とするべきだと、そしてこれが一般市民も大いに触発されるところであります。EUへの賞金は邦貨にして9430万相当ですが、加盟27か国が平等にわけて三百万、小さい金額で大したこともできないかもしれませんが、世界平和のためのモニュメントとして各国国会議事堂前に建てて、ゆめゆめ忘れることのないように、永遠に平和と連携の記念として生かして行ってみたらどうでしょうか。しかし、もっといい生かし方があるかもしれません。小さな力を、大きな力に変えて、これからの世界の平和と繁栄のための実り豊かな大樹に育てて行こうではありませんか。
10月10日

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   先週土曜日のこと、かねてから思い詰めていたことを書き始めました。普段は、主に罫線のないフラットな紙に、鉛筆、もしくはボールペンでどんどん書いて行き、それをインターネットに転記して各位にお知らせしますが、最近はいきなりインターネットに向かって「理事長室から」を打ち込んでいくようになったので、今回のような事態に遭遇するとすべてが消されてしまい、まったく白紙状態から改めて書いていくことになります。当惑しました。折角書いたのにという思いがあって、また書き始めるのかと思うと同じようなことは書けないものです。いきなりホームページに打ち込んでいっても、私は余り加筆訂正したことがありませんが、連休を挟んでいたので,余暇に楽しみながら、いろいろと付け足してかなりの部分まで進行し、更新と再構築のボタンを押していましたところ、突然画面が消えてしまいました。いろいろと試みていましたが、再生することが出来ず、がっかりしているところです。見てくださった方にはそのままお知らせしたに違いありませんが、その後開いていただいても、読むことが叶いません。皆さんにも申し訳なく思っていますが、筆者自身も残念で、さりとて同じことを思い出しながら書くとなると、イライラが募って来ますが、書かないでいると又イライラが募ってきます。何とかこの状態を抜け出すには、又納得しながら書くことが必要か思い、時期とタイミングを狙っているところです。何しろ仕事の合間に感じて書くものですから、複雑な思いであります。
   パソコンは便利ではありますが、生き物のように勝手に動き出したりすると始末が悪く、悪意を持った人は、いろいろと面白がって邪魔をしたりするそうです。それにしても避けることのできない、今の情報化の波が押し寄せる世の中です。翻弄されないように、自分自身をしっかりと縄に結び付けるようにしています。すると何も恐れることもなく気にもせず、パソコンの便利さを吸い取っています。しかし、このたびの失敗というか、意地悪な仕業というか、せっかく時間をかけて成し挙げたものが、意に反して紛失したりしないよう、十分注意していくべきと痛感しました。愚痴を述べてここまで来ましたのでこのまま、やおら思い出しながら又書いていくことと致しましょう。   10月15日                               

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      街の大改造計画  (京橋交差点街)

    昭和経済会の事務所からほど近い京橋3丁目の交差点が、今、大再開発地域に指定されて触手を動かされてから6、7年がたつでしょうか。一角に散在していた大小のビルが一つ一つ地上げの対象になって解決するまでに長い年月がかかりました。一丁目1番の区画には古くからあった協和銀行京橋支店の入った京橋3丁目ビルと、片倉工業ビルと、蛇の目ミシンビルの3社だけで解決のつくものでしたが、隣接の2番の区画は簡単なものではありませんでした。二区画とも同じ面積でそれぞれ1000坪ぐらいの面積ですが、一方の番地の土地は地権者の数が多く、簡単にはいかなかったようです。大小さまざまに、ちまちまとしたビルが合わせて20社ほどが、乱立して立っていたものでしたが、地権者とほぼ話がついていったのでしょう。辛抱強い交渉が続けられていきました。
    小さなビルが一つ一つ解体されて、大きな重機が現場に入って毎日轟音が響いていました。破壊的な、殺風景な街の様子がいつまでも目に入ってきて、しまいに街自体がこのままいつまでも続いていくとしたらと想像すると、嫌悪感すら覚えてきました。地元にいて事業を続けていく人たちにとっては、もういい加減にしてくれと投げやりな言葉の一つも吐きたくなるような心境でした。関係のない地区のお店が何軒か店を閉めていったところもありました。商売が成り立たなくなってしまったのかもしれません。買収の対象になっているなら、いい条件の提示もあってわたりに舟ということなのでしょうが、そうではなくてとばっちりを受けて迷惑千万といったところなのでしょう。持ちこたえていれば、大規模開発はそこだけに止まらず、これから周辺に波及していくかもしれませんし、新しい街づくりが完成すれば、おのずと資産価値が上がるかもしれません。しかし遠い将来のことかもしれず、こればかりは運としか言いようがありません。
   更地になって建物の建築表示が出されたのは平成22年4月9日でした。建物の名称は「京橋3-1・プロジェクト」でした。設計施工は清水、大成の共同企業体です。二区画を分けて従来、中央に都道が走っていましたが、これを払下げてもらい二区画を統合して一区画とし、利用面積をさらに広く拡張し、その上に巨大な建物を建築することになりました。従って敷地面積は8131㎡で、坪にして2460坪の広さです。建物の敷地面積は5627㎡、坪にして1702坪になります。約758坪の敷地が、ビルの周りを囲んで遊びの場所としてとして提供されることになって、都心の構想のビルとしては、地上から広い解放感がうかがえるものです。
標識によると 建物は地下4階、地上24階、その高さは124メートルです。平成25年3月末となっています。現場はほぼ予定通りに工事が進んでおります。建物の使用目的を見ると、多目的ビルということがわかります。事務所のほかに、店舗、診療所、集会所、展示場、のほかそれに見合った駐車場などがあります。ビルの延べ面積は11万7500㎡、約3万5550坪という広さです。着工が平成22年9月で、いま外に出て確認してきましたが、清水、大成の共同企業体で間違いありませんでした。銀座中央通りを挟んで向き合った東側の区域を含めると、開発規模は二割五分増すことになります。この区域は第一生命が所有していました。
   最大の興味は、この「京橋3-1・プロジェクト」の建設に要する資金です。私の概算で1兆6000億でしょうか。土地代が坪当たり5000万として1兆2500億、建築費が坪120万として4260億という内訳になります。開発計画に手が付けられてからざっと6年間ですが、ばらまかれたお金が1兆2500億という経済効果は計り知れません。加えて周辺地域の環境整備も逐次急ピッチで行われています。又これに刺激を受けて老朽化した建物も解体、再建築が進められていて、波及効果の範囲はさらに広がっていくものと思われます。


   この10月には東京駅が長い歳月をかけて復旧と全面改装の工事が完了し、100年前の創建当時の面影を再現し、新しくお披露目されました。大正ロマンの花が、大東京の中心の東京駅に大輪の花を咲かせ、古き良き時代の再現に成功しました。これより先、丸の内ビル街は、大規模の開発が行れてきており、センスにあふれた高層ビルが立ち並び、商業施設の大幅な設置が集客力を高めて連日の観光客で新たな名所となっています。都市の面目を世界に知らしめて発展する東京は、そのまま日本の経済発展を世界に発信していることになります。加えて近年、日本橋、八重洲口が、丸の内の大改造計画に触発、呼応して見事な力強い発展ぶりを呈してきて、現代的なデザインを持ったビル建設が急ピッチで進んできました。このたびの京橋ビルの大建築は、丸ビルと日本橋、八重洲界隈を結び付けて、さらに銀座の街並みに続いていくものとなってきました。西に延びる官庁街も機能的に立ち並んでいます。広大な敷地の皇居を控え、風光明媚な大都会の魅力はさらに高まり、世界に向かってその景観は、富士山と並んで日本を代表する荘麗で豊かな国土の象徴となるものです。
  この大型の多目的複合ビルが完成すると、このビルと向き合って、富士屋ホテル側に近三商事の所有地があります。三方を道路に面した形の良い地所ですが今は広い駐車場になっています。名門の近三商事は昭和j経済会の会員です。日本橋室町に所有するビルは重荘華麗なビルで東京都の有名保存建物に指定されています.昭和8年に竣工しました。敷地300坪8階建ての堅牢優美な建物は、きゃしゃな周辺の建物を圧して余りあります。この建物の設計は、かの有名な村野藤吾博士のもので、近代モダニズム建築を代表するものとなっています。施行は竹中工務店です。玄関口ろびーのドーム型の高い天井には一面にガラスモザイクが貼られていて、見事な装飾が圧巻であります。昭和経済会の人たちには、何時でも見学の機会が与えられています。ところで近三商事殿が所有する京橋のこの場所には昔5,6件からなる商店が立ち並んでいましたが、すべて近三商事の地所を借りていた人たちでした。3,4年かけて立ち退け交渉をした結果、借地権をすべて買い戻して上物を解体してきれいな更地としました。 この一角に佐藤建設が事務所を構えていました。同じ昭和経済会の会員で話がスムースにまとまり立ち退きの仲立ちを務めた私は大変喜ばれました。長年当地で事業を継続してきた私にとって周辺は庭みたいなものです。


 昭和経済会の事務所は、京橋交差点から100メートルほどの所に位置しています。八重洲富士やホテルを目指して来れば、すぐにわかる場所です。商工中金本店の横玄関と向き合った城辺橋ビルの7階にあります。私が理事長を務めて以来仕事の効率化を図るため、それまでにあった銀座一丁目の武蔵やビル6階から移ってきました。移ってきてから40年近くになります。このビルは戦後昭和34年に建てられたものです。オーナーは戦後の都市発展に尽力した城戸さんです。その間都市の発展も目覚ましく、地下鉄も浅草銀座線から、今では日比谷線、有楽町線、千代田線などが開通して久しく、最寄の駅にはそれぞれ徒歩2、3分であり、交通至便なところです。私は独立して所帯を持ったころから生まれ故郷の浅草猿若町から世田谷の等々力に移住しました。以来、東横線経由・地下鉄日比谷線で銀座まで乗ってきて、そこから東京駅方面に向かって賑やかな外堀道りを通ってオフィスに通っております。たまに銀座中央通りを通ってきたり、並木通りを経て来る時もあります。いずれも毎日の通勤経路は、ありがたいことに華やかな銀座通りを爽やかに歩いてくるので、気分はいつも青春時代です。銀座プランタンの店内をそのまますり抜けて、歩いて知らず内に出勤してくるようなものです。大変恵まれたラッキーボーイであることに違いないと、満足し感謝しております。
   新しくできたビルにはブテイックのきらびやかなブランド店が数多く出店しているのを初め、最近では、グルメと銘打ったレストランや老舗の料理屋が出店し、それも国際色豊かに郷土色を売り込んで、消費派の趣向を満たしてくれています。そのためでしょうか、老若男女を問わず、朝から開店を待つ列ができ、日暮れを待ってラッシュの時間帯には大勢の人が列を作って順番を待つ有様です。こうして見ると日本の消費欲はまだまだ盛んだと思いました。東北大震災が起きる前は、日本を訪れる外国人観光客で国中があふれるばかりでしたが、皮肉な結果でニッポンは痛恨極まる運命に襲われてしまいました。大震災では大きな影響を受け、分けても東電の原発事故で放射能汚染の影響で潮が引くようように、外国人観光客が減ってしまったわけですが、国の威信も大きく落ち込んで国民の二重三重の苦渋はしばらく忍耐を以て耐えていかねばなりません。そうした深刻な時期ですが、一方で少しでも華やかな復興、発展の道筋を驀進し、大都会から自然に湧き上がっていく底力を示して、経済停滞の撃破の突破口となれば、平和と繁栄を目指す日本の信念と自信を示して、世界に率先垂範を示していけるのではないでしょうか。    10月17日


   国際通貨基金の年次総会が先般、東京で開かれました。各国から2万5000からの人たちが参加して熱心に討議がなされ、決議文が採択されました。世界経済の減速が確認され、世界は、各国とも厳しい財政、経済運営に直面していかねばなりません。しかし政府に経済運営を託すのではなく、そうした時こそ民間企業がこぞって創意工夫して新たな経済の起爆剤ともなるべき新境地の開拓に邁進し、新しい有効需要を喚起して、勤めて行く時ではないでしょうか。私たちは口をそろえて云った時がありました。小さな政府と行政、無駄のない弾力的な、活力あるクリーンな社会の構築こそが必要であります。均衡のとれた理性的な社会を想像していくこと、経済的汚染から守り、破壊から秩序を守り、人権を貴ぶ社会こそ後世に残していく我々には使命があります。経済的汚染とは有害無蓋を含めて経済活動から生まれる、残骸の処理です。。それらを再生して資源の無駄使いをなくすこと効率良き産業の育成が、新たな分野の技術を掘り起こしていきます。こうした危機に立つことこそ、人間にとって反省と自覚を促す絶好のチャンスであり、人類が継続して豊かな明るい神の国にちなんで進んでいく道しるべとなるでしょう。世界銀行を含め、国際通貨基金の年次総会がこの時、日本で開かれわれわれの指針が示されたことに、世紀に臨んで大きな意義があることに気付かねばなりません。
会議に参加した多くの人が、街の美しさ、力強さ、人の往き来の慎ましさなどに目を注ぎ、東洋の最果ての国の賢者の姿を心に浮かべ、一様に感嘆の声を上げております。そうしたことは、この国の独特な力を象徴するものだということです。明治維新のさなか、日米友好通商条約の調印のため日本代表団が、二ューヨーク・マンハッタンのブロード・ウェイを行進していく様子を、アメリカ建国の詩人・ホイットマンが堂々と歌っています。「日本から来た東洋の賢者の面差し深い、寡黙な人間が今ブロード・ウェイを行進していく」と。100年間前の変わらぬ姿を想起し、情愛に満ち思索的な日本人の高邁な精神構造の持ち主を垣間見たのでしょうか。余りにも飛躍すぎる論法かもしれませんが、しかしホイットマンの慧眼は間違ってはいないと思います。


   戦後の荒廃から立ち上がって再建の道を進んで67年、現在の東京は輝かしい街並みに変貌しました。そしていまだに進行しつつあります。それは第三の波となって民間の手によって東京改造計画が進行中です。100年前に建てられた優美な東京駅の再現は、日本人の東洋的、伝統的な感覚と、美意識をを象徴するものでしょう。周辺はそれに呼応して、ますます発展の度合いを深めていくものと思われます。華麗に完成しつつある丸の内界隈と、東京八重洲口界隈がつながり、京橋3-1・プろジェクトが結び付き、銀座地域に抜けていくコースは準備万端です。陸続と大きな人の流れを見て取ることができます。わが昭和経済会は言うなればそのど真ん中に位置して80年近く穏健にして自由と平和主義をかざしてたゆまなく活動し、公私経済の発展に寄与してきました。そしてさらに変貌の激しい内外の情勢に機敏に且つ正確、大胆に対処して、これからも諸問題の解決に当たり、会員諸兄の役に立ち、社会の要請に努めてまいることを標榜しております。
    昭和経済会の活動拠点が中央区銀座並びに八重洲に創立以来あることも誉れであります。先代の足立理事長は創立場所を日本に中心地の東京を選び、その中心地の中央区に設けることを決心し銀座1丁目に設けました。その志と慧眼たるや、不動の信念は敬意に値します。会は戦前、戦中、戦後の激動期を潜り抜けてきました。私が昭和56年1月理事長を拝命し、活動の効率を図るため事務所を現在の八重洲2丁目に移しました。ここに来てから31年がたちますが、日夜研鑽、努力の山積する絶好の場となっております。
    昔、銀座1丁目に洋画専門で封切り映画を上映していた「テアトル銀座」がありました。映画の好きだった兄に連れられて足しげく通った思い出があります。ディズニーが制作した「バンビ」を初めて見て興奮していました。ワイドスクリーンを最初に使った劇場としても有名で、多くの観客が動員されました。「おあかしな おかしな、おかしな世界」 という映画が上映されましたが、ダニー・ケイが主演したミュージカルで、上映中私は終始笑いっぱなしであったことを覚えています。毎日が楽しい青春真っ最中の頃でした。そのテアトル銀座と向き合って武蔵屋ビルがありました。このビルの6階に昭和経済会の事務所がありました。このビルのオーナーが一階に武蔵屋家具店を開いていました。このお店が家系的には親戚関係にあったことも不思議な縁であります。
   伝統的な、美術工芸的な高級の家具ばかりを製造販売しておりました。江戸時代から続く老舗です。この店の若旦那にお嫁さんを紹介したのが私の父でした。お嫁さんになったのは、私の母の妹の長女でした。台東区の竹町で代々岡村家具店を経営している家で、親戚になります。父が仲人をしたお礼に、武蔵屋さんから結構なお礼の品物をもらいました。それは大きな杉雅の一枚板で作られた和室用の大机です。こんな雅板を作り出す杉の大木は、日本中探しても探し当てることのできないものです。お金に変えられない豪華な家具に、父もびっくりしていましたが、さすがに老舗の祝儀は乙なもので物凄いものだと感服しておりました。その大机は私が所帯を持って世田谷の等々力に引っ越してきたときに母を説得して貰ってきましたが、現在もこれだけは父、母の形見として大事にしています。ことがあって和室に持ち出すときがありますが、堂々として風格があり、家自体が一段と落ち着いて飲む酒もうまく、和歌もしきりに詠めてくるのが不思議です。おまけに床の間に会津八一の和歌と筆の掛け軸をかければ、一段と風雅の世界に我が身を置くことができるというものです。


   開発プロジェクトで解体された建物の中には、堅牢で古いビルが時代の変遷をとどめて惜しまれるのもありました。片倉工業のビルは古く、古色蒼然の感がありました。裏通りの一階には理髪店があって、長年の名物の一つでありました。赤、青、白のランタンがくるくると回っていました。身なりをただした紳士諸君が整髪を終えて颯爽と出てきましたが、当時 「あこがれのハワイ航路」をうたっていた歌手の岡晴夫のような感じの紳士が整髪を終えて出た来ましたが、柳谷ポマードがてかてかに光っていました。青い山脈をうたっていた藤山一郎のような人もいました。雰囲気が一様なのが面白かったような感じがしました。地下一階には古くから美人喫茶があって店内が赤一色のじゅうたんで華やいだ雰囲気を醸して一種独特な風情がありました。和服を召した美人がしゃなりしゃなり広い店内を巡って、お客の注文を受けていましたが、結構な数のホステスが接客していて、しばらくしてから世の中で美人喫茶が大いに人気を博して繁盛したころでした。美人喫茶の草分けだったことになります。当時はまだ大正ロマンといったものが残されていて目の保養には十分の機会を提供してくれた、結構楽しい穏やかな世の中でした。ですから数寄屋橋交差点先には有楽町ビル6階にチャイナタウンという大きなキャバレーがあったりして、赤坂にはミカドがあったり、そうした世相のシンボルにキャバレー太郎の異名をとった福富太郎が銀座に六つも、七つも店を以て華やかな銀座を演出していました。もちろん銀座五丁目から七丁目には高級クラブが店を張り、その繁盛ぶりで世の中の景気、不景気がわかったものでした。金田中や河庄といった料亭も華やかに日本的な情緒を演出していたころです。平成2年からの引き締めでバブル経済が終焉し、経済停滞が始まってデフレ不況が蔓延化すると、今やそうした店の多くは消えてなくなりました。ただ一つ堅実経営に徹し、世の勤労男子諸君に唯一の朗報を保ててくれるのは、操業80周年を迎える銀座の白いばらだと云います。先ごろ長年勤めた店長が定年退職して皆に惜しまれて店を去りました。東京新聞が取材に見えて、店長の退職を惜しむ記事を掲載して花むけとしました。私はそれにちなんで和歌百首を真面目に詠んで、名門の短歌同人誌・淵に発表し、その人となりをうたった次第です。それは勤労精神を謳歌し、世の男児諸君を励ます歌でもあります。皮肉にも聞こえますが、多くの方々から称賛の声をいただきました。落ち着いて考えてみると当然の評価をいただいたものと思っています。世の中は日進月歩で、経営様式も生活様式も様変わりです。街の様子も当然変化を遂げて、栄枯盛衰、浮き沈みの激しい時代となってきました。こうした時代こそ各人、各企業は持ち味を生かし、言うなれば歴史と伝統を堅持して、世の発展に寄与していかねばなりません。


  中小企業が生き残りをかけて技術革新の波に乗って独自の分野で技量を発揮し、新しい企業もどんどん生まれてきました。大企業は資本に物を言わせ企業の吸収合併を繰り返して合理化を図り、競争力を高めて市場を席巻しつつあります。事務機器を挙げてみてもファックスが進み、携帯電話が普及し、パソコン、インターネットの爆発的普及で、スピードと省力化は昔に比べまさにここ10年の間に、天と地の差がついてしまいました。効率化、画一化は現代の生活、現代の企業、現代社会の中に広く深く浸透して様態は一変しました。大学を卒業した友人が私鉄会社に就職し、改札で切符切りを初めて半年間、更に便所掃除をして訓練したことを思い出せば、今切符を切る人はいません。時代についていけない人もたくさん出てきました。機械化や省力化の波は当然のことながら、雇用市場に影響を及ぼし、万年失業状態が続いていくことになります。金持ちが貧乏人を助ける経済社会の構築をしなければなりません。鄧小平後、資本主義的経済運営を取り入れた中国は近代化の道を驀進し、結果GDPで日本を抜き世界第二位の地位を手にしました。しかし発展の過程でほころびが徐々に露出し、民衆の間にとめるものと、そうでない貧乏人との格差拡大がきました。この所得格差をいかに埋めていくかが今の中国の最大の課題であります。こうした傾向が中国社会の不安要因で、かってのように拡大する市場に参入し、企業がうかつに中国進出をするわけにはいかなくなってきています。ピグーに代わる新しい意味でも厚生経済学もそうですが、後世のための大胆な社会スキームの提唱と実施が緊急の課題です。
   世界的な視点から見ても、無駄を省くことも課題です。戦争など、ましてやシリアのように内戦状態を続け、市民を容赦なく殺戮して平然とし、大国は見て見ぬふりをして平然としているなど言語道断であります。シリアのアサドのような人間が世界を跋扈するなど、まさに地獄の沙汰であります。世界の良心はいったいどこに行ってしまったのでしょうか。正義も平和もあったものではありません。アサドのような体たらく者を、無法者を、無頼漢を一刻も早くこの地上から抹殺すべきであります。ドイツのヒトラーのような虐殺趣向者で、獰猛、狂人の類いであります。さもないとああした人間であっても権力さえ握ってしまえば何をなしても構わぬという思想が、人々の間に蔓延していかないとも限りません。恐るべき風潮であります。戦争ほど無益で無駄なものはありません。非人道的な悪行であります。利益を生む戦争商人の存在もあるかもしれませんが、もとより悪徳商人であります。与えられた経済行為には、もともとより有効な生産的消費があるはずであります。真の企業家精神こそこの世に勝利を博すような価値観と思想を育てなければなりません。それは、生産者にもよく、消費者にもよく、世のなかにもよい商品を作り出していく企業家です。この思想のもとに円滑に経済が回転していく上にこそ、正しい経済発展の原理が我々人間社会に生かされていくのであります。


   確か同じようなことを渋沢栄一が言っていたように思います。金融経済と物づくり、物品の生産こそは現代の最重要課題であります。日本人はこの「ものつくり」に長けており、その志と精神は他国の追随を許しません。手先の器用さと繊細な感覚、経験から割り出した緻密な計算と作業、そして集中力と忍耐強さは日本人の特性であります。そこに商人としての良心的なそろばん勘定が加わって三方よしの経済観念が湧いてきて、好ましい循環が行われていきます。精密機械の優れた技術は、豊かな想像力とともに繊細緻密な職方根性から生まれてきたものです。精緻な計算は試行錯誤の経験から生み出されたものです。五重塔の建設も宮大工にとっては設計図面は必要ありません。勘と道具の手探りの使い分けだけです。それは限りない創造性を生み出して、味わいのある個性をを発現していく手立てともなります。結果に置いて現代の先端技術を以てしても、太刀打ちできない建造物を立ち上げてしまうのです。そうした職人は少なくなりましたが、天性の技は、その精神は心身に受け継がれてきています。それが日本の科学技術の発展に大きく寄与しているのであります。山中教授のノーベル賞にもつながるものであります。
投資の有効活用によって経済の循環が促され、周辺各地に波及効果をもたらすことが出来れば、景気回復の起爆剤となって日本経済も活路を見出していけることでしょう。東北大震災の復興予算の実行が、直ちに景気刺激になるとは考えにくい要素もあるので、ちょっとしたきっかけで、新しい都市開発が各方面に投資を促すことにもつながっていきます。今、消費者の関心が都市に集中してきている感じがします。今日10月25日、夕方6時近くに帰途につきましたが、途中銀座プランタンの前を通り過ぎていきましたところ、大勢の若い女性たちが群れを成してお店の中に吸い込まれていく光景に出会いました。更に多くの女性がお店を取り巻いて列を作り、入店の順番を待っているのです。女性はそれぞれ招待状を手に持って、プランタンの「お客様謝恩大セール」と銘打ったプランタンの商戦に飛びついているところでした。この日はお店が五時閉店となって、全店が招待客のために設けられていました。外堀通りの北口から入店して、西口から出るといったコースで、係員が多くのお客さんを誘導していました。この若い女性たちの購買力は驚異的に映りました。売り出す商品も上質なものを安く提供するといった主旨のようです。女性だけしか入れそうもないので、しばらく表に立ってその圧倒的様子を観察していたところです。街がきれいになって有名ブランド店が、軒を連ねて出店し競争しあう雰囲気になると、センスと美しさと若さを求めて多くのファンが詰めかけてくるでしょう。その相乗効果は物凄いもがあります。


  そうした効果を待って来年三月には、いよいよ京橋③-1プロジェクトには所業施設が華やかに出店することでしょう。交通的利便性加え、都心に上級の高度先端の医療技術を持った診療機関も設置されるとのことです。来年三月末には竣工する予定になっていますが、今日現在、構造的工事は9割型完成してきております。あとはじっくりと内部の設備工事や内装工事にかけられることでしょう。
工事現場を囲む高い塀には京橋の変遷と銘打って、街の変化の様子の写真を拡大し、時代を追って楽しく掲げてありますが、明治35年の時には、京橋大通りにはフランスの凱旋門をもじったものでしょうか、「東京凱旋門」が威風堂々と建っていたことがあったのです。明治42年の写真には、京橋の堀割には伝馬船が係留されて、釣り宿があったりしました。道行く人も着物姿の女性や、作業着姿の仕事師など、馬車をひく人もいて、随分と古びたのどかな光景で当時の流行と風俗などもうかがえて、今ではとても想像できないものです。過去の歴史を少しでも振り返って、反省の上に立って先人の教訓をそこに求めることは、進歩発展する人たちにとって常に、原点に立つ姿勢として尊ぶべきものがあります。
第二次大戦の終了までに東京は米軍の重爆撃で、完膚無きまでにたたかれて、ほぼ不毛の地と化しました。残骸は目を覆うばかりの悲惨さで、一面焦土と化し、一時は原爆投下の広島、長崎の悲惨な状況と変わることがありませんでした。張られた写真にはさすがにその頃のものは掲載されていません。想像ですが一枚の写真が貼られるとすれば、硝煙の立つ焼け野原に、薄汚れて憔悴しきった少女が、生きる希望を失って呆然と立ちすくむ姿ではないでしょうか。思うに日本の為政者は国民にとって気違い沙汰の政治を敷いていったものです。やっていたことは今のシリアのアサドと何ら変わっていませんでした。内戦こそなかったものの、多くの国民の生命、財産を奪ってもはや再起不能とまで言われていた日本と日本人でした。しかし先に述べたホイトマンの詩を読むまでもなく、日本人の正義と不屈の精神は、国民をしてこの国土の焦土から見事に立ち上がらせました。300万の日本人が戦争の犠牲になっています。はやりの帝国主義的政策とも云うのでしょうか、アジアに進攻していって統治下に置いた植民地と投下資本はすべて失い、進攻して奪った土地はすべて失い、外国に滞在していた軍人や商人や、入植者たちは命からがら本国に戻ってきました。しかしその本国たるや、経済はずたずたに切り裂かれ、生き残った国民は、女子と老人と子供だけという貧乏のどん底に投げ込まれて、食べるがやっとの世相でした。
   いつまでもぼんやりしているわけにはいきません。焼けただれた地面に雑草が生えていくように、焦土に人々は懸命な再建のつるはしを振り上げました。工場では生産の機械の歯車の音が鳴り始めました。荷物、商品を運ぶ人力車の復活もありました。リヤカー、大八くるまが物品を運び始めて、公設闇市を作って活躍しました。ほしがりません勝つまでは をひっくり返したような戦闘力が、民主主義と自由の薫風に乗って澎湃と湧き上がってきました。再建への大いなる道であります。自分たちで作り上げていく、新しい理念の下での国家建設であります。国民に労働意欲の実感がこもってきました。


戦後の混乱した一時期、闇米列車が各地から東京に向かって必死の光景を演じながら走っていました。 闇米を担いで汽車に乗る婦人たちは、途中警官の取り締まりにもひるまず、田舎から都会に食料を運び出しました。なかでも東北線と常磐線が都民が食べるコメを運んで必死の活躍をしていました。必死になって戦う相手とは、なんと日本の警察官でした。一足早く父のもとに一人上京した私は、常磐線の列車のなかで、騒然とした光景に出合いました。土浦あたりから闇米を背負った女たちが大挙して汽車の中に乗り込んできました。利根川をわたってくるあたりから、松戸駅で取り締まりの一斉立ち入り検査が入るという情報が入ると、女たちは背負ってきた大事な闇米の袋を窓から外に向かってどんどん放り投げていました。地上には仲間の者たち数人が懸命にその袋をかき集めているのです。松戸駅に着くと案の定ご5,6人の警官が血相を変えて乗り込んできました。野菜だけはカムフラージュに持っていましたが、米は全て途中で外に投げ出していたので没収されないで済んだのでした。「坊や、お米は持っているかね」と警官が私に聞きました。「持ってなんかいないよ」と、ふてくされて答えたことを覚えています。おんなの意地と知恵が、警官に勝ったのです。しかしこの闇米がなかったら、国民は餓死したりしたことでしょう。戦後、国家のために闇米は喰わないと宣言した裁判官がいました。一途なその人は餓死して死んでしまったことが大きく報道されました。正義とは何かを考えさせられることでした。勇気を出してコメを列車の外に投げ捨てていったのも、乗り込んできた警官に取り押さえられないためです。
   戦後輸入されたイタリア映画の「にがい米」のワンシーンを思い出しましたが、生きるために体を張っていく強いおんな達の姿を見て胸を打たれた記憶があります。おんなと警官たちの知恵比べ根比べの闘争が繰り返されていました。こうしたことが列車の中で毎日行われていたのです。そうしたいろいろな混乱の中から、やがて自然的に市場が開かれて、取締法もだんだんと有名無実のものと化して自然消滅したり、廃止されていきました。統制が撤廃されていって、そこから次第に自由市場が広く行き渡っていくようになりました。上野のアメ横は戦後の自由市場を無政府的に認めていたもん歩ですが、豊富に出回る商品は戦後に余った軍需品の副産物や、配給の横流しや、アメリカ軍の物資の横流しが中心で、すべて闇価格でした。そして次第に物の取引が活発行なわれていきました。都会には、それぞれに合った建物がどんどん建築されていきました。都会の復活と、再建の音は全国に響いて広がっていきました。都民の不屈の精神が発揚されたのです。こうした動きの素朴な活況さについては、写真の説明がありませんでした。時代がやや安定したころの昭和29年以降に写真の掲示は移っていきました。


 京橋の中央通りを走っていく都電が大きく映っています。このころは木製の都電も走っていました。標識は22番で千住から新橋間を走っていた線です。木製の電車は動いている最中にぎしぎしと車体が鳴って揺れながら走っていきましたが、人によっては薄気味悪く感じたことでしょう。スピードを上げて走っていくときは、左右に揺れて確かに壊れてしまうかもしれないと思う時がありました。当時は都内を網を張ったように都電が都会の街の中を走っていて、都民の唯一の交通手段になっていました。しかしその後の猛烈は自動車の普及で都電が邪魔扱いされるようになって廃線が相次ぎ、軌道が次々に撤去されていきました。自動車の氾濫は排気ガスによって環境を破壊し、今では都民生活を圧迫するほどに悩みの一つですが、クリーンな交通手段の復活に熱い視線が注がれてきています。都電と自動車の共存共栄を図っていくことは、穏やかな時代の復古調と相まって、都会の美観を作る要因でもあります。外国では古くからあるトラムが大切に残されて、都会の大きな交通手段になっています。オランダのアムステルダムで軽快な車輪の音を聞きながら観光を楽しみましたが、実に合理的で楽しい乗り物です。京橋を走っていく都電の写真を見ながら、当時を懐かしく思い出していました。今年は各地で路面電車の敷設100周年を祝う行事が行われる予定ですが、これからの都市はこの路面電車を有効に復活し、ないしは新たに敷設していく運動を広げていこうではありませんか。都市計画に積極的に組み入れてクリーンで効率の良い潤いを添える乗り物は、この路面電車にほかなりません。東京都は一時は、全盛期には、網の目のように張りめぐされていました。目先の胆略的な思い出ほとんどが廃線になってしまいましたが、都心を流れていた河川を埋め立てていってしまった悪政と一緒で、戦後の都市計画が失敗を犯した残念なことの一つです。
  私は少年時代早稲田中学に通っていました。浅草聖天町の停留所から、この22番の都電に乗って日本橋に行き、そこから今度は15番線の早稲田行きに乗り換えて終点まで乗って、毎日通学していました。ほとんど毎日が朝の通勤ラッシュで込み合っていましたが、デッキにつかまって風を切って乗っていくのが楽しみでした。運転手とはすでに顔なじみで私が最後に乗ったのを確かめ、安全を確認してからいつも走り出していました。こうして朝のスリルに満ちたゲームを楽しめるのは、二つ目先の浅草松屋前の停留所まででした。その先は交番の巡査が目を光らしているので、とがめられるのを避けていたからです。その後は浅草橋乗り換え、そしてまた厩橋乗換とルートも激しく変わっていきましたが、それほど新しく路線が復活していった証拠でもあります。もちろん街並みの風景も、戦後からの脱却を示すように大きく変わっていきました。


   そのころから半世紀たった今、京橋3-1プロジェクトの現場は、大きな音おたてて完成の道を急いでいますが、完成の暁には巨大な建造物が、優美な外観を呈してお目見えすることでしょう。さすれば周辺一帯は見違えるような景観を呈し、東京の一大ブランド地域に変貌して内外から多くの人たちが押し寄せることでしょう。新しい時代の幕開けを、昭和経済会の事務所の間近に興奮して期待し、いつも眺めているところです。私も半世紀の間生活を共にしてきただけに、第二の故郷の変貌と発展に大いに関心を以て期待しているところであります。
  昭和に初期に明るく変わっていく様子を希望を以て歌った、はやり歌があります。佐藤惣之助が作詞し、古賀政男が作曲した「青い背広で」 という歌です。この二人の名コンビで作られたこのうたは、一世を風靡しました。これをうたってご紹介しましょう。いや歌うのではなく、単に文字としてご紹介します。軽やかな青春の日に立ち返って歌ってみると、今の難しい世の中のことなど忘れてしまうような軽快な歌です。 「青い背広で心も軽く 町へあの娘と行こうじゃないか 赤い椿でひとみもゆれる 若い僕らの生命の春よ」 思い出しましたか。偶然にも私は今日、青い背広を着てきております。そのせいでしょうか色彩は目にもすがすがしく気分爽快です。ところで歌ですが、当時の浮足立った感じはわかるけど、如何にも古いですか。そうでもありません。AKB48のように足腰のばねが利かなくなっているご仁にはもっとも無理な話になりますが、二番を続けてみると以外にも現代に通じるものがあります。進んで行ってみましょう。
「お茶を飲んでもニュースを見ても 純なあの娘は仏蘭西人形 夢を見るよな泣きたいような 長いまつげの可愛い乙女」  長いまつげといえば今の若い女の子に随分と流行して、みんなの目がパッチリしていて人形のようにも見えます。ところがこの風潮は若い子に限ったことではありません。結構な年配の人も平生長いまつげをつけて顔だちをはっきりさせている方が多いようです。古い歌ではありますが、今の殿方にとっても昭和初期に流行った名歌として、今も変わらぬ銀座の柳の下を歩いていくのも、時代の持続性があって安心できるかもしれません。このところの女性の美容術も特段の進歩をとげて、服装のみならず、エステの普及で顔ばかりでなく肉体の美容までに浸透し、健康趣向の施設はいたるところにできてきています。安易に出店できるからでしょうか、誰にでもできる指圧マッサージの進出が目立ってきております。医療関係の街への進出も顕著です。高齢化の対応を巡って当然の成り行きですが、こうして見ると今日ほど美容健康に高い意識を持つ時代はなかったのではないでしょうか。しかしこうした傾向は決して喜ばれるべきものでなく、一国の経済力の非生産部門の減殺を招き、生産力を阻害する結果にもなるので油断は許せません。前進的競争力を高めてゆくには技術革新への投資、開発部門の拡充、若年層の経済活動への積極的参加を促していかねばなりません。そのための政策は明確でなければならず、又長期的には基礎教育の専門化と、学術研究の基礎を進めることであります。


  先ほど画家の関根常雄仁兄が見えました。月刊誌・昭和経済の表紙絵について旅情を込めて書いてこられた絵と、表紙の絵についての随筆の原稿を持ってきてくださいました。今回は伊豆の熱海の街並みを、熱海城から遠望した角度で松枝越しに書かれた秀作に接し、思わず惹き込まれて鑑賞しておりました。誠実さと温厚な人柄の関根さんの作品には、繊細優かいばなタッチで筆が走り、いつも自然を愛した情景がほのぼのと描かれていて心打たれます。私は少々時間があったので近くの富士屋ホテルの二階にあるレストラン、ウィステリアでお茶とケーキに誘いました。東京駅が創建100年を迎え新装なりましたが、林立する丸の内の高い建物の全容がはっきり望める都会の景観を眺めてもらいながら、いろいろと話題が尽きなく話が弾んでおりました。不思議なもので関根仁兄とあっていると心が自然と和んできます。曇りない関根さんの人柄が私をしてそうさせるのでしょう。昭和経済に入会して25年になるそうです。おこがましいことで恐縮ですが、寺島祥五郎先生から昭和経済会に入会を勧められたとき、私のことを絶対に信用できる人だから入会しなさいと勧められたという話を初めて聞きました。ありがたく思いました。私が寺島先生について確信を以て信じていたのと一緒でした。寺島先生は逝去されて15年になるかもしれませんが、その謦咳に接して思えば胸が熱くなるのです。立派な素晴らしい人に出会えたといつも感謝の念を抱いています。そして今寺島先生のような関根仁兄と胸襟を開いて話をし、何かにと指導をいただいているこの長い関係を不思議な絆と思いながら、人知では計り知れない世の中のつながりを感じていました。新年の表紙の絵について事務局で話をしていましたが、江の島から見た風景に富士さんを合わせると素晴らしいという話題にもなりましたが、新幹線の発着する様子を見ていたら、ふと思いついたことがありました。富士屋ホテルを出るとき、関根仁兄に「東京駅がいいですね、夢と希望を乗せて、大正ロマンも追って」といったところ仁兄は立ち止まって、「そうしましょう、東京駅が新年にぴったりですね」ということになりました。
 さて、都会の地域を問わず街の活気が湧いてきました。事務所の周辺を見渡すと、まだまだ開発の予定地があります。中小のビルの集合化も政策的には大事です。またふと見渡しただけでも、旧都庁の跡地には広大な敷地があります。丸の内・鍛冶橋駐車場に活用されており,中国、韓国からの観光客が、大勢見えていたときは連日超満員の盛況でしたが、今は閑散としています。この敷地に加えて旧都庁で丸紅が入居するビルを初め、無印の入る屋やなど有楽町駅に連結させる手立てもあります。東京駅の大復元を完成したからには、これを起爆剤として100年の眠っていた意識の転換が必要です。創造性にとんだ東京の中心地の拡張でしょう。世界に向けて今、大東京再生の波はこれからも大きくうねっていくに違いありません。内外に広く、意義ある波及効果を発揮していくことでしょう。


   更に最近は銀座界隈に面白い傾向がうかがえていながらにして郷土色を堪能できることです。全国の都道府県がこぞって銀座に進出して、産物の販売に力を注いでいることです。以前から沖縄県は銀座一丁目の外堀通りに面して贅沢に店舗を構え、沖縄物産を大々的に宣伝し販売していますが、すぐ隣には高知県の物産販売所の出店がありますし、近くに岩手、秋田、青森、福島などなど列挙したらきりがなくほとんどの県が個別的に出てきているのでしょう。賑やかなこと銀座ならではといったところです。私のオフィスのすぐ下には高速道路が走っていますが、今回、その下に事務機器を扱った会社が入居していましたが、移転した後茨城県が進出してくるようです。今盛んに工事が行われています。看板によると名称は、茨城マルシェです。この調子で行くと銀座は全国の県単位での物産展示即売所が出店することになるかもしれません。今までになかった新しい機能として、新しい名所として、東京の銀座の名前は、全国的に発信の威力を発揮して広がっていくことでしょう。

  私が昼食に出かけるのは仕事の関係でゆっくりして食べることが出来ず、専ら早食い、早走りのまいにちです。選ぶ場所は手っ取り早く、立ち食いです。立ち食いは三か所に決めております。一つは有楽町駅のガード下にある新奇という名の店です。のれんを分けて入るとうなぎの寝床のような店内ですが、奥の正面には大きな厨房があって、うどん、そば、らーめん、カレーライスといった食べ物で注文をすると手際よく出来上がってきます。私は専らカレーライスを注文してきます。ライスを半分にしてもらい、カレーライスの上に別注で、生わかめをたっぷりと積んでもらいます。ここのカレーの味は下手に味付けを加えないので大変においしく、店の人は昔からの持ち前の味で変わっていないということでした。確かにその通りで昔食べた素朴なカレーの味で、これぞ本格派といってもいいのではないでしょうか。これにジャガイモが入っていれば、子供のころに食べた味をそのまま味わえることになり郷愁を感じておふくろの顔も浮かんできて懐しさがこみあげてきます。お客さんの中で生わかめを載せて混ぜて食べる人は今までにないそうで、店の大旦那が生わかめを混ぜて食べるお客さんは私だけだといっていました。長年ここで商売しているけど私のようなのは初めてだそうです。それを聞いた私のほうがびっくりしてしまいました。こんなうまい食べ方もあるのに、それに生わかめは体に健康的で、一石何鳥にもなります。立ち食いでなければ女房も彼女もこの店でごちそうしてやりたいと思うくらいです。ホテルで出されるカレーと、この店のカレーと並べて料金は同じといわれて好きな方をとって召し上がってくださいと言われたら、躊躇なくこの店のカレーをとるに違いありません。お客さんが隙間なく入ってく来て蕎麦やラーメンをとっていくところを見ると、カレーと同じようなうまさで繁盛しているのだと思いました。
   この先ガード下一帯は、終戦後の闇市を思わせるような雰囲気で、一杯飲み屋がたくさん軒を並べて雑然とした雰囲気ですが、これと向き合って立派な近代的国際ホールがそびえているのが滑稽であります。そこでは国際通貨基金の年次総会がつい最近開かれたばかりでした。世界経済の減速に対応して世界が共通した認識のもと財政再建と景気回復に足並みをそろえて経済、財政の舵とりを申し合わせたばかりです。終戦後70年近くが過ぎようとしていますが、有楽町ガード下の街の様子の雑然とした雰囲気の、当時と変わらないことに先ず以て驚きを隠しえませんでした。
  二件目の昼の立ち食いは、恵みやという立ち食い蕎麦屋です。事務所を出て銀座中央通りに出る手前右にある間口二間の小さなお店です。旦那がひとり、手伝いの女性がひとりでやっている立ち食い蕎麦屋です。旦那がひとりで素早く仕事をこなしているときもあります。そば粉百パーセント使用と書いたのぼりが店先に三本立っています。瞬間茹で上げが名物で、十割そばと大きな字で染め抜いた旗が立っています。10坪ほどの店内ですが、奥の狭い厨房で旦那が能率よく働いています。湯だった大きな窯の上にそばを切る機会が据えてあり、あらかじめ練っておいたそばの玉を機械のつぼに入れると、あっという間に練られたそばが窯の中に落ちて行って、瞬間に茹で上がってくる工程です。これを素早く掬い上げ、真水で良く濾して上手にざるに盛ってお膳に揃えて出してくれます。文字通り練り上げ、茹でたてのそばそのものです。そばに締めた力が含まれ、滑らかな舌触りは格別で風味満点です。お客に人気があり遠くから食べに来る人もいます。田舎そばと命名したのを初め、田舎的な雰囲気と味が楽しめて醍醐味があります。その田舎的を味わうには大盛りのもりそばを注文することでしょう。びっくりするほどの盛り付けで、相撲取りが食べるような見事な盛り付けです。この店はもりそばが専門で、他のものを注文しても出てきません。注文すれば付け汁に大根おろしと卵、とろろが出るだけです。好みに合って、風味満点のそばの格別な味わいを、立ったままですが堪能できます。聞きつけて遠くからわざわざやってくる人もいます。私のオフィスに見える得意先の人は、その前に必ず恵み屋のそばを食べてからくる習慣になっています。どうも私に会う楽しみと、そばを食う楽しみとで浦和からしばしば見えるのです。健康的に食欲を満たしてくるからでしょう、はつらつとした姿で、男前を前面に押し出してやってくるので明るい雰囲気になります。こちらがいつも明るい雰囲気でいるので男前の高橋さんも一段と明るい雰囲気が増してくるのかもしれません。今しがた恵み屋のそばを食べてきましたというのが最初の挨拶になっています。
  さて三軒目は、今盛んに大工事が進行中の京橋大開発プロジェクトの現場の前です。丁度、蛇の目ミシンの本社のあったビルの前で、お隣が川京という名の古くからの鰻蒲焼の店です。舗道の脇に、うどん、そばの文字を染め抜いた旗が一本立っているだけで、屋号は無印です。間口一間半、奥行三軒くらいでしょうか。そこに一人の真面目な青年がすべてを取り仕切って黙々と働いています。およそ店に見えたお客さんとは言葉を交わすこともなく、食べ終えればさっさと帰る人ばかりなのです。通りがかりの人が大部分で、ここに行きつけてくるお客さんは限られているでしょう。そんな中で常連で定期的に来るお客は私ぐらいでしょう。私は生来凝り性なたちで、いいとなると徹底してのめり込んでしまう傾向があります。このお店も気に入って注文するのは決まっています。うどんに生わかめを二人前乗せてもらい、ごぼうのてんぷらを一個つけて、その上から濃いめの熱い汁をかけてもらってオッケイなのです。極めて簡単な調理方法ですが、いずれも共通した点は、出来上がりが早いことが特徴です。それでいて好みに合ったうまい味が楽しめます。値段は超れんかで、びっくりしてしまいますが、つまり庶民的な、否、リーゾナブルナ価格です。仕込みは各種のてんぷらを揚げたりして予め準備をしておき、全てこの青年がひとりで素早くこなしています。先日は富士やホテルの方と顔があってしまいました。舌の肥えたホテルの職員が来るのですから、味は青年がそれなりに自慢のできるものなのです。私はいつもお昼の時間を外して、すいているころを見計らっていくので、いつも寡黙な青年に声をかけて話し合ってきます。青年は喜びの笑みを満面に浮かべて、寸時ですが私はこうして会話を交わして帰ってきます。これは青年へのあいさつであり、感謝であり、励ましでもあります。ビルの完成が時を追って近づいてきています。24回の屋上は何になるでしょうねというので、遊技場でもいいけど24回となると風が強いし危険だから閉鎖されてしまうのじゃないかな、屋上には出られないだろう。ビヤホールなど夏場だけでも楽しめるといいがねえ、その代わり最上階の24階にはおそらく眺望台とレストランが豪華に開業するかもしれないねといったのですが、青年は太陽光電のパネルを全面に置くといいですねというので、流石だ、そこまでは気が付かなかった、ビルの電気消費量の何割かを自己のビルで賄えるわけで、この青年の発想に従って太陽光電の施設に活用すべきだと思ったのです。
    ところがまことに不思議な縁の話になりますが、この狭い店の場所にも元、丸金証券の京橋営業所があって当時独特な相場観を以て厳しい株式の世界で活躍していた人がいました。当時は大学を出ると石炭を含めた鉱山会社、、砂糖会社、証券金融会社等々時代を反映した人気会社に就職していく学生諸君がたくさんいました。優秀な学生が競って炭鉱会社や砂糖会社や造船会社に就職していきましたが、その後の世の中の変化で散々な目にあった人たちもたくさんいて悲喜こもごもの世は、相変わらず続いて行く宿命に置かれているのは仕方がありません。先見性を発揮して先を見越して進んでいくことが出来ればこれにこしたことはありませんが、世のなかはそううまくはいかないものです。先見性が誤っていて狂った方向に歯車が回っていってしまうと飛んでもない憂目に出会い、そのまま虐げられた運命にもてあそばれることになってしまいます。そうした人たちを今までにたくさん見て来ました。一時の高級に目が眩み難関な試験を突破していったのですが、その後の人生は苦難続きで気の毒でした。逆に放置された小さな文房具会社など、その後は計算機器に転身して大変身したケースが、一例ですがたくさんありました。もしかするとホンダオートバイの会社もそうだったかもしれません。私の友人で日産自動車に行きましたが、そのお父さんがこの丸金証券の京橋営業所の所長さんをしていた鈴木さんがいました。実質社長さんだったようです。間口二間、奥行5間ほどの小さな店で営業をしていました。普通の電話が三本あって、二本の電話はお客さんとのやり取りに、もう一本の電話は注文を通す専用に使かっていました。注文を受けると注文伝票をきって、専用の電話で本店の株式部につなげて注文を出していました。極めて人間味のあふれたやり方でした。市場でも場立ちと称する人がいて、手ぶりで確認しながら売買の商いをまとめていたような時代です。この小さな京橋営業所では、奥さんともう一人の職員の三人という組織です。丁度私はその頃、先に述べた武蔵屋ビルで、昭和地産という会社の専務をしていたので、親友からの紹介で近くなので寄ってみました。友人のお父さんは、明るく力強く、学識、見識豊かな人だと直感的に感じていました。奥さんと一緒になって朝早くから夜遅くまで働いて熱心な人だと思っていました。当時は4大証券が右肩上がりの経済発展を享受して、その中で戦っていくには独自の相場観と顧客へのサービスに徹していなければなりません。株を進めてもうけさせなければ、ご自分の商売が成り立っていきません。大事な財産の運用を兼ねているわけです。罫線を引いて独特な分析をして株式のトレンドを見、成長性も含めて優秀な株式の買い時を見つけるわけです。私の場合は土地の投資が長期間にわたって戦略を練るので、習性として株式に対しても長期投資が基本なのです。従って一旦買い付けた株式はそのまま保持することがあっても売却をしないまま長い期間が経過してしまうケースが多いのです。資本主義経済では株式の果たす役割は重大ですが、株式を発行して大衆資本主義の奔流に乗っていく企業は成功して財を成すことは至極当然ですが、株式の売買を通じて財を成すことに成功した話はあまり聞きません。どちらかというと財産をすりつくして貧乏のどん底に身を落す場合が多いのが通説です。つまり株式投資も、多分に投機性があって利益追求に走ると限度がなく人間の性丸出しとなって醜態を演じる結果になるのでしょう。そんなことで、丸金の鈴木さんは私に健全な思想を以て物事を教えてくれました。
   ところで鈴木さんは友人のお父さんだけあって人格識見の高い教養人でありました。 個人企業的な規模ではありますが、証券業を実質経営する立場として、相場の世界の厳しさを身を以て経験してきた人でした。赤いダイヤという小説がありましたが、小豆相場などは派手に動いて一獲千金を夢見た連中がうごめいている世界です。相場を当てて財を成した人、失敗して身を落した人さまざまです。お金の世の極限を示してすさまじい限りです。そうした世界に挑んでいる鈴木さん、それだけに話す事柄も相場の世界につなげて立て板に水のごとく、まるで講談を聞くような感じで含蓄がありました。世間のことから人生のことまで幅広く、興味津々の話題にとんだことでした。相場に当たったようなときには一服代わりに隣の鰻屋の川京からうな重の出前を頼み、見えたお客さんには大判ふるまいをして景気を上げ、祝いと悦に入っていました。こうした時は自分が客に勧めた株式が値上がりしてお客さんに喜ばれているときとか、大口の注文を受けたような時が多いのです。商人としては当然のことでしょう。同時にお客さんに勧めた株はいつも枕にして寝るとまで言っていました。お客さんの中には、片倉工業のビルの隣にあった木造小屋の二階に間借りしていた丸美屋食品の社長さんがいました。この方はその後大出世した人物の一人です。私はあるとき日本精鑞という株式を勧められて購入しましたが、性分で40年前に勧められた株を、少しずつ買い増しして多い時には50万株に達したこともありましたが、いまだに手放さずに持っています。会社の総務の方があいさつに見えたりすると情が湧いて付き合ってしまうようになるのです。当時ペイ助だったその人はなんだか将来立派な人間になるような雰囲気を感じていたので、なおさらです。私が思って期待した通りペイ助君は30年たった今を見ると、大いに成長して幹部として立派に職責を勤めています。私の勘と見込みは間違いありませんでした。こうして今では数銘柄の株式を大事に所有していますが、株は上がっても下がっても余り気にせず配当を楽しみに持続してきております。しかし面白いもので、その株が上がったりすると気分よく、精神衛生上大いに役立っています。鈴木さんからは息子が親友の間柄だということで大変お世話になりました。分けても鈴木さんとの会話には、処世術とか、人生訓とか言った教訓的な知識が含まれていました。たとえば肛門は五臓六腑に通じるといって健康的実践訓を習得したり、人の行く裏に道あり花の山とか、木の葉が沈んで小石が流れるとかいった相場道を以て渡世術を端的に諭してくれたり、含蓄のある人柄は大いに魅力があり、泰然自若な人柄でした。昔風な人で味わい深いものがありました。というのも、例えて言えば私は小さい時から小児ぜんそくで苦しんできましたが、社会に出てからは鈴木さんの云われた健康法を自ら実践してとうとう治してしまい、健康な体のもとを築くことができたのです。今でも寒風のもとでも全身に水をかけて皮膚を鍛えてきて以来風邪を引いたことがありません。雪の積もった庭に出て、息子と娘を両脇に抱えパンツひとつで写っている写真がありますが、これは圧巻であり傑作の一つとして今も威光を放っています。子供ににらみがきくだけでなく、自分自身に対する質実剛健、切磋琢磨、努力研鑽、そして鍛錬修行といった言葉となって迫ってきます。どえらい写真を撮ってしまったものと思いますが、この写真を見ていると、だらしない恰好はとれずに緊張して、いつも岩に向きあっているような感慨を以て自分自身を奮起させてくれるのです。父親はこうでなくてはなりません。今では年寄りの冷や水ではありませんが無理を避けて、そう云われなくても済むように自分にかなった訓練をして、健康維持に心がけています。適切な知識を得ても、それを実際に試してみて実行しない限り机上の言葉に終わってしまいます。学習と実践こそ、実学のもといではないでしょうか。そこで11月16日に解散となりましたが、自民党の天下取りが確実視されてきて、経済を先取りした株式がそれ以来値上がりしてきてすでに600円近く連騰しています。鈴木さんがここにいたら千載一遇のチャンスとみて猛烈は発破をかけて驀進しているかもしれません。相場はようやく戻ってきたと売り抜けていくでしょうが、人の行くく裏に道あり花の山でしょう。
鈴木さんは相場の世界にまだ生きているかもしれません。

 話の道をそれてしまいましたが、昼食時に幸いにして時間のある時は、昼食を終えた後に、これも行きつけのなじみの店ですが、近くの喫茶レストラン・カフェ・フレディーに寄って香り豊かなおいしいコーヒーを飲んできます。ブティックで女性専門の用品の展示販売のお店といっていいでしょうか。きれいで清潔で静かなのが店の特徴です。女性専用の店だからといって別に男子禁制の店ではありません。自由に出入りしていいのですが、男性にとってなかなか入りずらい雰囲気がありますが、私は店員と親しんでいて顔見知りなので平気で出入りを許されています。というよりは入っていくと優しい笑顔で迎えてくれるので、小さな椅子に座って居眠りしたり、書きものをしたりして、つい晴れ晴れとした気持ちになって快適な自分の時間を自分なりに楽しんできています。頭は使いようで、いつも自由を満喫して、次の労働のステップに備えてくるのです。こんな些細な時でも自由はどんなにか人の生き方を活性化して、健康維持に役立っているかがわかってくるものです。感謝しなければなりません。そうです。私の昼食は立ち食いだけではありません。富士屋ホテルの二階のレストラン・ウィステリアでハイカラに済ますときもありますし、ここカフェ・フレディーで済ますときもあります。そうして昼食をお付き合いするときもありますので、ご心配なきようお願い致します。況や、都合がよければ、夜のお付き合いも健全に安心して遂行していけることは云うを待ちません。ただし余り遅くなるのは、出来るだけ避けるようにしています。翌日の勤務に差支えてしまうので、そこから抜け出すには並みの努力ではありません。   
 
   私は世田谷の尾山台に居を構えて40年近くになります。最近の街の発展ぶりは目を見這うものがあります。そのせいで、周辺宅地の値段が今年に入って2割は人気的に上昇しております。これは資産価値が上がって目に見えぬ経済発展の良好な現象です。概ねこの尾山台周辺は樹木が多く環境と品の良さは定評がありますが、一昨年の春、駅近くにスーパー大型店が進出しました。品物がよく値段が安いことで定評があります。加えてこの周辺には高齢者が、しかも所得の高い高齢者がたくさん住んでいるようです。そして循環バスがこの辺りを中心に広く走っているのが魅力で、時間と金に飽かせて元気な高齢者がここに買い物に来るのです。時間帯にもよりますが、ほぼ終日満員の客でごった返しています。その分従来あった商店街は客を奪わられて店を閉めるところも出て競争の厳しさを物語っていて深刻な面がありますが、押しなべて良好な影響を地元にもたらしています。地元にもとからあった小売店もスーパーに負けじと改善に努めて、逆に売り上げを伸ばしている店もあります。最近は驚くほど医療施設が多くなってきています。新規建設の現場もたくさん出てきました。土地に魅力があってか、この地の不動産業も物件確保に懸命です。地価も堅調で資産価値が上がることは消費者、生活者にとっても喜ばしい結果を生んでいます。こうした風潮や傾向が、つまり全国的に及んでいけば庶民の間にも活気がみなぎってきて、デフレ脱却につながっていくはずです。単純な経済の原理です。申し訳ありませんが、日銀の追加的金融緩和だけでは、歯が立ちません。不動産価格が上がってくるかどうかが、その強力、且つ決定的な判断基準となるでしょう。それには譲渡所得の軽減措置をはかることでしょう。
   自由が丘は若者の流行の発信地ですが、その分競争も激しく、それにつれて店舗の変化も激しさを増してきています。尾山台、等々力周辺の良さが発揮されて、個性的環境がプラスに現れる状況になってきました。住人としてはこうした傾向が広く各地におよんでいってほしいと思います。デフレ脱却は日銀がいくら金融緩和に走っても効果が上がりません。こんなことは17年前にわかっていたことですが硬直した観念が災いして国民はその後も苦渋を強いられてきています。なんと愚かなことでしょうか。土地の価格が上がらない限り、本当のデフレ脱却と景気回復は望めません。その頃の昔、政治評論家の早坂さんを呼んで話をしてもらったことがありましたが、やはり同じことを言っていました。決して大言壮語するわけではありませんが、わが尾山台駅周辺の爆発的活気が日本全国に及べば、世界経済をけん引するだけの日本の景気回復は夢ではありません。今の日本人はモノ余りの状況で、しかも先行き不透明なので金を使おうとしません。企業も設備投資を行おうとはしません。こんな雰囲気の時に金を潤沢に供給しても昔のように物のない時代でしたら別ですが、物価の上昇目標を勝手に設定しても、値段が上がるはずがありません。日銀の自閉症的金融政策を以てしては、依然として社会不安を助長するのみでしょう。困った人たちです。彼らに我が身を振り返って考えてみれば答えは自ずと判るはずです。老化して硬直した頭かもしれません。だとしたら、この先もだらだらと行くしかないのでしょうか。


   10月25日には都知事の石原さんが知事を辞任し、新党を立ち上げると記者会見で発表しました。80歳にしては実に若い感じですが、おそらく短期決戦を狙って勝負に出たにが違いなく、老いの一徹で気概充分といったところですが、果たして状況はそうはうまくいくでしょうか、疑問が残ります。自らはこの沈没寸前の日本を傍観していられないと切羽詰まった心境のようです。発作的とは言いませんが、青天の霹靂かもしれません。都政については13年間、石原さんはよくやってきました。ぐうたらな中央政府を叱りながら、地方自治の精神を高めてきた功績は大きなものがあります。初期のころはよかったのですが、どうも軽薄な着想で始まった銀行の経営が裏目に出て、行政手腕もそれから下火になっていったようです。良くも悪くも太陽の季節、巨大な都の組織の職員をよく切り盛りしてきました。私の体験では、都の官僚組織も徒者でありません。役人の旧泰然の牙城を崩すには相当のエネルギーを要します。私が都知事だとしたら、権限を以てもっと手厳しく都の行政を改革したことでしょう。石原さんは一面、人の良さがあって、叱り飛ばした後,照れ隠しににこにこ恥じらうことがあって、これは心理的にも石原さんの弱さであり、一貫していないところがあります。声のでかい人は気が小さいといわれますが、それとよく似ています。脇き目を振ることが多くそれだけ都政に省く時間も削がれ、それを補佐してきたのが実質、猪瀬さんでした。石原さんはもっと都政に専念すべき点もありました。役人意識が高く、都民に対する都の職員のサービス精神の向上のための涵養に手を抜いてきたかもしれません。しかしさすがに役者だけあって発言は時局をとらえて、はっきりして聞くものの心をとらえて十分なところがありました。飛びすぎて右傾がかったところは唯一欠点ですが、過激な言動がその印象を強めて損をしています。ですから分かった人には、派手な振る舞いに比べて大したことをしてこなかったという人もいるのです。所詮太陽の季節だけということなのでしょうか。    
   石原さんには今のところやることがなくなってしまったので、急遽、方向転換をしたのかもしれません。日本維新の会の波に乗ってあわよくば党首になって、さらに突き進んで時代の寵児を目指し天下を取ることが最後の御奉公というつもりかもしれませんが、うかつに乗って梯子を外されなければいいと思っています。世の中の流れを変えるには相当の意気込みと、エネルギーと時局の判断が必要であります。都知事にあってこそ、その発言も重みを増すのですが、一介の浪人に成り下がった場合、発言力はがた落ちとなるでしょう。老骨に鞭のたとえの通り、立ち上がれニッポンの党首になるかもしれませんが、そこから小異を捨てて大同につけと言われてみても多くの人は信用するでしょうか。老いの一徹としか聞こえてこないような気がします。日本の維新の会の風に乗っていこうとしても、こちらのほうも俄か仕事で固まらず、ふにゃふにゃの状態でまだ政党としての組織も機能もまったく準備ができておりません。政府は自己矛盾をきたした野田さんが、すでに脳梗塞を患っていて、何時心臓発作を起こすかわかりません。民主党も分裂状態に近い様相です。こんな時慌てて都知事を辞任した石原さんが、都政を投げ出した張本人と揶揄されることのないよう、慎重な言動が必要で、ゆめゆめ晩節を汚すことのないように願いたいものです。   
    私は猪瀬副知事とは昔、都の行政姿勢に具体的に改革を迫って会ったことがことがありました。都の役人組織の牙城は固く、副知事とはいえこれを打ち破ることができませんでした。指摘したところは私の正義にかなったものであり、500億以上の都の予算の不必要性を的確に述べたものでしたが、これを強いていこうとすると関係者に多大な影響を及ぶすことを案じて私の判断で引き止めました。猪瀬氏は明晰な頭脳の持ち主で信頼があります。選挙まで僅かな間ですが、彼がその意を継いで賢明な判断をして、これからの都政に邁進していくでしょう。しかし都の巨大組織を牛耳るまでには並大抵のことではできるものではありません。猪瀬さんにとって強力なブレーンを周りに置いておかないと、できることではありません。猪瀬さんが正義だとして、局長クラスを皆自分の配下に収め号令一発従わせるくらいの権力を持たない限り、思うことの改革は大してできずに終わってしまいます。組織の抵抗は、それほどすさまじいものなのです。石原さんはそうした用意をしてきたでしょうか。彼は意地悪な性格もあって、評価の高い猪瀬さんを押してはいますが、自分を超すほどの力量才覚の発揮されることは内心は望んでいません。猪瀬さん一人の活躍だけでは、都の役人組織に向かって放つ一発はイタチの最後っ屁にも等しく、象に向かった蟻の一刺しでしょう。それほど組織の牙城は強大です。
   都の官僚組織も、中央の官僚組織も国民から見れば同じことで、改革刷新の必要性は同等とみなければなりません。中央から地方へ、単に権限の委譲を促すだけの運動ではありません。小さな政府と行政で、効率を量り国民のコスト負担を軽減する仕組みを考えるべきです。利権と規制に胡坐をかいて、権力の温存を図ろうとする役人の発想は中央も地方も同じことです。そうした動きを阻止し改革することで、民間の活動を最大限に引き出していくことが本来の目標であり、使命でなければなりません。そもそも今の政治家が中央、地方を問わずだらしがないから、こうした動きにもなるのです。私は大阪市長の橋下なにがしについては一切言及していません。あの人物を知らないからです。幕藩体制の旧態然とした中央の、霞が関の官僚組織をぶち壊さない限り日本の将来は希望が持てないというところは一致していますが、誰しもがそのことについてはわかっているのです。事実はその通りでしょう。それを警鐘乱打して時代の寵児とも感じますが、大胆な発想は誰しも考えることですが、評論家ならまだしも、要は政治家としての決断と実行がものを言います。
  同時に数を以て武器としなければならずとは云え、佐渡へ佐渡へと草木もなびくではありませんが、一つの流行り主義、事大主義で、我も我もとすり寄っていく姿を見て、雑魚ばかり集まって人材不足は目に見えています。今の日本人の自尊心の欠如と節制のなさを嘆くのみです。関心がないわけではありませんが、今の日本の中央政治のだらしなさが、こうした動きを許すことになっているのかもしれません。日本維新の会とはいっても大言壮語に終わってほしくはありません。そもそも現代に勝海舟の船中八策などと、あまりにも古めかしく、ビジョンはそうでしょうが、組織の巨大化して複雑化した現代社会に果たして適応されるのでしょうか。その具体的提示が、可能な提示が必要です。そうでないと次第にかすんでいってしまう感じです。橋下さんのやんちゃ坊主に大の男がくっついていくパロデイーそのままの演出に、かっては劇場政治がひところ揶揄された時がありましたが、小泉チルドレンのあのはしゃぎ切った婆さん連中や、若いあんちゃんのその後を見ているとうんざりするのです。そうした政治の、その手法を見ていてオーソドックスでないところが気になります。次第に浮薄で、さりとて寝技に長けてくると飽きが来て、ひところのフィーバー振りが収まってきたようですが、こうした日本の動きこそ危険極まりないものと私の勘ですが、感じております。
   ラブコールを送る同志で基本政策が一致してないところがあるのも不安があります。石原さんは些細なことと発言しましたが、連合を組もうとする政治集団の間で、現在重要な政策に隔たりのあるのを看過することはできません。たとえば消費税の問題、脱原発の問題、憲法改正の問題など今の政局を揺るがしている最大の懸案事項であります。肝心な、消費税引き上げ反対と、脱原発を掲げる日本維新の会と、みんなの党は、両者ともほぼ接近しています。しかし、立ち上がれにっぽんと石原さんが合流して、その延長線上で、正反対の政策を掲げる橋下、渡辺らと大連合を作ると息巻いていますが、果たしてうまくいくのでしょうか。小異を捨てて大同につくと、そんな一時の妥協の上に盤石の連合ができるでしょうか。もしそうだとすれば国民の目をごまかすにもほどがあり、結果は茶番劇に終わることでしょう。所詮、烏合の衆で、何の成果もなくほころびてくるでしょう。 揺さぶられながらも時間を経てたどり着いた期待の二大政党でしたが、民主党のだらしなさで見事に裏切られました。願わくば二大政党の政体を以て、政権の移行が民主的にスムーズに行われることが理想ですが、せっかくのチャンスを皆殺しにぶち壊した民主党の旦那さんたちは、煮ても焼いても食えないしろものばかりで、国民の期待をまったくつぶしてしまったことになります。全員が落第、ということであります。そこで政界に第三極の台頭が熱い視線を浴びてきました。民主党はダメだし、自民党にも苦労してきたといっても期待が持てないし、他にも小沢が率いる生活の党があります。あと5名が離党すれば政権与党の民主党は衆議院で過半数を割ってしまいます。不信任案の通過は可視射程となりました。野田さんのやつれた表情は次第に憔悴した態で、内憂外患のこの時期、綱渡りの政局運営が続いています。 困った日本の指針なき現実であります。

   11月に入るとアメリカ大統領選挙が全米で投票が始まります。又中国の全人代の会議が開からて、胡錦濤の後継者の指名が行われます。米・中の二つの超大国の指導者が新しく生まれて、文字通り世界を二分して静かな、熾烈な経済戦略が繰り広げられていくでしょう。ヨーロッパで起きた金融危機は根本的な解決を見ないままくすぶり続けていますが、これに中国の国内での経済減速が大きく響いて、内外に不穏な空気が漂ってきています。中国の資源領域の拡張政策はごん後も続いて行くでしょう。国家間の緊張の高まりが生じないようにしなければなりません。唯一アメリカ経済がいろいろの統計からして将来に希望の持てるような兆しがありますが、中国経済の減速が大きなブレーキをかけるようだと、世界経済の回復に水を差される結果にもなります。米国ではオバマの再選が有望でしょうし、中国では習近平の選出が確実しされています。特徴的で興味のあるのは米・中の新しい指導者を決める手法であります。もちろん民主主義政治の行われているアメリカの指導者の選出方法は、国民によって選挙を通じ国民の意思が決定されるわけですが、中国は共産党一党独裁政治であって、中央政治局員によって、勢力争いによって指導者が決まるといっても過言ではありません。中央の七人の常務委員が政策決定に携わり13億4千万の人民を支配していく仕組みです。急激なな勢いで経済大国にのし上がった実績は驚異的ですが、どうしても軍人や官吏の汚職が絶えず、加えて貧富の格差が広く深く拡大していることは致し方がありません。この矛盾をいかに解消していくかがこれからの中国の発展を占う試金石となるでしょう。一方アメリカも経済力を持った中間層が大きな分布から縮小して、低所得層の拡大と失業の問題をいかに解消していくかが課題となっています。いずれも国内に所得格差をはらんで、階層の軋轢が表面化してくることは大きな国内問題であります。政策論争も専らそうした問題に集中して鮮明なことが特徴です。


   爽やかな秋空が続いて、私はいつものように銀座4丁目で地下鉄の日比谷線を降りました。そして銀座松屋通りに面して王子製紙本社の前にある、谷口さんのその後のことが気になって、お店の跡を見てきました。銀座プロントを営業していたころは、昭和経済会の会合に良く使わせていただきましたし、私の朝の出勤の時は、少々の時間があれば寄ってみて渋いコーヒーを飲んで出勤したものです。頭が冴えて、その後の仕事がはかどって、気分爽快な一日を過ごせてきました。店を閉めてから一年余が経ちますが、その前は、映画「ティファニーで朝食を」ではありませんが、しゃれた感覚で銀座の朝をゆっくりと味わいながら来たものでした。懐かしい思いで、今朝その場所に寄ってみてきましたが、ビル建の現場は見事に進行中で、地下の基礎部分が出来上がっていました。私は喜びを共有すると同時に安心しました。谷口さんはビル建さんにを決心されて、誠にめでたい限りと思ったのです。銀座松屋通りは、この一部分がとても洒落た雰囲気で、居並ぶ店舗が小奇麗で明るく、センスあふれる様子に随分と変わってきているように感じました。竣工した暁には、もしかすると一部に感じの良い喫茶店が又できるかもしれません。谷口社長は以前、それが楽しみでプロントを開店させたのですから。おかげで私はその間一番いい思いをさせてもらったのではないでしょうか。先代は、昭和経済会の創立者の一人としてその名を留め、伝統と歴史と品格の会にふさわしく、更には現・谷口社長は昭和経済会の最も親しく支持をいただいている会員であり理事であり、以て人格者と心酔しているゆえんであります。今日は奇しくも京橋大開発プロジェクトにちなんで論陣を張って締めくくりとしようと思いながら、出勤の途中ふと思いついて銀座プロントの元あった松屋通りの場所を訊ねてみました。澄み切った秋空の光を体に浴びながら、そのとき谷口コーポレーションのビルの現場を見て感無量、わがごとのように希望と期待に胸をわかせながら、若やいで出勤する朝を体験してきました。   10月26日

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2012年10月10日

社団法人 昭和経済会
理事長 佐々木誠吾


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